<国柱会と宮沢賢治と謎の家!?> | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

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01国柱会
 
<国柱会と宮沢賢治と謎の家!?>
☆国柱会と宮沢賢治
元々、この記事は、
『<国柱会の小山の謎の家!?>』
という題名で書いていて、
『謎の家』のことを中心に書いていました。
ところが、
国柱会のことを調べていくうち、
宮沢賢治が関係していることがわかり、
二つに分けて書くか迷ったのですが、
分けるわけにもいかないと思い、
一つにまとめることにしました・・・。
これまでも、国柱会のことを何度か調べていますが、
宮沢賢治のことの記述を見逃していたのか、
重く感じなかったのか、
記憶に残るほどではありませんでした。
宮沢賢治に関係があるとわかれば、
重く受け止めて記憶に残っていたと思うのですが、
なぜか記憶にありませんし、
初めて知ったという感じです・・・。
中学はすぐ隣の松江五中でしたので、
先生からそういう話があってもよさそうですし、
担任の先生が国語の先生でしたので、
よけいそう思います・・・。
たぶん先生も知らなかったのかもしれませんね・・・。
賢治の遺骨の一部が国柱会に納鎮されたのが、
1982年(昭和57年)ということですから、
それは知る余地はありません。
しかし、国柱会の会員だったのは、
知られていたと思うのですが・・・。
知らなかったのは私だけだったのでしょうか。
知っていたのに忘れてしまったのでしょうか。
興味のあることは覚えていても、
興味のないことは記憶に留まらないものです・・・。
 
それにしても、
まさかそんな身近に、
宮沢賢治に関係する所があったなんて、
思いも寄らなかったですし、
半世紀以上経ってようやく知ることになり、
意外と知らないことも多いのですね。。。
 
今年は昨年よりさらに、
じっくり書いている余裕がないことを、
先日記載しました・・・。
それでここのところ、
とりあえず時間のかからない記事にしてきました。
はじめは時間のかからないように書いていましたが、
結局、書いていくうちに、
深入りし時間がかかっています・・・。
今回も簡単に書こうと思っていましたが、
そうなってしまいました・・・。
内容も主従逆になり、
まさに「本末転倒」になってしまいました。。。
 
 
 
 
 
☆宮沢賢治
1896年8月27日-1933年9月21日。
享年37歳。岩手県花巻市出身。
詩人、童話作家。
代表作は、
『雨ニモマケズ』、
『銀河鉄道の夜』、
『注文の多い料理店』、
『セロ弾きのゴーシュ』、
『風の又三郎』

など数多くあります・・・。
『銀河鉄道の夜』は、
松本零士『銀河鉄道999』をはじめ、
藤子・F・不二雄『ドラえもん のび太と銀河超特急 』
中島みゆきの舞台『夜会』など、
影響を受けた作品は多くあります・・・。
宮沢賢治の作品は、
文学の他、絵画や音楽なども残されています。。。
 
 
子供の頃は、
病弱でしたが、学業は優秀でした。
岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)の、
3年生の頃から、
同校卒業生の石川啄木の影響を受け、
短歌をつくりはじめました・・・。
父親が熱心な浄土真宗の門徒で、
まわりもよく念仏を唱えていたので、
賢治も小さい頃から覚えて唱えていたとのことです。
盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学。
在学中に、
東京に進学した妹のトシが入院し、上京しました。
そのとき国柱会館で、
田中智学(ちがく)の講演を聞くことになります。
強い影響を受け、卒業後間もなく、
田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破し、
国柱会に入信しました・・・。
翌年、父を説き伏せることができず、家出し上京、
「法華文学」として童話などの創作に取り組みながら、
宗教活動に励みました。
それもつかの間、
妹のトシの容態が悪化したことで帰郷し、
稗貫郡立稗貫農学校(岩手県立花巻農学校)の、
教諭となります・・・。
さらに翌年、トシが他界してしまい、
賢治は深い悲しみに陥ります・・・。
半年間は何も書けませんでしたが、
トシを思う作品をいくつか残しています・・・。
 
その後、教諭を続けながら、
『注文の多い料理店』などの童話や詩集を出版しますが、
なかなか売れませんでした・・・。
4年半で教諭を退職し、
私塾「羅須地人協会」を設立して、
野菜生産など農業中心の生活をしました・・・。
塾では、農業の講習をしたり、
楽団をつくって農民芸術の実践を試みるなどしていました。
 
ところが2年後、過労等で体を壊し、
約5年の療養生活が続いたのち、永眠しました・・・。
その間、
遺書を書いたり、
手帳に『雨ニモマケズ』を記したりしました。。。
 
 
賢治の家系は、
京都から移り住み、呉服屋を繁盛させていましたが、
三男だった祖父は質店を開業し、
古着の売買をを中心に商いを広めていって、
有力な一族になっていたようです・・・。
 
下に4人の弟妹がいて、
妹のトシが24歳、
賢治が37歳と短命でしたが、
他の兄弟はそうでもなかったようです・・・。
賢治は、生涯独身でしたが、
子をつくる代わりに作品をつくったとも言われています。。。
 
妹トシの遺骨や、
賢治の遺骨の一部も、
一之江の国柱会・妙宗大霊廟に納鎮されています。
 
 
 
【略歴】
1896年(明治29年) 8月27日
 岩手県稗貫郡里川口村川口町:現・花巻市豊沢町に生誕。
1917年(大正6年)
 同人誌『アザリア』創刊、短歌などを発表。
1920年(大正9年)
 盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)卒業。
 国柱会に入信。
1921年(大正10年)
  稗貫農学校(後の花巻農学校)教師となる。
1922年(大正11年)
 妹・トシ、病死。
1924年(大正13年)
『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』刊行。
1926年(大正15年)
 退職し、私塾「羅須地人協会」設立。
1928年(昭和3年)
 両側肺湿潤と診断され実家に戻り療養。
1931年(昭和6年)
 体調回復したが、すぐに再療養。
 遺書や『雨ニモマケズ』を書く。
 『銀河鉄道の夜』1924年頃から推敲を重ねる。
1932年(昭和7年)
 『グスコーブドリの伝記』刊行。
1933年(昭和8年)
 『風の又三郎』1931年頃から推敲を重ねる。
 9月21日、急性肺炎で他界。37歳。
1982年(昭和57年)
賢治の遺骨の一部を国柱会・妙宗大霊廟に納鎮。
 
 
 
 
 
☆国柱会
正式名称:本化妙宗。
本部:東京都江戸川区一之江6丁目19番地18号
元日蓮宗僧侶・田中智学(ちがく)によって、
創設された法華宗系在家仏教団体。
新興宗教の先駆けのような存在。
日蓮の三大請願の一つ、
「我日本の柱とならん」から、
智学によって命名された。
 
一之江の「妙宗大霊廟」(合葬墓・集合墓)は、
智学の念願だった法華経の宝塔を彷彿とさせる壮大なもの。
合同で納骨されるシステムのお墓で、
国柱会会員でなくてもよく、宗旨・宗派は問わないとのことです。
永代供養は、初期費用のみであとは一切かからないとのこと。
納骨費用60万円と事務手数料5千円、合計60万5千円のみ。
毎日、読経し、合同の回向供養がされ、
命日には名前を読み上げられるとのことです。
 
宮沢賢治と妹・トシの遺骨の一部が納められ
宮沢賢治の歌碑もあります。
 
 
【略歴】
1881年(明治14年)横浜で「蓮華会」を設立。
1884年(明治17年)「立正安国会」活動拠点を東京へ移す。
1886年(明治19年)日本橋蛎殻町に本部「立正閣」設置。
1914年(大正3年)「国柱会」に改称。
1918年(大正7年)台東区鶯谷に国柱会館落成。
1928年(昭和3年)「妙宗大霊廟」を江戸川区一之江に創建。
1945年(昭和20年)戦災で本部講堂を消失、勢力減退。
1951年(昭和26年)本部講堂落慶式。
1968年(昭和43年)本部講堂落慶式。
1981年(昭和56年)老人ホーム「申孝園ロータスヴィラ」落成。
1982年(昭和57年)宮沢賢治の遺骨の一部を妙宗大霊廟に納鎮。
1984年(昭和59年)国柱会創業100年記念大会。
1996年(平成8年)宮沢賢治生誕100年記念大会
 
 
本化妙宗としての信仰は、
釈尊(釈迦)を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、
本尊は日蓮大聖人の、
「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としています。
 
国柱会の主張は、
「全国の神社に祀られる主神は、
 すべて皇祖神に統一されるべき」
という田中智学の思想によるもの。
皇祖神というのは、
皇室の祖とされる神のことです。
 
形式にとらわれず、
法要時の礼服、祭壇の祀り方、
数珠を一切用いないなど、
神道的な要素を強く残し、
『法華神道』の団体としての色彩も強いようです。
 
また、田中智学は、
『戦争反対』と『死刑廃止』の提言をしています。
国粋主義を標榜し、右翼思想だと思われましたが、
時代に埋没してかつての活況はないようです。
 
 
・日蓮聖人門下連合会
1960年(昭和35年)国柱会が日蓮門下の連携のため発足。
記念事業などの共同事業を行っています。
国柱会、日蓮宗、顕本法華宗、日蓮本宗、法華宗陣門流、
法華宗真門流、法華宗本門流、本門法華宗、本門仏立宗、
日本山妙法寺、京都日蓮聖人門下連合会。
 
 
・『法華宗(日蓮宗)系』の新興宗教
本門佛立宗 (1857年)、国柱会 (1884年)、
創価学会 (1930年)、霊友会 (1930年)、
立正佼成会 (1938年)など。
国柱会が新興宗教の先駆けとなり、
これらは「国立戒壇」や「在家主義」といった、
国柱会の思想を受け継いでいる点が多い。
 
 
・田中智学に影響や関係のあった人
多岐に渡りたくさんいます。
政界の桂太郎近衛文麿など。
文壇では高山樗牛(ちょぎゅう)
坪内逍遥、與謝野鉄幹・晶子夫妻、
宮沢賢治、幸田露伴、高浜虚子、
北原白秋、萩原井泉水
など。
他には、
横山大観
日医会長・武見太郎、
神田山陽師
三遊亭円生など・・・。
 
 
 
 
 
 
 
☆国柱会の思い出
子供の頃、
いつ頃から国柱会の中に遊びに行ったか、
よく思い出せません・・・。
境川で隔てられていますので、
低学年のときは行っていないかと思います。
松江五中ができて、
橋が架けられたのが、
私が小4の頃でしたので、
それ以降だったように思います。
その橋を渡らなくても、
ぐるっと回って、
国柱会の正門からも行けますが、
むしろ、ほとんど正門からだったと思います。
 
橋が架けられる前から、
境川沿いを通るとき、
その対岸の国柱会の林や建物は、
よく見ていました・・・。
 
高学年になって、
国柱会に行くようになったのは、
一人ではなく、
誰かに誘われて行ったと思います。
たぶん、仲の良かった同級生の、
中山隆仁君や吹澤茂君だったと思います。
当時、
国柱会には大きな池があり、
ザリガニや小魚などを取っていたたのだと思います。
突き当りにコンクリートの建物があり、
プールとまではいえませんが、
コンクリートで仕切られた所に、
水が張っていて、
そこにも何かいたように思います。
子供の頃は、
目的もなく、ただぶらぶらしていることも多く、
そういう感じで行っていたことも、
多かったかと思います。
探索とか、散策とかで、
歩き回ることもよくしていました・・・。
 
中学生になると、
たまに一人で散策する程度で、
遊びでは国柱会に行ってないかもしれません。
中1のとき、美術の時間に、
松江五中の屋上から写生をしました。
4階建ての建物の上から、
まだ畑の多い周囲の景色を見て回り、
結局、私は東側の正門の方向を写生しました。
上から見た国柱会などの景色も良かったのですが、
なぜか畑のある景色を描きたかったのでした・・・。
 
同じ1年生のときだったか、
何年生のときだったか忘れましたが、
やはり美術の時間に、
国柱会の中で写生をすることがありました。
好きな所で写生したのですが、
私は大きな池の景色を写生しました・・・。
私は、小学生のときは、
何を描いたらいいのかもわからず、
どう描けばよいのかもわかりませんでした。
しかし、中学生になってからは、
少し絵をうまく描けるようになっていました。
このとき、どんな絵を描いたか思い出せませんが、
それなりには描けていたのではないかと思います・・・。
 
高校生のときか、社会人になってからか、
国柱会で写生をしたことがありました。
たいした絵ではありませんが、
どこかにしまってあります・・・。
大きな柳の木があったと思いますが、
池とその柳の木の辺りを描きました・・・。
再度、国柱会の庭を、写生したいと思っていましたが、
それきりになってしまいました・・・。
今はその池はなくなり、
老人ホームになっているようですね・・・。
もっと何度も写生をしておけばよかったと思います。。。
 
 
 
 
 

 

 

02国柱会

 

03国柱会

 

04国柱会

 

05国柱会

 
☆小山の謎の家!?
国柱会の一番奥、
境川沿いの松江五中との境の角の所に、
小さい山があります。

この境川側の所からも国柱会に入れました。
その小山の南側がコンクリートの壁になっていて、
窓等もあり、
昔は人が住んでいたと思います・・・。
 
ストリートビューで見たら、
未だにありました!!!
さすがに人は住んでいないようですが、
コンクリート部分がわかります・・・。
子供の頃は、
もっと大きいように思っていましたが、
フェンスの高さなどからすると、
それほど高くはないようです・・・。
子供の頃はその小さい山に、
時々登ったものでした・・・。
昔は、
人が住んでいて、
洗濯物を干していたり、
ブリキ製の煙突などもあったような気がします。
高さもあって、2階建てのように思っていました。
定かな記憶ではありませんが、
そこに住んでいた人と、
話をしたこともあったような気がします・・・。
もしかしたら、
誰かの知り合いの人だったようにも、
かすかな記憶があります・・・。
 
境川の対岸からは、
その小高い山と、
山の壁の家がよく見えました。
ここを通りかかるとよく見え、
夕方などは、

明かりが灯っていて、
ちょっと不気味な感じがありました・・・。
家があって、
その上を土がおおい、山になっています・・・。
ちょっと不思議な家ですよね・・・。
先に山があって、
くり抜いて家にしたのか、
家を建ててから山にしたのか・・・?
どちらの方法でも造られた家というのは、
けっこうあるものですが、
地下室ほどではないにしても、
外気や太陽熱などの影響は受けにくいかと思います。
そういう意味で、そういう形にしたのか、
どういう意味があったのか、
理由がちょっとわかりかねます・・・。
 

 

06国柱会

 

07国柱会
 
この謎の家の辺りは、
最近の航空写真では木々が生い茂っていますが、
私が小5の1963年(昭和38年)の航空写真では、
まだそれほどではないのがわかります。
さらに、
1947年(昭和22年)の航空写真では、
木々があまりありませんでした・・・。
私の父の生まれた、
1928年(昭和3年)に、
一之江に本部が移転したようですが、
当初からこの謎の家があったのでしょうか・・・。
 
あやふやな記憶ですが、
その謎の家に住んでいたのは、
学校でいう『用務員』さんのような人で、
庭園の掃除とかしていた人ではなかったかと、
そう微かに思い出されます・・・。
 
それにしても、
子供の頃の懐かしい思い出です。。。
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆

↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
 
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
 
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪

 
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
 
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メールやメッセージ等をいただければと思います。
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是非、よろしくお願いします。
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