例えば、自分が攻撃されている様に感じるとします。

その時は、鏡の法則を思い出して、

何故そう感じるのかな?という内観が必要です。

攻撃されているのか?されていないのか?というのが、

問題なのではなくて、

その様に感じる原因は何なのかな?ということです。

 

自分に攻撃されるのではないか?という様な、

後ろめたいことがあったり、

自分自身が誰かを攻撃していて、

それを投影している場合もあります。

 

以前もご紹介しましたが、

「ECTON─エクトンが描く意識の地図」(リチャード・ラビン著)には、

下記のような説明があります。

 

何時であれ、他の人々と関わる時に、

自分と離れた「彼ら」という見え方がするときは、

自分の内側を探るチャンスです。

 

「彼ら」は自分のどの側面を反映しているのか、と。

 

誰かに腹が立ったり、誰かと問題を起こすとき、

私たちはよく「私だったらあんなことはしないのに」と言います。

 

でも、多くの場合、自分が同じようなことをする可能性があるか、

あるいは過去にそのようなことをして

それを認めたくない時に「あんなことはしない」と怒ります。

 

もし、自分自身に攻撃される覚えもないし、

誰かを攻撃したいという気持ちもない、

又は、過去にはそういうことがあったとしても、

今の自分は平穏だという場合は、

誰かが自分に攻撃しようとしていたとしても、

それはその人自身の問題であって、

その人がこちらに何かを鏡にして見ている、

投影しているのだなと分かります。

無理にやめさせることは出来なくても、

必要なら自分を守って、あとは、

それに惑わされることもなくスルーするでしょう。

 

 

何度かご紹介していますが、

「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)には下記の様な教えがあります。
 
もし我々があることを充分に強く信じたならば、
それはそれを信じている我々に関する限り真実なのである。

ジャングルの中にいるアフリカの原住民たちは、
ある種のお守りが自分たちを守る力をもっていると信じており、
そのことによってそのお守りに力を与えているから、
守護力を発揮するのである。

アフリカの魔法使いの医師に
呪われたと言われてから自分の小屋に帰り、
壁の方へ顔を向けて死んだというアフリカ原住民の話は、
記録に次々と記されているのである。

その呪いそのものは、その男を死なす力をもたなかったのである。
しかし、その男が自分を殺す力があると信じたから死んだのである。

よく、わたしのところへ来て、
否定・悪の力が自分に向けられており、
それが自分に害をなすのを信じるという人がいる。

そんな人は、
自分自身の創造想念の力にそれを与えているのである。

わたしは、そんなことを言う人には、
”否”というのである。

あなたがそんなものは決して自分の上に力を加えないと、
完全に思っており、
そしてあなたの意識を調和と平和の状に保っている限り、
あなたを害するものは何もないのである。

おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない。

そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。

だが、あなたはそれを受入れてはいけない。

あなたの電話が鳴るが、
あなたがそれに出なければということはない。

あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、
あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。

非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。

大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。

バラード婦人はわたしに一時間も紫外線を送ったが、
それはわたしには何らの悩みの種ともならなかった。
わたしは、紫外線はよいものだと思った。
わたしがそれを悪的なものだと思わない限りは、
それは悪ではないのである。

わたしがルイジアナにいった時、
シートの下に仏像がピンでとめてあるのを発見した。
わたしはそれをかわいいものだと思った。

これらのものも我々が
それに力を与えなければ偉力をもたないのである。

運び手として使われることのできる
ある種のバイブレーション(振動)はあるが、
それらのバイブレーションが悪を運んできたら、
我々はそれを受けてはならないのである。

イエスはこの法則を二、三語で説明している。
それは”悪に抗する勿れ”である。
この語によって、イエスは文字通りに、
イエスを害し、あなたを害する様な存在を認めない
ということを意味しているのである。

もし、あなたがその悪と闘うならば、
あなたはその悪の力を認めているのである。

もし、それを認めないならば、それはすぎゆくのである。
 
消極否定、悪の力があなたを打っていると認めることは、
あなた自身が悪とならねばならないということであろう。

悪というものは、あなたがその状況にならなければ、
あなたを打つことは出来ないのである。

 

"大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない"
とあります。
 
どんな情報があっても、
自分自身はそれに影響を受けずに平安、平穏に過ごすようにするのです。
動じない様にしなさい。
そうなる為には、まず内観して、
自分の不安や恐怖と向き合う必要があります。
 
様々な隠されていた思いを発見できると、
外側に投影してたものと、
しっかり境界線が引けるようになると思います。
引き寄せ界隈では、周囲の人全てに好かれる設定をする!
とかやるそうですけれども、
ドーリル先生は、
”おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない”
とおっしゃっています。
”そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。”と。
 
周囲の人をコントロールせよという教えではなく、
自分をコントロールするのです。
”だが、あなたはそれを受入れてはいけない。
あなたの電話が鳴るが、
あなたがそれに出なければということはない。
あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、
あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。”
悪意を持っている人がいても、
動じる必要はないだろうということです。
 
”非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。”
”これらのものも我々が
それに力を与えなければ偉力をもたないのである。”
”運び手として使われることのできる
ある種のバイブレーション(振動)はあるが、
それらのバイブレーションが悪を運んできたら、
我々はそれを受けてはならないのである。”
とあります。
悪意を持っている人がいる!と認めて、
あの人も私を好きになる様に設定しよう!とした時点で、
その”悪”をどうにかしようとして戦っている状態になります。
 
”もし、あなたがその悪と闘うならば、
あなたはその悪の力を認めているのである。
もし、それを認めないならば、それはすぎゆくのである。
消極否定、悪の力があなたを打っていると認めることは、
あなた自身が悪とならねばならないということであろう。
悪というものは、あなたがその状況にならなければ、
あなたを打つことは出来ないのである。”
スピ系の人達は、あらゆる人に好かれることを目標にしたり、
それが成長の証だと思っている様ですけれども、
そうではなくて、
どんなに自分を嫌っている人が現れたとしても、
動じることがない、影響を受けない、
だから悪はないのと同じ(実際はある)ということなのです。
あらゆる人に好かれようという気持ちは、
相手の自由意志を尊重していません。
私が嫌な気分になるから、あなたは私のことを好きでいて!
とやる訳ですよね。
あなたが私を好きだろうが嫌いだろうが、
私は影響を受けませんのでお好きにどうぞ、
というのが相手の自由意志を尊重した状態です。
全ての人に好かれるという状態は、
恐らく一生かけてもやってこないと思います。
どうしてあなたは全ての人に好かれないといけないと、
考えるのでしょうか?
 
 
 

ラジオに例えると、

1チャンネルから50チャンネルまで受信出来る人と、

1チャンネルから100チャンネルまで受信出来る人がいるとします。

もし、後者の様に、意識と周波数が拡がって、

受信出来るチャンネルが増えた人であるなら、

1チャンネルの番組も50チャンネルの番組も、

チューニングすれば受信出来ますので、

周波数が違っても合わせることが出来ますと書きました。

 

「療法の真義」(M・ドーリル博士著)では下記のラジオの説明があります。
 

もし、あなたが、
自分の意識を同調することが
出来れば、
その相手が世のどこにいようとも、
あなたの思念力が
相手と接しられるのである。

わたしが
相手から感じ(振動)をうけると、
自分で彼女のところへ
行けるのである。

これは、
想念と意志とによってのみ
出来るのである。

その感じとは、
あなたもわたしの
バイブレーション(振動)が
その手紙にしみ込んでいる
バイブレーションと
まざり合っている様に
感ずるのである。

距離というものは、
我々の三次元的感覚の
限界の故に
距離なのである。

 

もし、我々が自分の部屋に
三十台のラジオをおいて、
五〇〇マイル(八〇〇キロ)離れたところにも
別のラジオがあれば、
放送局が放送電波をある波長で送っていれば、
我々が自分の部屋にいようが五〇〇マイルの向うにいようが
同じ放送を聞けるのである。

このラジオの例から、
全世界中に振動(バイブレーション)が
どの様にして送られているかを知ることが出来る。

もし、あなたが、
人間の振動波長に同調することを学べば、
あなたは、その人がどこにいようとも
コンタクト(接触)することが出来るのである。

 

 

一方では、

”大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。”
とある様に、周囲に左右されないということが出来て、
でももう一方では、
”もし、あなたが、

人間の振動波長に同調することを学べば、
あなたは、その人がどこにいようとも
コンタクト(接触)することが出来るのである。”

とあります。

一見、矛盾している様に感じるかもしれません。

これが統合意識領域の状態ですが、

到達していない人には理解が出来ないかもしれませんね。

両方ある、という状態で、

統合意識領域に到達していない人はいつも、

どっちか一方でしかないですよね。

 

中心軸に留まっているので、

相手に同調しない様にすることも出来るし、

同調させることも出来る、

どっちもあるということです。

必要に応じて、どちらかを選択するのです。

同調しちゃうということでもなく、

同調できなくなるということでもなく、
周囲の状況に振り回されるのではなくて、

自分でどうするか、どう在るかをその都度、

選択して決めるのです。

 

だから、波動が合わなくなったから、

周波数が違うから合わないの!というのは、

他人軸で、自分でコントロールしていない状態です。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)でご紹介した、下記の箇所では、

 

一般の多くの人々は大師というものについて誤解をしている。

我々が大師聖者になると、
最高尊厳的な地位におかれ、
すべてのものと一体となり、
個性とかエゴ(人格・個我)とかは
全体の中に吸収されてしまうと誤解をしているのである。

皆さんは、大師とは、すべての人間的感情と経験とを
超越した高い地位におられ、
普通の人類とは遠く離れたところに
住んでいると教えられてきただろう。

しかし、その反対に、本当にすべての人間的感情を
経験卒業されたかただから、
どんな感情でも、より深いところまで
感じとることが出来るのである。

でも、大師はあらゆる人間的感情や
知覚を制御し均衡をとることを知っておられるのである。

もし、大師が人間のなやみや苦しみを
感じとることが出来なければ、
それらを理解することも出来ないし、
人間の苦しみは大師には無関係なこととなるわけだから、
他の人を助けるということも出来ないはずである。

真の大師は、どこかの山の頂上に住んでいるのではなく、
すべての人類と一体となるところにおられるのである。

皆さんに覚えておいてもらいたい言葉が一つある。

それは、”大師という地位は、経験によってのみ
得られる”ということである。

だから、大師たらんとする者は、
人生のあらゆることをひるまずに経験しなければならない。

その様にしてはじめて宇宙と自己の内在自我とを同調させることが
出来るのである。

大師たらんとする者はまた、”すべての人のためにあらゆることを”という
態度でなければならない。

この様な態度をとることによってはじめて、
一般の人々の人生の一部としての
いろんな出来事を理解できるのである。

真実の大師は、どんなことだろうと、
他の人々がなしている事柄の精神の中に入りこむことが出来る。

大師は酒飲みと酒を飲み、ばくち打ちとばくちをすることもある。

大師達がその様なことをするのは、
彼らのレベルにまで自己をもっていって、
はじめてその人々を自分の地位にまで
高める第一歩となるのだということを
よく知っておられるからである。

だから大師は、例え、酒のみなんかと交わっても、
その人達のもついかなる破壊的バイブレーション(振動)にも
いささかも触れることはないのである。

大師の一人、イエス・キリストが
罪人や収税人の仲間だと言われたのも、
こんな人々を救うための交わりをしたためであり、
大酒飲み、大飯食らいと悪口されたのも同様な理由からである。

イエスは、それがどんなことであろうと、
非難もせずにその雰囲気の中へ入ってゆくことが出来たのである。

イエスは、大師になった者が誰しも心得ている様に、
真理に至る道と知識とを知っていながら、
それを真剣に求める者に対して
教えないことそ唯一の罪だということを
よく知っていたのである。

求道者に知識を与えることを拒むことこそ唯一の罪であり、
真に罪と呼ぶにふさわしいことなのである。

大師にもなった様なかたがたは
決して真の求道者を指導しようとしない
ということはあり得ないから、今述べた様な真の罪というものは
存在しないのである。

イエスは、罪人と言われる人々を
悪のぬかるみから抜け出させるには、
その者達とつき合う以外に良い方法がないということを知っていたから
罪人達とも交際したのである。

これが、イエスの「もし私が高められれば、
他のすべての人々は私の方に引き寄せられるだろう」
と言われた意味なのである。

皆さんも皆さん自身の道を行き、
自分自身の本質を知ることによって高揚するという、
そんな人生を探求して下さい。

 

”真実の大師は、どんなことだろうと、
他の人々がなしている事柄の精神の中に入りこむことが出来る。
大師は酒飲みと酒を飲み、ばくち打ちとばくちをすることもある。
大師達がその様なことをするのは、
彼らのレベルにまで自己をもっていって、
はじめてその人々を自分の地位にまで
高める第一歩となるのだということを
よく知っておられるからである。
だから大師は、例え、酒のみなんかと交わっても、
その人達のもついかなる破壊的バイブレーション(振動)にも
いささかも触れることはないのである。”

とあります。

”その人達のもついかなる破壊的バイブレーション(振動)にも
いささかも触れることはないのである。”ということ、

つまり影響は受けません。

”彼らのレベルにまで自己をもっていって、
はじめてその人々を自分の地位にまで
高める第一歩となる”為に、

相手に合わせることが出来ます。

 

ちょっと考えてみても、

超立派な聖者みたいな人が、

「自分が影響されちゃうから、悪いやつとは関わりたくない!」とか、

「困った人がいても波動が合わないから弾かれちゃう!」とか、

言うでしょうか?

そんな状態で聖者とか笑うwwwと思いませんか?

 

周囲がどんな状況であっても自分自身がそれに影響を受けないから、

同調させることも出来るんですよね。

 

「カバラの眞義」(M・ドーリル博士著)には、
下記の様な教えがあります。
 
好奇心のみの求道者は、カバラの深い啓示秘伝を
決して受けとることが出来ないのである。

というのは、心の純なる者のみが、
神秘を与えられるところの内部神秘界に入ることが
許されるのである。

その啓示秘伝は、ことばや書きものによって
与えられるのではなく、
実例による奥秘的方法によって与えられるのである。

これが書かれざるカバラ、
話されざるカバラなのである。

恐怖を克服した者は、総ての障害がなくなり、
聖なる神秘の巻物が開かれるのである。

 

引き寄せ界隈のミスリードや悪意のある誘導も、

根本的に、恐怖心を克服していない、

二元性を克服していないということが原因で、

起こってきていると感じます。

 

バシャールもエイブラハムもまず二元性を克服してね

というのが大前提であって、

それから自分の望む人生を創造しましょう!とやっていると思います。

少なくともエイブラハムは、

物事には二極あって、どちらも選べるので、

肯定的な側面を選択して行こうと伝えていて、

楽しい事だけを考えて嫌な事はシュレッダーにかけよう、

拒否しようとは伝えていないと思います。

 

 

エイブラハムは、下記の様に、「宇宙の法則」の定義について、

説明をしています。

 

わたしたちはあなたがたに「永遠なる宇宙の法則」を
もっと明確に理解してもらいたいと思う。

そして物質世界の人生の表現を通じて、
その法則をもっと意図的、効果的に、
また満足がいくように応用してもらいたい。
そのための力になりたいと願っている。

「宇宙の法則」には三つある。

第一は「引き寄せの法則」だ。
この法則を理解して効果的に応用できるようにならなければ、
第二の法則である「意図的な創造の方法論」と
第三の法則である「許容し可能にする術」も活用できない。

第二の法則を理解して活用するためには、
第一の法則を理解して効果的に活用しなければならない。

また第三の法則を理解して活用するには、
その前に第二の法則を理解して活用できなければならないのだ。

第一の「引き寄せの法則」というのは、
「それ自身に似たものを引き寄せる」ということ。

「なんだ、簡単なことではないか」と思うかもしれないが、
これは宇宙のなかで最も強力な法則
─あらゆるとき、あらゆるものに働く法則だ。
この強力な法則に影響されないものはいっさいない。

第二の「意図的な創造の方法論」というのは、
「わたしが考え、信じ、あるいは期待したことは、
実在する」ということだ。

要するに何かを考えると、望んでも望まなくても
それが存在として現れる。

だから「意図的に」思考を作用させること、
それが「意図的な創造の方法論」の内容だ。

この法則を理解して意図的に応用しないと、
あなたが望むとおりの創造はできない。

第三の「許容し可能にする術」というのは、
「わたしがありのままのわたしで、
他者がありのままの他者であることを許容し、
可能にしよう」ということだ。

たとえ他者がありのままのあなたを認めなくても、
他者がありのままであることをあなたが認めるなら、
あなたは「許容し可能にする者」になる。

だが、まずなぜ自分の今の人生があるのかを
理解しなければ「許容し可能にする者」にはなれない。

あなたが思考を通じて(あるいは関心を向けることを通じて)
他者を自分の人生に招き入れなければ、
他者はあなたの経験の一部にはならないし、
あなたが思考を通じて(あるいは観察することを通じて)
ある状況を人生に招き入れなければ、
その状況はあなたの経験の一部にはならない。

そのことを理解できたときに初めて、
あなたはこの人生の表現へと身を投じたときに望んでいた
「許容し可能にする者」になれる。

この三つの強力な「宇宙の法則」を理解し、
意識して応用できれば、
あなたは喜びに満ちて自由に、思いどおりの人生経験を
創造できる。

人生で出会う人も状況も出来事もすべて、
あなたが自分の思考を通じて
経験のなかに招き入れたのだということが理解できれば、
この物質世界の身体に宿る決意をしたときに
意図したとおりの人生を送れるようになるだろう。

だから力強い「引き寄せの法則」を理解し、
自分の人生経験を
「意図的に創造」しようという意志を持てば、
いずれは「許容し可能にする術」の完全な理解と
応用だけが生み出す比類ない自由に導かれる

 

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)

 

 

第一の法則が「引き寄せの法則」。
第二の法則が「意図的な創造の方法論」。
第三の法則が「許容し可能にする術」。

とあります。

 

goo辞書には、法則とは下記の意味になります。
 
法則: 一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、必然的関係。
また、それを言い表したもの。
 
法則というのは普遍的なものです。
私が行なっても、あなたが行なっても同じ結果になるし、
その法則を知っていても知らなくてもどんな人にも働いている、
というものだから法則という訳です。
 
なので、実質的に上記の中での法則というのは、
引き寄せの法則=それ自身に似たものを引き寄せる
という部分だけではないのかな?と、
説明を読んで感じました。
エイブラハムは三つの法則と教えていますけれども、
方法論とか可能にする術というのは、
放っておいても勝手にそうなる普遍的なもの、
という意味では使っていないですよね。
 
例えば意図的の意味は” ある目的を持って、わざとそうするさま。”
とあります。
何かしらの目的を持ってコントロールする方法ということで、
これは法則ではないですよね。
手に持ったものを離したら落ちるということが、
私にもあなたにも猫にも起こるという様な法則ではないですよね。
 
また、という言葉の意味は、
”人が身につける特別の技。技術。 ”
”手段。方法。てだて。すべ。 ”
”策略。計略。はかりごと。たくらみ。 ”
”人知をこえた不思議なわざ。忍術・魔術・妖術など。 ”
とあります。
技、技術、手段、方法。
これも法則ではないですよね?
 
つまり、エイブラハムかチャネラーか翻訳かは分からないけれども、
引き寄せの法則として広められているものは、
目的をもってわざとそうする技術のことが中心で、
本当の意味での法則は、
”それ自身に似たものを引き寄せる”
”類は友を呼ぶ”という部分だけです。
 
よく、宇宙法則やスピリチュアルをコツコツ学んだ人たちが、
「引き寄せの法則」は沢山ある法則の中の一つなだけで、
魔法の呪文でもないし、あらゆる願いを叶えてくれる、
万能選手でもない、たった一つ覚えたくらいで、
世界を制覇出来る様な気持ちになっている引き寄せ界隈の人は、
滑稽だという風に見ていることがあります。
私もそうです。
 
以前、「秘教真義」(M・ドーリル博士著)から、
二十の宇宙法則をご紹介しました。
 
二十の宇宙法則について1(意識想念の法則)

二十の宇宙法則について2(時間の法則)

二十の宇宙法則について3(物質の永遠運動の法則)

二十の宇宙法則について4(積極消極の法則)
二十の宇宙法則について8(生れ更りの法則)
二十の宇宙法則について11(円とカーブの法則)
二十の宇宙法則について13(物質界の意識の法則)
二十の宇宙法則について14(魂の成長方向)
二十の宇宙法則について15(意識の活動の限界)
二十の宇宙法則について16(否定消極の法則)
二十の宇宙法則について17(時間(空間と周期)の限界)
二十の宇宙法則について19(物質進化の法則)
二十の宇宙法則について20(原因と結果の法則)
 
引き寄せの法則とは、
 

(五)振動の法則

すべてのものは、各々異なるオクターブの振動によって
存在しているのである。

その振動律に従って、表現生成の形式が規制されるのである。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より

 

という法則を指していて、

”共鳴引力の法則”や”万有引力の法則”という言葉で、

紹介されていることもあります。

 
全ての人に好かれる設定とか、
自分を愛すれば彼が愛してくれる設定とか言うのは、
方法論とか術の方で、
引き寄せの法則としてセット販売されているかもしれないけれども、
法則ではないです。
(もしかしたらアムウェイの手法なのかもしれませんけど)
 
 

”第二の「意図的な創造の方法論」というのは、
「わたしが考え、信じ、あるいは期待したことは、
実在する」ということだ。”
”何かを考えると、望んでも望まなくても
それが存在として現れる。”

とありますが、
引き寄せ界隈では、
この部分を思考が現実化するとか、
思考=現実とやっていますよね。
 
 
(一)意識想念の法則

現在意識的な想念がなければ何も創造されない。

すべてのものは、宇宙心か宇宙心の単位である
人の心かの意識的想念によって顕現されているのである。

凡ての主観的創造は、意識単位(人)か全体心(宇宙)かの
いずれかの思考の結果なのである。
 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より

 
という意識想念の法則をご紹介していますが、
これが”「わたしが考え、信じ、あるいは期待したことは、
実在する」ということだ。”の部分に当たると思います。
だから”法則”はここですね。

勿論、「引き寄せの法則」という本の中で、

セットで語られていますけれども、

この法則自体は、「引き寄せの法則」ではないですよね。

 

意識想念の法則があるので、

”この法則を理解して意図的に応用しないと、
あなたが望むとおりの創造はできない。”為に、

”だから「意図的に」思考を作用させ”ましょうということです。

なので、ここは法則ではなくて、この法則を上手に使う方法、

それが「意図的な創造の方法論」”になる訳ですね。

 

”第三の「許容し可能にする術」というのは、

「わたしがありのままのわたしで、
他者がありのままの他者であることを許容し、
可能にしよう」ということだ。
たとえ他者がありのままのあなたを認めなくても、
他者がありのままであることをあなたが認めるなら、
あなたは「許容し可能にする者」になる。”

とあります。

”あなたが思考を通じて(あるいは関心を向けることを通じて)
他者を自分の人生に招き入れなければ、
他者はあなたの経験の一部にはならないし、
あなたが思考を通じて(あるいは観察することを通じて)
ある状況を人生に招き入れなければ、
その状況はあなたの経験の一部にはならない。”

とありますので、

”意識想念の法則”の応用ですよね。
エイブラハムの言う第二の法則に補足したものという感じです。
 
結局、ドーリル先生が教える二十の法則のうちの二つ、
二十の宇宙法則について1(意識想念の法則)
二十の宇宙法則について5(振動の法則)

を使ったものが、引き寄せの法則としてセット販売されている、

ということかなと思いました。

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)には、

下記のような説明があります。

 

皆さんも、どんな情緒だろうとすべての情緒は、
いつもの様にそのおもむくままにしておくと、
その人を劣弱感で支配してしまい、
被支配感の妄想にとりつかすものであり、
自分自身が人生の主人公であると
思うことさえ困難にするものだ
ということを思い出してもらいたい。

どんな感情だろうと、
それが求道者を支配征服したなら、
その求道者の判断をゆがめ、
その感情に色づけされた結論を出させてしまう。

感情という一つのものを支配しさえすれば、
他のいろんな能力をも
支配できることになるのである。

思潮の一つの派を勉強修得しさえすれば
他の派の思想についてのマスター(精通)も
容易となるのものである。

これと同様に、
多くの感情の中の一つさえ支配出来れば、
他のもろもろの感情についても
容易に理解し支配できる様になる。

 

”思潮の一つの派を勉強修得しさえすれば
他の派の思想についてのマスター(精通)も
容易となるのものである。”
とあるので、

一つの法則をじっくり学ぶことで、
他の法則への理解も容易になりますから、
ダメ!ということではないです。
 
注意したいのは、
意識想念の法則と、振動の法則の二つについて、
意図的に使える様にするという技術である、
と言う部分です。
放ってそのままにしておけば勝手に働いている法則だけれども、
引き寄せの法則としてエイブラハムが伝えているのは、
自分をコントロールするということが大前提であると言えます。
 
私は、この二つの法則をマスターするより先に、
 
(二十)原因と結果の法則

前もって創られた原因が結果となって表れる様になってはじめて、
今あらわれている凡てのものが存在するのである。

我々の人生のあらゆる瞬間瞬間が、
我々に避けがたい結果となって
表われるところの原因となっているのである。

その実現した結果に対する態度と処置とがまた、
次の新しい結果をもたらす原因となるのである。
 
「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より

 

原因と結果の法則を学ぶ方をおススメしたいのですが…。

 

 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)には、下記の様な説明があります。

 

ほとんどの人々には知られていないけれど、
現在の心的発達程度の人々にとって
一番大切なことは人生の法則である。

人生についての理解がないと、
その人は、抜け出ることが不可能に近い
迷路の中に入り込んだ様なものだ。

この重要な人生法則は、
”原因結果の法則”である。

この法則が理解できない限り、
人間は自分の運命の支配者にも
自己の魂の主人公にもなれない。

人間が、あらゆる出来事は、
その以前にそうなるべき原因があったから
そうなったのだということが本当に分かった時、
そしてそれが本当に分かった時にだけ、
今日自分が意志的に成したことが
明日の自分の運命を創っているのだということが
真に理解できるのである。

この因果法則の知悉理解によって、
人間は、過去において自己が創った因果律の
”因”の運命的”果”を大巾に修正抹消して、
将来の自己の人生そのものを
好転させることが出来るのである

 

重要な人生法則であるとのことなので、

以前、まとめて記事にしています。

テーマも作ってあるので、そちらからも検索できる様にしました。

 

原因と結果の法則について1

原因と結果の法則について2

原因と結果の法則について3

原因と結果の法則について4

原因と結果の法則について5

原因と結果の法則について6

原因と結果の法則について7

原因と結果の法則について8

原因と結果の法則について9

原因と結果の法則について10

原因と結果の法則についてまとめ

 

これも、ストーキングしている人がよく喚くのだけど、

原因と結果の法則という時に、
全てのものごとに原因なんてないんだ!とか、
選択肢は無限にあり、
自由に好きな宇宙を選択することが出来るのだから、
原因に囚われる必要はないんだとか言う人がいます。
 
パラパラ漫画の様だから、自由に前後を入れ替えられるし、
好きに未来を選べるのだ!といった説明です。
 
勿論そうですけど、人それぞれ、
パラパラ漫画の内容は違いますよね?
私とあなたの選択出来る宇宙は違いますよね?
パラパラ漫画は自分に紐づけされているものの中から、
自由に選べます。
あなたの選択出来るパラパラ漫画は、あなたのものです。
選択肢は無限にありますけど、
あなたの思い付かないような未来はありません。
ふとした閃き、直感はどこから来ますか?
私が受け取るものとあなたの受け取るものは違います。
 
自由とは何でしょうか?
よく考えてみて下さい。
人それぞれ違うのです。
 

エイブラハムが教える、

”第三の「許容し可能にする術」というのは、
「わたしがありのままのわたしで、
他者がありのままの他者であることを許容し、
可能にしよう」ということだ。
たとえ他者がありのままのあなたを認めなくても、
他者がありのままであることをあなたが認めるなら、
あなたは「許容し可能にする者」になる。”

という部分は触れない人が多いと感じます。

 
逆に、他者がありのままの他者であることを許容せず、

「わたしが考え、信じ、あるいは期待したことは、
実在する」というのを他者に行なう、

「わたしが誰かについて考え、信じ、あるいは期待したことは、
実在させる」設定をして、

「彼が友達と会う度に私のことを好きになる設定!」とか、

「自愛すればするほど彼に愛される設定!」とかやっているのかな?と、

思います。

 

ありのままは認めていなくて、

自分の思い通りに人をコントロールしたい訳ですね。

この辺りが自己への奉仕の考え方が出てしまっていて、

周囲をコントロールしようという姿勢になっていると感じます。

この辺りがアムウェイ的なのかしらね?

よく分かりませんけれども、先日アムウェイの名前をブログに書いた途端に、

慌てだしたアカウントがあったので、

これは結構根深いかもしれないと感じています。

 

 

引き寄せの法則として売られているものは、

実際は法則のことではなくて、

技、技術、手段、方法のことです。
つまり、練習や努力や継続することが必要で、
勝手に自然に誰でもそうなるということではないですよね。
 
どちらかというと、宇宙法則云々、スピリチュアル云々よりは、
自己啓発に寄っていると思います。
 
wikiでは、自己啓発とは、
"自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。
「より高い能力」、「より大きい成功」、「より充実した生き方」、
「より優れた人格」などの獲得を目指す。"

とあります。

物質次元寄りの成功、達成を目指すもので、

霊的な成長や進化を目指すものではないですよね。

 

ちなみに、

成長を目指すのって今はダメとか昔は未熟みたいなニュアンスがあって、

自己否定や現状を否定しているって言う人がいますけど、

そうやってここに書いていることを、何年も、ひたすらエアリプして、

被せて否定し続けているストーカーがいるんですがw

(よっぽど私の書く内容が困るんでしょうね?)

善悪や優劣を付けているのはそういう風に解釈する人自身ですよね。

単に比較したら、成長に対して成長していない状態があるだけで、

それが悪いとは言っていない訳です。

 

二極あるのが法則です。

 

自分の中に成長する、成長しないが両方同時に存在していて、

どちらを選ぶのか?ということです。

(私は成長を選びますとお伝えしています)

 

こういう人はよくどっちでもないと言いますけれども、

どちらか一つしかいつも選べない訳ですから、

成長を選ばないのであれば、成長しないにしかなりません。

人はいつもどちらか一つしか選べない、

選択肢としては両方同時に存在しているけれども、

どちらかを選んだら片方は出来ない、

両方同時には行えません。

だから意識的に自分にとってどちらが善いのか、

どうしたいのかを選び取る必要があるんですよ。

 

なんか言いくるめられて、誘導されている人も多いですが、
しっかり客観的に考えた方がいいですよ?
 
宇宙法則では、
 
(十四)魂の成長方向

我々のなすあらゆる経験は、
更に高級で、偉大な経験を指向している。

経験は成長発展をもたらし、
成長発展は遂には宇宙意識との接触に至るのである。
 

「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より

 
 
(十九)物質進化の法則

あらゆる原子は、変化の法則に従って、
絶えず微粒子を放射しており、さらに別の法則にも従っている。

原子は積極肯定的なスピリット(生命活力)に対して
消極否定的であるから積極的なスピリットに吸引されて分子を形成し、
それからいろんな物質の集まりである肉体となる。

スピリットの大量の流入がこれらの形態を
一方から他方へと変化させ、いわゆる進化となるのである。
 
「秘教真義」(M・ドーリル博士著)より
 
という法則があります。
どういう選択が宇宙の流れに沿っているのかな?
という部分で、
私は成長する方を選択するのをおススメします。
(勿論自由ですので!お好きにどうぞ!)