読者のみなさま、おはようございます!
お出かけ先が神社の方に、
"今までと違う、神社の楽しみ方" をお伝えしようと思います!
ひとりさんはこうおっしゃっています。
神道的な話をします。
神道的な話というのは、
日本人の原点。
仏教だとかが日本に入ってくる前の考え方です。
たとえば、茨城県にある鹿島神宮。
ここの御祭神は、
建甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)といって、
雷の神さまです。
この鹿島神宮に行くと、
本殿がある。
本殿を過ぎて、奥に行くと、
「荒神さま」って書いてあるところがあるんです。
ふだんのお参りのとき、
いつもの簡単なお願いごとをする場合は、
本殿でいいんです。
だけど、めちゃくちゃ
自分ががんばってもかなわない。
そういう難しいお願いごとが、
もしあったとしたら、
荒神さまの方へお願いするんです。
雷さまがビガビガーって鳴ってる、
そのスゴいパワーを、
「私にもください」
といって、
荒神さまのパワーをいただく。
わかりますか?
仏教だとか、キリスト教だとか、
いろんなものが入ってきたとき、
雷さまを鎮めるとか、
鎮める神さまとか、
いいだしたんです。
でも、元々の日本人の考え方的には
そうじゃない。
雷っていうのは、稲妻。
雷がどんどん鳴ると、
稲の育ちがよくなるから、
「あの雷こそは稲の妻である」
っていう捉え方なんです。
雷を鎮めよう、じゃない。
それから、大木もなぎ倒すぐらい、
スゴいパワーを持った嵐がきたとき、
日本人は
「あの嵐を止めてくれ」
じゃない。
あの嵐があるから、
水不足にならずに済むんだ、って。
それから、この嵐にはスゴいパワーがあるんだ。
このパワーはエネルギーなんだ。
このパワーを私にもください。
そういう発想なんです、
本来の日本人は。
だから、富士山のふもと、
山梨県側のほうに
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)という
神さまをまつっている浅間神社がある。
青森の弘前には、通称・津軽富士、
岩木山という山があり、
ふもとに岩木山神社がある。
そうすると、
岩木山、富士山って、
昔は火山活動が活発で、
しょっちゅう爆発してたから、
今の日本人は
「火山活動を鎮めたくて神社を造った」
と思うんだけど、
本当はそうじゃない。
もし仮に、「お鎮まりください」という発想で
神社を造ったとしたら、
火山の近くに人は住んでない。
だって、そうでしょ、
「よくないもの」と捉えていたら、
近づかないよね。
だけど、火山の近くに人が住んでたんだよ。
それは、火山を神としてあがめていて、
そのスゴいパワー、
スゴいエネルギーをいただこう、
っていう考え。
だから、火山でも、雷でも、
その「エネルギーをいただきたい」という考えであって、
否定からははじまってないんです。
そこが、日本人のスゴいところなんだよ、って。
私は、仏教がいけない、
キリスト教的な考えがいけない、
っていってるんじゃないんです。
砂漠みたいなところにいると、
「神よ、なんとかお助けください」
「日照りからお助けください」
っていう考え方も出てくる。
それから、キリスト教的な発想で、
あばれ川にダムを造るとか、
自然を制していこうという考えもある。
それはそれでいいんです。
どっちが正しくて、なにがいけない、
ということをいってるわけじゃないんです。
だけど、今の日本人が忘れかけてる、原点。
嵐や雷、火山、そういったものに神を見て、
「あのエネルギー、スゴいな。
このエネルギーを私にお授けください」
「私のパワーとして、お授けください。
そしたら、私はまた元気にがんばります」
「がんばって畑仕事をします。
人にも、このエネルギーをわけてあげます」
山伏でもそうなんだけど。
山伏って、山の上をひたすら歩いて、
山からスゴいパワーをいただいて、
その気を人におわけする。
そういう修行もあるのね。
こういう神道的な考え方。
スゴいエネルギーを鎮めようというのではなく、
「私に授けてください」っていう発想。
そういう目で、今度、神社にお参りすると、
また違った楽しみ方ができて、
いいよ、ってことです。
ひとりさんの著書
『愛される人生』より抜粋
いかがでしたか?
仏教だとかが日本にない頃は、
自然のスゴいパワーを、自分にも授けてくださいという
なくすことより、利用することを考えていたんですね。
これから神社へ行く方は、
ぜひ、スゴいパワーを授かって、
元気モリモリで過ごしましょう〜!
最後まで読んでいただき、心から感謝します!
【ひとりさんの教え セレクション】
・"押し出し" を始めると、「このままでは終わりたくない」と思い始める
・人は「成功していて、かっこよくて、さらにいい人」に魅力を感じる
・「迷惑かけるな」って言うのは、「平均台の上を歩け」と言うのと同じ