<蓮田> | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

西一之江小&松江五中の卒業生のブログ

 

01蓮田
↑  ↑  ↑ 1963年
<蓮田>
 
江戸川区は、
昔、田畑が多くありました・・・。
田は、
米作の水田だけでなく、
蓮田も多くありました・・・。
西一之江にも、
蓮田がたくさんありました。
高学年のとき、葛西の海岸まで、
自転車で遠乗りをしていましたが、
蓮田が多くあることを知りました。
途中、小雨が降ってきて、
大きな蓮の葉を取って、
傘代わりにしたこともありました・・・。
そんなに蓮田はありましたが、
特に身近な所しか、
思い出せません・・・。
当時の航空写真を見ると、
蓮田の所は、
マダラになっていて特徴があるようですが、
わかりにくい所も多いようです・・・。
けっこう入り組んでいて、
わかりにくい所もありますが、
判別できる範囲で、
色分けしてみました・・・。
だいぶあやふやな記憶で判別していますので、
かなり間違えている可能性もあります。
ご容赦ください・・・。
もし、間違いに気づきましたら、
ご一報をくださればありがたいです。。。
また、
1947年の航空写真とも、
だいぶ変わっていて、
わかりにくい点もあります。
水田や蓮田は埋め立てられ、
畑になり、宅地になります。
が、
水田と蓮田の関係がわかりません・・・。
水田は蓮田に変えられそうですが、
蓮田は水田にはできにくいように思います。
実際、どうなのかわかりません。。。
 
 
 
★バキュームカー
畑には、
だいたい『肥溜め』があって、
糞尿を発酵させて堆肥にし、
肥料として使っていました。
蓮田でも、
糞尿は肥料として使われていました。
畑では発酵したものを使っていましたが、
私の察するところでは、
どうも直接そのまま使っていたようです・・・。
というのも、
バキュームカーから蓮田に、
糞尿を流し込むのを、
何度も見ているからです・・・。
 
当時は、まだトイレが水洗式ではなく、
下水道の整備もされていませんでした。
下水の浄化槽もありませんでした。
いわゆる『ポットン便所』で、
『汲み取り式』でした・・・。
長い柄の柄杓(ひしゃく)で汲み取り、
桶に入れ、
その桶を二つ天秤棒に下げて運ぶという方式は、
戦後ほとんどバキュームカー式になったようで、
たぶん見てないかもしれません・・・。
畑で肥溜めから、堆肥を運び、
土壌に撒く場合は、
柄杓と天秤棒・桶でやっていましたが・・・。
 

02蓮田
↑  ↑  ↑ 1963年
 
よく見かけたのは、
私の住んでいた都営住宅のすぐ東側の蓮田でした。
木でできたコの字型の断面をした樋(トイ)を、
蓮田の中に間隔を置いて数本設置します。
道路のほうから、蓮田の中に、
十メートルくらいだったか、
何十メートルだったかわかりませんが、
メインになる長い樋を組み立てていきます。
さらに、
そのメインの樋から、
両側だったか、片側だけだったか思い出せませんが、
支流の短い樋を張っていきます・・・。
樋が組み上がると、
バキュームカーがやって来て、
ホースから樋に糞尿を流し込みます。
一つの蓮田で、
バキュームカーが2台分位?、
使われたのではないかと思います。
記憶では、
二日以上かかっていたようにも思います。
バキュームカーから流し込むのを、
日を分けてしていたか、
同じ所に二度していたのかと思います。
その流し込みの作業をしているとき、
脇を通ることも何度かありました。
やはり、臭いはけっこうしました。。。
 
田に撒く場合は発酵していますが、
蓮田の場合はそのものですので、
衛生面でもどうだったのでしょうね・・・!?
そういえば、その樋も、
終わったら水でも流していたのでしょうね。
そうじゃなかったら、
片付けにくいですものね・・・。
農家の人も、
すぐに蓮田の中に入るようなことは、
なかったと思いますが、
収穫のときは、
ゴム引きのつなぎのようなものを着用し、
腰や胸くらいまで水に浸かって、
考えてみたらなかなかできることではないですね・・・。
その頃には、
だいぶ薄まっているのかもしれませんけど。。。
もちろん、
出荷時には、キレイに洗っていますが、
完璧とまではいかないのでしょうね。。。
 
 
 
★同様体験・・・
今回、ネットで調べていましたら、
たまたま同じような体験を書かれている、
ブログを見つけましたので、
抜粋して載せておきます・・・。
しかも、
松江・西一之江・一之江辺りのよう・・・?
 
ブログ名:
『八十代万歳! (旧 七十代万歳)』
1931年生れのhisakobaabaが
七十代万歳と言って始めたブログが
八十代に続いています・・・
 
題名:※2005年11月26日付け
『街娼の屯する上野の夜・・・偽学生アルバイトの話・・・② 』
https://hisakobaab.exblog.jp/2705060/
 
記事:(※抜粋)

※1948~49年のこと
(※職やアルバイトの少ない時代のアルバイトの話。)
学生連盟の事務所は、
とんでもなく不便な場所にありました。
新小岩から、なかなか来ないバスで20分ほど、
バス通りの傍に蓮田が点在する場末の町。
 
蓮田(レンコン畑)に、
バキュームカーが、
新しい糞尿を流し込んでいるのを、
見て驚いたことがあります。
蓮田の主は知っているのだろうかと・・・
当時のトイレは汲み取り式ぼっちゃん便所。
ヴァキュームカーが各家庭をまわって汲むのです。
肥料にするなら肥溜めで熟成させなければなりません
汲みたてでは黴菌も寄生虫卵も活きたままです。
それを蓮田にどっさり入れていました。
あそこの蓮根(レンコン)はいつ収穫するのやら?
なんとも汚い話でした。
 
(その町を2~3年前に通ってみたら、
 道幅は5倍ぐらいに広がり、
 地下鉄の駅まであって、ビルが林立、
 昔の面影は何一つ残っていませんでした)
 
当時のバスは、
7時半ごろに終わってしまったように思います。
バスが無くなると小さい都電で、
小松川橋の手前まで行き、橋を歩いて渡って、
また都電で錦糸町に出ます。
あとは国鉄で新宿乗換え渋谷に出て、
今度は私鉄で上目黒に帰るのです。
電車はどれも本数が少なく夜まで満員でした。
長い長い小松川橋を、
夜に歩いて渡る人はほとんどありません。
冬の川風は容赦なく吹き付けます。
それでもみんなで歌を歌ったり、
しゃべったりしながら歩くのがなんか楽しくて、
わざと最終バスに乗り遅れたりしました。
小松川橋は、幹線の京葉道路が、
 荒川放水路中川放水路をまたぐ大きな橋です。
 今ではすぐ脇に新小松川橋が並んでかかっています。
 今はそれほど交通量が多いのです。)
・・・・・・・

 
1931年生れといいますから、
私の母の一つ下になります・・・。
蓮田の記事は、
1948~49年のことらしいので、
私が生まれる前のことだったのですね。
すでにバキュームカーはあったようです・・・。
「流し込んでいる」とありますので、
樋は使っていなかったのかもしれませんね・・・。
目黒辺りから、
江戸川区の片田舎まで来ていたようですね。。。
城東電車は、私の生まれた1952年廃線ですから、
「小さい都電」というのは、
城東電車のことだったのですね。
私の時代よりも少し前のことでしたが、
懐かしく思いました。。。
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 
☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆

↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
 
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
 
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪

 
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
 
記事にコメントを入れていただくか、
メールやメッセージ等をいただければと思います。
※コメントは承認制ですので、
 承認しなければ表示されません。
是非、よろしくお願いします。
   v(^^)v
 

 

 

Mail
matunoki1013@yahoo.co.jp
Facebook
https://www.facebook.com/profile.php?id=100004665931367&fref=pb&hc_location=friends_tab
Twitter
https://twitter.com/type777mmm
Youtube
https://www.youtube.com/channel/UCU2MgNY8ub6hnf4cWMuAwDg/featured