<フジコ・ヘミングと江戸川区>魂のピアニスト♪ | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

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   『ラ・カンパネラ』

↑『Ingrid Fujiko Hemming - La Campanella』↑
   
<フジコ・ヘミングと江戸川区>魂のピアニスト♪
今日12月5日は、
フジコ・ヘミングさんの誕生日で、
86歳になります。
私の母より1歳若いですが、
67歳での遅咲きのピアニストは、
高齢になっても元気で、
スケジュールがいっぱいのようです・・・。
今日、気がついたのですが、
12月5日は私の妻のお母さんと、
同じ誕生日でした・・・。
1924年生まれですから、
7歳も上になりすでに他界していますが、
どこか雰囲気が似たところがありました・・・。
フジコ・ヘミングさんは、
江戸川区と縁があり、
親近感を抱いていましたが、
より親しみを覚えた次第です・・・。
今年は、
ドキュメンタリーで、
『フジコ・ヘミングの時間』
という映画も封切りされ、
また注目を浴びていますね。。。
 
 
★テレビ放送にて・・・
先日、11月11日日曜、
NHKで1999年放送の、
『あるピアニストの軌跡』を再放送していました。
この番組はDVDにもなっているようです。
たまたま、
この再放送を見ることができました。
この番組により、
埋もれていたフジコ・ヘミングさんに、
スポット・ライトが当てられ、
ブームをつくることになったものでした。
彼女にとって人生の大転換期になりました。。。
 
番組内では、
お母さんの話も出てきて、
70年前のグランドピアノを、
大事にしているとのことでした。
そのピアノも映されていましたが、
お母さんがドイツかどこかで買ったらしいです。
フジコ・ヘミングさんのお母さんは、
江戸川区東小松川幼稚園浄興幼稚園で、
音楽を教えていました。
どちらも今井の浄興寺の設立園です。
私の西一之江小松江五中の同窓生の中には、
その東小松川幼稚園や浄興幼稚園に通った人が、
何人かいると思いますが、
フジコさんのお母さんに習った人もいます。
もしかしたら、
そのピアノだったのかもしれないと思いました。。。
 
5ヶ月前の6月には、
テレ朝の『徹子の部屋』で、
フジコ・ヘミングさんが出て演奏されているのも、
見ることができました。
 
名前等はかなり前から知っていましたが、
今年になって、
江戸川区と関係があると知ってから、
親しみを抱き、
意識していたせいもあり、
そういった機会に恵まれることになりました・・・。
お母さんのお墓は、
今井の近くの江戸川区江戸川の、
浄興寺にあるといわれています。。。
 
最近、コンサートの案内のハガキが、
妻宛てに来ていて、
ずっとテーブルの上に置かれています・・・。
半分はリチャード・クレイダーマンの写真で、
半分がフジコ・ヘミングさんの写真になっています。
私と妻は、『ピアノの貴公子』といわれた、
リチャード・クレイダーマンが大好きで、
結婚する前から彼のコンサートに行っていました。
妻は、本人と握手までしています・・・。
いつの頃からか、
こうしたコンサートの案内などが届くようになりました。
クレイダーマンの案内で来ているのだと思いますが、
フジコ・ヘミングさんがいっしょに案内されているのは、
特別な思いになりました・・・。
この二人が、こうして一枚の紙に収まっているのは、
私にとっては意味があるように思います。
たまたまなのでしょうけど。。。
 
 
 
★フジコ・ヘミング・・・
フジコ・ヘミングさんのお母さんも、
ピアニストで、
大月投網子(とあこ)さんといいます。
当時としては裕福な家庭だったようで、
ドイツのベルリン音楽大学に留学しています。
ベルリンで知り合ったスウェーデン人の、
ヨスタ・ゲオルギー・ヘミングさんと結婚し、
フジコさんが生まれました。
 
間もなく、ヒットラーが政権を握ると、
ユダヤ系の人や反抗勢力は阻害されていきました。
投網子さんが師事していたベルリン音楽大学の、
レオニード・クロイツァー教授がユダヤ系で、
職を奪われることになり、
投網子さんの勧めで、
投網子さん一家とともに日本へ移住することになりました。
 
東京では、
クロイツァー氏は、
東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に、
終生なることができました。
投網子さん一家も、
弟の大月ウルフさんが誕生しました。
 
ところが、
日本も戦争の色濃く、
外国人に厳しくなっていきました。
クロイツァー氏は、もう帰る所はなく、
職もありましたので日本に定住することになります。
一方、
父・ゲオルギーさんは、
いろいろな面で居づらくなったようで、
妻子を置いてスウェーデンに帰国してしまいました。
 
投網子さんは、
実家からの仕送りと、ピアノを教えることで、
家族を支えていくことになりました。
フジコさんにも5歳になってから、
ピアノを教えるようになります。
一人でも生きていけるようにと、
かなり厳しいレッスンだったようです。
元々、投網子さんは激しい性格だったようですが、
口調もかなり厳しかったようです。
 
そういった教習にもより、
また、
当時はピアノを弾く人が少なかった時代ですので、
フジコさんは、
だんだん頭角を現すことになりました・・・。
 
東京芸術大学を卒業すると、
多くのコンサートをこなし、
順調に活躍していましたが、
どうしても西洋で学び直したく、
国立ベルリン音楽大学に留学します。
 
しかし、
16歳のときに右耳、30代で左耳の聴力を失い、
いざこれから本格的な活動というときに、
運命を大きく変えられることになります。
同じく聴力を失った、
ベートーヴェンの『運命』を思い出しました・・・。
それでも、
耳の治療を続け、
ピアノ教師をしながら、
欧州各地でコンサート活動をしました。
 
そして、1999年、
ミレニアムの2000年直前、
人生を大きく変えるできごとが起きます。
今度は良いことでした。
NHKで、
フジコ・ヘミングさんのドキュメントを放映すると、
とても大きな反響を呼び、
67歳にして大きな転換期になりました・・・。
まさに、
「捨てる神あれば拾う神あり」ですね。。。
 
 
 
 
 
★名前の疑問『フジ子』・・・?
フジコ・ヘミングさんに関しては、
いくつか疑問になることがあります。
その一つが名前の表記です。
通常は、
『フジコ・ヘミング』と表記されていますが、
『フジ子』という表記も少なくありません。
「本名」という形で、
Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming
 (イングリッド・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング)
とか、
Georgii-Hemming Ingrid Fuzjko
 (ゲオルギー=ヘミング・イングリッド・フジコ)
と、本名すらまちまちです・・・。
英語とスウェーデン語の差なのでしょうか・・・?
日本名として、「大月フジコ」というのが多いですが、
中には「大月フジ」というのもあります。
元々、命名するとき、
日本語をイメージしてつけていると思います。
例えば、「富士子」、「藤子」、「不二子」など。
「子」は間違いないと思いますが、
お母さんが「フジ」にどんな漢字を当てたかは、
フジコ・ヘミングさんが聞いていたかどうかですね。
定かではなくなっているので、
「フジコ」か「フジ子」になっているのかもしれません。
でも、「コ」だけ漢字にして、
『フジ子』とするというのもどうかと思います。
日本ぽくしたいのかもしれませんが、
統一感がありません。
『フジコ』でいいのではないかと思います。
 
また、
『フジコ』のアルファベット表記も、
Fuzjko」だったり、「Fujiko」だったりしますが、
スウェーデン語ですと、
「Fujiko」だと「フイィコ」、
「Fuzjko」で「フジィコ」の発音になるようです。
『Fuzjko』のほうがいいのかもしれません。
 
略す表記も多く、
「Fuzjko Hemming」とか、
「Ingrid Fuzjko Hemming」。
「Von」を略して「V.」とし、
「Ingrid Fujiko V. Georgii-Hemming」など。。。
 
一般の人ならしかたないですが、
出版社やレコード会社、
大手サイトなどは統一した、
『正式名称』を使ってほしいものです。。。
 
 
 ↓  ↓  ↓
私の最終結論としては、
絵の実筆サインは、
「Fujiko」ですので、
発音的には問題があるかもしれませんが、
これが正式なものと考えれば、
いいのではないかと思います。。。
 
 ↓  ↓  ↓
ただし、
初期の絵の直筆サインは、
「Fujiko」。
近年は、
「Fuziko」、「Fuzjko」。
しかし、
「j」は、
「j」ではなく元々「i」を長く書いたもの。
ハライも右にハラっています。

ところが、
最近なのでしょうか、
左にハラっているものも多くあります。
左にハラっているのが定着してきているようです。
重要なのは、
本人がどういうつもりなのか、
「i」のつもりなのか、
「j」のつもりなのかですが・・・。
絵のサインまでマチマチ。
画家のサインなどは、
時期によって変わることが多いですが、
そういうつもりもあるのでしょうか・・・。
 
公式サイトでは、
「Fuzjko」を用いているようです。

が、
元々「i」だったのを、
「j」にするというのは、
ちょっと違和感が残りますが。。。

 
 
 
★5歳で来日・・・?
「5歳で帰国しピアノを始めた」
と、多くの記事にありますが、
事実なのでしょうか・・・!?
ピアノを始めたのは5歳かもしれませんが、
帰国したのはもっと前だと思います。
 
本人の自伝、
『フジコ・ヘミング たどりつく力 ~大月投網子~ 』
(幻冬舎 2016年5月30日に第1刷発行)
にも、
そう書いています。
 
『フジコ・ヘミング公式サイト』
http://fuzjko.net/profile
にも、
そう記載されています・・・。
 
その他、出版社のサイトや、
いろいろなところで、
そう書かれています。。。
 
しかし、
弟の大月ウルフさんは、
東京の聖路加国際病院の生まれになっていますので、
1934年には日本にいたはずです。
通常、その1年前以前からいたと考えても、
おかしくないと思います。
また、フジコさんが5歳になるのは、
1936年暮れですから、
その間、再度ドイツを往復したとは考えにくいと思います。
1933年頃から日本にいたと考えるのが自然だと思います。
 
1935年頃、ゲオルギーがスウェーデンに帰国した、
という記述もあり、
ウルフさんが生まれた翌年辺りに、
ゲオルギーが帰国したのだと思います。
フジコさんが3歳くらいのときです・・・。
 
1933年頃、ゲオルギーさんが、
日本郵船国際汽船のポスターなどを、
デザインしていますが、
東京で制作されたようですので、
その年には東京にいたと考えられます・・・。
 
クロイツァー氏は、
1931年にも来日したことがあるようですが、
そうそうは簡単に行き来ができたわけではないの思います。
が、
1933年にクロイツァー氏が、
日本に移住したという記述もありますので、
そのときいっしょだったと思います・・・。
これからも、
『1933年説』が有力だと思います。
つまり、
フジコさんが2歳になる前に、
来日したのではないかと考えられます。。。

 
自伝に記載されているのは、
本人が書いているのかなと思います。
口述や、その他の記録などを、
誰かがまとめたのではないかと思います。
そういうことは、よくあることです。
本人は、細かいところまで、
目を通していないのではないかと思います。
 
なお、
細かいことですが、
どの記事でも、
「帰国」と記載していますが、
生まれたのはベルリンで、
初めて日本に来ましたので、
「来日」のほうがふさわしいのではないかと思います。
1995年の場合は、
すでに日本に住んでいたことがありましたので、
「帰国」でいいと思いますが・・・。
 
 
 
★東京のどこ・・・?
日本に来て、
東京に住んでいたということですが、
どの辺りに住んでいたのでしょうか・・・?
 
母・大月投網子さんの弟さんがやっている、
『青葉ピアノ』という会社が、
当初、新宿で開業していますし、
フジコさんが青山学院に通っていたのを考えると、
新宿方面に住んでいたのかもしれません。
 
日本に来て、
渋谷辺りに住んでいたという記述も見つけました。
吹きさらしの兵舎のような家だったと書かれています。
三鷹『吉野』という叔母さんがいたようで、
何かと世話になっていたようです・・・。
『吉野』というのは、名字だと思っていましたが、
たまたまあるサイトで、
『大月吉野』という文字を見つけました。
母・投網子さんのお姉さんで、日本画家だそうです。
日本画家・中村岳陵に学んだとのことです。
フジコさんは7歳の頃から、
その日本画家の伯母・大月吉野に絵を学びはじめました。
建築家で芸術家でもあった父の影響もあり、
絵のほうにも才能を開花させていったのですね。。。
 
しかし、
私の西一之江小、松江五中の後輩の中には、
浄興寺設立・東小松川幼稚園で、
お母さんの投網子さんに習ったという人もいますので、
1961・2年頃には、
江戸川区に住んでいた可能性もあります。
1961年には、フジコさんは、
国立ベルリン音楽大学へ留学していますので、
その直後だったのかもしれません・・・。
1966年に、
青葉ピアノ江戸川区江戸川に移転していますので、
それより先に江戸川区に住んでいたのかもしれません。
姉の近くに弟さんが移り住んだという感じです・・・。
その後、
1974年に青葉ピアノは現在の西端江へ移転します。
浄興寺・浄興幼稚園の近くですので、
浄興幼稚園でもお母さんが音楽を教えていたというのは、
弟さんのツテがあったのかもしれません。
青葉ピアノ江戸川区江戸川といっても広く、
浄興寺・浄興幼稚園江戸川区江戸川ですので、
元々、近かったのかもしれません。
お母さんは浄興幼稚園・東小松川幼稚園との縁で、
浄興寺に眠ることになったのかもしれませんね。。。
 
さらにその後、
下北沢の自宅は、
劇団青年座の稽古の拠点であった、
1947年に建てられた洋館を、
お母さんが、
フジコさんのために購入したということです。
1975年に青年座研究所開設ということですから、
1980年代になってから購入したのかもしれません。
3階部分は、しばらく継続して、
青年座の稽古に使われていたそうです。
1階は不定期オープンの、
『フジコ・ヘミング記念芸術館』になっていて、
弟のウルフさんが管理しているそうです。
 
現在、
フジコさんは、
世界のあちこちに住まいを持ち、
時々、居を移しているようです・・・。
パリのアパルトマンをメインに、
東京下北沢の母が残した家、
京都の改築した古民家、
ベルリンの友人家族の家の地下部屋、
アメリカ西海岸サンタモニカの家、
というように、
世界に羽を広げています。。。
 
 
 
★東小松川幼稚園・・・
先にも書きましたが、
フジコ・ヘミングさんの母・大月投網子さんは、
浄興寺の設立の、
江戸川区の東小松川幼稚園浄興幼稚園で、
音楽を教えていました・・・。
東小松川幼稚園は松江で、
浄興幼稚園は今井の辺りです。
私の西一之江小、松江五中の同窓生の中には、
その東小松川幼稚園に通った人が、
何人かいるようですし、
松江五中の同窓生の中には、
浄興幼稚園に通った人もいるかもしれません。
 
01フジコ・ヘミング
 
02フジコ・ヘミング
西一之江小松江五中の周辺には、
現在十ほどの幼稚園がありますが、
私が子供の頃の1960年代は、
その半分くらいの数でした。
私の弟は西一之江の『ひかり幼稚園』で、
妹は一之江の『一之江保育園』
姪も一之江の『みなもと幼稚園』でした。
 
03フジコ・ヘミング
東小松川幼稚園は、
松江の映画館の先にありました。
映画館のすぐ先には、
同級生の松岡雄二君の住んでいたアパートがあり、
何度か遊びに行ったことがあります。
そのさらに先の右側に東小松川幼稚園がありました。
現在は、高速7号線にかかったせいか、
松江四中の近くにあります・・・。
映画館には、
ガラス張りの掲示板に、
上映中の映画のカット写真や、
これから上映する映画のカット写真、
ポスター、チラシなどが貼られていて、
それを見るのが楽しみで、よく行っていました。
映画館の人とも顔見知りになり、
いらなくなったカット写真やポスターなどを、
もらったこともありました。
映画館や松岡君の家の帰りに、
『新航路発見』で知らない道を遠回りして、
東小松川幼稚園の前を通ることがありました。
うろ覚えで確かではありませんが、
横開きの鉄の門があり、
その向こうに隙間から園庭が見え園児がいて、
その左側に園舎があったように記憶しています。
まったく関係なかったのに、
なぜか印象深く残っています・・・。
映画館の前の通りに沿って、
用水路がありましたが、
当時は、他の用水路と比べ、
早くからフタをして、暗渠になっていました。
東小松川幼稚園の前もそうだったと思います。
コンクリート板が敷き詰められていたように思います。
ただ、
1963年の航空写真を拡大して見ると、
まだ暗渠になっていないようですので、
いくつかの記憶が混ざっているようです・・・。
 
まさかそこに、
フジコ・ヘミングのお母さんがいたとは・・・。
フジコ・ヘミングさんは、
1961年にベルリンに留学して、
日本にはいませんでしたが・・・。
同窓生の中には、
フジコさんのお母さんに習った人もいる、
と書きましたが、
やはり、厳しい先生だったようです・・・。
東小松川幼稚園でバレエを習っていて、
先生のピアノに合わせて踊っていたとのことです。
人はどこでどう繋がりがあるか、
わからないものですね。。。
 
 
 
★青葉ピアノ・・・
フジコさんの母・大月投網子さんの、
弟さんは、
『株式会社青葉ピアノ』を設立しています。
ピアノの販売、修理、調律、レンタルなどから、
中古買取り、ピアノ教室などもやっているようです。
フジコ・ヘミングさんのコンサート・チケットも、
扱っています・・・。
現在は、
千葉県八街市にも店舗があり、
オンラインでも、
ピアノや用品の販売もしているようです。
 
投網子さんの弟ということですから、
多少年齢が離れていても、
百歳を超えてしまいます・・・。
現在、代表取締役は、
高橋弘干(ひろゆき)というかたになっています。
このかたは息子さんなのでしょうか・・・?
 
フジコ・ヘミングさんのコンサートは、
青葉ピアノの主催でも行われています。
江戸川区に縁があったことから、
『江戸川文化センター』などでも行われています。
江戸川文化センターは、
私の娘がピアノを習っていた1990年代、
発表会で何度か利用した所で、
懐かしい所です・・・。
フジコ・ヘミングさんは、
1995年に帰国していますが、
ブームになったのは2000年からですので、
年数にはまだまだ隔たりがありますね・・・。
 
江戸川文化センターでのコンサートでは、
フジコ・ヘミングさんの弟のウルフさんも、
いろいろ手伝って活躍していたそうです。
フジ子さんの絵を売ったり、
いとこで連弾パートナーの大月礼子さんや、
江戸川区長さんのことを紹介したり、
地元江戸川区の良さを、
アピールしたりもしていたそうです。。。
 
 
 
★俳優・大月ウルフ・・・
弟の大月ウルフさんは俳優で、
かなり昔からいろいろな作品に出演していました。
私の子供の頃から出ていたのですね・・・。
テレビ・ドラマでは、
『忍者部隊月光』1964年、
『マグマ大使』 1967年、
『ジャイアントロボ』1968年、
『ザ・ガードマン』1969年、
『プレイガール』1969年、
『必殺仕掛人』1972年、
『風雲ライオン丸』1973年、
『仮面ライダーシリーズ』1975年、
『太陽にほえろ!』1976年、
『大都会 PARTII』1978年
『セーラー服と機関銃』1982年
などと、
どれも懐かしいものばかりです・・・。
他に映画でも多数出演しています・・・。
ただ、申し訳ないのですが、
悪役等が多かったせいか、
私の記憶には残っていませんでした・・・。
『仮面ライダーシリーズ』以降の作品では、
少し印象に残るような役が多かったようで、
それなりのファンもいるようです。。。
 
 
 
 
 
 
 
**********************************
【フジコ・ヘミング】
Ingrid Fuzjko Von Georgii-Hemming
日本名:大月フジ※「フジ子」とする記事もある。
1931年12月5日~。 ベルリン生まれ。
血液型:A型。
弟:俳優・大月ウルフ。
従姪:歌手・橋本潮。
母の師事した、
レオニー ド・クロイツァーに師事。
東京芸術大学(旧・東京音楽学校)卒業。
ベルリン芸術大学(旧・国立ベルリン音楽大学)卒業。
16歳で右耳、30代で左耳の聴力を失う。
現在、左耳は40%回復。
代表曲:『奇蹟のカンパネラ』『憂愁のノクターン』など。
 
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(略歴)※一部、推測もあります。
1903年頃?、母:大月投網子(とあこ)生誕。
 
1910年7月9日、父:ゲオルギー生誕。
 
1930年頃?、
ゲオルギー20歳、投網子27歳で出会い、結婚。
 
1931年12月5日、フジコ、ベルリンで生誕。
 
1932年、ゲオルギー、
日本郵船のポスターのデザイン、
 
1933年、ヒトラー 政権誕生、ユダヤ系迫害す。
投網子の師のベルリン音楽大学教授で、
ユダヤ系だった、
レオニード・クロイツァーは教授を解任され、
ヘミング一家に同行し日本へ移住、
東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授となる。
 
1933年、ゲオルギー、
国際汽船のポスターもデザイン。
 
1934年、
ヒトラーに対抗する存在はほぼ根こそぎ殺害。
 
1934年8月27日、弟・大月ウルフ生誕。東京。
 
1935年頃?、ゲオルギー、
家族3人を残し一人スウェーデンに帰国。
投網子、裕福な家庭の子女などに、
ピアノを教えるようになる。
 
1937年頃?、フジコ5歳頃、
投網子によるピアノ教習開始。
日に2時間単位で3回というスパルタ式レッスン。
 
1939年4月、フジコ、
青山学院緑岡尋常小学校(現・青山学院初等部)入学。
 
1939年、ゲオルギー、
この頃まで東京関係の仕事に関わっていた。
 
1939年頃、フジコ7歳頃、
日本画家の伯母・大月吉野に絵を学ぶ。
   
1941年頃、フジコ9歳、小学3年生の時、
ラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。
 
1942年頃?、フジコ10歳頃、クロイツァーに師事。
 
1944年、ゲオルギー再婚。
 
1945年2月、家族と共に岡山に疎開。
1945年4月、フジコ、岡山県の高等女学校に入学。
すぐ学徒動員で授業無く勤労作業。
1945年8月、終戦。東京に戻る。
青山学院高等女学部(現・青山学院中等部)に転校。
 
1948年?、16歳の頃、
中耳炎の悪化により右耳の聴力を失った。
 
1950年4月、学制改革により、
新制高校・青山学院高等部3年に進級。
17歳でデビュー・コンサート開催。
 
1951年4月、
東京音楽学校(現・東京芸術大学)音楽学部入学。
 
1952年、東京音楽学校廃止、東京芸術大学に移行。
 
1953年、21歳、
新人音楽家の登竜門である、
第22回NHK毎日コンクールに入選。
文化放送音楽賞など、多数の賞も受賞した。
 
1953年10月30日、クロイツァー没。享年69歳?。
 
1954年、22歳、東京芸術大学卒業。
 
195?年、
本格的な音楽活動に入り、
日本フィルハーモニー交響楽団などと多数共演。
 
19??年、留学のためパスポート申請。無国籍が発覚。
 
1961年、29歳、
駐日ドイツ大使の助力で、赤十字認定の難民として、
国立ベルリン音楽大学(現・ベルリン芸術大学)へ留学。
 
196?年、国立ベルリン音楽大学卒業。
 
196?年、パウル・バドゥラ=スコダに師事。
 
196?年、今世紀最大の作曲家・指揮者といわれる、
ブルーノ・マデルナに才能を認められ、
レナード・バーンスタインなどからの支持もあり、
彼のソリストとして契約。
しかし、リサイタル直前に聴力を失い、
コンサート・ピアニストとなるチャンスを逸する。
 
196?年、ストックホルムに移住。
耳の治療を続ける。
 
196?年、音楽学校の教師の資格を得る。
ピアノ教師をしながら、
欧州各地でコンサート活動を続ける。
 
1972年頃?、フジコ40歳、
建築事務所を構えていた父・ゲオルギーを訪ねるが再会は不明。
ゲオルギーの後妻の助力でスウェーデン国籍を回復。
 
1986年5月16日、ゲオルギー没。享年75歳。
 
1993年、投網子没。享年90歳。
 
1995年、日本へ帰国。
 
199?年、
東京芸術大学の旧奏楽堂などでコンサート活動。
 
1999年2月、NHKドキュメント番組『ETV特集』、
「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」放映。
大きな反響を呼び、フジコブームが起こる。
 
1999年8月、デビューCD『奇蹟のカンパネラ』発売。
発売後3ヶ月で30万枚の異例の大ヒット。67歳。
※2012年には累計200万枚を超えている。
 
2000年、『奇蹟のカンパネラ』、
第14回日本ゴールドディスク大賞、
「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」受賞。
 
2000年8月、CD『憂愁のノクターン』発売。
 
2001年、『憂愁のノクターン』、
第15回日本ゴールドディスク大賞、
「クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」受賞。
 
2001年6月7日、カーネギー・ホールでリサイタル。
3000人の聴衆が感動し絶賛した。
 
2003年10月、フジテレビ系で半生がテレビドラマ化。
スペシャルドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』。
フジ子役を菅野美穂が演じて、20.1%の高視聴率。
 
2013年、
自身のCDレーベル「ダギーレーベル」を発足。
 
 
現在、
2000年以降、ソロ活動に加え、
海外の有名オーケストラ、室内楽奏者との共演など、
活躍は続いている。。。
 
 
 
※来日年齢について
「5歳で帰国しピアノを始めた」
と、多くの記事にあるが、
弟は1934年東京生まれになっていて、
1934年には日本にいたはずで、
2歳頃までには日本に来ていたという考えに基づき、
上記記載しています。
 
 
 
 
 
**********************************
【大月投網子(とあこ)】(母)
1903年頃?~1993年:享年90歳。
大阪出身。
日本初の新聞用印刷インクを開発した印刷会社の、
工場主・大月専平の末っ子で裕福だった。
ピアニスト、音楽教師。
ベルリン音楽大学でレオニー ド・クロイツァーに師事。
豪快だったとも・・・。
気性や言動が激しく、厳しい人だったとのこと。
晩年、東京下北沢に住む。
お墓:東京都江戸川区江戸川の浄興寺?
 
**********************************
【ヨスタ・ゲオルギー・ヘミング】(父)
Gösta Georgii-Hemming
1910年7月9日~1986年5月16日:享年75歳。
ロシア系スウェーデン人。
父親はスウェーデン王族の弁護士を務め上流階級。
芸術家・建築家。
ドイツ・ベルリンの映画スタジオの、
グラフィック部門で働いていた。
 
**********************************
【大月ウルフ】(弟)
ウルフ・ゲオルギー=ヘミング
 Ulf Georgii-Hemming
※「Ulf」は「騎士」という意味。
日本名:大月良雄(おおつき よしお)。
1934年8月27日~。 
東京市生まれ。(聖路加国際病院)
俳優。
青山学院大学卒業。
 
中学生の頃から舞台に出演し始める。
俳優座養成所第5期生。
特撮番組に数多く出演し、
パントマイムを取り入れた独特の演技もある。
以前は、国際プロ、劇団三期会、
東京俳優生活協同組合に所属。
 
東京下北沢のフジコの自宅の1階、
不定期オープンの、
『フジコ・ヘミング記念芸術館』を、
ウルフさんが管理している。
 
(テレビ出演)
『忍者部隊月光』1964年、
『マグマ大使』 1967年、
『ジャイアントロボ』1968年、
『ザ・ガードマン』1969年、
『プレイガール』1969年、
『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』1970年、
『必殺仕掛人』1972年、
『風雲ライオン丸』1973年、
『隠密剣士 突っ走れ!』1974年、
『仮面ライダーシリーズ』1975、1980、2015年、
『太陽にほえろ!』1976年、
『大都会 PARTII』1978年、
『池中玄太80キロ』1980、1981、1982、1992年、
『江戸川乱歩の黄金仮面II』1980年、
『加山雄三のブラック・ジャック 1981年、
『セーラー服と機関銃』1982年、
『眠狂四郎 無頼控』1983年、
『必殺仕事人』1987年、
『スーパー戦隊シリーズ』1990、1993、1994年、
『中学生日記』、
『中居正広の金曜日のスマたちへ』2010年、
・・・他多数。
 
(映画出演)
『眠狂四郎女妖剣』1964年、
『戦争と人間』1971年、
『ゴジラ対メガロ』1973年、
『トラック野郎・故郷特急便』1979年、
『二百三高地』1980年、
『ノストラダムス戦慄の啓示』1994年、
『フジコ・ヘミングの時間』2018年、
・・・他。
 
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【橋本潮(うしお)】(従姪)
1965年9月22日~。
東京都杉並区出身。
フジコ・ヘミング、大月ウルフと橋本潮の母がいとこ。
歌手。アニメソング・キッズソング中心。
明星学園高等学校卒業。
和光大学人文学部芸術学科卒業。
 
『ドラゴンボール』エンディング曲の、
『ロマンティックあげるよ』や、
『エスパー魔美』のオープニングテーマ、
『テレポーテーション~恋の未確認~』等、
主題歌・ED群などで知られる。
 
オリジナルソングや、
アニメソングのライブ活動の一方で、
ヴォーカルユニット
『Betty!』での、
インディーズCDを多数リリース。
 
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【大月吉野】(伯母)
母・投網子の姉。
三鷹在住。
日本画家。
日本画家・中村岳陵に学んだ。
 
フジコ・ヘミングに、7歳の頃から絵を教えた。
 
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【大月礼子】(いとこ)
ピアニスト。
投網子の教え子。
フジコ・ヘミングの連弾パートナー。
 
母・投網子の姉・大月吉野(日本画家)の、
娘なのかはわかりません・・・。
 
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【レオニード・クロイツァー】(師)
Leonid Kreutzer
1884年3月13日~1953年10月30日。享年69歳。
※生年1883年という説もある。
ロシア帝国サンクトペテルブルク生まれ。ユダヤ系。
ピアニスト、指揮者。
サンクトペテルブルク音楽院出身。
ベルリン音楽大学教授。
東京音楽学校(現:東京芸術大学)教授。
大月投網子・フジコ・ヘミングも師事。
 
1931年、初来日。
1933年、再来日し、近衛秀麿の求めに応じ帰独せず。
ヒットラーのユダヤ系弾圧もあり、日本に移住。
1937年、東京音楽学校教授就任。
茅ヶ崎市に定住しピアニスト、指揮者として活躍。
1952年2月4日、
門下生で東京芸術大学ピアノ科講師・織本豊子と結婚し、
五反田に転居。
 
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↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
 
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関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
 
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪

 
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
 
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