↑ 1963年 同級生の家・他 ↑
<亀戸・山口喜代子さん>☆一番カワイかった
先日、久しぶりに私の生地の亀戸に寄ったら、
非常に懐かしい人に出会えた!!!
同級生の山口喜代子さんである。
浅間小では一番カワイかったと思う。
たくさん好きな人はいたのだが、
その中のひとりだった・・・。
実に55年ぶりである!!!
★再会
少し時間があったので、
昔懐かしい所を思い出しながら、
ゆっくり歩いていた。
彼女の家の工場の辺りでブラブラしていると、
犬の散歩から帰ってきた女性が、
私とすれ違って工場に入っていった。
まさか関係ない人だろうと思いながらも、
ゆっくり歩いていると、
その女性が出てきて、
山口さんの自宅に入っていこうとしていた。
「えっ、山口さん!?」と思いながら、
どうしようかと迷っていた。
しかしこれも何かの機会かと思い、
この機会を逃してはいけないと、
思い切って早足で戻り声をかけた。
「そこの隣に住んでいた松浦ですけど、
ご存知でしょうか?」
と聞くと知っていると答えた!
まさに同級生の彼女だった。
★わずかな接点
私が生まれて、
隣りの家に同じ年で生まれているけど、
意外と接点は少なかった。
幼少のときの記憶はもちろんないし、
今回話をしてわかったが幼稚園が違っていたので、
そこまで接点はなかったようだ。
私は小学校に上がる直前に転居し、
西一之江小に行った。
小三の1学期に亀戸に戻り、
浅間小に入った。
ところが、
2学期になってすぐ、
また西一之江に転居し西一之江小に戻った。
あとは亀戸に住むことはなかったので、
山口さんと接点があったのは、
小三のわずかな期間だけだった・・・。
しかしその後も私の生家は祖父が住んでいたし、
すぐ近くに従兄弟の家が2軒と、
親戚なども何軒かあったので、
年に何回かは行っていたが、
山口さんと出会うこともほとんどなく、
こちらから訪ねて行くこともなかった。
そうして、あっという間に何十年も経ってしまった。
5年以上前に自宅に入るところを、
何度か見かけたが、
時間的なことなどでそのままにしていた・・・。
旦那さんが自宅に入るところも見かけたこともあった。
従兄弟の話だと年下の人らしい。
しかも山口さんが家を継いでいるようだし、
苗字も変わっていないので、
婿養子に入ってもらったよう・・・。
数年前まで、
その従兄弟の家の隣りの家も持っていたようで、
山口さんか誰かが住んでいたらしい。
うちも従兄弟も隣家と、
縁が深いようなのに、
接点は少なかった。。。
★面影
小三、9歳頃。
浅間小では一番カワイかった。
子供の頃よく不二家のミルキー・キャラメルを食べたが、
その「ペコちゃん」みたいな子。
似ているわけではなかったし、
太っているわけでもなかったが、
ちょっとふっくらして、
カワイイ顔の子だった。
西一之江に移ってからも、
ずっと忘れられない人のひとりだった。
それなのに、
この年まで会いに行くことがなかった。
今考えてみると不思議である。
いかに生活に流されていたかということか。。。
今回55年ぶりに会って、
よく見たが当時の面影が見当たらなかった。
お互いすでに60歳を超え、
老人の域に達してしまっているので、
子供の頃の面影を残している人は少ないと思う。
背も山口さんは大きいほうだと思っていたが、
平均的な感じか低く見えた。
あとで思い出しながら、
面影と結びつけてみたが、
ようやく結びつくかどうかだった・・・。
山口さんも私のことを、
同様に思っていることだろう・・・。
あまりにも年月が過ぎ去ってしまった。。。
★同じクラスではなかった?
山口さんとは同じクラスだとばかり思っていたが、
今回話して、違っていたらしい?
当時の唯一の写真、遠足のときの写真が、
すぐに出せないところにあり、
今はその確認はできない。
何人かの名前を挙げて話を進めていたが、
大垣恵子さんは知っていて、
家にも行ったことはあるけど、
違うクラスだったと言った。
違うクラスなのにどうして知っていたのだろう?
同じクラスだったと思うのだが。
また、担任の先生だった駒見先生のことも知っていたのに、
それでも違うクラスだったのだろうか?
もう一度山口さんに聞いてみないとわからない。
あるいは遠足のときの写真で確認できるか・・・。
★隣家で同級生
私の家があった隣りには、
同級生の山口喜代子さんの家があり、
今でも山口商店という工場が残っている。
鉛関係の工場だったと思う。
当時は1階が工場で、
2階が住まいになっていた。
通り側の右端が入り口で、
すぐ階段になっていた。
2階には何度か上がったことはあるが、
どうなっていたか思い出せないし、
部屋に入った覚えもない。
私の家の窓を開けると、
数十センチもない向こうに、
山口さんの家の工場の窓や壁があった。
あまり近いので私の父は、
騒音や臭い、鉛の公害などを気にしていたようだ。
現在は工場のみで、
向かいにも工場が増設されている。
住まいも、
通りを挟んだ向かい側に造られている。
当時よりも事業が進んで、
工場や不動産を広げることができたようだ。。。
★初耳
今回、話をしてわかったことが幾つかあった。
当時は知っていたのか、
いつの間にか忘れてしまったのかわからないが、
記憶にないことを聞けた。
その大きなことのひとつが、
4人姉妹だった。
しかもその長女だった。
当時、妹さんがいることぐらいは知っていただろうけど、
4人姉妹の長女という認識はなかったと思う。
だいたい2歳おきが多いと考えると、
私の兄弟と3人までかぶっていた可能性もある。
もうひとつ重大な初耳?があった。
名前である。
ずうっと「山口さん」とだけ思っていたので、
名前が何だったかわからなくなっていた。
5年以上前に、
やはり従兄弟から聞いていたのだが、
馴染みがなくまた忘れていた。
「喜代子さん」だった。
字は違うが「きよこ」は、
私の父の上に生まれて間もなく亡くなった、
「清子」さんと同じで、
うちでは不吉な名前とされていた。
縁があるのかないのかわからない名前になる。
それで55年も何もなかったのかもしれない。
でももう再び会って、
やはりより忘れられない人にはなるだろう。。。
★その他の話題
当時仲のよかった人などの名前を挙げて話をした。
<佐竹さん>
何軒か先の同級生の女の子。
結婚して埼玉の方にいるとのこと。
佐竹製作所という工場をやっていて今もある。
入り口の扉が昔のままのようで懐かしい。
何年か前に佐竹さんのお父さんが町会長をやっていて、
たまたま同席することがあったが、
娘さんのことは聞けなかった。
歌手の佐良直美さんに似たカンジだと思っていた。
※下の名前、思い出せず・・・。
<田山君>
よそに出ていたが、
母親が数年前に亡くなり、
戻ってきているとのこと。
タクシーの運転手をしてたらしい。
さっき家の前を通ったが、
新聞が溜まっていたと話した。
子供の頃よく遊んだ。
光る熱帯魚を飼っていて羨ましかった。
ライターのガスを紙につけて火をつけても、
紙は燃えずに残っていた、
という火遊びをしていた。
※下の名前、思い出せず・・・。
<伊藤君>
今の山口さんの自宅の並びのアパートに住んでいた、
伊藤君のことも覚えていた。
私が高校のとき、
8年ぶりかに訪れたらまだ住んでいて再会し、
何度か遊びに寄った話をした。
※下の名前、思い出せず・・・。
<大垣恵子さん>
同じクラスではなかったが、
山口さんも遊びに行ったこともあり、
門を入って庭を抜けた所に家が建っていたと、
覚えていた。
頭のいい子だったと覚えていた。
大垣さんは学級長をやっていたと思う。
でも本当に違うクラスだったのだろうか?
それならなぜ知っていたのか・・・?
私が浅間小に入ったとき同じ班で、
席替えのとき皆の前で、
「松浦君が好きなので隣にしてください。」
と言われ恥ずかしかった。
電車通り(京葉道路)の中川新橋のたもとで、
私の親戚の和菓子店「梅の家」の並びに、
大垣さんの家があった。
六価クロム汚染で問題になった日本化学の工場(本社)に接し、
日本化学の敷地内のようにも思えた。
何度か遊びに行った。
はじめは何人かだったが、
ひとりでも遊びに行ったと思う。
お母さんが先生をやっていたことがあるということで、
うちと似ていた。
ところが、
1学期で転校することになり、
私も後を追うよに2学期すぐ転校した。
大垣さんの最後の日、
山口さんの家の工場の前で、
従業員の人用に出してあった縁台で、
山口さんか誰かと将棋をさしていた。
そこへ大垣さんの家族が通りがかった。
お母さんと妹さんがいっしょだったと思う。
そのとき声をかけられたらあいさつしようと思っていたが、
気がつかないふりをしている間に通り過ぎてしまった。
向こうも気がついたはずなのに、
声をかけてくれなかった・・・。
なんで私の家の所を通ったのだろう?
偶然だったのだろうか?
引き返してくるかと思ったが、
来なかった・・・。
ただ、たまたま同じ江戸川区に引っ越すということだったので、
もしかしたらまた巡り会えるかもしれないとも思った。
会いたくなれば先生に住所を聞けばいいやと思っていた。
しかし、
大垣さんとはそれが最後になってしまった・・・。
大きな後悔だった。。。
<木村さん>
浅間小の先から通り(京葉道路)に出る手前に、
中華のそば屋さんか食堂があり、
自分は「木村さん」だと思っていたが、
そうではなかったようで、
名前も思い出せないようだった。
同級生のそば屋さんがあったのは覚えていた。
私が転校するのが決まって、
そのそば屋さんで4~5人が送別会をやってくれた。
しかし誰がいたか覚えていない。
もちろんそば屋さんの女の子はいたが、
「木村さん」ではなかったのか・・・?
<駒見先生>
担任の先生だった駒見先生の名前を出したら、
老齢の先生と覚えていた。
同じクラスではなかったと言っていたが、
なぜ駒見先生のことを覚えていたのだろう。
ホントに違うクラスだった・・・?
駒見先生はどこかで校長をやっていて、
その後またクラスを持つようになったらしい。
先生は家庭訪問のとき私のことを、
大した人になるんじゃないかと言っていたが、
還暦を過ぎても未だ何者でもない・・・。
ハズレでごめんなさい。。。
※追記(2016.07.08.)
整理していたら昔の手帳などが出てきて、
中学の生徒手帳に、
駒見先生の名前と住所があった!!!
たぶん当時電話帳で見つけて、
書いておいたのだろう・・・
いつか連絡を取ろうと思っていて、
そのうち忘れてしまっていた。
申し訳ないが下の名前も忘れていた・・・。
駒見由次郎:文京区関口1 Tel.202-6735?
※なぜか番地までは書いていなかった。
あまりない名前なので間違いないだろう。
なんと私が結婚式を挙げた椿山荘のすぐ近くだった!!!
いつ頃からいつ頃まで住んでいたのだろう?
でもとうに亡くなられているのだろう・・・
当時9歳頃に60歳位だとすると、
とうに110歳は超えてしまっている。
私が結婚した頃で80歳位なので、
存命だったのかもしれない・・・。
もう手遅れで残念。
ネットで調べてみたが、
それらしいのはなかった。。。
<橋本君>
橋本君のことは知らなかったが、
信州大の教授になっているといったら、
すごいですねと言っていた。
橋本君もすぐ西一之江小に転校してしまったので、
同じクラスでなかったから記憶にないのだろう。
<アチャコ似の子>
山口さんの隣りの家だったけど、
思いあたる感じではなかった。
でも、
私が隣りに住んでいたのは覚えていたが、
東隣りのアチャコ似の子の家と、
勘違いしているフシもあった。
<遊び>
山口さんや佐竹さん、
伊藤君、田山君などとはよく遊び、
田原製作所のコンクリの駐車場などでよく遊んだ。
田原製作所の坂になった駐車場のことを、
山口さんも覚えていた。
<手紙>
手紙を出してもよいかと尋ねたら、
いいということだった。
だいたいのことは聞けたが、
あともう少し聞けたらと思う。
ただ筆不精で、字もあまり書くことがないので、
いつになるかわからないけどとは言っておいた。
ここのところいろいろ重なることがあって、
もうすでに3週間も経ってしまった。。。
☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
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