「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

道を敷く(エイブラハム) 

欲求の優先順位(エイブラハム)

許容し可能にする人間関係(エイブラハム)

暴力的な場面に遭遇しない方法(エイブラハム)

世界の望まない出来事(エイブラハム)

考え方や習慣を変える(エイブラハム)

という記事の続きです。

 

 

 

感情には、善い感情と悪い感情があるのではなくて、

ポジティブな明るい感情と、

ネガティブな暗い感情、

自分にとっていい気分になることと、

いい気分にならないことの、

大きく分けると二種類あります。

 

ジェリー それでは
「自分が何を望んでいるのかを知りたい」
とすら言えず、
ただ「自分が知っている限りでは、
自分は何も望んでいない」とか
「欲求を持つことはいけないことだと教えられた」
と言う人たち、
何事にも無関心でだらけた状態でいる人たちに、
何か言うことがおありですか?

エイブラハム 欲求を持たないでいたい
─立派な人間であるために─というのも、
やはり欲求ではないのか?

欲することは「意図的な創造」の始まりだ。

だから、自分が欲求を持つことを許さなければ、
人生経験の意図的なコントロールを
拒否することになる。

あなたがたは確かに物質世界の存在だが、
生命力を持っている。

エネルギーの力、神の力、創造するエネルギーが
「内なる次元」から
あなたがたのなかへ流れ込んでいる。

医師たちはそれに気づいているが、
実はあまりよくわかっていない。

彼らは生命力を持っている人と
持っていない人がいることはわかる。
だから「この人は死んだ。この人は生命力がある」
と言うだろう。

創造する生命力は、
あなたがたが関心を向けた方向に伸ばした延長部分から
流れ込んでくる。

言い換えれば、
あなたがたが明確にした欲求の対象を
あなたがたの思考が呼び寄せる、
そのプロセスのことだ。

自分の欲求に思考を向ければ向けるほど、
「引き寄せの法則」が強く作用して
思考の勢いが強まることがわかるだろう。

自分の欲求について考えなければ、
あるいは考えても実現していないからと
すぐに欠落のほうを考えれば、
思考の自然な勢いは阻まれる。

あなたがさっき言った
「何事にも無関心でだらけた状態」は、
矛盾した言葉で思考の勢いを
殺ぎ続けた結果だ。


ジェリー エイブラハム、
わたしたちはほとんどの人が
食べ物にも住む家にも衣服にも
事欠かない国に住んでいます。
ほとんどの人が少なくともなんとか生活できています。
ところが「わたしはなんとか暮らしてはいけるが、
もっと大きなこと、特別なことを
人生で実現するほどの欲求が持てない」
と言う人たちがいるのです。
そういう人たちには、なんとおっしゃいますか?

エイブラハム それは多くを求めないのではなくて、
多くを持てないと思い込んでいるのだ。

だから何かを望んで得られずに失望するのを
避けようとする。

望むものが得られないのは、
望んでいないからではない。

望む対象の欠落に焦点を定めているからだ。

だから「引き寄せの法則」によって
思考の対象(望むものの欠落)が
引き寄せられてくるのだ。

何かを望み、そのあとで
「だが、前にも望んだが得られなかった」
と考えれば、
あなたの関心は望むものの欠落に向けられる。

だから「法則」によって
欠落が引き寄せられてくる。

望むもののことを考えれば
気分が高揚し、ワクワクして前向きの気持ちになる。

だが、望むものの欠落のことを考えれば、
ネガティブな気持ちになる。

失望を感じる。

その失望は
「感情というナビゲーションシステム」が
「あなたの求めるものに思考を向けていない」
と教えてくれるのだ。

だから試しに少しだけ望んで、
その望むもののことを考え、
前向きな気持ちになればいい。

そうすれば失望は消える。

そして望むものに思考を向ければ、
その対象が引き寄せられる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

ポジティブな明るい感情の時には、

肯定的な見方をしていて、

思考が望みの方に向いています。

ものごとの解決策について考えています。

ネガティブな暗い感情の時には、

否定的な見方をしていて、

思考が望むものの欠落に向いています。

ものごとの問題について考えています。

 

自分が何かを考えている時の感情に注目して、

どんな感じがするかな?とチェックしてみてください。

例えばアイスが食べたいなと思った時には、

明るい前向きな気持ちになる。

アイスを買うとお金がかかると思うと、

ネガティブな暗い気持ちになる。

アイスを食べると太ると思っても、

やっぱりネガティブな暗い気持ちになる。

自分の感じ方の違いを見ていると、

望みの方、楽しい明るい気持ちになった後、

でもやっぱりと打ち消して、否定して、

暗い気持ちになることがあるなと、

分かってくると思います。

それが欠落とか問題に思考が向いている状態です。

 

ジェリー わたしたちの社会では、
ほとんどの人が25歳から35歳くらいになると
成長や発達が行き止まりになるように思われます。
念願のマイホームも手に入れた。
ライフスタイルもそなりに決まった。
仕事でも落ち着いた。
信念や政治的意見や宗教的な信条も
ほぼ固まっている。
個人的な経験ということでも、
ほとんどすべきことはなし終えた。
そんな感じです。
どうしてそういうことになるのか、
教えていただけますか?

エイブラハム それはなすべき経験をすべて
なし終えたというよりも、
もはや新しい経験を引き寄せなくなった、
ということだろう。

新しい経験をすれば興奮も欲求も高まる。

だが、そのような人たちの多くは
もう欲求を意識して差し出すことをしなくなる。

多かれ少なかれ現状であきらめているのだ。

現状にだけ関心を向けていれば、
現状維持になる。

望むことに関心を向ければ、
変化を引き寄せる。

それに、
要するに「法則」がわかっていないことから生れる、
ある種の自己満足もあるだろうね。

ほとんどの人が意図的に成長を望むことを
やめてしまうのは、
「宇宙の法則」を理解していないからだ。

それで矛盾した考えを提示してしまい、
求める結果が得られない。

自分に何ができるかという信念と
自分が達成したい欲求とが一致せず、
いくらがんばってもいい成果が出ないと、
いつかはくたびれて嫌になってしまう。

「宇宙の法則」をきちんと理解し、
自分の考えを穏やかに
自分が望む方向へと向ける練習を始めれば、
すぐ前向きの成果が生まれる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

本当に法則はあるのかな?ということを、

現実的な生活の中で確かめて、

経験と照らし合わせて、

納得すれば上手に活用できるようになってきます。

 

まず、自分の感情がものごとのの見え方、

捉え方に影響を与えていることに気付いて、

その時の思考の方向はどっちを向いているのか?

確認する作業を、こまめにすると良いと思います。

 

 

エイブラハムたちが伝える、

行動を通じて創造するのではなくて、
思考を通じて創造するんですよ、
という思考が現実になるというのも法則になります。
現実的に起こることというのは、
霊的な領域(思考など)にあるものが、
条件が整った時に、現実として現れてきます。
これを理解する場合、
言葉だけを知っても、納得できるものではありません。
この仕組みを知らない時には、
まず目の前に起こった事に対して、
何かしらの反応や対応をしていて、
現実があって、思考はその後だと思っています。
 
 
例えば、友達と一緒に、
試験を受けたとします。
友達も自分も合格した場合、
とても嬉しいので、友達の合格も、
自分のことの様に喜べるでしょう。
でも、友達は合格して、自分は不合格だった時、
友達の合格自体は嬉しく感じても、
心から喜ぶことは難しいかもしれません。
 
友達の合格という同じ場面でも、
自分の状況(合格、不合格)によって、
感じ方が変わります。
 
 
合格が分かった後の帰り道では、
木々の瑞々しさや花の美しさ、
にこにこ笑った人達など、
周囲にある、目に入るものの、
善いと感じる部分、好ましい部分、
肯定的な側面がよく目につく様になります。
 
不合格が分かった後の帰り道では、
騒々しい街中の音、
あちこちに落ちているゴミ、
イライラした人達など、
周囲にある、目に入るものの、
悪いと感じる部分、嫌な部分、
否定的な側面がよく目につく様になります。
 
合格した時も、不合格の時も、
帰り道は同じところを通っているのだけど、
その時の自分の感情によって、

意識を向けるものが違ってくるのです。

 
その時の状況によって感じ方が変わったり、

目に付く、気が付くものが変わってくるんですね。

 

私自身はこのことについて、

経験からそうだなと納得しています。

いい気分の時には、

ちょっと嫌なことがあっても、

すぐに立ち直れたり、

苦手な人に会ってもスルー出来たり、

といったネガティブなものごとの対応も、

苦になりません。

歩いている時に、綺麗な花に気付いたり、

日差しの暖かさを楽しんだり、

周囲の善い部分を楽しんでいる時というのは、

周囲に善いものがあったということではなくて、

元々いい気分だったから、目に付いたのです。

 

いい気分の時には、

ものごとの捉え方や感じ方が変わってくる、

対処の仕方も変わってくるということなので、

それを逆手に取って、

いい気分の状態を先に作っておこう、

というのが引き寄せの法則の上手な活用法です。

 

これがワクワクすればいいんだ!といった短絡的な形で、

広まっているのだと思います。

 

 

自分が今、感じている感情によって、

ものごとの捉え方や対処の仕方が変わるのかな?

というのを、

今までの経験を振り返って、

本当にそうなのかを確認してみて下さい。

 

ちなみに、私は本気で落ち込んで、

どうしようもない時には、

自分の世界に入り込んで、

思考に囚われて、全く周囲の状況が見えなくなります。

なので、そういった期間のことを思い返すと、

悲しい苦しい気持ちと共に、

靄がかかったようなぼんやりした、

周囲や出来事のイメージしか思い出せません。

 

だから、ネガティブなものごとでも、

ポジティブなものごとでも、

取り敢えず周囲のことに気が付く状態ならば、

自分自身に余裕があると言えます。

 

自分の気分が、目の前の現実に対して、
影響を与えているということが、
納得出来るようになると、
自分の気分をコントロールすれば、
経験していくこともコントロール出来るようになるかもしれない?
という風に分かってくると思います。
 
トラブルが起きたとしても、
いい気分で対処することが出来れば、
すぐ立ち直れるし、
苦しい気持ちを強く感じることはないでしょう。
 
世の中には、様々なネガティブな事が起きているけれども、
いい気分でいる時には、
同じ様に起きているポジティブな出来事に、
気付くことが多くなります。
 
逆に言えば、
ネガティブな出来事ばかりに目が行く状態の時は、
自分の感情が、暗く否定的なネガティブな状態だと言えます。
 
 
このいい気分であるという時は、
例えば試験に合格したという場合、
自分を肯定的に捉えることが出来て、
ポジティブな、明るく前向きな気持ちになります。
思考の方向が肯定的になっている状態です。
試験に合格しなかったという場合、
自分はダメなんだといった否定的に捉えているから、
ネガティブな暗い気持ちになっているのです。
 
感情が、ポジティブな明るい気持ちの時、
ものごとの捉え方が肯定的になっている、
思考が肯定的な方へ向いている状態です。
ネガティブな暗い気持ちの時は、否定的に捉えています。
 
思考がものごとにの解決策や望みの方に向いていると、
肯定的に捉えているので、明るい気持ちになっていて、
ものごとの問題や、
望んでいるものの欠落の方に向いていると、
否定的に捉えているので、暗い気持ちになっています。
 
思考を監視するのは大変だけれども、
自分が何を感じているのか?と感情を観察すれば、
思考の方向、肯定的な側面に目を向けているのか、
否定的な側面に目を向けているのかが分かるのです。
これは感情のままに生きましょうということではなくて、
感情を観察して、自分の思考の方向を確認しましょう、
ということです。
 
 
先日、息子がバスを待っている時に、
後ろにいたお年寄りたちが、
順番を無視して、自分を抜かして、
先に乗っていくことが続いて、
許せない気持ちになって腹が立つと話しました。
 
元々、アスペルガー症候群なので、
順番を守らないことが許せないところがありました。
こだわりが強いところがあります。
習い事とかでも、周りの子に順番を守る様に、
言って回ることがよくあって、
トラブルも度々起きていました。
(守らない子はうるせーみたいに反発する為)
 
それで、話し合ったのだけど、
私だったら、抜かされるのは嬉しくないけど、
お年寄りだったら、席に座って欲しいから、
「逆に先にどうぞと譲ることも多いかな?」
と言ったのだけど、
息子としては、自分から譲る分にはいいのだけど、
譲ってもいないのに、順番を守らず抜かしていくのが、
凄く嫌だそうです。
 
その現象というのは、自分の内側を表しているのだけど、
「それは何だと思う?」と聞いてみました。
 
どんな感じがするのか?
何を思ったのか?
 
その時、息子が通院していた児童精神科の先生が、
アスペルガー症候群なので、ストレスが溜まってくると、
こだわりが強くなることがあるので、
注意して見てあげて下さいと言われたことを、
思い出して、伝えてみました。
 
もし、休日にのんびり買い物に行った時に、
同じ様に順番を抜かされたとして、
感じ方は変わらないのか?
同じ状況でも、腹が立つ時と、
あまり立たない時の二つがあるのではないか?
 
そうやってどんどん、
自分はどうなのか?というのを、
考えていくと、
今、色々な予定が詰まっていて、
なかなか終わらなくてイライラしていると。
まさに順番通りにいかない!と、
ストレスを感じているみたいなのよね。
 
だから、これからは、
順番を抜かされてイライラした時には、
物凄くストレスが溜まっている証拠だなと、
順番を守らないお年寄りという”問題”の方ではなく、
自分に意識を向けて、
なるべく早く寝るようにしたり、
スケジュールを確認したり調整したりして、
少しでもリラックスできる様に工夫するといった、
”解決策”の方に思考を向けたらどうか?
という風な話をしました。
 
自分の感じ方によって、
ものごとの見え方が変わってきて、
それをきっかけにして、
行動も違ってきます。
もし、ネガティブな感情になっているのなら、
思考の方向が否定的な方へ向いているので、
肯定的な方へ向くような、
捉え方、考え方を自分の経験から探します。
なるほど、そうだな!と思って納得する考え方が見つかると、
そこから肯定的な捉え方に変わるので、
同じ状況になっても、
息子の場合では、またお年寄りに順番を抜かされても、
ムッとすることはあっても、
お年寄りに問題があるとイライラするのではなくて、
こんな風に感じるのはストレスが溜まっているせいかもな、と、
解決策の方に思考が向くことが多くなると思います。
 
これも、練習を重ねて、
そのように修正していくことですけれども、
今までの癖で、瞬間的にムっとすることがあっても、
理性的になって、別の考え方があったなと、
思い出すことが出来れば、
同じ様に嫌な気分になって苦しむことが少なくなると思います。
 
 
私は電車やバスに乗っている時、
お年寄りや小さい子連れの親子などに、
目が行きます。
何か手助けが必要な時には、
考えるより先に行動しています。
席を譲ったり、空いている席を教えたりします。
 
そういう人がいない時、
周囲を見回すと、みんなスマホの画面に夢中ですよね。
やんちゃな、騒いでいる高校生の男の子たちもいます。
隣の席の人は熱心に漫画を読んでいるかもしれません。
でも、それを見ても、
別にイライラすることはないし、
深く気に留めることもないです。
 
私は移動中にスマホを見るのは疲れてしまうこともあるので、
疲れたら、仕舞って外を眺めたりします。
それから、いくつかのテーマについて内観をします。
ブログの記事を書くのだったら、
どんな例えがいいかなと、あれこれ考えて、
整合性が取れるか考察します。

ゼロポイントにフォーカスしやすい状況というのがあります。
 
宇宙的な鼓動(リズム)の同調点に到達すると、
心のなかに
「ゼロポイント」と呼ばれる状態が訪れる。

そのポイントは、
一点の曇りもない晴れ渡った青空のようでもあり、
光のかなたへと無限に広がり始める。

それが宇宙との接点であり、
臨界点を超えて異次元の扉をあける。
しばしば睡眠時に、この状態が起きているが、
その光景を覚えておくには、
ある種の技術が必要だ。

そこには宇宙の叡智があふれているが、
現在の文明レベルでは到底理解されず、
残念ながら有効利用されていない。
 
そして幾千年もの昔から、
心をゼロポイントに保つことは、
秘密裏に遂行されていたが、
今日ではそれらは非科学的なものとされ、
博物館のヤジリや土器のように、
正当な評価を得ていない。

過去の偉大な遺産は、
非科学的という呪文をかけられ、
闇に葬り去られている。
 
それは現代人が
過去のレベルまで到達していないので、
科学で証明できないのであろう。

心がゼロポイントになるのは、
呼吸や心拍数を
宇宙的なリズムに同調させることの他にも、
雑踏のなかを歩いているときや、
電車のなかでウトウトとしているとき、
難しい本を読みながら、
音楽を聴きながら、
ゆれる炎を見ながら、
うたた寝をしているとき……などなど。
さまざまな状況で起こり、
自分の一番やりやすい方法を用いることができる。
 
ただし、苦しみや痛みを覚える方法や、
短絡的にクスリに頼ることはいけない。

なぜなら、間違った方法で突入すれば、
間違った場所に到達してしまい、
シールドされていない魂の領域を
傷つけてしまう原因になり、
修復には困難をきたすからである。
 
「22を超えてゆけ」(辻麻里子著)より
 
電車の中でぼーっとしていると、
ゼロポイントにフォーカスしやすいので、
いいアイディアが浮かぶことも多いんですよね。
私なら、イライラする様なものに、
目を向ける様なことはせず、
この時間を有効に使うことに思考を向けます。
 
例えば、電車に乗って周囲の人の態度に、
怒りを感じるとします。
みんなスマホを眺めている!
こんなのおかしい!
この世界は狂っている!
隣の席の人は、スマホで漫画を読んでいます。
全くイライラする画面だ!
 
こういう時は、ものごとの、
否定的な側面に思考が向いている状態です。
 
 
もし、自分が新婚ホヤホヤだとします。
家を出る前に、可愛い新妻が、
ニコニコしながら行ってらっしゃい!と、
見送ってくれました。
とてもいい気分で、電車に乗っています。
何度も、奥さんの可愛い笑顔が思い浮かび、
とても幸せな気持ちになります。
そんな時、
みんなスマホを眺めている!
こんなのおかしい!
この世界は狂っている!
隣の席の人のスマホを覗き込んで、
漫画を読むなんて!全くイライラする画面だ!
なんて、怒りが湧くでしょうか?
そんなこと、目に入らないくらい、
自分の幸せを味わっているのではないでしょうか?
 
逆に言えば、
自分が今、幸せないい気分を味わえていないから、
周囲を見回すと、イライラさせるような、
怒りを感じるようなことばかりが目に付くのです。
 
今日は、たまたま、そういう人ばかりが、
電車に乗っていたのでしょうか?
イライラしない日は、いい人ばかりが、
電車に乗っているのでしょうか?
 
では、どんな人が電車に乗っていたら、
イライラしないで、怒りを感じないでいられると思いますか?
隣の人のスマホを覗き込んで、
何の画面なら、いい気分になると思いますか?
 
自分が嫌なもの、欲しくないものは簡単に見つかるのに、
じゃあ、欲しいものは何か?何を望んでいるのか?ということは、
見つけるのが難しいということがあります。
ものごとの否定的な側面はすぐに目に付くのに、
肯定的な側面に目を向けるのは難しいことがあるのです。
 
もし、難しいとしたら、それはどうしてでしょうか?
見ているものごとが凄く悪いものだから、
否定的にしか捉えることが出来ないのでしょうか?
 
 
引き寄せ界隈の人というのは、
自分が如何に得するか?ということを主軸にして、
引き寄せの法則を活用しようとしますよね。
でも、宇宙的な視点で捉えるなら、
皆が幸せになる様な活用をしようというのが、
真理だと思います。
 
娘と買い物に行った時に、
下りのエスカレーターに乗っていたら、
目の前に杖を持ったおばあちゃんがいました。
足が悪そうなのにエスカレーターに乗るのは、
危ないなと思って見ていました。
降りた階のエスカレーターは、
お店を挟んだ後ろに設置されているので、
ぐるっと歩いて後ろに回らなくてはいけないのだけど、
おばあちゃんは、エスカレーターの位置が、
分からない様子でキョロキョロしていました。
それを見た瞬間、ダッタと駆け下りて、
おばあちゃんに声を掛けていました。
「エスカレーター探しています?下に行くの?」と聞いたら、
「下に行く」と。
「エレベーターでも大丈夫?」と聞くと、
「1階に行きたい」とのことで、

その先にあったエレベーターまで、

案内しました。
 
エレベータ―の前に着くと、
丁度よいタイミングで、
下行きのエレベータ―の扉が開き、
人が降りてきました。
扉を押さえて、おばあちゃんを乗せて、
「1階のボタンを押してね!お気を付けて!」と、
見送りました。
 
この流れがスムーズ過ぎてびっくりしたのだけど、
これぞ引き寄せの法則なのよ!と思いました。
(そしてブログのネタにもする)
 
突然、自分を置いてエスカレーターを駆け下りだした私に、
娘は「びっくりした!突然走るから!」と言っていました。
(娘の存在を忘れていた)

普段はのんびりしているのだけど、

この時は、考えるより先に体が動いているという感じでした。
 
引き寄せの法則は、人を介して働いて、
自分の欲しいものとか環境を運んで来てくれます。
上記の場面では、
おばあちゃんが下に行きたいというのを、
私がキャッチして、エレベーターへ連れて行く時に、
同じ様にキャッチした上の階に居た人が、
丁度よいタイミングでエレベーターに乗って、
下に降りて来た、という形で、
引き寄せの法則が働いています。
 
私の妄想では、全ての人にガイドとして、
天使がついていると思っています。
上記の場面では、
おばあちゃんを安全に下に行かせたいと願う天使が、
助けを求めたのを、
私の天使がキャッチして、エスカレーターを駆け下りさせ、
声を掛けて、エスカレーターではなくて、
エレベータ―!と天使が囁くことで、直観が働き、
エレベータ―に連れて行きます。
同じ様にキャッチした上の階に居た人の天使が、
丁度よいタイミングでエレベーターに乗せて、
エレベータ―を下に降ろしてきた、
という形で、霊的な世界の連係プレーがあったと、
思っているのです。
 
引き寄せの法則は、霊的な世界では、
ガイド達が協力しあって、必要なものを、
届けてくれると思っています。
 
だから、困った人を助けるといったことが、
一番、スムーズに物事が運ぶのだと思うのです。
 
もし、自分がものごとのネガティブな側面にしか、
思考が向いていない状態だとしたら、
手助けが必要な誰かに気付くことが出来るでしょうか?
 
私自身の経験から言うと、
意識的に肯定的な側面を見る様にして、
明るい気持ちを維持しようとしている時ほど、
手助けできることが多いです。
逆に、助けて欲しいと求められることも沢山あります。
ものごとの問題に目を向けている状態ではなくて、
解決策に目を向けている状態なので、
手助けが出来るのです。
どちらか一つしか選べないので、
問題に目を向けている時には、
解決策に目を向けることが出来ないので、
誰も助ける事は出来ないでしょう。
それが本当の望みなのでしょうか?
 
 
ものごとの問題の方に思考を向けている時、
ネガティブな暗い気分、
イライラしたり怒りを感じたりします。
この世界には困ったことや問題が沢山ある様に感じて、
それを監視していないと、
大変なことになるといった、強迫観念の様なものがあります。
 
私の場合は、テレビのニュース番組や、
ワイドショーや情報番組を見て、
大変なことが起きた、全くあの人は酷い人だ、
といったことばかりに囚われていた時、
その状態が社会について深く考えていて、
広い視野で物事を捉えていると思い込んでいました。
しっかり世の中のことを考えているわ!みたいに、
思っていたのね。
 
スピリチュアルな学びが深まるごとに、
ニュースなどのテレビ番組に興味を持てなくなって、
今だと、たまにはテレビを観ようと思っていたのに、
観るのを忘れた!と言って1か月くらい経ってしまう、
というのを繰り返しています。
ニュースを観ないと、世の中から取り残される、
という風に思っていたけれども、
別に観なくても、生活そのものは変わらない、
むしろ無駄な時間を使わずに済んでいます。
 
世の中の悪いものを監視し続けないと、
とんでもないことになる!と思っている時、
実際は、自分の中にある、
心の闇から目を背けて、向き合わない様にしています。
自分の中にある問題を、世の中の悪いものに投影していて、
自分が今感じている、
ネガティブな暗い気分が、それらのせいだと、
責任転嫁しているのです。
 
世の中に悪いものがあるから、
ネガティブな暗い気分になっているのではなくて、
思考が否定的な方向に向いているから、
ネガティブな暗い気分になっていて、
世の中を見た時に、悪いと感じるものばかりが、
目に付くようになったのです。
 
自分が現実を創っているという時、
まず、自分の内側にその原因がある、
と言うことに気付くことが出来なければ、
自分が現実を創っている訳がないじゃないか!と、
腹が立つと思います。
 
悪いものがそこにあるから、
嫌な気分になるんだ!と思います。
 
でも、そうではなくて、
元々、悪い気分になる様な、
何らかの考えを持っているのです。
それが何なのか?ということに気付いて、
いい気分になるような考え方に転換しないと、
どんな世の中になったとしても
相変わらず世の中は悪いものだらけだ、
という風に感じるでしょう。
 
 
二元性を克服するというのは、
善悪や優劣でものごとを判断しない状態になる、
ということです。
 
例えば料理を作ろうとした時に、
絶対に電子レンジを使ったり、
化学調味料を使ったりしないにも関わらず、
電子レンジ調理や化学調味料を使ったレシピを、
探して腹を立てて、いちいち怒ってしまいます。
これは悪いものだ!と言います。
自分が選んだものは善いものだから選んだのだ!
だからいつも悪いものと比較して、
こっちが善いのだ!と言いたくなります。
 
二元性を克服すると、
自分が善いと思うものは、
悪いと感じる人もいるだろうし、
自分が好きでないものを好きな人もいる、
絶対的な善悪や優劣はないのだと分かるので、
私はこれを選びます、これは選びません、
ということだけになります。
これを選びますという時に、
これはあれより優れているからとか、
あれは悪いものだからこれが善いものだから、
といった比較はしません。
 
自分が今、どんな気分なのか?
というのを観察して、
いい気分でなければ、
思考の向きが否定的だから、
肯定的に捉えられるような考え方を探して、
変えて、いい気分になる様にします。
この作業をすると、
ものごとは、一つだけではなく、
様々な見方が出来るもので、
ポジティブにもネガティブにも捉えられる、
という表裏一体が理解出来るようになります。
 
これが身に付いてくると、
自分が何かをしようとする時に、
善悪や優劣ではなくて、
選択するもの、選択しないものという風に、
変わってきます。
自分が選択しないものが、悪いとか劣っている、
ということではなくて、
私はそれを選ばないということだけなのです。
 
その状態が、「許容し可能にする」ということになり、
自他の境界線を引いて、
他者を尊重出来るようになります。