「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

という記事の続きです。

 

エイブラハムたちが伝えている三つの「宇宙の法則」をご紹介しました。

第一の法則が「引き寄せの法則」。

第二の法則が「意図的な創造の方法論」。
第三の法則が「許容し可能にする術」。

 

この記事では、「許容し可能にする術」について書いています。

 

あなたがたがこの経験のなかへ生まれ出たのは、
「許容し可能にすること」を教えるためだ。

だが、教える前にまず知らなければならない。

普通、このテーマはこんな場合に取り上げられる。

「誰かがわたしの好まないことをしている。
どうすれば、わたしの好む行動を
させられるだろうか?」

ここで理解しなければ、こういうことだ。

世界のすべてに同じことをさせようと
努力するよりも、
あるいはあなたが好むことをさせようとするよりも、
誰でも当人の好きなように振る舞い、
行動し、
所有する権利があることを認め、
あなたは思考の力を通じて
自分と調和することだけを
引き寄せるほうがずっといいのだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

びっくりしてしまったのだけど、

鏡や投影が理解出来ない人は、

全部ひっくり返って解釈するのね。

 

自分の内側を投影している、

ということが理解出来ない様です。

 

相手の言動は、自分の内側そのものだから、

相手の言動をコントロールすれば、

自分の内側もコントロール出来る、

という風に解釈しています。

 

私が知らないだけで、

その様な人が多いのかもしれませんね?

 

しかし、何度も何度も鏡について説明しているというのに、

私の力不足を痛感します。

難しいですね…。

 

どこまでもひっくり返っていく仕組み

という記事も書きましたが…。

 

こういう時に思い出すのが、下記の教えです。

 

多くの人々のもっているわざわいは、
何も分らずに盲めっぽうに喋りはじめ、
自分が何を言っているのかすら
分らないということにあるのである。

我々は、自分の内部自我に
目をつむらせているのである。

時々我々は、自己の内部自我の目を
蔽いかくしてしまい、
それを反対方向にまわしてしまっているのである。

つまり、発展の代りに
後退化の方向に、
積極肯定の周期の代りに
消極否定の周期へと
逆回転さしているのである。

人間は、どんな方向、どんな道へも
行ける力を持っているのであり、
自分の代りに歩いてくれる人は
誰も一人もいないのである。

何人といえども、あなたの代りに考え、
あなたの代りに意識する人はいないのである。

あなたは、あなた自身のことは
みずからなさねばならないのである。

師というものは、
単に道を示すにすぎないものであり、
単にあなたに対して正しい方向へ行く様な
刺激を与えるにすぎないのである。

そして、あなたは師の刺激、
導きをことわることが出来るのである。

治療のためのバイブレーション(振動)は
一つの刺激であり、
あなたがネガテブなものの中に浸り切っていれば、
それを斥けることが出来るのである。

この世には、治療の基本原則があるとともに、
その他いろんなことが存在するのである。

わたしはこれから本章で
一連の治療のことを述べるが、皆さんの誰もが
「ドーリルはわたしのことを言っているのだ」
と言わない様にしてもらいたいのである。

わたしの言っていることは、あらゆる人、
あらゆる病気に適用出来るところの
宇宙法則なのである。

人々は
「法律を知らなかったからとて罪の言いわけにはならない」
と言うが、
もし、我々が宇宙法則を知らなかったなら
言いわけが許されるかも知れない。

しかし、我々が宇宙法則を知っていて、
それを利用しなかったら、
宇宙法則に気付きはじめていてそれに反対したならば、
罪を知っていたのだから、
その罪は、法則を知らなかった者よりは
ひどい罪になるというのである。

法則を知らない者は、
法則を知っていてそれを犯した者に比しては、
多くの力をふるうことが出来ないのである。

多くの人々は、その心中で平和と
調和の状があるということを知っており、
意識の中で時々一瞥するのである。

わたしは、人々が何をなし得るかは知っている。

わたしはまた、彼らは自分たちが
出来ることはほんとどやっていないことを
知っている。

時々、わたしは、そうなるのは、
わたしのやりかたをよく教えなかったからでないかと
自分で恥じ入ることがある。

本章が全部終る前にその方法をはっきり示しておこう。

というのは今から我々が働かねばならない
光の日までの間には長い期間がないからである。

 

「療法の真義」(M・ドーリル博士著)より

 

ドーリル先生でさえ

”彼らは自分たちが
出来ることはほんとどやっていないことを
知っている。

時々、わたしは、そうなるのは、
わたしのやりかたをよく教えなかったからでないかと
自分で恥じ入ることがある。”

とおっしゃっています。

私が上手く出来ないのも当然のことで仕方ないのです。

これも学びですよね、有難いことです。


ここを覗きに来てパクっている人が、

どんどん商品を増やしていて、

結果、騙される人を増やしています。

”「誰かがわたしの好まないことをしている。

どうすれば、わたしの好む行動を
させられるだろうか?」”

という問いは、

わたしの好む行動なんて、

させることは出来ないよね!ということです。

 

私は”思考の力を通じて
自分と調和することだけを
引き寄せるほうがずっといいの”で、

自分に出来ることをこれからも、

淡々とするだけです。
解決策に目を向けて、

赤ペンを繰り返す様にしています。

 

 

相手の言動は、自分の内側そのものだから、

相手の言動をコントロールすれば、

自分の内側もコントロール出来る、

という風な解釈というのは、

物質的な鏡と混同しているんですね。

 

目に見えるものを映すというのが、

投影ではありません。

 

鏡や投影という記事を書きましたが、

goo辞書では投影について、
”考え方や行動に心の内面が表現されること。
自分の性質を他人の性質にしてしまうこと。投射。→同一視
とあります。
 
また同一視については、
”区別のある自分と他人を混同すること。
自分の好ましくない感情や性質を
他人の性質にしてしまう投射(投影)と、
他人の望ましい特徴や事柄を
自分のものと思い込む投入とがある。”

とあります。

 

鏡を見て口紅を塗る時、

自分の唇に口紅を塗りますか?

それとも鏡に映った唇に塗りますか?

ということです。

 

例えば、パートナーがヤキモチを妬いて、

拗ねて、機嫌が悪くなったとします。

その場合、パートナーの状態は、

私の内面を表しているんだわ、

だから、気付いた時がチャンスだから、

パートナーの機嫌を取って、

たっぷり甘えさせてあげて、

私の内面を癒しましょう、

と言う、カウンセラーがいるとします。

 

こういう人は大変危険です。

相当重症な共依存患者さんなので、

お客さんは出来るだけ早く逃げて下さい。

払ったお金は勉強代だと思ってあきらめましょう。

私もかつて、重症な共依存患者で、

次々とボダとか自己愛とかを引き寄せては、

深みにハマって落ちて行きました。

そういう傾向がある人はホイホイしちゃうんですよね。

(引き寄せですね!)

自他の境界線が引けていませんので、

巻き込まれると訳が分からなくなる可能性があります。

一旦距離を置くことをオススメします。

 

パートナーがヤキモチを妬いて、

拗ねて、機嫌が悪くなった時、

実際は、機嫌が悪いかどうかは、

パートナー自身にしか分からないことです。

もしかしたら気を引く為に、

わざと機嫌が悪い振りをして、

装っているだけかもしれません。

ここで問題なのは、

相手がどのような感情を持とうとも、

どのような態度を取ろうとも、

相手の自由なのにも関わらず、

相手の機嫌が悪いわと感じて、

どうにかしなきゃと考えてしまう自分なのです。

もしかしたら、こちらが思っているほど、

機嫌が悪くないかもしれないのに、

機嫌が悪い、病んでしまったから、

なんとかケアしなきゃと感じるのは、

自分自身の内側に、

そう感じる何かを投影しているからです。

 

ですから、

”その場合、パートナーの状態は、

私の内面を表しているんだわ、

だから、気付いた時がチャンスだから、”

ということになります。

 

しかし、

”パートナーの機嫌を取って、

たっぷり甘えさせてあげて、

私の内面を癒しましょう、”

という部分で、内面と外側がひっくり返っています。

 

私の内面を表しているのだから、

内観して自分の内面を癒すんですよね。

 

パートナーを癒すのは、

パートナー自身であって、

自分の機嫌は自分で取らなきゃいけないんですよ。

 

こういう人は、

投影なので、自分の機嫌が悪い時は、

あなたのせいで機嫌が悪いんだよとやって、

相手に機嫌を取らせます。

自分が自分の機嫌を取るということが出来ないから、

相手もそうだろうと考えてしまうのです。

(投影です)

自分がしていることだから、

相手にも同じことをするし、

自分以外の人も同じ様に考えると思うのです。

 

自分で自分の機嫌を取れる人がいるなんて、

思い付きもしないのです。

 

これが他人軸です。

 

 

ジェリー あなたがたにお会いするまでは、
わたしは「許容し可能にする術」を知りませんでした。

それで、ある行動が正しいか間違っているかを
考えるときには、
全員がその行動をしたら世界はどうなるか、
と想像することにしていました。

その結果、世界が楽しくて心地よい場所になるなら、
その行動をしてもいい。

だが、誰もがそういう行動をする世界には
住みたくないと思ったら、その行動はやめる、
というわけです。

例を挙げましょう。

わたしは以前、マスの渓流釣りが好きで、
最初はみんなと同じような釣り方をしていました。

できるだけたくさんのマスを釣るんです。

でもそれがいいことかどうか
ちょっと不安になったので、考えました。

「全世界の人が同じことをしたら、
どうなるだろう?」。

全員が自分のような釣り方をしたらと想像すると、
世界中の渓流の魚が釣られてしまって、
ほかの人たちはこんな素晴らしい楽しみを
失ってしまうことがわかりました。

それで、もう魚を殺すのはやめよう、
と決意しました。

(さかとげのないルアーを使って)
釣ったあとに放してやることにしたのです。

さかとげのないルアーを使おう、
そして誰かに頼まれて食用に持って帰る以外は、
川に返してやろうと決めたのです。

エイブラハム けっこう。
誰でもいちばん役に立つことができるのは、
自分で実例を示すことだ。

わたしたちはその実例に言葉を付け加えたり、
思考を付け加えたり、
もちろん行動を付け加えたりすることができる。

だが、この世界をもっとよいところにしたいと思う場合、
誰にとっても重要なのは、
その時点その時点で自分がどうありたいかを
はっきりと見定めて、そのとおりにすることだ。

例えばあなたのさっきの例は、
わたしたちがここで教えていることと一致している。

そのときのあなたは自分が欲することは何かを決め、
「内なる存在」はあなたが適切なことをしようとしていると
知らせるために感情を送ってきた。

言い換えると、
この世界をもっとよいところにしたいと決意し、
自分はこの世界に何かを付け加えたい、
不当に何かを奪うことはしたくないと決めたとき、
あなたがとる行動、とろうとする行動が
その意図と調和していない場合には、
不快な落ち着かない気持ちになる。

あなたは自分がしようとしていることを
世界中の人がしたらどうなるかと想像して、
この世界をよいところにしたいという
欲求を拡大してみた。

それによって内側からの指針が強調された。

なかなかいい方法だ。

あなたは
全員に同じことをさせようとしたのではない。
ただ、全員が同じことをしたらと考えて、
自分がそれをするのがいいことがどうかを
見定める手がかりにしようとした。

とてもいいやりかただった。

ジェリー あの方法はわたしにはうまくいきました。
それで、とても楽しい釣りができました。

だが、ほかの人が釣りをして、
ただ楽しみのために、
あるいは理由がどうであれ……
魚を殺しているのを見ると、
とても嫌な気持ちになりましたよ。

エイブラハム けっこう。
それは重要なポイントだ。

あなたの行動が
あなたの意図と調和していれば
楽しいと感じる。

だが
他人の行動があなたの意図と調和していないと、
あなたは喜びを感じない。

だから、
他人に関しては違う意図を持つ必要がある。

いいのは、
他人についてこういう意図を持つことだ。

「彼らは彼らであり、
彼ら自身の経験の創造者で、
自分で自分の経験を引き寄せているが、
わたしはわたしの経験の創造者で、
わたしの経験を引き寄せている。
これが『許容し可能にする術』だ」。

今の言葉を
何度も繰り返して自分に言い聞かせているうちに、
心配したように
他人があなたの世界をめちゃくちゃにすることは
本当はあり得ないとわかってくる。

彼らは彼らの世界を創っている。

それに、彼らにとっては
別にめちゃくちゃな世界ではないだろう。

難しいのは、世界が豊かなところではないと
思っているときだ。

そのとき、あなたはどれくらいの数の魚がいるのか、
あるいは世界にはどれほどの富と豊かさがあるのか
という考え方をする。

そして、誰かが無駄や浪費をすると
残りの者や自分が乏しくなると心配し始める。

この宇宙は、あなたがたが参加した
物質世界における経験は、
とても豊かで、その豊かさに終わりはないから、
心配する必要はない。

彼らは彼らなりに創造し
引き寄せればいいし、
あなたはあなたで創造し引き寄せればいい。


「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

重症な共依存患者さんが、

カウンセリングするとしたら、

相手を自分が考える、

”機嫌のよい状態”にしようと、

コントロールをします。

 

とても危険ですよね。

支配者層と同じことをしていますので、

最終的には崩壊に向かいます。

 
引き寄せも働きますので、
どんどん加速して、
後戻りできなくなるんですね。
 
これも10年以上前ですが、
電話セッションライトボディ―コース10万円とかやっている、
ぼったくりヒーラーがいたので、
ライトボディ化なんて誰かがしてあげることではないですから、
詐欺なんですけど、騙される人もいたので、
その人の名前などは書かないけれども、
検索すれば辿り着くようなキーワードを、
沢山入れたブログ記事を何回か書きました。
すると、その記事を読んだ人が、
そのぼったくりヒーラーの家族に伝えて、
家族から連絡が来たそうです。
「お前は怪しい仕事をしているらしいな?」と。
家族に止められたらしいのです。

そのまま続けていましたが、

ものすごく弁解して、否定していました。
 
ここでも引き寄せの法則が働いた訳ですが、
裏では霊的な存在達も動き回っているんですね。
人との出会いというのも、
ガイド達が引き合わせたりします。
もちろん、本人の思考が先にあるのですが、
こちらが出来ることをしたら、
後は上が勝手に動いてくれるのです。

人事を尽くして天命を待つということですね。

 

これは原因と結果の法則として考える方が、

私の場合はしっくりくるのですが、

自分に返って来て欲しくないことは、

ワクワクしてもやらない。

自分が返ってきて欲しい事をする。

他人が自分がしないことをしていても、

放っておく。

原因と結果の法則は絶対なので、

彼らは彼らの蒔いた種を自分で刈り取ることになる、

という風な感じです。

 

ジェリー つきあう人たちが
(望むと望まざるとにかかわらず)
引き寄せることは、
どの程度わたしたちとかかわってくるのでしょうか?

言い換えれば、つきあう人たちが引き寄せることは
─わたしたちが望むことでも望まないことでも─
どのくらいわたしたちの人生に持ち込まれるのでしょうか?

エイブラハム あなたの関心が向けられない限り、
何もあなたの人生には持ち込まれない。

だが、ほとんどの人たちは、
自分がつきあう人のどの部分に関心を寄せるかを意識して
選んでいない。

言い換えれば、他人のすべての部分に注意を向ければ、
そのすべてを自分の経験のなかに
招き入れることになる。

いちばん好きなところにだけ関心を向ければ、
その部分だけを自分の経験に招き入れることができる。

人生で出会う人は、あなたが引き寄せたものだ。

信じられない場合もあるかもしれないが、
その人たちとともにする経験も、
すべてあなたが引き寄せている。

人生経験はすべて、
あなたが自分で引き寄せなければ
起こらないのだから。

ジェリー するとネガティブなものを
はねつける必要はないってことですか?
ただ、望むものを引き寄せればいいということ?

エイブラハム あなたが望まないものを
押しのけることは不可能だ。

なぜなら、押しのけようとすれば
逆に対象の波動を活性化し、
引き寄せることになるからだ。

この宇宙のすべての基本は引き寄せの力だ。

言い換えれば、排除ということはない。

望まないものに「ノー!」と叫んでも、
実はその望まないものを自分の経験に
招き寄せてしまう。

望むものに「イエス!」と言えば、
その望むものを自分の経験に招き寄せるのだ。

ジェリー 聖書にある「悪に抵抗してはいけない」
というのは、
そういう意味なのかもしれませんね。

エイブラハム 何かに抵抗すれば、
そこに焦点を定めて押しのけようとすることで、
対象の波動を活性化する。

したがって、その対象を引き寄せてしまう。

だから、望まないからといって、
抵抗したり押しのけたりしないほうがいいのだ。

それに「悪に抵抗してはいけない」と
言った人は、
人間が「悪」とよぶものは存在していないことを
理解している賢者だったのだろうね。

ジェリー それでは、あなたの言う「悪」とは
どんなものなのですか?エイブラハム?

エイブラハム わたしたちの語彙に「悪」という言葉が
存在する理由がない。

なぜなら、わたしたちの認識の対象には、
「悪」というレッテルを貼るものがないから。

人間が「悪」という言葉を使うときは、
普通「善と対立するもの」を指している。

人間は自分たちが考える「善」あるいは「神」と
対立するものを指して「悪」と言うね。

自分たちが欲するものと調和しないもの、
それが「悪」だと。

ジェリー それでは「善」は?

エイブラハム 「善」とは、これが欲しいと
人々が信じているものだよ。
善悪とは、
欲しいか欲しくないかを区別する方法にすぎない。

そして、欲しいか欲しくないかを決めるのは、
欲求を持つ個人だけだろう。

ところが、人間が他人の欲求に介入すると
ややこしいことになるし、
他人の欲求をコントロールしようとすると、
もっとややこしいことになる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

何度もご紹介していますが、
下記の教えと同じことです。
 
よく、わたしのところへ来て、
否定・悪の力が自分に向けられており、
それが自分に害をなすのを信じるという人がいる。

そんな人は、
自分自身の創造想念の力にそれを与えているのである。

わたしは、そんなことを言う人には、
”否”というのである。

あなたがそんなものは決して自分の上に力を加えないと、
完全に思っており、
そしてあなたの意識を調和と平和の状に保っている限り、
あなたを害するものは何もないのである。

おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない。

そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。

だが、あなたはそれを受入れてはいけない。

あなたの電話が鳴るが、
あなたがそれに出なければということはない。

あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、
あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。

非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。

大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。

バラード婦人はわたしに一時間も紫外線を送ったが、
それはわたしには何らの悩みの種ともならなかった。
わたしは、紫外線はよいものだと思った。
わたしがそれを悪的なものだと思わない限りは、
それは悪ではないのである。

わたしがルイジアナにいった時、
シートの下に仏像がピンでとめてあるのを発見した。
わたしはそれをかわいいものだと思った。

これらのものも我々が
それに力を与えなければ偉力をもたないのである。

運び手として使われることのできる
ある種のバイブレーション(振動)はあるが、
それらのバイブレーションが悪を運んできたら、
我々はそれを受けてはならないのである。

イエスはこの法則を二、三語で説明している。
それは”悪に抗する勿れ”である。
この語によって、イエスは文字通りに、
イエスを害し、あなたを害する様な存在を認めない
ということを意味しているのである。

もし、あなたがその悪と闘うならば、
あなたはその悪の力を認めているのである。

もし、それを認めないならば、それはすぎゆくのである。
 
消極否定、悪の力があなたを打っていると認めることは、
あなた自身が悪とならねばならないということであろう。

悪というものは、あなたがその状況にならなければ、
あなたを打つことは出来ないのである。
 
「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)より

 

”大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。”

とあります。

これが実践出来る様になるまでは、

沢山の人達が自分を攻撃している様に、

感じるかもしれません。

そしてその度にダメージを受けることになるでしょう。

 

”「彼らは彼らであり、
彼ら自身の経験の創造者で、
自分で自分の経験を引き寄せているが、
わたしはわたしの経験の創造者で、
わたしの経験を引き寄せている。
これが『許容し可能にする術』だ」。”

とありました。

彼らが攻撃という行動を選択するなら、

その行動によって生じた結果は、

彼らが受け取ればいいのです。

私がそれを見て、そうしたいんだね!と、

彼らを許すのであれば、

攻撃されるという形で現実化した、

思考の結果は、

許すという形に変わりますから、

同じものが返ってくることはありません。

今、この時に、過去にしたことを、

ひっくり返すチャンスが来たのだから、

喜んで変化させたらいいのです。

 

攻撃している彼らの気持ちを、

想像してみて下さい。

全て投影している訳ですから、

攻撃せざるを得ない様な彼らの心は、

どれほど荒れ狂っているのでしょうか?

思いやりの気持ちで眺めてみましょう。

そこから脱するのは、

自分で気付くしかなく、

そうでなければいつまでも、

攻撃をしなければならないという、

地獄が続く訳です。

別の場所があるよ!と、

私たちが示すことで、

いつの日か、他の選択肢があることに、

目を向けるかもしれません。

 
もし、我々が識別力をもっていないと、
正邪善悪真偽を見分けることが出来ないから、
求道者として最初に開発しなければならない能力の一つとして
識別力があげられる。

求道者としては、いかなることを見聞しても、
それについての正邪善悪の区別が出来なければ
ならないのである。

求道者がこの識別力を訓練し向上さしてのみ、
真の指導者と偽の指導者とを見分け、
真の光の大師と邪悪な魔術大師とを
区別できるのである。

この世の中には、
光(神)と一体となることのできる意識状態にまで
人々を啓発向上させようと努めておられる
聖なる大師がたがおられることも事実だが、
聖大師とは反対に、
自分達が出てきたところの暗黒不調和の中へと
人々を引き入れようと懸命になっている
邪悪導師達がいることも事実であることを
知らなければならないのである。

この邪悪導師(ブラックマスター)は
東洋ではブラックドグパスとして
知られているのである。
 
「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より
 
という箇所を何度もご紹介しています。
識別力とありますが、
何でもかんでも鵜呑みにせずに、
自分と他者の境界線を引いて、
法則を思い出して、
自分はどうしたいのか、どうありたいのかと、
自問自答してみて下さい。
 

”「彼らは彼らであり、
彼ら自身の経験の創造者で、
自分で自分の経験を引き寄せているが、
わたしはわたしの経験の創造者で、
わたしの経験を引き寄せている。
これが『許容し可能にする術』だ」。”

という箇所は、自分と他者の境界線を引くということです。
自分の問題と他者の問題を混同してはいけません。
 
 
”邪悪導師(ブラックマスター)”と出てきますが、
相手をコントロールしようとする手法は、
こちらの教えになります。
どうぞ見極める様にして下さい。
 
現在、地上の物質世界に存在する
あなたがたすべてが、
この身体に宿る前には
「許容し可能にすること」を理解し、
「許容し可能にする者」であろうと考えていた。

だが、あなたがたのほとんどは、
物質世界の視点からそれを理解したり
欲したりすることから
きわめて遠い場所にいる。

お互いの存在を「許容し可能にする」よりも、
お互いをコントロールしたがっている。

思考の方向をコントロールすることを
学ぶのは難しくないが、
お互いをコントロールすることは
まったく不可能だ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

私は今の引き寄せ界隈に何故こんなにも、

おかしな解釈が広まっているのか、

不思議でしょうがないです。

少なくともエイブラハムたちは、

全くおかしなことを伝えている訳ではないです。

 

許容し可能にするという部分が理解出来ない人が、

分かる部分だけの解釈を広めているのかもしれませんね。

 

ワクワクすればいい、

嫌な事はしなくてもいい、

自分をコントロールする必要はない、

あるがままー、

思考は手放せ、

そんなイメージですよね、引き寄せ界隈って。

全然違うと思うんですけど?

 

どうして自分がそうなるのか、
ということを理解しない限り、
「許容し可能にする」という考え方を
受け入れるのは非常に困難だろう。

なぜなら、この世界にはあなたが好まないことが
たくさんあり、
「どうしてこの不正を許容できるだろう?」と
思うはずだからだ。

そこでわたしたちは言う。

「あなたがたはそれが自分の経験の一部ではないと
認識することによって、
『許容し可能にする』ことができるのだ」。

それに、そのようなことは、
実はあなたとは関係のない場合が多い。

それはあなたの仕事ではない。

あなたの創造ではない。

誰かほかの人が引き寄せたことであり、
ほかの人の経験だ。

ほかのすべての人たちの
経験をコントロールしようなどと思わず
(どんなに努力しても、それは不可能だ)、
自分自身が他人の経験に参加するかどうかを
コントロールしようと努めることだ。

そして自分が送りたいと思う人生の
イメージをはっきり描くことで、
自分の人生に心地よく滑らかな道を敷くことができる。

あなたは思考を通じて経験を引き寄せる。

好むと好まざるとにかかわらず、
思考の対象が実現する。

だから乱暴なドライバーに関心を向ければ、
まずます乱暴なドライバーに出会うだろう。

サービスの悪さに関心を向ければ、
どこに行ってもサービスの悪さにぶつかるだろう。

関心を─特に感情を伴う関心を─
向ける対象が、
あなたの経験として引き寄せられてくる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

私がブログ記事を書くお題も、
覗き魔を発見した!という形で引き寄せられてくる訳ですね。
その人の理解度をみて、
どんな内容にしたらいいのか
どんな教えを引用するのか考えています。
理解していないと感じる人を通して、
自分の学びを様々な角度から眺めて、
理解を深めていくことが出来ます。

 

今回のテーマの引き寄せの法則を学び直すことで、
より内観や自分を観察することが、
重要であることがよく分かりました。
納得しかありません。

例えば、思考が現実になるということを、
全くの嘘であると言う人がいます。
全ては意味がなく偶然起きているものだと。

私の立ち位置からそれを見ると、
その人の現実は、自分の目の前の現実と、
他人や世の中の現実と混同しているのだな、
という風に解釈します。

また、全て意味がなくて偶然だと、
本気で信じているのであれば、
思考が現実になるという人を、
わざわざ否定する必要はないですよね。
それすら意味のないことなんですから。
だけど、あえて否定したくなる、
という気持ちがある訳です。

きっと何かしら思い当たることがあって、
それを認めたくないのだろうと、
私の立ち位置からは解釈出来ます。

思考は現実というのは嘘であるという人の、
考え方はどういうことなのかな?
という一つのパターンの学びになるのです。

なるほど、そういう角度で眺めると、
その様な答えが出るのだなと。
そして再び、自分が理解したことを、

別の角度から眺めることになるのです。

自分の視野を拡げるのに、とても役立ちます。
自分の世界が拡がるのです。

あなたは何故、ここを読んでいるのでしょうか?

 
本人に直接注意しに行ったり、
無理にやめさせたりしなくても、
必要な人は必要な情報を取得するし、
気付いた人は選択し直すことになります。
 
私が書けるのはヒントだけですが、
見て見ぬ振りをするのは、
もやもやしますが、
自分が出来る行動、
こういう形でブログ記事に書くという行動は、
納得がいき、前向きな気持ちになります。
 
もし、ここを読んで嫌な気分になるなら、
読まないか、考え方を変えて下さいね。
勿論、そのままでいたいのなら、それも自由ですけど、
オススメはしません。