「川越style」

webマガジン川越styleは、「小江戸川越」のお店や人、イベント、行事、風景、文化、川越の熱い動きを伝える川越で最も有名な情報サイトです。丁寧な取材に基づく記事、川越の一大叙事詩、川越を深く伝え尽くす。過去記事もぜひどうぞ。


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2015年10月、川越の畑で収穫のピークを迎えていたさつま芋。

川越を川越たらしめているものと言ったら、誰もがさつま芋を思い浮かべるでしょう。

川越を代表する農産物さつま芋は、

市内数多くのお店の商品に生かされ、欠かせないものとなっている。

川越芋というのは、現在の川越市内で作られているさつま芋という範囲よりも広く、

三富(さんとめ)地域と呼ばれる、

埼玉県西部の、川越市、所沢市、狭山市、ふじみ野市、三芳町で作られるさつま芋を総称して、

川越芋と呼んでいます。旧川越藩領内で作られたさつま芋という言い方もします。

収穫真っ只中の日、一方でさつま芋に感謝を捧げる行事が今年も行われていました。


10月13日はサツマイモの日。
年間を通じて、さつま芋の旬の時は10月です。

この時季は収穫量が最も多くなり、いろいろな品種が出揃います。また、値段も安くなります。

「九里(栗)四里よりうまい十三里」の13と、

旬の10月を結びつけ、1987年に川越で全国に向け宣言したのが、10月13日「サツマイモの日」。

十三里というのは、日本橋から川越の札の辻まで十三里であることからで、

「川越甘藷は、栗よりうまい十三里(九里と四里で十三里)」と言う当時の文句が今に伝わっている。

ちなみにですが、川越のマスコットキャラクター「ときも」の誕生日は、この10月13日です。


(2015年5月小江戸蔵里キャラクター祭りより 

http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-12029196291.html


そして、10月13日は毎年本川越駅から歩いて5分のところにある

菅原町にある妙善寺にて、「いもの日まつり(いも供養)」が行われています。


2015年10月13日、今年でなんと21回目となるお祭りは、
川越市内でさつま芋を扱うお店などの加工業者がさつま芋を供養し、

普段使うさつま芋に感謝するという恒例行事となっています。
主催:いもの日まつり実行委員会

また、10月13日前後の10月10日~10月16日の間で、

川越市内約30店の参加店が店頭に「川越いも祭の旗」を掲げ、

サツマイモクイズに答えると、後日抽選で記念品がもらえるという企画を催されていました。


ちなみに妙善寺は、小江戸川越七福神めぐりの第一番寺になっています。
市内のお寺7ヶ所を巡る全長5キロ程の行程で、
第一番 毘沙門天(妙善寺)
第二番 寿老人(天然寺)
第三番 大黒天(喜多院)
第四番 恵比須天(成田山)
第五番 福禄寿神(蓮馨寺)
第六番 布袋尊(見立寺)
第七番 弁財天(妙昌寺)


(2015年1月小江戸川越七福神めぐり妙善寺より 

http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11743807331.html

七福神めぐりの時に、妙善寺でさつまいも地蔵尊を目にされた方もいると思います。

あのお寺がいも供養が行われているお寺。


いも供養の特徴として、さつま芋を作る生産者ではなく、

さつま芋を使う加工業者が中心となって行なっている点。
川越サツマイモ商品振興会が制作している

「ここが美味しいオイモ自慢のお店」というリーフレットには、

川越市内でさつま芋を使った料理やお菓子などを提供するお店がずらりと紹介されています。

・手打ちうどん岡野屋、紫いもうどん、さつまいも天うどん

・稲葉屋、いもドーナツ、芋かのこ、三色いもダンゴ

・芋十、芋十せんべい、芋十唐、まつば(黒みつ・白みつ)、その他

・いも膳、いも懐石、いも点心、いも重(いもうな重)

・いも膳一乃蔵、いも愛す(アイス)、いもケーキ、いもパイ、いもプリン

・福呂屋、鐘つき最中、生きんつば(芋、抹茶、小豆)、お豆腐ダンゴ(絹美人)

・菓匠かとう、芋万頭(芋・こし)、三色羊かん(芋・こし・抹茶)

・右門時の鐘店、いも恋(まんじゅう)、カラフルポテト(スイートポテト)

・右門一番街店、いも恋(まんじゅう)、芋おこわのお食事ができます

・えぷろん亭、さつまいもいろどり膳

・亀屋栄泉、里自慢、里土産、里乃誉、芋ようかん、一口こがね芋

・隆清堂、芋せんべい、芋まつば

・木下製餡所、芋ようかん各種、芋あん・あん各種

・くらづくり本舗、ぽくぽく、べにあかくん、芋蒸ようかん

・源氏家、栗きんとん、豆きんとん、お座敷弁当

・翠扇亭、いも釜めし、芋太郎

・おいもやさん興伸、大学いも、芋ようかん、スイートポテト

・道灌、丁稚芋、おさつパイ、芋奴、芋クリームどらやき

・東洋堂、10種類のいもせんべい、芋ちょこれーと、いもせんdeショコラ

・舟運亭戸田製麺、元祖芋うどん、芋そば、芋そうめん、

・やまや・陶路子、さつまいもミニ懐石、お抹茶、お汁粉(おさつ・もち入)

・菓匠芋乃蔵、おいものバウム、みたらし団子、ポテ蔵(ブッセ)

・紋蔵庵喜多院門前店、つばさかりん、ポテトショコラ、川越ポテト、川越ぽてとクッキー

・紋蔵庵川越店、つばさかりん、ポテトショコラ、川越ポテト、川越ぽてとクッキー

・大学いもいわた、手づくり大学いも、お芋チーズケーキ、天津甘栗

・ピストロ岡田、さつまいもプリン、二色芋のババロア

・寿庵喜多院店、小江戸姫(わりこ3段、いも天ぷら、紫芋アイス)

・小江戸蔵里、サツマイモ菓子等、川越銘菓が勢揃い


つい先週記事にした、「大学いも川越いわた」さんもリーフレットに掲載されているお店で、

使用しているのは冒頭に掲載した川越の福原地区の戸田さんのさつま芋。




(2015年10月「大学いも川越いわた」さつま芋の甘さと蜜の甘さのハーモニー 

http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11620897485.html

また、戸田さんのさつま芋は東洋堂さんでも扱われるようになり、

川越芋というより川越産芋が川越で広がっていっている。

東洋堂さんはいも供養立ち上げから関わり、毎年のように参加しています。


川越いもを使うこれらのお店や会社が、
妙善寺にある川越さつまいも地蔵尊に商品を奉納し、さつま芋の供養をする。

地蔵尊の前の祭壇にはすでに、

川越でよく見かけるさつま芋を使って商品化された菓子や麺類などが奉納されています。







(川越いも茶は最近発売されたばかりで、いも膳、小江戸川越観光協会などで販売されています。

甘みがあって芋の味がします)


いも供養は、オイモ奉納やオイモ供養といったことを大事にすると同時に、

市民にも気兼ねなく来てさつま芋に親しんでもらういもの日まつりとしているのも特徴的。

・オイモ法話、

・奉納芸能、

・オイモ無料配布など楽しませる要素も十分。

さらに境内では焼き芋販売も毎回の恒例で、

出店しているのは、菓子屋横丁で焼き芋販売している「幸芋(さちいも)」さんです。


今年の新芋の紅東、紅赤、シルクスイートを焼き芋にして販売していました。

幸芋さんは菓子屋横丁には週末のみの出店ですが、

それは、焼き芋屋さんというよりさつま芋生産が本業としてあるためで、

生産者が自ら作ったさつま芋を焼き芋にして販売しているというスタイルです。

いも供養には毎回出店していて、他にも川越のイベントで見かけることがあり、

2015年10月のアースデイ・イン・川越立門前では、旧川越織物市場に出店していました。





(アースデイ・イン・川越立門前より http://ameblo.jp/korokoro0105/entry-11632764077.html


川越といえばさつま芋、そして実は、

埼玉県内のさつま芋栽培の始まりは所沢市の南永井でした。

そこには「さつまいも始作地の碑」があります。
1751年に名主・吉田弥右衛門が、長男・弥左衛門に上総国志井津村(現在の千葉県市原市)まで、

芋の種を買いに行かせ、栽培を始めたそうです。

武蔵野の台地がさつま芋に最適であったことから、美味しいさつま芋が生産され、

川越の新河岸川から舟運で江戸に運ばれました。
「天保時代名物競」には”サツマイモといえば川越”と記されたほどで、

川越いもを代表する品種「紅赤」は”サツマイモの女王””幻のいも” などと言われています。

川越は昭和30年代に芋掘り観光として人気を集め、

昭和50年代にさまざまな商品に加工され普及し、今の地位を確立した。


いも供養、式典は13:30から始まり、司会の開会の挨拶から、
実行委員長挨拶として川越サツマイモ商品振興会の戸田さんが

「いも供養は今年で21回目を無事に迎えることができました。

川越はさつま芋の産地としても栄え、毎年いも供養には大勢の方が参拝されています。

さつま芋は川越にとって伝統であり、文化であります。

これを守りながら未来に繋げさつま芋の更なる発展を願っています」と挨拶。

そしてイモ祈願奉納として、

栽培者代表からこの日の朝収穫したばかりのさつま芋「紅赤」奉納と

川越サツマイモ商品振興会からイモ商品奉納と続きます。

その後イモ供養として妙善寺住職による読経、

参列者全員によるご焼香が行われました。










さつま芋は健康食品ということで、境内に集まった一般の参拝者も健康祈願で参列できます。

さつまいも地蔵尊の列に並び線香を手向け、さつま芋を供養し健康を祈願しました。


さつま芋の奉納、供養が終わると、本堂内に場所を移し、

住職、招待者挨拶の後、イモ法話として

ゲストを呼んでさつま芋にまつわる講演があるのも毎回の恒例。

以前は、ベーリ・ドゥエルさんによる法話「私の人生アイラブおいも」が披露されたことがあります。

今年の法話は女子栄養大学根岸由紀子教授による

「サツマイモは魅力がいっぱい!」というタイトルのお話し。



最後に奉納芸能として、根津鷹王さんによる「いも演芸」が披露されて、来場者を楽しませました。








今年も無事にいもの日まつりが終わり、さつま芋の奉納、供養が終わりました。

川越の畑ではさつま芋の収穫のピークが過ぎ、落ち着きを取り戻そうとしています。

川越のさつま芋文化がこれからも続いていくように、様々な人たちが支えています。


「いもの日まつり(いも供養)」

毎年10月13日 妙善寺



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国道16号から川越所沢線へ。

住宅やお店が建ち並ぶ通りを進んで久保川を越えると、

町名変更でできた中台元町があります。

この地域は古くからの農家さんが多くて、

古い家だと13、4代になるところもあります。

中台元町にあるのが八雲神社です。





「八雲神社」という名前の神社は各地にありますが、川越ではここだけ。

祭神はスサノオノミコトです。


この地域は、江戸時代の中頃には人が住み始めていたといいます。

地域に川越城から分けてもらった稲荷塚ができ、

その後そこに神社ができ、八雲神社と名付けられた。


こんもりと木が生い茂り、色とりどりの提灯が下げられ、
8月3日、毎年8月第一日曜日恒例の伝統行事、

夏祭礼が行われました。
前日に行われた夜宮(よみや)と合わせて、

二日間に及ぶ夏の天王さまです。





土曜日に屋台が出て境内賑やかな雰囲気になり、

(「以前は盆踊りも行われていたんだよ」と、昔の話しを聞かせてもらいました)

日曜日の日中、神輿が町内を渡御し、同時に屋台を町内曳き回して囃し、

八雲神社に戻ってくるという日程。

農家が多い地域では、夏には疫病が流行りやすかったため、

悪霊除けの願いを込め、五穀豊穣を願い、行われてきたお祭りです。


この辺りは、

今でこそ川越で一番さつま芋が栽培されている地域ですが、

もともとは麦やニンジン、ゴボウなどを栽培していたそう。

「食べるものは自分たちで作る」自給自足のような生活でしたが、

なにより土に恵まれた土地だった。

サラサラして水はけの良い土は根菜類の栽培に適して、

その先に、今に続くさつま芋作りがあります。


八雲神社の4月の春祭礼の時は神輿渡御はないので、

貴重な神輿廻りを楽しみにしていました。

中台は、生まれた場所からすぐ近くの地域。

八雲神社にも小さい頃から来ていたし、

三峰神社の夏祭りにも遊びに来ていました。

自分にとっての川越の原体験は、なにより今福や中台の畑の風景です。


3日、朝早くから境内には神輿が準備されていました。

見てみると、年季の入った神輿と新しい神輿、二台が並んでいました。





古い神輿は、建造された年代が「もう誰も分からない」と口にするほど

昔から使われているもの。

年長の氏子さんが、

「小さい頃からこの神輿はあった」と話し、
毎年夏祭礼で使われてきました。


輝いている小さな神輿は、子ども神輿として近年作ったもの。

子どもたちに神輿に親しんでもらうために作ったそうです。

なにせ、古い神輿の方は子どもには持ち上げられない重さです。


「70貫以上はありますよ」ということなので、300キロ以上はある計算です。。。

これを15人ほどの大人で担いで渡御する。

広い地域なので、廻るだけでも大変な行程です。


神輿と屋台が廻るのは、八雲神社を出発して

川越所沢線から中台通りを進み、

御嶽神社に少年刑務所の手前の三峰神社まで行くという結構な長距離。


道中の屋台はずっと囃子を演奏しています。

今では、中台通りの自治会館で立ち止まる行程ですが、

昔は地域の主だった家を一軒一軒廻っていたそうです。


「この辺りは農家しかいなかったし、70軒ほどの集まりだったんですよ」


とのこと。それらを全部神輿と屋台で廻り、

家の庭まで入って止まっては

神輿をその場で練って見せ(上下左右に激しく揺さぶるさま)、

家主にたらふくご馳走になり、

食べ呑み終わるまでは次の家に行けなかった、と振り返ります。


「でも、それが楽しみでもあったんだよ」


と話してくれた前氏子会長さん。

そうして中台通りを進んで

狭山の方まで全部廻り終わる頃には、夜遅くになっていた。

最後の方はみんなベロンベロンになっていて、

お祭りであり、地域の結びつきを強める日でもありました。


重い神輿を一日担いでいると、

肩に厚い布を入れていても出血するほど大変なものでした。

それがずっと続いてきたこの地域の伝統行事。




農作業の合間のつかの間の楽しみとして、

夏祭礼というお祭りを、担ぐ方も迎える方も楽しみにしていた。


地域の伝統行事は、形が変われど、やり方が違うだけで

どこの同じようなお祭りがありますね。

中台は神輿と屋台。

田んぼの地域には屋台を曳き回したり、弓を射ったり、とありますが

根底にある願いは同じ、五穀豊穣。

ここでも、

川越の郊外に残るお祭りに、川越の素の表情が見えると実感。

残っているのは、残していこうと頑張っている地域の方々の姿をいつも見ます。

屋台と神輿を同時に運ぶのは人手がたくさん必要で、

今では神輿はトラックで運んでいますが、

それでも町内を渡御することを大事にしています。



地域性があるのかもしれませんが、

この地域の方は誰に聞いても、昔の話を気さくに聞かせてくれます。

昔は麦を栽培していた、

神輿は70貫あるんだよ、みんなで担いで重かったなあ、

囃子のことならあそこにいる人に聞いたらいいよ、

みんなでワッショイワッショイ担いでいってね、

担ぎ手はみんな農家だよ、

あの舞いの意味はね、

この囃子の曲の意味はね、

昔の神輿はあそこまで行った、

家々でこんなご馳走してもらった、

食べ終わるまで出て行けなかった。。。


中台囃子連という、もとは里神楽から始まって、

川越でも特に古い囃子がある地域なので、

お祭り好きという土地柄が関係しているのでしょうか。

そして、「食べて、呑んで」とどんどん勧められる。。。


「このお祭はなくさないように、と今みんな熱心です。

転入した新しい家族も増えて、子どもたちも参加してくれます」


農家の願いが込められていますが、

地域の繋がりを感じるための行事でもある。

みんなで神輿を担ぐことで、

小さい子が大人になった時に

八雲神社のお祭りに参加した、神輿を担いだ、そんな思い出になるかもしれない。

小さくても地域の夏祭りこそ、色濃く記憶に残るものですもんね。


八雲神社のお参りの後、幣束に神様が移られ、

御神体となって神輿の中に立てられました。


いよいよ神輿の担ぎ出しです。


こういう儀式を見ると、神輿の本来を確認できました。

神輿に神様に乗ってもらって、

神様の方から人々のところに出会いに行く。

氷川神社の神幸祭もそうですが、

人が神社にお参りに行くのではなく、

神様の方から出向いてくれる神輿は、貴重なもの。



そして、屋台の方にも囃子手が乗り、お囃子が始まりました。

賑やかな「屋台」に、

落ち着いた「鎌倉」、

軽快な「いんば」と曲が続きます。


中台囃子連をはじめ、川越まつりの囃子は

もともとは周辺の農家が担い、

お祭りの時に呼ばれて山車で演奏することが多かった。

その流れが今でも残り、

中台囃子連は仲町の山車に乗って演奏しています。

今福囃子連は六軒町の山車に乗ります。


今年の川越まつりにも、中台囃子連は仲町の山車で演奏します。




中台囃子連に入っているのは15人ほど。

代々農家が多い地域なので、代々囃子に入っている家族もいます。


「さあ、行きますよ!」


という掛け声が境内に響き、屋台は八雲神社を出ていきました。


目の前は、川越所沢線。交通量の多い道路です。

道に出ると緊張が高まる。

田んぼのあぜ道を進むのとは違うヒヤヒヤ感があります。



川越所沢線に現れた屋台に囃子の音色。

車の方は驚いたでしょうね。


脇道に入って細道を進みます。

所々の家の軒先に提灯が下がっていました。




中台通りへ来ると、

川越所沢線より交通量は少ないですが、ここも車の往来が多い道路。

砂利道だったという昔が今では想像できません。


「鎌倉」が鳴り響き、

地域の人で綱を手に取り屋台を曳く。

鎌倉という囃子の曲は、しっとりと落ち着いた曲です。
賑やかな曲もいいですが、

この通りに響く鎌倉がなんともしっくりきます。

のどかな風景にぴったりの曲。









通りを真っ直ぐ南に来て、関本記念病院近くでしばしの休憩。

ここから続々と子ども達が加わり、

明るく賑やかな屋台曳きになりました。

曲も「インバ」に変わったりして楽しい雰囲気に。




容赦なく太陽が照りつける通りを、暑い暑いと口にしながら綱を曳く。
自分達の地域の屋台を曳き、自分達の地域のお囃子を聞く、

唯一無二の夏休みの思い出になってくれるはずです。

楽しそうに曳く子ども達を尻目に、

一方の車を止め、一方の車を通し、と大人たちは大変です。

周りをサポートする大人の姿は見逃せませんでした。




視線の先にあれが現れる。。。

みんなの顔がこわばります。

屋台曳行の最大の難所が目の前に。


「頑張ろうね!」

「さあ、登るよ!」



視線の先に、関越自動車道の陸橋が見えていました。

ここを屋台を押して進みます。

綱を握る手に力が入る。


「ヨイショ!ヨイショ!ヨイショ!」




声を合わせて屋台を押し出す。

子ども達が頑張って、無事に関越を登りきりました。

陸橋の上から見えるのは、昔から変わらない畑と、

新潟方面に走る車の列でした。





下りは力を抜いて、ゆっくり進みます。



街の構造が複雑になるなかで、

山車や屋台の曳行にとっては難所があちこちに出来きてきたりし。

中台の屋台の関越越え、

川越まつりで野田五町の川越市駅踏切越え、

はたまた、南田島の屋台の旧富士見有料道路くぐり、など

難所であるけれど、同時に見所でもあって

一致団結する感じがあります。。。(*^.^*)


中台ゴルフセンターを越え、ヤマト運輸のはす向かいにある

三峰神社にある自治会館にたどり着きました。
ここで一旦休憩。

子どもは全部で60人ほど集まっていて、

屋台曳きを頑張った後に自治会館で振る舞われるおにぎりにアイスを楽しみにしています。




美味しいものを楽しみにするのは、地域のお祭りに参加する子どもたちすべての特権。
今、屋台曳行を管理している大人も、
「小さい頃は、このお祭りで出される団子が特に楽しみだった」と言います。

食べ終わったら子ども神輿をみんなでワッショイワッショイしました。




「ホレ、頑張れ!」
「神様乗ってるから重いでしょ!」
「手挟まないように、気ぃつけてな!」

そして、自治会館の中でお昼ご飯を食べながら

中台囃子連による囃子と舞いも子どもたちに見てもらいました。
先ほども書きましたが、中台囃子連は川越まつりで旧十ヵ町の一つ

仲町の山車に乗って演奏する歴史ある囃子連。






この囃子連では、一人で太鼓や笛、と何役やるのではなく、

太鼓なら太鼓だけ、舞いなら舞いだけ、と分かれています。
それにより、それぞれが専門職のようになって、さらには
「あの家はもどきを演る」といったように

家の役が一子相伝で受け継がれたりしています。




楽譜はありません。
全て、やって見せ、演じて見せ、体で覚えさせる。
中台囃子連は、特に舞いが素晴らしいです。


天狐なら天狐の練習しかしない、

その役を何十年と演じている専門職です。
その専門性により一瞬一瞬が絵になるように美しい。
天太(おかめ)の指先の動作が綺麗です。


「舞いと踊りは違うんだよ」


舞いは姿勢を見せるもの、動かなくても絵になるような姿勢なんだと教えてくれました。
足の指先を少し動かす、髪が微かに揺れている、それも舞いなんだ、と。


中台囃子連が「上覧囃子」と呼ばれるのは、
かつて川越氷川祭礼(川越まつり)の時に、
川越城内に山車を曳き入れることを許され、お殿様の前で演奏し、

上覧囃子の称号を授けられたのが始まり。
昭和34年には、「中台上覧囃子」は埼玉県の指定文化財に指定されています。


子どもたちの中から、囃子に興味持つ子が出てきて、

将来、仲町の山車で演奏することがあるかもしれない。


「それじゃあ、出発するよ!」


三峰神社を出発した後は、次の中継ポイント御嶽神社へ。

やって来た中台通りを戻って行きます。









今の舗装された道路からは想像できませんが、

昔の中台通りは家は数えるほどで、あるのは畑と山くらい。

道幅も狭く、砂利道だったそうです。


今では住宅にマンションに、

三共自動車教習所があり、コメリにラーメンの一指禅に、と建物の方が多く並びますが、
でも地域の生活の主要道路であり続けていることはずっと変わらない。

さらにここは、川越最大のさつま芋畑ストリート。



去年の秋に収穫体験した畑が、この通りの山田園さんでした。

川越を楽しみ尽くし隊 山田園から
畑を見ると、さつま芋の葉がフサフサと茂っています。

あと一ヶ月ほどで収穫できるとのこと。
山田さんも囃子に笛で参加していました。

いくつものさつま芋畑を越え、中台自治会館に到着。

ここでもまた、この地域の子どもたちに舞いを見てもらいます。





そして、八雲神社に戻って来て、

夏祭礼の屋台曳行は無事に終わりました。




広い地域なので、屋台曳行もかなり遠くまで行きましたが、

それでも、狭山の境まで一軒一軒行って終わったのは夜遅く、

という時代から比べたら近い範囲。

昔の形と変わっても、地域の新しい家族がたくさん参加して

これからも守られていく中台の伝統だと思いました。


神社に自分からお参りする方は多く、

それを大事な行いとしている方は多いと思いますが、

屋台や神輿が町内を廻るのは、

神様の方から出向いてくれる貴重なお祭り。

地域の神社のお祭りは大事にしていきたいですね。。。


夏真っ盛り。

近くから盆踊りの音が聞こえてきたら、

覗いてみるのもいいのではないでしょうか♪


「八雲神社 夏祭礼」

毎年8月第一日曜日









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毎年7月13日に行われるのが「初山」。
今年もたくさんの方が、自分たちの身近にある富士山に登っていました。

富士山信仰が広く浸透していた時代、
なかなか簡単には登りに行けない地域の人、

登ろうとしても今のように登山道が整備されてるわけでもなく、

富士山は遠くに望めるけれど、遠い場所の山だった。
近くにある高い小山や土を盛った場所を富士山と見立て、

その山を登ることで
富士山と同じ御利益があると信じてきました。


特に、今年生まれた子どもが元気にすくすく育ちますように、
新婚の方が子宝に恵まれますように、と願いを込めて登るお祭りです。

子どもと初めて登る富士山だから、

初山(はつやま)と呼ばれているそうです。

登頂のお土産には、あんころ餅や団扇を買うのが初山の定番。

川越で有名な初山といえば、仙波の浅間神社。
屋台がたくさん並び、お囃子の出て賑やかな雰囲気になったと思います。
それから、

郭町にある富士浅間神社も昔から、初山を執り行ってきました。
知名度では仙波に譲りますが、川越で最も標高が高い小山に富士浅間神社があり、

静かな落ち着いた富士登山を楽しむことができます。


川越の富士山があるのが、

川越第一小学校の校門向かいの細道を進んだ先、

住宅街の中に現れる山、富士見櫓跡です。



川越城があった頃は、ここに16メートルもの櫓を立て、天守閣としていました。

山頂に、富士見櫓跡があり、富士浅間神社があります。


登山口は、2ヶ所。

鬱蒼とした緑の中を登るコースに、一直線に山頂まで登る明るいコース。

どちらから登ろうか迷いながら、

真っ直ぐ登るコースには、登山道沿いに

「地口絵(ぢくちえ)灯篭」が、

階段一段一段に奉納されているのが目に入ります。





愛嬌のある絵に、言葉が添えられている。

横には、心願成就や成長祈願など願い事と名入れ。

一段上がって立ち止まり地口絵を見る、そしてまた一段。

誘われるように登っていきました。





地口絵はこの浅間神社の初山と切っては切れないものです。

大昔から

この浅間神社の初山の時には、登山道に地口絵を添えてきました。

それは、登山を楽しいものとしてくれ、

また、夜のお祭りとされる初山の参道を明るく照らす役割もありました。


地口絵とは、戯文を作る言葉遊び。
和歌や俳句、漢詩、能や浄瑠璃 歌舞伎の名せりふなどの言葉を
入れ替える遊びです。

言葉遊びの「地口」に、戯画を添えたものを「地口絵」と呼んでいます。


地口絵を制作してもらったのは、川越の大手町にある提灯屋

「一力齋 津知屋(つちや)提灯店」さん。

川越まつりの提灯も制作しているお店です。


大昔の初山から地口絵を制作していて、

昔を知る川越人からすると、

郭町の浅間神社の初山といえば地口絵が定番だった。

一時、初山で別の提灯を下げていた時期もあったそうですが、



(地口絵の代わりに下げていた提灯。これも立派な造りの提灯)


ただ、

「小さい頃初山に来た時は、地口絵がたくさん下がっていた」


という声は多かった。本来の初山の姿に戻そうと、

平成22年に新しく地口絵を作り直してもらい、今綺麗な提灯が並んでいます。


地口絵復活には、

連雀町にある花屋さん、「花鐵(はなてつ)」さんの後押しが大きかった。


この山が昔は遊び場だったという方は多いと思いますが、
花鐵さんにとってもこの山は

小さい頃の身近な遊び場だったし、

親に連れられて来た初山に地口絵があったことを覚えていた。

懐かしい記憶の中に、ほっとする灯篭の灯りがあった。

あの時見た地口絵を復活させたらどうか、と

浅間神社の伊藤さんに勧めたところから、復活ストーリーが始まりました。


一力齋 津知屋提灯店さんに再び描いてもらい新しい地口絵ができた。

話しが動き出すと信じられない展開が待っていました。


「拝殿の後ろに、昔地口絵で使っていた古い木が積んであるのを発見したんです。

ダメになった木もあったけど、大切に保管されていました」


捨てずに取ってあったのは、それだけ大事にしていた証拠でもある。


古い木に新しい木を添える修復を花鐵さんがやってくれました。

花鐵さんにとって、初山は大事な思い出のお祭り、

協力は惜しまず地口絵復活に尽力してくれました。


花鐡さんは「見よう見まねで作った」と言いますが、
頑丈に作られた灯篭の木枠は、

これからの初山で賑やかな雰囲気を作ってくれると思います。

一見読みにくい文章も、

読解し、なおかつ元ネタを知ると

この言葉遊びの楽しさが分かります。


「鐘は 上野か 浅草か」


これを文字ったのが、「甕は うえのが 片蓋の」



(上の蓋が片蓋になってます)



地口絵は、川越では他に見かける機会がほとんどないです。

神社の行事で使われることがあるそうですが、

ここまで大々的に使用しているのはこの初山だけ。

もっと川越で広まっていいのに、と伊藤さんも話していました。



こうして階段を登って行くと、あっという間に山頂に到着。

2分ほどの登山でしたが、充実感と達成感に包まれる。。。(*^o^*)

川越の富士山は標高もあるし、自然溢れる頂上なので、

地上よりも2、3度は涼しく感じます。




ちなみに、もう一つの登山口から登ると、

自然いっぱいの中を進む登山になります。







今は木が生い茂っていて遠くを見通せませんが、

「富士山はあちらに見えますよ」と、

伊藤さんが指差す西南の方角に富士山がある。

この頂上に富士山を感じ、遠くに見える富士山を眺めていたんでしょうか。


富士浅間神社で御祓いを受けて、あんころ餅をいただきました。

もちろん、富士山の形です。



ここ郭町の浅間神社のあんころ餅は、
市立美術館横にある和菓子の「道灌」さんの特製あんころ餅。


次々と登頂を果たした方がやって来て、

御祓いを受けています。







浅間神社の建物は、ゆうに100年を超えているものだそう。

蔵造りの建物以上に古い建物がここにあります。

拝殿の中を見上げると、富士の絵が掲げられていました。

富士の周りを雲と二頭の龍が回っている絵だった。


浅間神社ができた時から、こうして富士の絵を掲げていた。

この山に登って、御利益ありますように、と富士の絵に手を合わせた方が

これまでどれほどいたでしょう。
富士山に行けなくとも、川越で富士山を感じられる場所です。


もちろん、有名な神社でなくても、

富士山に見立てた富士塚は街のあちこちに見ることができます。
「せんげんさま」と親しまれている場所は、数えきれないほどある。

川越駅西口近く、雀ノ森氷川神社にも大きな富士塚があり、

初山とは違いますが
毎年9月1日には行者による富士講「お焚き上げ」が行われます。

南田島の氷川神社には、

富士山が見える方角に少し土を盛った富士塚があり、

後ろに回ると穴が開いてあって、噴火口が再現されていました。


何気なく通る畑の中に盛られた山があって、

良く見ると富士山の石が積まれているのを発見し、

ここは富士塚だったんだと気付くのは、至る所にあります。

そして、小さい山にも

ここは何合目と設定したり噴火口を作ったりするミニ富士山は、

可愛らしくもあり、そこまでして富士山を、と厚い信仰を感じます。


この山頂は川越で最も高い場所だからこそ、

川越の歴史のさまざまな場面に立ち会ってきました。
関東大震災では避難所になり、
東京大空襲では、山頂から東京の空が真っ赤に燃えるのが見えたと言います。
非常事態に脳裏に浮かんだ頼れる場所が、この山だった。


初山は、富士山信仰の富士浅間神社のお祭りですが、

この頂上には、他にも神社があって興味深いポイントがたくさんあります。

・富士浅間神社

・富士見櫓跡、

・御嶽神社があり、

・富士見稲荷がある。

(富士がたくさんです♪)


右は富士浅間神社、左が御嶽(おんたけ)神社です。


左の御嶽神社は木曽御嶽山の山岳信仰。
二つの山岳信仰の神社が向かい合っているのが珍しい。
御嶽神社の方が古く、135年前に建てられたものだそう。


御嶽神社は江戸後期、初代の伊藤開山霊神という方が、

奥さんの病気を治すため木曽御嶽山の御利益に預かりたいと、

滝に打たれるなど修行に行った。

祈願を重ねて奥さんの病気が劇的に回復。

ここ川越で御嶽神社を開いて、同じような悩みや苦しみを持つ方に広まっていきました。


二代目が伊藤心興霊神、
三代目が伊藤信岳霊神。
三代目の信岳さんは特に信仰に厚かったそうで、
この山の頂上に修行小屋を作って水ごりしていたそう。
木曽御嶽山にも富士山にも登り、
特に標高3076メートルある木曽御嶽山には
50回以上は登り滝に打たれ修行に励んでいた。
毎年登るにしても50回となると、半生をかけた修行です。
山を登る格好をした三代目の姿を、街の方は今でも覚えているそう。


(三代目の勇姿)

そして、今で六代目となり神社を守っています。


もともと木曽御嶽山をはじめ、山岳信仰というものが、
山自体のただごとではない雰囲気に惹かれ信仰の対象とした面もあると思いますが、
山岳信仰は川から始まったと聞いたら、
すぐにピンと来るでしょうか。


生活になくてはならない身近にある川を大事にし、
この川はどこから来ているんだろう、
源流を遡り川が生まれてくる山に感謝する、大事にする、
そうして山岳信仰は生まれて広まっていったと言います。
だから、木曽御嶽山は名古屋の方で特に信仰が厚い。
木曽川の源流を辿ると木曽御嶽山で、
川の源の山を大事にしてきました。

それでは・・・入間川はどうなんでしょう??


川越の人にとって身近な川、入間川。

入間川の源流は奥多摩の御岳山。
川越の隣、川島町では御岳山を参拝する「御岳講(みたけこう)」が今でも残ります。
田植えにとって大事な川の水、
その源の山を昔から大事にしてきました。
山がない地域でも、川を通して遠くの山と繋がっていた。

そして、入間川なら川越にも流れている。
川越は。。。??


川越は商人の街なので、

神奈川の大山にある阿夫利(あふり)神社に参拝に行くそうなんです。
商売繁盛の神様が祀られる神社には、
今でも2、3年に一度は連雀町のお店同士で訪れる、と花鐡さんは教えてくれました。

初山の山岳信仰から、流れを辿るようにして入間川を想う。

そして入間川を身近にする自分達の生活を想いました。

初山という伝統行事は、時間も場所も今の自分達と密接に繋がっています。


そうそう、この山頂にも富士山の石が積んであり、

間近で見ると迫力があります。

浅間神社の奥、富士見稲荷の入口に大きな岩がたくさん積まれ、

富士山の石で、富士山が再現されていました。





川越の富士山で、富士の御利益に預かれる。

初山は、毎年7月13日です。。。






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「九十九曲がり 仇では越せぬ

通い船路の三十里

主がさお指しや 私はともで

かじを取り取り 魯はともで」

船頭が歌う調子のいい舟唄が川面に響いていました。

力強く魯で舟を押し出し、川上に向かって進むひらた舟。

かつて川越で繁栄を極めたこの川の上で歌われていた舟唄が、

今の時代に、同じ節で蘇りました。

新河岸舟唄(しんがしふなうた)。

それは、舟に乗せた人々を楽しませるために、

長い旅路を歌うことで気を紛らわせるために、

舟の旅には欠かせない唄だった。

ここは、川越の母なる川、新河岸川。

江戸の頃と変わらない流れには、

川越の人たちの歴史、想いがたくさん刻み込まれています。

川越の中でもっとも親しまれている川で、

なおかつ川越の発展に一番寄与した川が新河岸川です。

この川があって、川越商人の発展があり一番街がある。

一番街の町並が残り、

今の川越はこれだけ観光客の方が来る街になっていて。

通りの人混みを見ていると、川越に来られる方がたくさんいるのは嬉しいですが、

少し歯がゆさも感じています。

川越は、、、一番街だけじゃない。。。

市街地から離れたところにもたくさんの魅力があって、

川越でしか体験できないものもたくさんある。

その一つが、

新河岸川舟運(しゅううん)の体験だと思います。

一番街が注目される川越で、

その歴史の流れを辿ると辿り着くのが新河岸川。

一番街の蔵造りの建物のほとんどは明治に建てられたものですが、

川越の舟運はさらに古く、江戸の初めの頃から始まっています。

新河岸川を知る事が、川越をもっと知ることになる。

川越の発展の源流と言える、

新河岸川で行われた川越ならではのイベントに向かいました。

 

☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*

 

海のない埼玉で、川越は水の都と言っていいくらい水に恵まれた土地。

新河岸川、入間川、荒川、小畦川、九十川などなど、

みなさんそれぞれに馴染みの川があると思います。

新河岸川と入間川がともに円を描いて、

二重丸のように市内を流れている形に

なにより親近感を覚えます。

かつて多くの物や人が往来していた川越街道から東へ、

下新河岸の旭橋に差し掛かりました。
15年前の台風による氾濫で架け直され、近代的な橋に生まれ変わっています。

川の恵みと同じくらい川の被害を被ってきた川越。
旭橋から見下ろすと、下を流れるのは新河岸川。

川越市民にとって、

誰しもなにかしらの思い出が浮かぶ川かもしれませんね。

市内をグルッと円を描くように巡っていて、

春には川沿いを彩る桜、今は菜の花が咲き誇っています♪

いつ見ても変わらないゆったりとした流れの川ですが、

ここがかつては川越のみならず、広範囲地域に及ぶ物流の重要拠点と聞いたら

今想像できるでしょうか。。。?(*^o^*)

大きな舟が何艘も行き来していたなんて、想像できるでしょうか。

いや、できません。。。ですが、そういう時代があったんです。

車も電車もない時代、物を大量に運ぶのにもっとも効率がよかったのが、川。

舟を浮かべ、人や荷物を乗せて江戸と川越を行き来していました。

新河岸川には、荷物を積み下ろしする船着場である「河岸(がし)」が、

川越だけでも何ヶ所もあって、

そういう河岸の跡が今でも市内に残ってること、

残そうとしてきた人たちがいることが川越の魅力なんです。

川越の周辺部に、川越らしさが残ります。

というか、当時は新河岸が経済のど真ん中でした。

特に上、下新河岸の様子は、それはそれは賑わっていたそう。

今でいう物流センター、ターミナル駅、空港、人と荷物の集積地が

ここにあった。

そんな河岸の様子を伝える、旭橋には多くの人が列をなして集まっていました。



当時の川越-江戸の舟運の様子を体感してもらうために、

4月29日に行っているのが、

「ひらた舟乗舟体験」です。10時~15時。

新河岸自治会と新河岸商栄会のみなさんが舟を復活させて、

「舟の浮かぶ街 川越」を定着させようと、

かつての乗舟体験を毎年続けています。

ひらた舟に乗り、舟唄を聞きながら、新河岸川を舟で渡る、

川越の歴史を知れば知るほど、

こんなに川越らしい体験は他にないと思います(*^o^*)

川越で乗舟体験なら、桜の咲く頃に

氷川神社裏の新河岸川で行われる舟遊びが知られています。

同じ舟でも両者は意味合いが違います。

桜を楽しみながら舟に乗るのもいいですが、

実際の河岸があった場所から乗る舟体験は、

川越らしい体験でもっと注目されていいのではと思います。。。

毎年、この乗舟体験に参加している

屋台がいくつも出てお囃子の演奏もあり、

地域のお祭りで恒例行事として浸透しています♪

毎年500人くらいの参加者、お昼くらいだと待ち時間は1時間くらいです。

新河岸商栄会の方が語ります。

「こういう体験を通して、新河岸川に親しんでもらって、

新河岸に誇りを持ってもらいたい」

観光客にとってだけでなく川越市民にとっても、

市街地が川越で、周辺部は何もないという意識の一極集中があって、

負い目を感じている部分があると思います。

自分自身も小さい頃からそうでした。

でも、

新河岸川舟運、「河越茶 」、「南田島の田園風景 」、

そして「南大塚の餅つき踊り 」など各地域の伝統行事があって。

今に残ることに誇りを持って、

もっと自信持っていいんじゃないかと思うんです。周辺にこそ川越のルーツがある。

川越は、忘れられている魅力の宝庫です。

単に舟に乗るというアトラクションではない、

川越のルーツを感じられることが意義深いです。

乗舟体験には、2艘の舟を使って

10人ずつくらい乗ってもらい運行していました。

河岸からそっと舟の上に乗り込み、上流に向かって進みます。


 



砂中学のある上流方面へ進みます。
そして響く、新河岸舟唄。。。

「着いた着いたよ 新河岸橋に

主も出て取れ おもてもや

千住出てから牧の谷までは

竿も魯かじもままならぬ」
川越と江戸は、手こぎの舟で15時間半の旅路。

新河岸川舟運の歴史は、経済のために使われ始めたのはではなく、

1638年に仙波東照宮が火事で焼け、

川越藩がその再建資材を江戸から運ぶのに

新河岸川を使ったことに始まるといわれます。
当時は喜多院の天海僧正と徳川家光が深い結びつきがあり、
家光誕生の間を喜多院に移築するためにも

新河岸川が使われていました。

そこから、川越藩主の松平信綱が川越-江戸の舟運体制を整え、

旭橋を中心に河岸を設置しました。

河岸のまわりには船問屋商家が軒を連ね、

江戸行きには、醤油、綿実、材木、炭、

川越行きには、油、反物、塩、砂糖、干鰯などを運んでいたそうです。
川が物流の大動脈として、利用されていきました。

新河岸商栄会の方が語ります。

「それまでは、物を運ぶのは引き車か馬しかなかった。
川が一番効率よかったんです。
舟が一気に広まった時代」
今見ている川より当時の新河岸川は、
ずっと幅も深さもあったそう。

九十九曲がりと言われるほど蛇行する川ですが、

当時はもっと蛇行する川だった。
そこにはなんと、

帆柱が10メートルを超える高瀬舟が川に浮かび、運航していた。米100俵が乗るくらい大きな舟。

舟が行き交い、港の賑わいが新河岸にありました。
5つあった河岸のうち、上、下新河岸が一番大きく、

ターミナル船着き場でした。

大きな荷物はそこでほとんど下ろして、
残りは小さな舟に積み直して

川幅の狭くなる上流の河岸に運んでいました。

大きな荷物はトラックで運び、

入り組んだ細道に運ぶ小さな荷物はバイクや自転車で運ぶ、
今の時代の運送の変わらない姿が当時からありました。

 


河岸で下ろされた荷物は、

川越のみならず今の入間、狭山、飯能などに運ばれ、
逆に江戸へはこの河岸に集められ舟で運ばれていた。
群馬の桐生や富岡にも荷物は届けられていたそうで、
川越と桐生は、今でも織物の交流があります。

そして、世界遺産に登録される富岡製紙場の毛織物は、

江戸に運ぶため道を進んでは川越の新河岸川まで来て、

ここから舟で江戸まで運んでいました。

という繋がりがある二つの町。

荷物だけでなく、時には人を乗せて

江戸から川越へ、川越から江戸へ、観光バスの代わりに舟が使われていました。
その舟上で歌われていた新河岸舟唄は、

さながらバスガイドさんがお客さんを歌で楽しませる

今の時代と変わりません!
川に乗りながら通り過ぎる地域の紹介したり、
場所によって舟唄の節を変えて楽しませていた。

「物や人を運ぶのに、川しかなかった時代だったから、

それはそれは河岸は人で賑わっていたんだよ」

この地域だからこそ、自治会や商栄会などの方々は、

口々に川の思い出を語ります。
「小さい頃には仙波河岸に舟が残っていて、よく遊んでいたなあ」

そして歴史がある地域だからこそ、
地域に誇りを持っている方が多いように思います。

川にまつわる思い出がたくさんあって、

こうして、舟を復活させようとした。。。

新河岸川のひらた舟復活は、

平成7年に舟を2艘を作ったところから始まりました。

敬老の日などに地域のお年寄りの方を乗せて

楽しんでもらっていたそうなんです。
新河岸川の思い出を持つ方は多く、喜んでもらえるだろうと始まった。

商栄会の方が、自身の川の思い出を語ります。

「新河岸川は学校から帰って来たら真っ先に向かった場所。
泳いで飛び込んで魚を取って」

遊び場所といえば新河岸川か、すぐ近くの日枝神社しかなかった。
「川では鮒に鯉に鯏(うぐい)がよくとれたんだよ。

それからウナギね」
川越=ウナギのルーツがここにあります。
そんなに思い出があるなら、話してるだけじゃなく、

舟を復活させればいいんじゃないかという事になって、

ひらた舟を復活を復活させた。

今は広く市民に楽しんでもらう催しに発展していきました。
「お年寄りには懐かしさ、子供には思い出作りを」を合言葉に、毎年続けています。
舟を復活させた時に、新河岸舟唄も復活させ

みんなで歌えるよう練習しました。


鉄道が開通したことで、物流は舟から電車の時代へ。

昭和初期には舟運は衰退しました。

今でも旭橋の周辺を歩くと古い建物が残り、

歴史ある地域だとすぐに分かります。

日枝神社。




そして昔の船問屋の建物が目に入りました。
蔵の建物です。


冷蔵庫のなかった時代、
蔵は、中の湿気を一定保てるので食料などの保存に適していました。
河岸周辺に船問屋が軒を連ねていた頃は、
まさに一番街に劣らないほど蔵造りの建物が並んでいたそう。
知られざるもう一つの一番街がここにありました。

今の川越に繋がる、

時間の川を辿った先にある新河岸。

舟から岸に上がった船頭役の商栄会の方が話します。
「乗舟体験は、始めのきっかけは『舟遊び楽しそう』でいいんです。
そこから、どうしてこの場所から舟が出てるんだろう、

なんで歌っているんだろう、少しでも新河岸川に興味もってくれればいいなと思います」
氷川神社裏の新河岸川舟遊びは、

当初はここの舟を向こうに運んで浮かべていたそう。
ここにも新河岸にルーツがありました。
本当なら、今、この舟に乗って川越から東京まで行ってみたいですが。。。
今は舟旅に出ても秋ヶ瀬に堰があるので、

そこまでしか行けない。
埼玉県を出られないのが残念。

今の川越の主要道路は16号、254があり、
鉄道は東上線、西武線、JRがあって。
新河岸川しかなかった物流網は、今は複雑に絡み合っている。

なんで喜多院に家光誕生の間があるの?
なんで川越には蔵の町並みがあるの?

なんで河岸が残されているの?

なんで舟唄を歌っているの?
新河岸川の流れを遡るように川越の歴史を遡ると、

行き着くのがここにある河岸。

川越。
川の文字を使った町なので、川は特に大事にしたいですね。
川越を楽しむのは、川を楽しんでこそ、
復活させたい川越がここにもあります。。。
「舟が来る来る 万来る中で

私の待つ船 まだ来ない」
新河岸地域は、

川越まつりの時には神輿も屋台も出て地域を巡ります。
夏には川で灯籠流しもあって、地域の行事が多い場所。

母なる川に、また、戻ってきます。。。


 

 

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今年も川越米が楽しみです。

 

 

 

川越に春到来。

 

冬の期間中、水が抜かれ乾いた伊佐沼に

入間川から水が引き込まれ、なみなみと水が注がれて一杯になっています。

この季節を待ってましたとばかりに、鳥たちも水辺に集まってきている。

 

 

伊佐沼から南に流れ出る九十(ぐじゅう)川は地域の農業用水として、

 

伊佐沼から近い順に田んぼに水が張られていきます。

視界に入る一帯が水辺になる川越の春の風景。

5月も20日頃になれば、

川越は田植えの季節になります。

ちょうど、今か今かと水を張るのを待っているのが今の時期です。


 

 

川越市南田島。

 

 

 

東を見れば九十川、西を見れば新河岸川、

 

川に挟まれ、まるで中州のような水の豊富な土地で、

昔から続いてきた川越の原風景、米作り。

 

 

今年も豊作となりますように。五穀豊穣を願って。

 

 

 

16号線を境に、北と南で風景がガラっと変わるのが川越の面白いところ。

 

北は駅の周りに市街地で建物が立ち並び、

南は一面水田が広がります。

 

 

川に沿うように、東に旧川越富士見有料道路と西に254線に挟まれた一帯。

 

道路を越え田んぼの間を縫うように車を走らせると、

林が茂る場所が目に入りました。

田んぼの真ん中に静かに佇んでいるのが、南田島氷川神社。

毎年4月14日に春祈祷というお祭りが行われ、12日には地域を巡る山車の曳き回しが行われました。

 


 

 


 

 


 

 

山車が出されて曳かれるのは2年に一度。

南田島の山車が見れるまたとないチャンスでした。

 

 

朝から地域の自治会の方や、南田島囃子連や足踊り保存会の方、

 

ちびっこ囃子連の子どもたちは保護者の方が、

境内に集まっていました。


古くから続いてきた川越の米作り。
それに合わせ行われてきた春祈祷は、相当古いお祭りです。
川越の中で田植え前にはあちこちで行われてきたと思いますが、

今でも残っている南田島は貴重です。


境内の

 

 

その光景にびっくりしました。。。

南田島の人の行事に積極的に参加する姿。。。

近くに牛子小学校や砂中学校があるのもあって、

 

子どもたちがたくさん参加しています。

囃子連に入っている子も多くいて、賑やかで羨ましいです(;^_^A
2年に一度の山車の年、地域の方がワクワクしているのが伝わります。

 

 

米作りとお祭りは大事な結びつきです。

 

 

南田島から少し北に行って伊佐沼の先は老袋。

一面田んぼの老袋でも

弓取式 」という五穀豊穣を願うお祭りが2月に行われています。

 

 

米作りがあるところにはお祭りがある。

 

川越米を作る南田島は

もちろん今でも米作りは仕事として続いているので、

春祈祷は昔懐かしい伝統行事を守り続けているという意味だけでなく、

豊作を願う現在進行形のお祭りです。

南田島には、田植え前の4月14日の「春祈祷」があって、

 

7月14日の稲の生長を願う「天王さま」があり、

10月14日の収穫に感謝する「お日待ち」がある。

地域で行われる地域のためのお祭り。

ここには観光客の姿はありませんが、こういうお祭りも川越の楽しみだと思います♪

川越には、郊外に昔のままの伝統行事が続いている地域が多いです。

郊外に、ユニークで独特な川越の素の姿があります(*^o^*)

氷川神社の神主さんの祝詞奏上のあと、

いよいよ山車の曳き回しが始まります!

綱が張られ、子どもたちが曳き手として広い南田島一帯を歩きます。

 

 

拍子木が打ち鳴らされ、山車が動き出しました。。。!

 

同時にお囃子の演奏も始まりました♪

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

山車が進むルートはいつも同じで、家々を回って山車にお囃子を楽しんでもらう。


午前は南田島の北半分、午後は南と分けて2時間ずつ巡るほど、南田島は広いです。
昔から変わらない田んぼを背景に、変わらない山車が進む。
変わらず続く光景に愛しさも感じて。

 

 

 

道は新しく舗装された道もありますが、

 

 

 

ほとんどは田んぼのあぜ道を進んだり山車の幅ギリギリのところを進みます。

 

 


蔵の街並みに響く囃子もいいけれど、田んぼに囃子もぴったり合います(*^^*)

何度も切り返して曲がる45度カーブや、
木にぶつかりそうになる道を進む。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


 

 

 

 

中でも旧川越富士見有料道路をくぐって越えるところは、

 

車と山車、現代と過去が交差する交差点は圧巻です(*^^*)
かつては真っ直ぐ進んでいた道も、バイパスが通ってからは、

道を避けて下をくぐるようになりました。


 

 

南田島といえばやっぱり足踊りです!

 

 

山車の舞台に寝っ転がり、足だけを表に出している!

 

 

 

 


 

 

 

 

囃子に合わせた舞なんですが、足だけで舞を表現するのが特徴。

 

片足にひょっとこ、片足におかめの面を付け、

比較的やさしい屋台という曲の舞は、二人の恋愛模様のストーリーでした。。。(*^o^*)

始めはつれないおかめも、だんだんと心を開き、

ついに二人は結ばれるというハッピーエンドのラブストーリーです。


今日の出来はどうでしたか??

「山車の上はなかなか思うようにいかないね」

20年足踊りをやられている方でも、普段氷川神社のお祭りでは広い座敷でやっている時の違いに慣れるまで時間がかかったそう。
動き続ける山車の中の狭い空間、表現の幅も制限される。

地域の娯楽として、単に舞を踊るのではなく、他とは違ったことをしようと人形浄瑠璃をヒントに始まった南田島足躍り。

「最近、中学一年生が3人足踊りを覚えたんだよ」




これからも大事に続いていく足躍りです。

 

休憩で止まったのが、九十川の真横でウニクス南古谷のすぐ裏でした。
ウニクスができたのは大きい、と皆さん口々に話します。
マンションができて新しい家族が転入し、ちびっこ囃子連にも入ってくれる。
誰でもウェルカムな囃子連です♪

 

 

 

そしてまた、ソーレソーレの掛け声が響き渡ります。

 


(川越線の踏切を越える)

 

 

 

 

(再びバイパスをくぐります)


 

 

 

 

豊作を願う春祈祷は昔から続いていますが、

 

 

この南田島の山車(正確には屋台です)は明治20年に作られたんだそう。

川越の中でも相当古い山車です。

(天井は和紙でした)


南田島のように川越まつりに山車が出なくても、

地域にこうした山車・屋台を持っているところはあちこちにある。
川越人にとって山車は誇りであり宝ですね。

と、その話しにびっくりしました。。。
囃子連の方が語ります。

 

 

「この山車は自分たちで組み立てたんだよ」

 

 

 

なんと、ばらして保存してある山車を事前に自分たちで組み立てた、と。。。
これを作った棟梁の方もその息子さんもすでに亡くなられている。
組み立てられる人がいなくなって、設計図があるわけでもなく、口承をもとに組んでいるんだそう。
地域のお祭りならではの話しですね。

 

そして山車に乗る南田島囃子連も歴史は古く、

かつての川越まつりの時は、一番街の鍛冶町(現在の幸町)に頼まれて、

40年前までは幸町の山車に乗って演奏していたそうなんです。

幸町といえば、川越の中でも絢爛豪華で知られる山車。

(2012年川越まつりより幸町の山車)

あの山車で演奏していたなんて凄い。。。

 

 

今でこそ幸町に囃子連がありますが、

 

昔は市街地の豪商は自分で囃子の演奏せず、

郊外の農家さんに囃子を頼んで川越まつりで演奏してもらっていた。


農家さんは町場に買い物に行ったりし、

 

 

川越の市街地と郊外で、川越まつりの通した交流があったんですね。

 

郊外の囃子連が歴史が古くて演奏が上手というのは、

そういうわけがあるんです。

 

 

南田島の山車は川越まつりには出ません。

 

さすがに持っていけない。

今は菅原町に山車に乗る年があって、

今年の川越まつりでは乗るそうなので、菅原町の山車で足踊りが見れると思います♪


南田島では、春祈祷の時に山車を曳くのは大変と、

一時途絶えていた時期もあったそうですが、
流れが変わったのが、ちびっこ囃子連を作った昭和49年。
子どもたちが参加するようになり、また盛り返してきた。

 

 

その時のちびっこが今親になり、

 

子どもがちびっこ囃子連に参加しています。


 

 


 

 


曳き回しの途中に農家さんの家にある馬頭観音を見せてもらいました。
見ると慶応4年とあります。


昔の米作りはトラクターではなく牛や馬が引いて土を耕していたので、

 

 

こうしたお墓を作って弔っていました。
当時の米作りを思うと自然の富と脅威を感じます。
九十川は、恵みの川だけれどたびたび氾濫する暴れ川でもあった。
想像を超える豊作の年があったり水が溢れて田んぼがダメになったり、
自然相手にあらがえない人の姿。

何事もなく無事にいきますように、春祈祷には痛切な願いを込めていました。

ここから北にある16号線を見渡すと、
建物が立ち並ぶ市街地が見えました。

うっすらと丸広が見えます。
そしてそこは、少し高くなっているのが分かります。


南田島が低地ということと、

16号線を越えた先、新河岸川の内側が高台になっているということ。
その高台に川越城を作り、時の鐘を建てた。
目に見える一つひとつに意味があります。
川越城は、地形が自然な要塞になっていました。




薬師堂に戻ってきて南田島の春祈祷、終了となりました。

 

 

 

 

田植え前、生長を願い、収穫の時に、

 

米とともに季節のお祭りがあって、川越の原風景が今でも残ります。

同じ川越でも、今福や福原はさつまいもを作るのに適した土質、

水にめぐまれた南田島は田んぼ。
川越は一言で語れない多様性があります。


春祈祷が終わり、

5月になれば九十川や井戸水から水が引かれ、

乾いた土は一面水の鏡面になる♪


 

 

水の鏡面が、緑の草原になり、秋には黄金色の絨毯になる。

 

川越の米作りの姿を、今年はぜひ見てみたいと思います。。。♪

 

 

さつまいも、河越茶と並ぶ川越の大事な農産物川越米。

 

今年もいいお米がとれますように。。。
 

「南田島の春祈祷」

南田島氷川神社にて毎年4月14日

山車の曳き回しは二年に一度です




 

 

 

 

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