「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

道を敷く(エイブラハム) 

欲求の優先順位(エイブラハム)

という記事の続きです。

 

 

 

鏡の法則について、よく盛大に勘違いをしている人を、

見掛けます。

本気で内観すれば、

自ずと誰でも自然に理解出来るものだと思いますが、

自分の見たくない部分に蓋をしていると、

理解出来ない場合も多いです。

また、そういう人は、他人軸である為、

まったく正反対の解釈をしてしまう、

という面もあります。

 

エイブラハムたちは「許容し可能にする」と表現していますが、

 

第三の「許容し可能にする術」というのは、
「わたしがありのままのわたしで、
他者がありのままの他者であることを許容し、
可能にしよう」ということだ。

たとえ他者がありのままのあなたを認めなくても、
他者がありのままであることをあなたが認めるなら、
あなたは「許容し可能にする者」になる。

だが、まずなぜ自分の今の人生があるのかを
理解しなければ「許容し可能にする者」にはなれない。

あなたが思考を通じて(あるいは関心を向けることを通じて)
他者を自分の人生に招き入れなければ、
他者はあなたの経験の一部にはならないし、
あなたが思考を通じて(あるいは観察することを通じて)
ある状況を人生に招き入れなければ、
その状況はあなたの経験の一部にはならない。

そのことを理解できたときに初めて、
あなたはこの人生の表現へと身を投じたときに望んでいた
「許容し可能にする者」になれる。
 

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)より

 

とあります。

 

ジェリー もう一つ、話し合いたい
大きなテーマは人間関係です。
友達が独自の考えや信念を持ち、
「不適切な」行動をするのを黙認する、
つまり「許容し可能にする」のが
困難な時期がありました。

エイブラハム その場合、「許容し可能にする」
という言葉はどういう意味で使っている?

ジェリー わたしは、
彼らはわたしが望むとおりに考え、
行動すべきだと思っていました。
そうでないと非常に気分が悪く、
ときにはとても腹が立ったのです。

エイブラハム あなたは彼らの行動を見、
話すことを聞いて、ネガティブな気持ちになった。
それは、あなたが「許容し可能にする」状態にはなかった、
という信号だ。

ジェリー それに当時わたしは自分がとても
鷹揚で気前がいいと思っていました。
言い換えれば、自分が自己中心的な人間のはずがないと思い、
他人ももっと鷹揚に気前よくすべきだと思っていたのです。

ところがそうではないので、
非常に気分が悪かった。

それがらデヴィット・シーベリーの
『自分が好きになる生き方』(三笠書房)という本を読み、
「自己中心的」ということに対する見方が変わりました。

そして、その新しい見方で自分の不快感を
理解できるようになりました。

エイブラハム 自分が欲することに関心を向けること、
自分に対してそれを「許容し可能にする」のは
大切なことだ。

それを自己中心的と非難がましくよぶ人もいる。

だが健康な見方で自分を見ない限り、
自分が何かを欲することを「許容し可能に」しない限り、
また欲するものが手に入ると期待しない限り、
決して意図的な創造はできないし、
十分に満たされる経験もできないだろう。

普通「許容し可能にする」ことを
自分に認めないから、
他人にも認めない、という場合が多い。

自分のいいところをいちばんに認めない者が、
他人のいいところも認めない。

だから自分を受け入れ、肯定し、評価し、
欲求の実現を可能にすることが、
他人を評価し、肯定し、欲求の実現を可能にする
第一歩なのだ。

それは、自分の基準から見て
自分が完璧になるまで、
あるいは他人が他人の基準で完璧になるまで
待ちなさいということではない。

完璧という終点はあり得ない。

あなたがたは常に変化し、
常に成長する存在だから。

そうではなくて、自分のなかに
自分が見たいと思うものを見る意志を持ち、
他人のなかにも
自分が見たいと思うものを見る意志を持つ、
ということだ。

わたしたちはよく「自己中心的になる」ことを
教えると非難される。

確かに、そのとおりのことを教えている。

あなたがたは
自己という立場からすべてを認識するのであり、
自分よりもっと大きくて賢い「内なる存在」とのつながりや
協調を主張するくらいにしっかりと
自己中心的でなければ、
他人のために役立つこともできない。

自分の感情に気を配るほど
自己中心的であって初めて、
強力な「ソースエネルギー」と調和するために
感情というナビゲーションシステムを
活用することができるし、
そうすれば、幸運にもあなたの関心の対象となる人は
誰でも利益を得る。

誰かがあなたのなかの何かを否定すると、
それはその人の目に表れ、
あなたは自分が非難されていると感じる。

だが、それは否定する者のほうに欠落があるので、
あなたのほうに何かが欠けているのではない。

その人たちは他人の欲求を
「許容し可能にすること」ができず、
そのためネガティブな気持ちになっている。

原因はあなたの不完全さではない。

ファッションと同じで、
こんなのは見たくないという恰好をしている人を見て、
ネガティブな暗い気持ちになる理由は、
相手ではなくてあなた自身にある。

また、自分が楽しいと感じるものだけを
見ようと決意すれば、
楽しいものだけが目に入るようになり、
前向きの明るい気持ちになることだけを
経験できる。

「引き寄せの法則」によって、
あなたの欲求と調和するものだけが
引き寄せられてくるからだ。

感情の力を理解することで、
自分の思考を望むほうへ
方向づけることができるし、
そうすれば他人がどんな行動をしようと
心地よくいられるわけだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

鏡の法則について、

初めて勘違いのパターンを発見したのは、

ネットストーカについて書いていますけれども、

私に対して、悪意を持った人が現れた、

逆恨みされる、揚げ足を取られるといった、

ネガティブな出来事に対して、

「お前が殴られる様なものを持っているから、

殴られるんだろう」と言う人がいた時です。

 

なるほど、その様に解釈するのかと。

 

外側で起こったことは、内側の反映なんだけど、

その内側というのは、本人にしか分かりません。

これは必ずそうであって、

もしかしたら、

私とあなたが同じ場合もあるかもしれないけれども、

それでも詳しく比べたら、違いが生じます。

私もあなたも唯一無二の存在で、同じ人はいませんからね。

 

私に対して、悪意を持った人が現れた、

逆恨みされる、揚げ足を取られるといった、

ネガティブな出来事に対して、

「お前が殴られる様なものを持っているから、

殴られるんだろう」と言う場合、

その言った人にとって、

そうであるということだけです。

この台詞から分かるのは、

その人にとって、殴られるようなことをした人は、

殴られて当然だ!と思っているということです。

そして、私のことを、その人が、

殴られて当然の人(殴られるようなことをしている)と、

感じているということです。

 

私自身が、その状況に対して思っていたのは、

私に対して、悪意を持つ、逆恨みする、

揚げ足を取るというのは、その人達自身の問題である。

私の問題は、ネガティブな状況、

他人から思わぬことをされた時に、

どういう対応をするのかというテスト、

ということです。

「お前が殴られる様なものを持っているから、

殴られるんだろう」と解釈するなら、

殴られる様なものは、

どういう対応をするのかテストする状態、

殴られるのが、テストであるという感じです。

 

よく、わたしのところへ来て、
否定・悪の力が自分に向けられており、
それが自分に害をなすのを信じるという人がいる。

そんな人は、
自分自身の創造想念の力にそれを与えているのである。

わたしは、そんなことを言う人には、
”否”というのである。

あなたがそんなものは決して自分の上に力を加えないと、
完全に思っており、
そしてあなたの意識を調和と平和の状に保っている限り、
あなたを害するものは何もないのである。

おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない。

そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。

だが、あなたはそれを受入れてはいけない。

あなたの電話が鳴るが、
あなたがそれに出なければということはない。

あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、
あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。

非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。

大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。

 

「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)より

 

という箇所を何度もご紹介していますけれども、

ネットストーカ―というのも、

私側からの解釈では、

私自身の学びであって、

物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
平穏、平安を保てるのか?というテストになります。
常に内観しつつ、対峙するかんじですね。
 
これも自他の境界線がしっかり引けていないと、
自分の問題を相手に投影してしまうということになり、
鏡の法則というものも、
見える訳のない相手の内面が見えた気になって、
自分の問題とすり替えてしまって、
相手を責める材料にしてしまうのです。
勘違いも甚だしいというか、
鏡の法則を理解している立場から言うと、
分かった気になって、鬼の首を取ったように、
お前のことはお見通しだぞと言いながら、
隠していた自分の内側を曝け出してしまうという、
何とも恥ずかしい状況ですね、ということです。
 
ジェリー 「わたしたちはほとんどどんな状況でも
幸せになれる」とおっしゃいましたね。
でも非常にネガティブな状況を経験している人が
そばにいたら、どうやって幸せになれるのでしょう?

エイブラハム あなたがたが幸せになれるのは、
自分が望むことに思考を向けているときだけだ。
だから、自分が望むことにだけ関心をむけるぞ
という気持ちさえはっきり強く持っていれば、
どんな状況でも幸せになれる。

ジェリー しかし、ときどきはどうしても
一緒に過ごさなければならない相手がいて、
その人が言ったりしたりすることで
嫌な気分になる、
こちらは相手が望むとおりになれないとか
望むとおりのことができなくて罪悪感を覚え、
それでも相手をなんとか喜ばせたいと思う、
そんなときはどうすればいいんですか?

エイブラハム 確かに不幸な人に囲まれていて、
あるいはあなたが思うのとは違うことを
要求する人たちとかかわって、
それでも前向きで幸せな気分でいるのは
とても難しい。

だが、わたしたちがあなたがた
物質世界の存在を見て気づいたのは、
不愉快な経験がほんの5分か10分で終わっても、
そのときにネガティブな気持ちになるだけでなく、
あとあとまで思い返したり考えたりして
嫌な気持ちをひきずる人が多い、
ということだ。

たいていは
実際に起こっているネガティブなことより、
前に起こったネガティブなことを考えて
嫌な気持ちになっている。

一人でいるときには
自分が考えたいと思うことだけに焦点を絞れば、
あなたがたのネガティブな感情の大半は
消すことができる。

それに短時間、困った人と出会ったり、
人生のごく一部で実際に
他人から嫌がらせをされる経験があっても、
嫌な体験にはあまり関心を向けないでいられるようになる。

そうすれば嫌な思考はすぐに消えるから、
「引き寄せの法則」によって嫌な体験が
引き寄せられてくることもない。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
 
ツイッターをやっている時は、
ツイートする度にいいねをしてくる、
(何時間も張り付く)
いいねストーカーとかいましたけれども、
最初はSNSに慣れていないので動揺しましたが、
これも学びだと思って内観し続けていると、
日を重ねる毎に慣れてきて、
(でも嬉しくはないです!気持ち悪い)
逆に、相手がこういうことをすることで、
私の気を引きたい、威圧したい、
コントロールしたいんだなというのが、
よく分かってきます。
鏡なので、自分が自分をコントロール出来ずに、
不安や恐怖心がいっぱいなので、
他人を威圧して抑えつけて、
達成感を得たいのでしょう。
私自身がその行為に対して動揺しなければ、
何も起きていないのと同じことなのです。
でもその人自身に何らかの、
ネガティブな気持ちがあって、
行なっているのなら、
その結果はその人に返りますよね。
内観して、いいねストーカーされることよりも、
発信することに焦点を絞って、
発信した後に、他の人がどういう対応をしても、
それについて私はコントロールすることが出来ないのだから、
そこは放っておいて、
自分に集中しようと意識することで、
気にならなくなります。
そのうちまたやってるーと笑えるようになります。
こちらのダメージがないので…。
 
ジェリー 誰かと一緒にいるとき、
相手がわたしの欲求に強く反対したら、
それでも効果的に創造することは可能ですか?

エイブラハム 自分の欲求に焦点を定めておけば、
人の反対は無視できる。

だが、人の反対に対抗しようとすれば、
自分の欲求から焦点がずれるから、
創造にも影響が及ぶ。

自分の欲求に焦点を定めておきたければ、
反対にぶつからなくて済むように、
その場から立ち去るほうが簡単だ。

だが反対されるかもしれない相手と
離れなければならないとすると、
街にはあなたの考えに全面的に賛成ではないという人が
必ずいるだろうから、
街を出なければならない。
さらには国からも出なければならず、
地球上にいられなくなるだろう。

だが、反対者から離れる必要はない。

ただ自分の欲求に焦点を定め、
あくまでもその焦点を明確にしていれば、
どんな状況でも前向きに創造することができる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
ツイッターのパターンだと、
ブロックすれば見なくて済む訳ですが、
別のアカウントを作る人もいるかもしれないし、
ブロックすること自体が意識している状態になるので、
せっかくのチャンスだから、
ブロックせずに自分を変える学びだと思って、
そのままにしていました。
どうしてもネガティブになってしまう人には、
オススメできませんけれども、
せっかく、様々な人が現れるというツールなので、
自分の学びや成長に上手に利用するといいと思います。
現実的な日常生活で、
これほど多彩で狂った人に会うことは、
あまりないですよね?
逆に言えばチャンスなのです。
 
ジェリー 誰かわたしたちの欲求を知っている人に、
あなたの欲求は「非現実的だ」と言われたら
(しかもその欲求が平均をはるかに超えていたら)、
どうすればその言葉の影響を受けないで済みますか?

エイブラハム 人と話すと前に、
自分にとって重要なことにだけ
思考を向けようと決めていれば、
人の影響は受けないで済む。

ここで「節目ごとの意図確認」がとても大切になる。

あなたの「現実」はこうだと他人が主張するとき、
その人たちはあなたが樹木のように
現時点に根を張るように仕向ける。

あなたが「現状」だけを見ている限り、
そこから抜け出すことはできない。
見たいものを見ることが「可能に」ならなければ、
欲しいものを引き寄せることはできない。

「現状」への関心は
同じような「現状」を生み出すだけだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
 

よくカウンセラーが、相談者の悩みを例に挙げて、

こんな人がいました、

これこれこういうところが悪いんです、

こういうところを直した方がいいんです、

とかやりますよね。

それを読んだ人が、相談者に共感して、

私も同じ様に悩んでいました!

参考になりました!とやりますよね。

 

相談者とアドバイスという記事を書きましたが、

鏡というものが分かってくると、
下記は、「ハトホルの書」(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)
のヒーラーの説明なんだけど、
 
ヒーラーの自己統御の能力が進化すれば、
エネルギーを巧みに操作することで
エネルギーの障碍物を溶かしたり、
結晶化したパターンを
解消することができるようになります。

こうした熟達は
自然に養われてくるものです。
しかし変化の必要を見てとることと、
変化を強いることのあいだには
微妙な違いがあります。

ヒーラーはそうした変化を起こすのに
機が「熟して」いるかどうかを
見極められなければなりません。
 
つまるところ、
変化を起こすかどうかの選択は
ヒーラーではなく、
癒される側が下さねばならないのです。

たとえば人助けを自認しながら
自分の意思を人に押し付けるようなヒーラーは、
どれほど巧みにヒーリングを施したとしても、
結局はそれほど効果をあげられないことに
気づくでしょう。
 
ヒーラーである人は、
癒されたいと扉をたたく人々の訪れが、
どれも偶然でないことを理解すべきです。

ヒーラーが自分に引き寄せるクライアントは、
往々にしてヒーラー自身の
心理的・霊的問題の反映であることが
多いからです。
 
したがってヒーリングを行ない、
より高次のエネルギーの通り道となるという
プロセスにおいては、
ヒーラー自身もまた学びの徒なのです。

もしヒーラーみずからが謙虚で、
自分の「進化途上のプロセス」の反映である
クライアントに対して
寛大かつ率直であれば、
そのようなヒーラーは
自己認識や思いやりにおいて
さらなる成長を遂げるでしょう。
 
最後になりますが、
ヒーラーは、
人には病んだり苦しんだりする権利もあるのだ
ということを明確に理解しておく必要があります。

ヒーラー自身の予定表を
人に押しつけるべきではありません。

クライアントが
自分の速度でより大いなる気づきへと
歩むことができるように、
そのための空間と時間を
認めてあげるようにしてください。
 
”ヒーラーである人は、
癒されたいと扉をたたく人々の訪れが、
どれも偶然でないことを理解すべきです。
ヒーラーが自分に引き寄せるクライアントは、
往々にしてヒーラー自身の
心理的・霊的問題の反映であることが
多いからです。”
という箇所がよく理解できる様になります。
 
 

例えば相談者の悩みを晒したカウンセラーは、

「こんな人がいました」=カウンセラーからそう見える人

「これこれこういうところが悪いんです」=カウンセラーにとって悪い事、

「こういうところを直した方がいいんです」=カウンセラーが直したい事

という、自分の内側を公開していることになります。

 

だからそれを読んだ鏡を理解した人は、
カウンセラーはそんな悩みを抱えているのね、
隠している感情はそれなのね、
本当はこうしたいのねという風に観察出来ます。
 
カウンセラーはアドバイスする人であると同時に、
自分の問題と向き合う人でもあるのです。
どちらか一方だけということは、ありません。
いつも双方向です。
 
鏡の存在を知ったカウンセラーの中には、
相談者に対して、
「それは鏡ですよ!よく周りを見て下さい!
他人のことほどよく見えますよね?
どうしてそんな文句を言うんですか?」と言います。
 
でも鏡を理解すると、
「それは鏡ですよ!よく周りを見て下さい!
他人のことほどよく見えますよね?
どうしてそんな文句を言うんですか?」と言いたくなる、
相談者が目の前に現れたのは何故だろうと内観します。
私の何を映す鏡なんだろうと。
 
自分の問題と相談者の問題の、
境界線を引かないといけないのです。
 
 
「エメラルドタブレット」
(アトランティス人トート著/M・ドーリル博士編)から、
下記の教えをご紹介しましたが、
 
もしだれかが汝のところに相談に来りなば
自由に語らしむべし。
そが彼の汝に来りし所以の問題を解決せん。

もし、彼が汝に心を開くことをためらわば、
そは判定者たる汝が
誤りをおかせし故なり。

解説

問題があってやって来た人は、
自分自身のことを話すことによって
解脱を得るものである。

もし彼が話すことをためらったならば、
彼が相談に来た面接者自身の
心的特性の中に話すことを拒否する様な
何かの欠点があるからである。

注解

ここに近代心理学のカウンセリング(面接相談)の
原理がある。
カウンセラー(面接者)の欠点とは、
愛の不足という心的態度とか
喋り過ぎるとかいうことである。

キリスト教なんかの懺悔もこの原理によるのだろう。
 
”問題があってやって来た人は、
自分自身のことを話すことによって
解脱を得るものである。”とある様に、
相手にとってピカピカに磨いた鏡になるだけで、
いいのです。
ああしろ、こうしろと言うのは、
エゴであって、自分自身の問題を、
相談者に投影しているだけです。
 
逆に言えば、
自分が一方的に愚痴って、
すっきり出来るようなカウンセラーを選ぶのが良く、
あれこれ指図する、
お前が悪いんだと上から目線でアドバイスする様な、
カウンセラーは避けた方がいいでしょう。
問題を解決するのは自分自身で、
カウンセラーではないことを理解しましょう。