『終戦記念日灯ろう流し・ふれあい橋』詩・朗読・曲:松浦ミノル
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『終戦記念日灯ろう流し・ふれあい橋』
今は 流れのゆるやかなこの川
今は おだやかなこの川
かつて あふれるほどの水をたたえ
かつて 何度も洪水をもたらした
大空襲のときには
すさまじい火炎をさけ
この川に逃げのびた人々が
たくさんいた・・・
この川で命を落とした人々が
たくさんいた・・・
今は 流れのゆるやかなこの川
今は おだやかなこの川
かつて 暴れ川だったと思えないほど
かつて 悲惨なことがあったとは思えないほど
今は 静かに流れている・・・
静かな流れに
流されて行く 灯ろう・・・
空の向こうからも
見えるように
流れて行く 灯ろう・・・
それぞれの思いを乗せて
それぞれの祈りを込めて
流れて行く 灯ろう・・・
人々の心の橋渡し
ふれあい橋・・・
スカイツリーを望む
希望の架け橋
ふれあい橋・・・
穏やかな流れが
いつまでもつづきますように
ふれあい橋から流す
思いを乗せた 灯ろう・・・
祈りを込めた 灯ろう・・・
灯ろう流し
安らぎと
平和を祈って。。。
【曲】『灯ろう流し』作曲:松浦ミノル
【画像】『ふれあい橋』東京都江東区亀戸と江戸川区平井の間の旧・中川。
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<終戦記念日灯ろう流し・ふれあい橋>
『旧中川東京大空襲犠牲者慰霊灯籠流し』
毎年8月15日の終戦記念日に、
江東区亀戸と江戸川区平井の間を流れる旧・中川の、
『ふれあい橋』のたもとで灯ろう流しが行なわれます。
8月15日はお盆で灯ろう流しをする地域もありますが、
重ねて終戦記念日の慰霊で行われる地域もあります。
江東区と江戸川区の共同で開催されます。
2013年には、
映画『少年H』 に出演した、
水谷豊・伊藤蘭夫妻と子役の二人も出席し、
祈りを込めて灯ろうを流したということです。
旧・中川は、
以前は高い堤防があり、
水面が地面より高く、
『ゼロメートル地帯』と呼ばれていました。
台風が来るとよく洪水になっていました。
現在は、
荒川放水路からの取水口を閉め水量をセーブし、
親水公園のような護岸になっています。。。
ふれあい橋は、
1994年12月に架けられたアーチ状の橋で、
人や自転車などしか渡れません。
東京スカイツリーを見ることができ、
テレビCMやドラマなどにもよく使われています。
<三月十日の東京大空襲>
1945年、
8月6日、広島の原爆で犠牲になったのは、
14万人以上・・・。
8月9日、長崎の原爆で犠牲になったのは、
7万人以上・・・。
3月10日、東京大空襲で犠牲になったのは、
10万人以上・・・。
史上最大規模の『民間人無差別大量虐殺』とされます。。。
三月十日の東京大空襲は、
原爆にも匹敵する大空襲でしたが、
知っている人は少ないかもしれません・・・。
「下町空襲」とも呼ばれ、
台東・墨田・江東の下町地区が中心に被害を受けました。
当時、
軍需産業に関わる工場が点在し、
家内工業の中心でもあったようですが、
人口密集地で、ほとんどが燃えやすい木造住宅であり、
関東大震災の延焼地域を研究した上で、
「効果大」として標的にしたといわれています。
当時、東京への空襲は百回以上にわたりましたが、
中でも『三月十日の東京大空襲』は最大のものでした。
3月9日の夜も更けて、
3月10日00:08から2時間半、
B-29爆撃機約300機による焼夷弾の空爆が行われました。
「ミーティングハウス2号作戦」でした。
北西の風と火災旋風により朝まで延焼し、
東京の全建物の4分の1が破壊されました。
警察の記録では死者8万人以上となっていますが、
実際は10万人以上と考えられます。
100万人以上が約27万戸の家を失いました。
見渡す限り焼け野原で、
そこかしこに炭化した遺体が横たわり、
壁の陰などにはそういった遺体が山のように重なっていたとのことです。
熱波から逃れようと水辺に逃れた人も多く、
翌朝の隅田川、荒川、旧・中川、多くの河川は、
焼死・凍死・溺死者で川面があふれていたということです・・・。
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<我が家の被害>
我が家といっても、
私はまだ生まれていませんでしたし、
父母は出会っていませんでしたので、
正確には、
父と、父の姉二人、祖父母の5人の家になります。
祖母の親族は、
旧・中川の現在のふれあい橋の辺りで、
渡しをやっていました。
ネットで調べると、この辺りには、
『平井の渡し』、『逆井の渡し』、『中川の渡し』という、
三つの渡しがあったということで、
正確な位置は定かではないようですが、
親族がやっていた所とは少し違うようです。
食事処を兼ねた釣具屋もやっていたようですから、
渡しとどちらが先かわかりませんが、
渡しとして公認されていなかったのでしょうか・・・?
その後、
ふれあい橋の近くでうなぎなどの養魚場をやっていたとのことです。
そこで祖父が働いていて、祖母と出会ったらしいです。
祖父が真面目に働いていたのを買われたらしいです。
昔の航空写真などを見ると、
養魚場らしき大きな池のような場所がありました。
祖父母は結婚すると、
もう少し亀戸駅寄り、徒歩で5分足らずの所に住みました。
表通りの京葉道路からはひとつ裏道になりますが、
当時は商店が続く所でした。
親族が養魚場をやっていた関係からか、
魚を扱った店を開き、
野菜や乾物なども加えて「よろず屋」的な商店をやっていました。
野菜などをリヤカーに積んで、
外売の行商もしていたとのことです。
父も子供の頃、
手伝ってリヤカーを押したとのことです。
商売は順調で、
家作(貸家)も何軒か持つようになりました・・・。
さて、
父や祖父母が住んでいた状況がわかったかと思いますが、
この地域が第2次大戦の終戦直前に、
焼け野原になってしまいました・・・。
祖母や父の姉たちは、
空襲が激しくなってからか、
祖父の田舎の埼玉県東松山に疎開していたようです。
父は姉の知り合いの会社に勤め、
日本橋蛎殻町にある寮に住み込んで、
五反田の工場で働いていました。
3月10日はたまたま自宅に帰っていたそうです。
空襲当夜、
父と祖父は、
夜も更けて外が騒がしいのに気づきました。
錦糸町の方から荷車を引いた人達が、
ぞろぞろと家の前を通って行くのを見て、
これは大変と思い、あわてて逃げたそうです。
荷物をほとんど持てなかったといいます・・・。
それでも入口辺りに、
トタン板を張ってはきたらしいですが、
気休めにもならなかったようです。
すぐに火が迫ってきて、
中川まで出ると、
すでに亡くなっている人もいました。
『火災旋風』が熱い空気を含んで、
強風となって襲いかかってきました。
親戚の店の裏側が、
のちに六価クロムで問題になった日本化学工業で、
野原になっていたので、
そこに何とか逃げ込んだそうです。
偶然そこがやっと生き残れる所でした・・・。
まわりはたくさんの人が火炎で亡くなられ、
中川も顔を水に突っ込んでいたり、
溺れたりして亡くなられた人ばかりでした・・・。
至る所、炭化した遺体だらけだったようです。
特に、亀戸駅周辺も死体の山で、
錦糸町との間のガード下も死体だらけだったそうです。
自宅・店は、
翌朝までは何とか残っていたそうですが、
祖父が見に行ったときにとうとう火が回って、
水も何もないので何もできず、
あれよあれよといっているうちに、
二階建ての家が焼け落ちてしまったとのこと。
数軒裏は焼けずに残り、
わずかな差で運命が分かれてしまいました。
なんとも切ない思いをしたと思います・・・。
やっと苦労して築いてきたものが、
すべて目の前で燃え尽きたとのこと・・・。
母のほうは、
まだ父とは出会っていませんでしたが、
比較的近くの大島三丁目という所に住んでいました。
母方の祖父母は福井県で結婚し、
東京に出てきて江東区石島から大島三丁目に移っていました。
祖父の勤め先は、
『日産化学工業』の前身の『東京人造肥料会社』で、
重役か何かまでいって、
やっと生活も安定していた頃でした。
空襲が激しくなり、
母なども福井のほうへ疎開したらしいです。
何人が大島三丁目に残っていたのか、
家族全員が疎開していたのかわかりませんが、
3月10日の大空襲で家は全焼したようです。
むしろ大島のほうが被害が大きかったようです。
こうして、
終戦間近の1945年3月10日の大空襲で、
亀戸を含む下町周辺は壊滅的な打撃を受け、
父方の自宅もお店も
母方の自宅も、
焼け野原になってしまいました。。。
<戦後>
『三月十日の東京大空襲』の後、
父と祖父は、
八王子の親戚の所に身を寄せることになりました。
ところが、
仕事先では自宅にも本人にも連絡が取れないため、
空襲で死んでしまったのではないかと、
思われていたそうです。
いくらか落ち着いてから、
父が仕事先に出向いたら、
みんなに幽霊でも見るように驚かれたとのことです・・・。
八王子の方も空襲が激しくなり、
祖父の田舎である埼玉県東松山市に、
疎開することになりました。
父も同行することになったそうです。
祖父は徒歩で荷車を引いて、
何度も亀戸から往復し、
わずかに残った家財道具などを運んだそうです。
悲しいことは続きます・・・。
終戦の年の前後に、
母の妹の五女が7・8才で他界してしまいます。
母いわくかわいい子だったそうです。
結核だったようです。
昔は結核で亡くなる人が多かったようです・・・。
終戦の翌年には、
母方の祖父が62才で他界してしまいました。
戦争の痛手などから、体を壊していたようです。
父方の祖母も、
戦時中の痛手から5年後に去っています。
戦争で心身ともに痛めつけられ、
戦後数年で亡くなる人も多かったようです。
大戦では、
人命こそ助かりましたが、
祖父母は体を壊し、
戦後間もなく亡くなりました。
家や財産は失い、
年齢的なこともあり再起を難しくされました・・・。
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『三月十日の東京大空襲』は、
広島・長崎の原爆にも匹敵し、
大変な被害を及ぼしました。
大戦は、
数え切れないほどの人を『帰らぬ人々』にし、
世界中に不幸を撒き散らしました。
二度とあってはならない戦争ですが、
戦火はあちこちでくすぶっています。
世界が穏やかで平和になることを祈ります。。。
☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆
↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
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西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
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