<中山隆仁君>☆初友☆区議会議員
中山君と私:小六の頃↑
中山君:現在↑
2012年↑
1963年↑
1966年↑
旧:西一之江1-273
現:松江7-23-22?
現在:西瑞江3-36-4在住
中山隆仁君は、
人生のうちで一番最初にできた友達!
西一之江に引っ越して来たのは、
小学校に上がる少し前だった。
同時期に中山君も引っ越して来た。
たまたま同い年だったこともあり、
すぐに仲良くなった。
周りを田畑に囲まれて、
のどかな所だった。
うちと中山君の家はすぐ向かいで、
正確には斜め向かいだった。
台所や玄関の窓から、
中山君の家が見え、
夜は電灯のついているのも見えた。
自分が中学・高校の頃は、
玄関を改造して勉強机が置いてあり、
勉強もしないで、
ラジオの深夜放送ばかりを聞いていた。
玄関はガラス戸で、
ときおり外をのぞくと、
中山君の家の玄関の電灯がつくのを見かけた。
先日私の誕生日7月7日に、
中山君のお姉さんも、
同じ誕生日だと知らされた。
すっかり忘れていたが、
今思えば子供の頃、
家族の誕生日の話をし、
知っていたのを思い出した。
私の母も同じ誕生日で、
はじめから何か縁でもあったのかもしれない。
「青い鳥」ではないが、
そんな身近に織り姫さんがいたのに、
見逃して彦星になりそこねてしまった・・・。
中山君は、
子供の頃からいろいろな才能にあふれ、
文武両道でスポーツも得意で、
のちの加山雄三を彷彿させた。
顔や身体にも恵まれ、
憧れの的だった。
小学1~2年生のときには、
マンガが上手で、
マンガの描き方を教えてもらった。
特にミッキーマウスの描き方は、
大きくなってからも覚えていた。
1964年の先の東京オリンピックの頃、
週刊少年マガジンで人気のあった、
『エイトマン』なども、
描き合ったように記憶する。
近所の先輩が体操部で、
自分達も体操部に入った。
自分は運動オンチで、
何もできないのに入った。
鉄棒でひざの裏で逆さにぶら下がり、
揺らして足を離して着地して立つのが、
高学年になって流行ったときも、
中山君は運動神経もよく、
すぐにできるようになった。
一方自分は頭から落ちてケガをした。
学校ではいろいろなものが流行った。
動くシールだとか、
匂いのするボタンだとか、
わけのわからないものまで流行った。
中山君はその先頭の方を常にいっていて、
何でも先駆け的な存在だった。
自分はあとをついていくだけだった・・・。
匂いのするボタンが流行ったとき、
近所にほとんど誰もいない倉庫があり、
そこに案内された。
鍵はかかっていなかったが、
大きな横開きの扉を開いて入った。
中にはガラスやプラスチックなどの、
細かいクズが積まれていた。
ここで匂いのするボタンを、
見つけたように記憶している。
何度もそこへ行ったが、
今考えてみると、
勝手に入り込んで、
いけないことだったんだなと思う。
当時は当たり前のように、
いろいろないけないことをしたものだった。
近所には同級生が何人かいたが、
男は3人だけで、
もう一人の吹沢茂君と、
3人で遊ぶことが多かったと思う。
ただ、
低学年の頃の吹沢君の記憶がほとんどない。
遊びは、
一般的なメンコ、ベーゴマ、ビーダマ、
かくれんぼ、おにごっこなどしていた。
外で遊ぶのがほとんどだった。
駄菓子屋にもよく行った。
中山君は気前がよく、
時々皆におごってくれた。
細かく仕切られた箱に紙が貼ってあり、
中味がわからないようになっているくじや、
ひものついたくじなども懐かしい。
当時の駄菓子屋は、
かき氷機もあったし、
もんじゃもできるスペースもあった。
もんじゃは自宅でもよくやっていたが、
そういう所で時間をつぶして、
食べるのも楽しかった。
赤土などで泥ダンゴを作って、
どちらが強いか割りっこをしたり、
きれいさを見せあっていたこともあった。
近所の上田工舎の資材置き場などで、
看板やベニヤ板などの間に、
『秘密基地』や『隠れ家』をつくって、
遊んだこともあった。
原っぱでは、
トンボや蝶、バッタなどを取り、
池や田んぼ、川などでは、
ザリガニ採りや魚釣りなどもよくした。
カエルもたくさんいた。
メダカやミジンコなども多かった。
クモの巣を針金を輪っかにしたものにからめ、
それで蝶を取ったりもした。
「大川」などと呼んでいた境川の向こうは、
江戸川名物の金魚園が多くあり、
あるとき上級生などに連れられ、
金魚を盗みに行ったこともあった。
初めて行ったときに、
金魚園の人達が大声を上げて出てきたので、
逃げたが、自分の弟が捕まって、
結局全部返したというようなこともあった。
境川の支流などでは、
イカダをつくって遊んでいた。
今考えればアブナイことをよくした。
田んぼの細い道や、
塀の上などもよく歩いた。
冬は凍った田んぼや池などで、
氷の上に乗っていた。
境川の支流になる所に水門があり、
調節小屋(ポンプ所?)があった。
小屋といってもコンクリート製で、
ちょっとした民家よりも大きかった。
なぜかそこの鉄の扉の鍵がかかっていないで、
中は貯水槽になっていた。
そのときは吹沢君が中心だったように思うが、
何度かその貯水槽で泳いだ。
たぶん四畳半位の広さで、
意外と足が届かない位深かった。
現在は親水公園化にともない、
水門も貯水小屋もなくなっている。
鍵がかかっていなかったのも、
今ではありえないし、
万一事故でもあったら大変だったと思う。
よくあちこち歩き回っていた。
自転車でもあちこち行っていた。
高学年になるとかなり遠くまで行った。
船堀7丁目の三角を抜けて、
葛西の海岸までも行った。
三角の角の店で、
つぼ焼きの石焼いもをやっていて、
いつもそこを通ると食べたかったが、
お金や時間の余裕がなく、
食べたのは1~2度・・・。
葛西の、
清新町や臨海町などの左近川から先は、
まだ埋め立てもされていず、
海の中だった。
海岸ではまだ泳いでいる子供らもいた。
京葉工業地帯の工業化が進み、
河川や東京湾の水が、
かなり汚くなってきた頃で、
泳げたのもこの頃が最後だと思う。
最近、葛西臨海公園のなぎさが、
遊泳可能になったが、
50年ぶり位になるのでは・・・。
環七道路も、
東京オリンピックに間に合わすため、
1964年に開通したらしいが、
工事が始まった頃、
現在の葛西駅の脇を通ったときは、
ジャリ道だった。
東側は田んぼがずっとつながっていた。
もちろん葛西駅はなく、
その5年位あとに東西線が通った。
雨が降ってきて、
傍らのハス田の大き目のハスの葉を取って、
傘の代わりにしたこともあった。
懐かしい光景である。。。
中学は、
自分は地元の松江五中に進んだが、
中山君は私立の日大の系列に進み、
目の前の家同士とはいえ、
会うことは少なくなってしまった。
たまに出会いがしらに会う位で、
ちょっとあいさつする程度になってしまった。
まだ中一のときは話をするときもあり、
中山君が小松川警察の柔道場に通っていて、
一緒にどうかということで、
一緒に通い始めた。
夕方からの練習で、
冬はもう暗くなっていた。
当時の小松川警察署は、
小松川橋の平井側のたもとにあり、
長い小松川橋を渡るのも楽ではなかった。
西一之江から平井まで、
二人、自転車で連ねて行っていた。
週に1回位だったけど、
遠いのと暗いのとなどで、
結局二人共1年ももたずにやめてしまった。
でもそれもいい想い出・・・。
中三になって体育の授業で柔道をやったとき、
それが役に立った。
高校も別々で、
中山君は日大一高だったかな?
アメリカンボールだか、
フットボールやラグビーのような部活を始めたと、
言っていたのを思い出す。
さすがやることが違うと思っていた。
その後益々疎遠になり、
自分は隣の市川市に引越したりしたため、
ずっと音信不通になっていた・・・。
中山君の家も元の家の目と鼻の先に、
『中山事務所』として移っていた。
中山君のお父さんは、
ずっと江戸川区議会議員をやっていて、
議長までなっていたので、
消息は多少わかったが、
中山君自身のことは、
同じく区議会議員選に立候補するまで、
ほとんどわからなかった。
還暦でいろいろなことが一段落したので、
旧知を温めようと思い、
何人かの人をネットで調べてみた。
昔直属の上司でファンケルの創業者になった人や、
別の会社でやはり直属の上司で、
株式一部上場の会社の社長になった人などと共に、
中山君も検索してみた。
中山君のホームページを見つけ、
それから連絡を取り合うようになった次第。。。
子供の頃からリーダー的な存在だったが、
江戸川区議会議員になって、
たぶん同級生の中では、
最も成功しているのではないかと思う。
そういう人が友達であったことを、
とても嬉しく思います。。。
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だいぶ長くなってしまいましたが、
まだまだ書き足りないと思います。
書き忘れていることも多いかと思います。
そのうち思い出したときは、
また追記するかもしれません。
(追記)2015.09.01.
私の母方の伯母夫婦は、
戦後間もなく長野の方に移住しましたが、
なんと、
中山家の故郷で、
同じJRの駅でした。
そんな因縁もあったのを知ったとき、
驚いたものでした・・・。
(追記)2015.09.07.
私の家は道の突き当たりで、
その手前が中山君の家だった。
そのせいか、
中山君の家の前にはいろいろな業者が来た。
紙芝居もちょうど中山君の家の前で、
自転車を止めてやっていた。
自動車での移動販売のパン屋さんも、
ポンせんべいの車も、
焼きいも屋さんも、
みんな中山君の家の前で止まって、
販売していた。
移動販売のパン屋さんが懐かしい。
(追記)2015.11.17.
吹沢君は人にアダ名をつけることが多かった。
中山君のことも「サンペイさん」と呼んでいた。
なぜ「サンペイさん」だったか忘れたが、
先代の林家三平のことしかないと思う。
どうして林家三平だったのか思い出せない。
オモシロイことをよく言っていたせいなのか、
林家三平のようなポーズをしていたせいだろうか?
またなぜか周りの者も、
しばらくの間「サンペイさん」と呼んでいた。
中山君はそれを拒むようでもなかった。
本人はどう思っていたのかはわからない。
☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆
↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
記事にコメントを入れていただくか、
メールやメッセージ等をいただければと思います。
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