「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

道を敷く(エイブラハム) 

欲求の優先順位(エイブラハム)

許容し可能にする人間関係(エイブラハム)

という記事の続きです。

 

 
よくパクるパクると書きますけど、
他人のブログ記事を読む時間があることとか、
何も思い付かなくて、
誰かの文章をアレンジして書くしかないこととか、
ある意味羨ましいなと思います。
 
書こうと思っている内容を取り敢えずメモしているうちに、
文字数が多くなって保存出来ないこともあったり、
記事の編集画面の一ページ以上が、
メモしただけの下書きした記事で埋まっていて、
一向に減る様子がなかったりとか、
時間も足りないし、
書こうと思っていることも処理しきれないからです。
きっと向いていないことを無理に、
行なっているんでしょうね?
夢中になれることを探した方がいいと思いますよ。
 
 

ジェリー もう一つ、話し合いたい
大きなテーマは人間関係です。
友達が独自の考えや信念を持ち、
「不適切な」行動をするのを黙認する、
つまり「許容し可能にする」のが
困難な時期がありました。

エイブラハム その場合、「許容し可能にする」
という言葉はどういう意味で使っている?

ジェリー わたしは、
彼らはわたしが望むとおりに考え、
行動すべきだと思っていました。
そうでないと非常に気分が悪く、
ときにはとても腹が立ったのです。

エイブラハム あなたは彼らの行動を見、
話すことを聞いて、ネガティブな気持ちになった。
それは、あなたが「許容し可能にする」状態にはなかった、
という信号だ。

ジェリー それに当時わたしは自分がとても
鷹揚で気前がいいと思っていました。
言い換えれば、自分が自己中心的な人間のはずがないと思い、
他人ももっと鷹揚に気前よくすべきだと思っていたのです。

ところがそうではないので、
非常に気分が悪かった。

それがらデヴィット・シーベリーの
『自分が好きになる生き方』(三笠書房)という本を読み、
「自己中心的」ということに対する見方が変わりました。

そして、その新しい見方で自分の不快感を
理解できるようになりました。

エイブラハム 自分が欲することに関心を向けること、
自分に対してそれを「許容し可能にする」のは
大切なことだ。

それを自己中心的と非難がましくよぶ人もいる。

だが健康な見方で自分を見ない限り、
自分が何かを欲することを「許容し可能に」しない限り、
また欲するものが手に入ると期待しない限り、
決して意図的な創造はできないし、
十分に満たされる経験もできないだろう。

普通「許容し可能にする」ことを
自分に認めないから、
他人にも認めない、という場合が多い。

自分のいいところをいちばんに認めない者が、
他人のいいところも認めない。

だから自分を受け入れ、肯定し、評価し、
欲求の実現を可能にすることが、
他人を評価し、肯定し、欲求の実現を可能にする
第一歩なのだ。

それは、自分の基準から見て
自分が完璧になるまで、
あるいは他人が他人の基準で完璧になるまで
待ちなさいということではない。

完璧という終点はあり得ない。

あなたがたは常に変化し、
常に成長する存在だから。

そうではなくて、自分のなかに
自分が見たいと思うものを見る意志を持ち、
他人のなかにも
自分が見たいと思うものを見る意志を持つ、
ということだ。

わたしたちはよく「自己中心的になる」ことを
教えると非難される。

確かに、そのとおりのことを教えている。

あなたがたは
自己という立場からすべてを認識するのであり、
自分よりもっと大きくて賢い「内なる存在」とのつながりや
協調を主張するくらいにしっかりと
自己中心的でなければ、
他人のために役立つこともできない。

自分の感情に気を配るほど
自己中心的であって初めて、
強力な「ソースエネルギー」と調和するために
感情というナビゲーションシステムを
活用することができるし、
そうすれば、幸運にもあなたの関心の対象となる人は
誰でも利益を得る。

誰かがあなたのなかの何かを否定すると、
それはその人の目に表れ、
あなたは自分が非難されていると感じる。

だが、それは否定する者のほうに欠落があるので、
あなたのほうに何かが欠けているのではない。

その人たちは他人の欲求を
「許容し可能にすること」ができず、
そのためネガティブな気持ちになっている。

原因はあなたの不完全さではない。

ファッションと同じで、
こんなのは見たくないという恰好をしている人を見て、
ネガティブな暗い気持ちになる理由は、
相手ではなくてあなた自身にある。

また、自分が楽しいと感じるものだけを
見ようと決意すれば、
楽しいものだけが目に入るようになり、
前向きの明るい気持ちになることだけを
経験できる。

「引き寄せの法則」によって、
あなたの欲求と調和するものだけが
引き寄せられてくるからだ。

感情の力を理解することで、
自分の思考を望むほうへ
方向づけることができるし、
そうすれば他人がどんな行動をしようと
心地よくいられるわけだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

という箇所をご紹介しましたが、

”自己中心的でなければ、
他人のために役立つこともできない。
自分の感情に気を配るほど
自己中心的であって初めて、
強力な「ソースエネルギー」と調和するために
感情というナビゲーションシステムを
活用することができる”とあります。
 
ジェリー 誰かがこう言ったら、どうでしょうか?
「エイブラハム、わたしはもっと楽しみたい。
あなたの教えを生かして、もっとたくさんの喜びと
幸福と調和を引き寄せるにはどうすればいいですか?」

エイブラハム まず、その誰かに、
すべてのなかでいちばん大切な欲求を発見できて
よかったね、と褒めてあげよう。

喜びを求めるのは、いちばん大切なことだから。

喜びを求めて発見すれば、
自分の「内なる存在」としっくりかみ合うだけでなく、
求めるもののすべてと波動が一致する。

自分にとって喜びが
本当に大切なものになるなら、
心地よい物事にしか焦点を定めなくなる。

そして心地よいことだけを考えれば、
結果として望むすべてが満ちあふれる、
素晴らしい人生を創造することになるだろう。

楽しく生きたいと願い、
自分の感情に敏感になって、
心地よいほうへ、もっと心地良いほうへと
自分の思考を導いていくと、
波動が改善され、「引き寄せの法則」によって
自分の望むものだけが「引き寄せの作用点」に
引き寄せられる。

自分の思考を意図的に導くこと、
それが楽しい人生の鍵だが、
楽しい人生を送りたいと望むことは
最高の人生プランだ。

喜びを求めれば、自分が望む
素晴らしい人生を引き寄せる思考が
見つかるからだ。

ジェリー いつも楽しんでいたいなんて、
とても利己的な生き方だと、
喜びを求めることが悪いみたいな言い方を
する人もいるんでしょうね。

エイブラハム わたしたちの教えは
自己中心的だとよく非難されるし、
確かにわたしたちの教えは自己中心的だが、
それは自己中心的な人生観以外の人生観は
あり得ないからだよ。

自己中心的というのは「自分自身を意識する」
ということ。

どんな自分自身を思い描いているかということだ。

自分に焦点を定めているか
他人に焦点を定めているかにかかわりなく、
あなたは常に自己中心的な視点で
行動するし、
あなた自身の感情が「引き寄せの作用点」になるのだ。

だから自分の視点に立って、
自分が心地よく感じる生き方に
焦点を定めていれば、
「引き寄せの作用点」は、
あなたが心地よく感じるものを
引き寄せるように働く。

だが、自己中心的ではなくて、
心地よく感じる生き方ではなく
心地よくない生き方に焦点を定めれば、
「引き寄せの作用点」は、
あなたが心地よくないと感じるものを
引き寄せるように働く。

自己中心的で、
自分がどう感じるかを重視し、
自分の「内なる存在」と
本当に結び付いた生き方のほうへ
思考を方向づけない限り、
他人に何かを与えることもできない。

誰でも自己中心的だ。

それ以外の生き方はあり得ない。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
ここでの自己中心的な生き方というのは、
自分軸という形で私は解釈しています。
以前、自分軸と他人軸についてという記事で、
自己中心的とか我が儘とか自分勝手が、

自分軸ということではないと書きました。

 

誰かの言動や周囲の状況に左右されて、

自分の行動を選択しているのが他人軸です。

他者や周囲に依存した状態とも言えると思います。

 

goo辞書で意味をそれぞれ調べてみました。
 
自己中心性ピアジェの用語。乳幼児の思考様式の特徴で、
事象を自分の立場あるいは一つの視点からしか分析・認識できないこと。
 
我が儘: 自分の思いどおりに振る舞うこと。
また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。 
 
自分勝手: 他人の事は考えず、自分の都合だけを考えること。
また、そのさま。身勝手。手前勝手。
 
 

自分軸というのと自立というのも、似た言葉なので調べました。

 

自立: 他への従属から離れて独り立ちすること。

他からの支配や助力を受けずに、存在すること。
 
自立という言葉は物質的な側面も含んでいるけど、
自分軸には含まれないのかなと思います。
 
で、自立の対義語は依存ですよね。
 
依存: 他に頼って存在、または生活すること。
 
だから自分軸なら他人軸という言葉が表裏一体で、
自立なら依存が表裏一体になりますね。
 
 

自己中心的とか我が儘とか自分勝手という場合は、

自分軸ではないのでしょうか。

 
自己中心性は”事象を自分の立場あるいは一つの視点からしか
分析・認識できないこと。”とあります。
我が儘は”自分の思いどおりに振る舞うこと。
また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。”
自分勝手は”他人の事は考えず、自分の都合だけを考えること。
また、そのさま。身勝手。手前勝手。”
とあります。
 
自分を中心とした視点しかない、
つまり、相反する両極を捉えていないですよね。
 
自分と相反するのは他人の視点、

他人から見てどうなのか?というのを、

客観( 当事者ではなく、第三者の立場から観察し、
考えること。また、その考え。 )
と言いますね。

客観視が出来ない状態です。


これは中心軸に留まっているとは言えません。
 
自分軸の人の他者との関係というのは、
自分と同じ様に他者も尊重しています。
といったことを書きました。
 
私は自己中心的な他人軸というのが、

我が儘とか自分勝手な自己中心的な人だと思います。

エイブラハムたちが表現している自己中心的というのは、
自分がどう感じるかを中心に置くという意味です。
私が自分軸とお伝えしていることと同じで、
何かを見て感じた状態の視点が一つあります。
それから、その感じている自分を、
もう一人の自分が観察する状態の客観的な視点があります。
自分→外と、外→自分の双方向の視点です。
他人の様な目で自分のことを観察することで、
外側から自分を眺めている、外→自分になって、
自分がどう感じるのか?ということが分かります。
感じている真っ最中は、何を感じているのかは分かりませんよね?
それを観察する様にします。
 
他人軸だと、他人からどう見えるのか、
他人がどう感じるのかという視点で、
言動を決めたり、
自分の気持ちより他人の欲求を優先させたりします。
他人軸だと、自分がどう感じているのかには、
注目せずに、自分→外になっていて、
他人がどう感じているのかをいつも観察しています。
でもそのどう感じているのか?という判断は、
結局自己中心的なものなので、矛盾が生じています。
 
自分の言動を他人がどう感じているのか、
ということを想像して、
見せたい自分を演じる訳ですけれども、
その想像というのは、事実ではなく、
本当に相手がどう感じているのかは、
確認しようもないことなのです。
だから、幻想の相手の感情に合わせて、
自分をコロコロ変えている状態になります。
 
 
例えば、
ある時は、教科書なんて必要ないんだ!
オリジナルな道を歩くべきなんだ!と言い、
また別のある時では、この人の教えは参考になるよ!
今度、自分の発信内容をまとめて本にしようかな?
とか言うんですね。
自分を中心にして何かを発信しているのではなくて、

その時、その時の目の前の人の反応や、状況に対して、

言動を変えていると矛盾が生じます。

もし、教科書なんて必要ないという気持ちが、
自分がどう感じるかに注目して、
本当にそうだと感じられたのであれば、
他の別の場面でも、同じような気持ちになるはずです。
いらないと。
でも、その時々で、気分が変わっています。
それなのに、自分は一貫性があると思っている場合が多いです。

 

ツイッターって、気分でちょこちょこ、

呟けていいかもしれないんですけれども、

自分の矛盾を見過ごしやすいという部分では、

ある意味、危険かなとも思います。

 

例えば、私って大体気分が安定しているんです!

とか言うカウンセラーがいるとして、

その人のツイートを数日間追ってみると、

ネガティブきたーとか、落ち込んでいる、

エゴちゃんがーとか、

凄い引き寄せ出来た!とか、

怖いぐらいにどんどん現実化する!とか、

お客さんに褒められて有頂天になり、

嫌なお客さんにネチネチ文句を言い、

物凄い揺れ幅が激しいと感じます。

いつも、他人にどう思われるか?ということを、

主軸においていて、気を引こうとしている状態。

自分がどう感じるかを客観的には見ていない。

自分の姿って、自分では見えないものだけど、

せっかく、記録が残っているんだから、

読み返してみることで、

自分を客観視できると思います。

こういう人が他人へアドバイスするのかと思うと、

恐ろしいなと感じます。

 

ジェリー どんな人でも、どんなものでも
思考からできているのですか?
それとも思考を媒介にしてできているんですか?
それとも、どっちでもないんでしょうか?

エイブラハム 思考からできているし、
思考を媒介にもしているので、両方正しい。

思考は「引き寄せの法則」によって
ほかの思考に引き寄せられる。

思考とは「引き寄せの法則」が働く波動だ。

思考はモノもしくは言明であり、
同時にすべての物事が引き寄せられ、
創造される道具(ヴィークル)である。

あなたがたがいる世界を、
かつて思い浮かべられ、
検討され、考えられ、存在するといいと思われた
あらゆる食材が限りなく豊富に用意された
キッチンだと考えてごらん。

あなたはシェフで、自由に好きな食材を
いくらでも棚から選び、
それを使って今日自分が楽しいと思う
ケーキを作るんだよ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 
引き寄せ界隈の人が好きっぽい感じの、
説明だと思ったのでご紹介しました。
自由に好きな食材を!いくらでも棚から選び!ケーキを!
みたいなのをよく言いますよね。
あなたが主人公で、あなたが創るんです!
とか。
 
ちなみに、言明とは、
"言葉に出して、はっきりと言いきること。明言。 "
とありますが、
”「立言 (りつげん)」に同じ。”ともあります。
 立言とは、 ”論理学で、一つのことを主張した文で、
真・偽いずれかであるもの。言明。”とあります。
ただはっきり言うだけではなくて、
その内容を明らかにする訳です。
 
引き寄せ界隈の人達の発信内容って、
フワっとした曖昧な表現だったり、
擬態語とか絵文字ばっかりだったり、
改行とか意味不明なスペース(強調?しているのか)ばかりの、
ポエム調とか、言明とは相反するものだと感じます。
 
わたし は好きなことを しているから
わたし は好きなことを おもっている
 
きょうの ランチは 美味しかったな~ラブラブ
だいすきな 友達と すてきな時間を過ごせましたラブラブラブラブウインク
 
 
 
 
 
だから わたしには 思考はいらない
意図も ひつようないんだ
 
 
みたいな感じ?
ヨカッタネー
(フワっと否定が入っているんだけどね…)
 
私はここまでまとめてきて、
フワフワ、キラキラ系や非二元と、
引き寄せの法則は相性が悪いと感じました。
混ぜるな危険なのを無理矢理混ぜた結果、
恐ろし気な爆弾が出来てしまったのかもしれません。
言語化苦手とか、致命傷じゃないでしょうかね。
 
言語化が苦手な人は、深く考えずに、
上っ面の情報だけで飛びついてくれるので、
いいカモになります。
その人たちを上手く誘導する方法が、
ワクワクしていればいい、
楽しい事を考えたら楽しい現実になる、
といった短絡的な手法なのかもしれません。
 
ほんと巧妙ですよ!
掘り下げて学ぶと、色々分かってきますね。
最初にこれで儲けようとした(マルチ系?)人は、
計算してやってますよね。
 
言語化が苦手だからこそ、
覗き見して、書き写すことしか出来ないのでしょうけど、

そういう人は、本当に望み通りの現実を創造出来るとは、

思えないです。

 

 
ジェリー それじゃ、受け取るのも与えるのも
同じように正しくて楽しいと、
そうおっしゃるのんですね?
言い換えれば、一方が他方より倫理的に優れているとは
お思いにならないのですね?

エイブラハム 強力な「引き寄せの法則」の働きによって、
あなたが自分自身の波動を通じて与えるものは、
同時に受け取るものでもある。

「引き寄せの法則」によって
物事は常に正確に仕分けされ、
それぞれの思考に合致したものがもたらされる。

だから「幸せ」な思考をしていれば、
いつだってそれと合致したものを受け取る。

憎悪の思考をしていれば、
憎悪に「引き寄せの法則」が働くから、
愛情いっぱいの結果になるはずがない。

それが「法則」だ。

人はたいてい行動やモノを指して
与えるとか受け取るというが、
「引き寄せの法則」はあなたがたの言葉や行動に
対応して働くのではなく、
その言葉や行動のベースである波動に働く。

あなたが誰か困っている人に出会ったとしよう。

お金がないとか、交通手段がない、
食べ物がない、という人だ。

あなたはそういう人を見て悲しくなり
(それはあなたがその人の欠落状態に着目し、
欠落に対応する波動を起こすから)、
悲しい気持ちでお金や食べ物をあげようとする。

そのときあなたが伝えている波動は、
こんなふうに言っているのと同じだ。

「あなたは自分でどうすることもできないようだから、
わたしがしてあげよう」。

あなたの波動は「幸せの欠落」に焦点があり、
したがってお金や食べ物をあげたとしても、
あなたの支配的な波動は「欠落を永続させる」ほうへ働く。

そこで、ちょっと時間をとって、
その人の境遇がよくなることを想像してみるといい。

その人が成功して幸せになることを考え、
それがあなたのなかの支配的な波動になってから、
そのときの感情をベースに行動して、
何かを提供したければする。

こうすれば、
あなたがその人に関心を向けたときの
支配的な波動によって、
相手からも幸せと一致する波動を引き寄せる。

わたしたちに言わせれば、
それだけで価値ある与え方なのだ。

問題は「与えるのと受け取るのとどちらが上か」
ではない。

「望ましいことに焦点を定めるのと、
望まないことに焦点を定めるのと、
どちらが上か?」

「成功を信じて相手を励ますことと、
現状を重視して押しつぶすことと、
どっちが上か?」

「自分の『内なる存在』とかみ合ってから
行動するのと、
かみ合わないままに行動するのと、
どっちが上か?」

「相手の成功を促すことと、
失敗を促すことと、どっちが上か?」

それが問題なのだよ。

他人に与えることができる
最大の贈り物は、
相手の成功を期待することだ。

人生の見方は人の数だけあり、
さまざまに違っている。

あなたは誰もが同じで、同じことを望み、
同じことを獲得する世界を創るために
生まれてきたのではない。

自分が望む生き方をし、
人もそれぞれ望む生き方をすることを
認めるために、この世界にいる。

ジェリー あら探しみたいな
議論になるかもしれませんが、
地球上の自己中心的な存在のすべてが
望むことをすべて実現したら、
世界はめちゃくちゃになるのではありませんか?

エイブラハム 「めちゃくちゃ」になどならない。

人は「引き寄せの法則」を通じて
自分の意図に調和した人たちを引き寄せる。

そうすれば世界はとてもバランスのとれた場所になる。

あなたが参加した世界、
この広くて素晴らしい「キッチン」には
ありとあらゆる多様なものが十分に存在してるのだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 

鏡の法則というのも、

外側のものを理解する時は、

自分の内側にあるものしか理解出来ないし、

見えていないということですが、

自己中心的とも言えますよね。

 

誰かの気持ちを理解したと思っているのは、

幻想で、

自分が経験したこと、思うことの中から、

相手の状況に近いのではないかな?と想像したことを、

当てはめて、

まるで相手の気持ちが流れ込んでくる様に、

相手の感情として、

自分の内側にある感情を把握しているのです。

 

他人のことほどよく見えるものなので、

そうやって、間にクッションを挟むことで、

ショックを受けない様に、自分というものを見ます。

誰かのことだと思えるから、

冷静に観察していられるのです。
もし、これが自分のことだと気付いてしまたら、

ショックを受けてしまうでしょう。

自分が壊れない様に、他人のこととして、見るのです。

 
「うん。つまり、多くのひとが自分じしんのことを
すばらしいひとだと思いこんでいるんだよ。
自分のもっているいくつかの欠点を、
まったく直視することができないでいる。
その欠点は、ときにはとても重症だ。
でも自分では気がつかないその欠点を、
まさに他人の中にみいだすと、そのひとを
ひと一倍はげしく非難するということがいつも
起るんだよ。
そしてとつぜんひとからその欠点を
指摘されようものなら、
死ぬほどひどいショックを受けるんだ。
いつも自分を美しいと思いこんでいた
”みにくい、幸せ者の小さなひと”
の話を知っているかい?」

「ううん、知らない」

「それまでいちども鏡を見たことがなかったんだ。
そして、はじめて鏡を見たときから
悲劇がはじまったんだ……。
わかるかい?」

こんどはふたりともウンとうなずいた。

「われわれを愛からひきはなしている、
エゴという自分の中のみにくい部分には、
それを支えてしばりつけている
根があるんだ」

「その根って?」

「いちばん大きな本質的な欠点だよ。
われわれにはいくつもの欠点があるけれど、
その中でもいちばん重要なやつだ。
それががっちりとエゴを支えているんだ。
ちょうど土にうまって外からは見えない木の根のように、
自分で見つけるのはたやすいことじゃない。
他人のほうがずっと見つけやすい。
でも他人からそれを知らされると、
自分を美しいと思いこんでいた”みにくい、幸せ者の小さなひと”
とおなじように、
われわれのかわいそうなエゴはその支えを失って、
われわれは死ぬほどショックを受けるよ……」

ぼくはどうもこの話になっとくできなかった。

「なんでなの?もし、エゴがなくなったとしたら、
もっとずっと幸せじゃない、
純粋な愛にもより近づけるわけだし……」

「まだひとりでは泳げないひとから
いきなり”救命具”を取ってしまったら、
たいへんなことになるよ!……」

「またまた、なぞめいた言い方をして。
それ、どういうことなの?」

「あるていどまでの水準の人生において、
エゴは一種の”救命具”のような
保護者的な役目をしている。

でももし、もっと上の水準に進歩したければ、
その重い”救命具”─つまりエゴのことだけど、
それをいっしょにもっていくことは
できないんだ。
まず、ひとりで泳ぐことを学ばなければならない。
いつか二者択一しなけれならない時期というものが、
やってくるんだよ」

「その”泳ぐ方法を学ぶ”ってどういう意味なの?」

「宇宙の法にのっとって生きることを学ぶ
ということだよ。
もし愛とともに生きていけるなら、
ほかにはなにも必要じゃない。
でも、まだきみたちは
愛をどうやって手に入れたらいいのかも
知らないでいる。(以下省略)」
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)より
 
鏡を見た事がない”みにくい、幸せ者の小さなひと”の状態です。
 

そして、準備が整った人は、鏡というものが、

理解出来る様になります。

精神科の先生にも言われたのだけれども、

無理に理解させようとすると、

壊れてしまうのでやめて下さいとのことでした。

受け入れられない人、

理解出来ない人はその段階なのだから、

仕方がないのです。

 
 
あるスピ系教祖様は、
自己犠牲をして他人を助けるべきだと、
いつも主張しています。
支配者層に文句を言うけれども、
幸せに生きる人にも、
支配者層の手先だと文句を言うのです。
 
その人の幸せというのは、
みんな同じくらいの貧乏度で、
お金を持たずに自給自足で助け合うことで、
理想の国を造る為に、
誰か自分に土地をプレゼントして下さいと、
募集していました。
自分に土地をプレゼントしてくれたら、
みんな(そこに集まった人だけだけど)を幸せにしますと。
そして、お金のない人(支配者層の言いなりになりたくなくて、
お金を稼ぐことをしたくない人)に、
援助をして下さいと言うこともありました。
援助する人がいないと、
何故そんなに冷たいのか?
自分のことしか、考えていないのか?
もっと地球の幸せを考えたらどうか?と。
こういう人はエイブラハムの説明する、
自己中心的な生き方を聞いたら、
めちゃくちゃ怒るんだろうなと思います。
私からしたら、どっちが自己中なんだ?と感じます。
自分の理想を他人に押し付けて、
幸せにしてもらおうとしていますよね?
 
 

以前ご紹介した「ハトホルの書」
(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)には下記の様な教えがあります。

 

V するとあなたがたは私たちの過ちに
気づいても、良い悪いの判断はしないのでしょうか。
 
 
そうです。わたしたちは見守っているのであって、
審判しているわけではありません。
 

V ではあなたがたの体験によれば、
私たちを援助してくれている文明の存在たちも、
より高次の気づきのピラミッドに向かい
意識を広げているのですね。
 

そうです。これこそピラミッドの法則です。

わたしたちはみずからの関心で
援助していますが、それはみなさんがわたしたちの
兄弟姉妹だからです。

愛ある自己本位(微笑んで)と言えばいいでしょうか。

あなたがたに貢献することでわたしたちは成長するのです。

一歩先を行く者としての気づきや功徳や思いやり、
そして愛をあなたがたへの援助のなかで
使えば使うほど、わたしたちはアセンションの上昇螺旋を
進むことになります。

つまり、あなたがたとわたしたち全員が
一緒に上昇できるというわけです。

なかには後ずさりしていく人もいますが、
それはそれでよいのです。

なぜならそうしたプロセスにも
自由意志がはたらいているからです。

それでどん底まで落ちてしまった人がいたとしても、
最終的には再び上昇することになります。

なにしろ、それに代わる方向はほかにないのですから
(たくさん笑いながら)。
 
”愛ある自己本位(微笑んで)と言えばいいでしょうか。”
という言葉があります。
”強力な「引き寄せの法則」の働きによって、
あなたが自分自身の波動を通じて与えるものは、
同時に受け取るものでもある。”という箇所と同じなのですが、
これが他者への奉仕の生き方であって、
自分が与えることによって受け取る状態です。
 
上記の教祖様の主張というのは、
与える人と受け取る人が分離している状態で、
自己への奉仕の在り方なのですが、
奪われた可哀想な立場の人が、
自分の為に他人を奉仕させる、
奉仕を強要する。
みんなが幸せになる様な流れではなく、
奪われた可哀想な立場の人を創ることで、
奪う人が発生しています。
循環はしないのです。
 
自分が助けたい人になる為には、
奪われた可哀想な人が存在する必要がありますよね。
結局、教祖様は自分が望んだ世界を創造しているのです。