「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

 

エイブラハムたちが伝えている三つの「宇宙の法則」をご紹介しました。

第一の法則が「引き寄せの法則」。

第二の法則が「意図的な創造の方法論」。
第三の法則が「許容し可能にする術」。

 

この記事では、「許容し可能にする術」について書いています。

 

 

それに、この文章を読めば、
あなたの脅威となる人も
驚異を与えること事柄もないことがわかるだろう。

自分の経験をコントロールしているのはあなただ。

「わたしはわたしであり、
わたしはまたほかのすべての人が
その人のままであることを認める」
という
「許容し可能にする術」
とは、
全面的な自由へとあなたがたを導くだろう。

望まない経験をいっさいしない自由、
自分が賛成しない経験への
ネガティブな対応をいっさいしない自由だ。

「許容し可能にする者」
であるのはいいことだと言うと、
誤解する人が大勢いる。

「許容し可能にする」とは
「我慢」することだと思うからだ。

あなたはあなたで
(それはあなたの基準からいって適切であり)、
ほかのすべての人は、
たとえあなたが気に入らなくても
当人が望むとおりでいることを認めようと思う。

ところが、そのことについて
ネガティブな気持ちになる。
それどころか自分の身が不安になる。
それでも
人がありのままであることを認めようと思う。

しかし、これは我慢しているだけだ。
我慢は「許容し可能にすること」ではない。
この二つは別々のことだ。

我慢している人はネガティブな感情を覚える。
「許容し可能にする者」はネガティブな感情にはならない。

これは非常に大きな違いだ。

ネガティブな感情がないこと、
それが自由だから。

ネガティブな感情でいながら、
自由であることはあり得ない。

あなたが我慢して
ほかの人の行動を邪魔しないなら、
我慢はほかの人にとって有利だろう。

だがあなたにとっては有利ではない。

我慢しているあなたは
ネガティブな感情でいるし、
したがってネガティブなことを引き寄せている。

だが「許容し可能にする者」」になれば
望まないことを経験に引き寄せることはないし、
絶対的な自由と喜びを経験するだろう。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

もし、誰かを許せないと感じる時には、

無理して許す必要はありません。

それより、自分に目を向けて

許せない人がいる自分を許してあげるのです。

 

許さなきゃいけないのに許せないわ!

という部分で、

ネガティブに感じる訳ですよね。

許さなきゃいけないのは何故でしょうか?

誰が決めたのでしょうか?

許さないことを禁止しているのは誰ですか?

 

別に許しても許さなくても、

相手は勝手に生きている訳で、

自分に影響はありません。

 

ただ、自分が心地よいのか心地よくないのか、

そのどちらかなのです。

相手を許さなきゃいけないのに許せないと思うなら、

私は許せないわ!許さないことを選ぶわ!と、

肯定してみて下さい。

私の場合は、それだけでほっとします。

そのうち、その人のことはどうでも良くなるのです。

その人に拘るのはどうしてなのでしょうか。

投影しているのは、自分の何でしょうか?

 

本当は他者とはまるで関係がないことを、

関係がある様に感じているのは、

自分が認めたくない何かを、

相手に投影しているからです。

それが理解出来ると、

自分と他者の境界線がはっきり引けるようになり、

影響を受けなくなります。

相手の何かが自分の経験に引き込まれることはないのだと、

分かる様になるのです。

 

 

多くの人は言うだろう。

「エイブラハム、
それでは頭に砂を突っ込んでいるみたいに、
見て見ぬふりをしろというのですか?

困っている人を放っておけというのですか?

なんとか助けてあげられないかと
考えるのはいけないというのですか?」。

それについて、わたしたちはこう言う。

「もし助けたいと思うなら、
『問題』にではなくて『援助』に目を
向けなくてはいけない、
この二つはまるで別のことだ」と。

解決策を求めているときには、
あなたがたは前向きな気持ちになる。

だが問題を見つめていると
ネガティブな暗い気持ちになる。

相手が何を望んでいるかわかっているとき、
そして望んでいることが実現するように
あなたの言葉や関心を通じて
相手を元気づけようとするときは、
あなたはとても大きな力になることができる。

だが、不運に見舞われた人、
非常に貧しい人や重病の人を見て、
哀れみと同情からその人たちが
望まないことについて語りかければ、
あなたがたはネガティブな暗い気持ちになる。

それはあなたがたが
不運や貧しさや病を助長しているからだ。

相手が望んでいないことについて語るとき、
あなたは彼らの間違った創造に力を貸している。

望まないことを引き寄せる彼らの波動を
増幅しているのだ。

友達が病気になったら、
元気になった友達を想像するように努めなさい。

友達の病気に注目すると、
暗い気持ちになることに気づくはずだ。

しかし、
回復の可能性に注目すれば、
明るい気持ちになる。

友達の「幸せ」に焦点を定めることで、
あなたは友達の回復を見つめる
自分の「内なる存在」とつながる。

それによって友達の回復に
いい影響を及ぼすだろう。

自分の「内なる存在」とつながっているとき、
あなたの影響力は最大になる。

もちろん友達はまだ回復よりも
病気に焦点を定めているかもしれないし、
そのためにまだ治らないかもしれない。

だが友達の影響を受けたあなたも
一緒にネガティブな暗い気持ちになってしまうと、
望まないことに向かう当人の影響力のほうが
望むほうへと向かおうとするあなたの影響力より
大きくなってしまう。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

娘の友達家族がコロナに罹ったことがあったので、

ビタミンCを摂るといいらしいよと娘に言ったら、

伝えたそうです。

私としてはみかんでも食べて!的な軽い気持ちだったのだけど、

お父さんがそれを聞いてすぐネットで、

ビタミンCの栄養剤?を購入して、

家族で飲んだらすぐ治ったそうです。

これは、飲んだら治るということを、

受け入れていたからかもしれないと思うのですが、

それから家もちょっと調子悪い時は、

ビタミンCを飲む!というのが習慣になりました。

 

何度かご紹介しています
「サラとソロモン」 (エスター&ジェリー・ヒックス著)下記の箇所は、
とても参考になると思います。
 
「そんなこと、わかっているわ、ソロモン。
だからソロモンからの助けが必要だったんじゃない。
わたしがつながることができるように」

でもね、サラ、
僕も君を助けることはできないんだ。

君自身が、
《それがどういう感じがするかという実感》を
自分で見つけ出さなければいけないんだ。

「ソロモン、わたしにはわからない」

覚えているだろう、サラ、
《苦しみの鎖》につながっていながら、
同時に《幸せの流れ》につながることはできないっていうことを。

一度にどちらか一方にしかつながれないんだ。

不快な状況を見ていて、
それが君をいやな気分にさせている時、
君がそのいやな気持を感じているということ自体が、
その時点で君が《幸せの流れ》につながっていない
ということを、君に教えているんだ。

そして、
《幸せ》の自然な流れにつながっていない時には、
君は他人に与えられるものなんか何も持っていないんだ。

「そんなのひどい。
それじゃあ人を助けることなんてできないじゃない。

助けが必要な人を見つけても、
その人が助けが必要だということを
ただ見ているだけで、
わたしがその人を助けられなくなるなんて、
そんなのひどい。

それじゃあ、いったいぜんたい、
どうやって人を助けたらいいの?」

一番大切なことは
《幸せの流れ》にずっとつながったままでいることだってことを、
覚えておかなければいけない。

だから、君の考えを、
自分がいい気持ちでいられるようなところに
ずっと向けておかなければならない。

ということはつまりね、
現在の状況について意識するよりも、
自分と《幸せの流れ》のつながりをもっと
意識しなくちゃいけないんだ。

それが鍵だ。

きのう起こったことを思い出してごらん。

ゾーイーお婆さんとの間で
何が起こったか話してごらん。

「うん。学校の帰り道、
家に向かって歩いていたら、
ゾーイーお婆さんが自分の家の前の道を
よろよろ歩いていたの。

手足がまったく不自由みたいなのよ、ソロモン。
ほとんど歩けないくらい。

本物の枯れ木で作った古い杖を使って、
歩く時自分を支えているの

それから、何が起こったの?

「う~んと、別に何も起こらなかった。
ただ、わたし、
こんなに手足が不自由なのは
悲しいなあって思ってたの……」

それから何が起こったの?

「ええと、何も起こらなかったわ、ソロモン」

ちょうどその時、
君はどんなことを感じていた、サラ?

「ええと、わたしはほんとうに
いやな感じがしてた。

ゾーイーお婆さんのことを、
ほんとにかわいそうだと感じてた。

お婆さんたら、階段を登る時に
自分の体を引っ張り上げるのでさえ大変なの。

年を取ったらわたしも
あんなふうになっちゃうのかと思ったら、
わたし怖くなっちゃった」

ほら、それが、この出来事全体の中で
一番重要な点だ。

もし自分がいやな感じを
感じていることに気づいたら、
それは《幸せの流れ》との
つながりを断った状況にいる
ということなんだ。

本当はね、
人は自然に《幸せの流れ》に
つながっているものなんだよ。

つながるために努力なんかしなくていいんだ。

どう感じているかに意識を向けることが
重要なのは、
つながりが断たれた時に
すぐにそれに気づけるからなんだ。

つながりが断たれている状態が
いやな気持ちというものなのさ。

「でも、つながったままでいるためには、
わたしは何をすればよかったの、ソロモン?」

『つながったままでいる』ということを
最優先させている時には、
つながったままでいられるような考えを
どんどん思いつくものなんだ。

けれども、そのことが
一番重要なことだってことを
真に理解するまで、
ほとんどの人は、
ありとあらゆる種類の無駄な探求をしている。

今から、いくつかの考えを言ってみるから、
それを聞いた時、
どんな感じがするかに注意を払ってごらん。

それが君を《幸せの流れ》につなげるか、
つながりを断ってしまうかどうか。

「いいわよ。」

『あのかわいそうな老女を見てごらん。
ほとんど歩くことさえできやしない』

「う~ん、それはすごくいやな感じがする」

『ゾーイーお婆さんに、
いったい何が起こるかわからない。
階段をひとりで登ることだって、
もう今はできない。
もっとひどくなったら、
彼女はどうするのだろう?』

「それは、つながりを断ってしまう。
簡単にわかる」

『彼女のひどい子供たちは、
いったいどこにいるんだろう。
どうして、彼女のところにきて、
世話をしてあげないんだろう?』

「わたしもそのこと考えたことがあったの。
これもつながりを断ってしまう」

『ゾーイーお婆さんはしっかりしたお年寄りだ。
独立していることが好きな人だと思う』

「う~ん。その考えはずっといい感じがする」

『誰かが彼女の世話を
してあげようとしたとしても、
たぶん彼女はそれを望まないだろう』

「うん。その考えもずっといい感じがする。
それに、それはたぶん本当だと思う。
わたしがお婆さんのために
何かやってあげようとすると、
お婆さんは怒るのよ」

ゾーイーお婆さんの言いかけたことを
待ちきれなくて言ってしまおうとすると、
ゾーイーお婆さんがどんなにイライラするかを、
サラは思い出しました。

『この素敵なお年寄りは、
長い充実した人生を送ってきた。
彼女が不幸せだということを
示す根拠は全くない』

「それはいい感じがする」

『彼女はたぶん
自分が生きたいと思っている通りに
生きているのだろう』

「それもいい感じがする」

『彼女は今まで見てきた
いろいろなことについて、
面白い話をたくさんすることができるにちがいない。
私は時々彼女を訪ねて、何か聞いてみたい』

「それはすごくいい感じがするわ、ソロモン。
ゾーイーお婆さんも喜ぶと思う」

だからね、サラ、同じ対象を見ても、
たくさんの異なった状況を見つけて
焦点を当てることができるんだ。

そして、君が感じている感じ方から、
役に立つ状況を選んでいるか、
役に立たない状況を選んでいるかがわかるんだ。

 

”不快な状況を見ていて、
それが君をいやな気分にさせている時、
君がそのいやな気持を感じているということ自体が、
その時点で君が《幸せの流れ》につながっていない
ということを、君に教えているんだ。
そして、
《幸せ》の自然な流れにつながっていない時には、
君は他人に与えられるものなんか何も持っていないんだ。”

とあります。

同情して可哀想だねとか、困ったねと一緒に愚痴るとか、

そういう対応をしてしまい、

ネガティブな気分に自分自身も囚われてしまうことは、

よくあると思います。

でも、そういう状態で相手にしてあげられることは、

何もないのです。

何もないだけではなくて、助長してしまうのです。

 

 

気の毒に思って慰めの言葉をかけても、
相手を元気づけることはできないだろう。

相手の望みがかなっていないことを認めて、
元気づけることはできない。

元気づけるには、
あなた自身が違う姿を見せなくてはならない。

あなた自身が力と明晰さの実例となり、
それを通じて元気づけることだ。

あなたが健康なら、
健康になりたいという相手の欲求を刺激するかもしれない。

あなたが豊なら、豊かになりたいという
相手の欲求を刺激するかもしれない。

あなたが実例となって相手を元気づけなさい。

あなたの心で相手を元気づけなさい。

あなたの思考が心地よいなら、
相手を元気づけることになる。

あなたが嫌な気持ちになることを考えていれば、
相手を落ち込ませたり、
ネガティブな想像を助長したりする。

他人がありのままのあなたを認めなくても、
あなたがありのままの他人を認めるならば、
他人がどう見ようとも
ありのままの自分でいられて、
人にどう見られても
ネガティブな暗い気持ちにならないでいられるならば、
「許容し可能にする」状態に達したと思っていい。

世界を眺めていつも楽しい気持ちでいられるなら、
あなたは「許容し可能にする者」だ。
どの経験は楽しく
どれは楽しくないかが見分けられれば、
そして楽しい経験にだけ参加するという筋を通せるなら、
あなたは「許容し可能にする」状態に達している。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

 

自分の気持ちの違いに注目していると、

大丈夫?心配だね?大変だね?みたいな事を言った時は、

自分もネガティブな気持ちになっています。

それが居心地が悪いと感じるようになるので、

そういう気持ちになる言葉を選ばないようになります。

咄嗟にポジティブな気持ちになる言葉が出て来るようになるのです。

同情されたい人や一緒に愚痴りたい人からは、

嫌な顔をされるのですが…。

 

逆に言えば、嫌な顔をされたくなくて、

相手に合わせてしまうことが多いかもしれません。

 

”他人がありのままのあなたを認めなくても、
あなたがありのままの他人を認めるならば、
他人がどう見ようとも
ありのままの自分でいられて、
人にどう見られても
ネガティブな暗い気持ちにならないでいられるならば、
「許容し可能にする」状態に達したと思っていい。”

という風に、自分と他者との境界線を引くことが出来れば、

本当にポジティブになりたいと思う人は、

上手に切り替えていきます。

これは、何度も実践していくうちに、

ネガティブなままでいたい人と、

ポジティブになりたい人、解決したい人、

両方いるのが分かってくると思います。

 

 

いつもひっくり返してみるという記事では、

”私が尊敬するある方は、

悲しいニュースを観たら笑い飛ばす様にと、

伝えていました。”

と書きました。

自分はいい気分になりたいのか?

いい気分になりたくないのか?と問いかけてみると、

多分、いい気分になりたいと思うのではないでしょうか?

 

 

 

「療法の真義」(M・ドーリル博士著)には、下記の様な教えがあります。

 

「この様な世界情勢の中で、特に我々の敵に対して、

我々はどの様な態度をとるべきか」

と問われた時には、わたしはいつも、

次の様に答えているのは、上述の様なこともその理由の一つなのである。

「我々は、冷静で、

心的均衡の内に自分がなさねばならない不愉快な任務(戦争従軍等)を

果さねばならないことを認めねばならない。

しかし、その任務の遂行に当っては、

いかなる憎しみも怒りの意識も持たずに果さねばならない。

もし、我々が心の中に怒りや憎しみの心を持って従事したなら、

我々は、自分自身をネガテブ状におくことになり、

それと同様なネガテブの状が自己の肉体に、

自己の心に、自己の環境に受ける様になるのである」

だから、次の言葉よりも真実はないのである。

”誰も、自分が最初に肥沃な地に、

それが自分自身におこる様に創造し、

物事が自分自身におこらない前に同様な状況を心的につくらない限りは、

自分の人生に何も表われることがないのである”。

このことは、我々の想念において、

我々の人生行動において本当に真実なのである。

 

何度かご紹介していますが、
「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)には下記の様な教えがあります。
 
もし我々があることを充分に強く信じたならば、
それはそれを信じている我々に関する限り真実なのである。

ジャングルの中にいるアフリカの原住民たちは、
ある種のお守りが自分たちを守る力をもっていると信じており、
そのことによってそのお守りに力を与えているから、
守護力を発揮するのである。

アフリカの魔法使いの医師に
呪われたと言われてから自分の小屋に帰り、
壁の方へ顔を向けて死んだというアフリカ原住民の話は、
記録に次々と記されているのである。

その呪いそのものは、その男を死なす力をもたなかったのである。
しかし、その男が自分を殺す力があると信じたから死んだのである。

よく、わたしのところへ来て、
否定・悪の力が自分に向けられており、
それが自分に害をなすのを信じるという人がいる。

そんな人は、
自分自身の創造想念の力にそれを与えているのである。

わたしは、そんなことを言う人には、
”否”というのである。

あなたがそんなものは決して自分の上に力を加えないと、
完全に思っており、
そしてあなたの意識を調和と平和の状に保っている限り、
あなたを害するものは何もないのである。

おそらく誰かがあなたに悪意を送るかも知れない。

そうしたらどうしたらよいか。
それを送らせなさい。

だが、あなたはそれを受入れてはいけない。

あなたの電話が鳴るが、
あなたがそれに出なければということはない。

あなたが電話器を取りあげて耳にあてなければ、
あなたを害する様なことは何も聞くことが出来ないのである。

非常に沢山の人人が悪の力に力をかしているのである。

大聖者たる偉大なるしるしの一つは、
物的攻撃や心的攻撃にもかかわらず、
この世界を平穏に通っていることだ
ということをあなたは知らねばならない。

バラード婦人はわたしに一時間も紫外線を送ったが、
それはわたしには何らの悩みの種ともならなかった。
わたしは、紫外線はよいものだと思った。
わたしがそれを悪的なものだと思わない限りは、
それは悪ではないのである。

わたしがルイジアナにいった時、
シートの下に仏像がピンでとめてあるのを発見した。
わたしはそれをかわいいものだと思った。

これらのものも我々が
それに力を与えなければ偉力をもたないのである。

運び手として使われることのできる
ある種のバイブレーション(振動)はあるが、
それらのバイブレーションが悪を運んできたら、
我々はそれを受けてはならないのである。

イエスはこの法則を二、三語で説明している。
それは”悪に抗する勿れ”である。
この語によって、イエスは文字通りに、
イエスを害し、あなたを害する様な存在を認めない
ということを意味しているのである。

もし、あなたがその悪と闘うならば、
あなたはその悪の力を認めているのである。

もし、それを認めないならば、それはすぎゆくのである。
 
消極否定、悪の力があなたを打っていると認めることは、
あなた自身が悪とならねばならないということであろう。

悪というものは、あなたがその状況にならなければ、
あなたを打つことは出来ないのである。

 

相手の言動に振り回されないぞ、

影響を受けないぞという視点で捉えるのではなくて、

全ての出来事は自分から始まっているということを、

しっかり理解するのです。

そうすれば、相手がどのような状態であっても、

自分が全て創り出すのだから、

自分をコントロールしていれば、

ネガティブな現実として経験することはないのだ、

ということも分かると思います。

自分で創り出しているから、

自分軸が大切になってくるのです。

 

自己肯定感を上げる方法という記事を書いたのですが、

自分で自分を褒めるということが難しかったので、

一時的に、脳内で創った小さな天使が、

いつも傍で褒めてくれるという妄想をしていました。

タルパというものがあるのですが…。

wikiには、

”神智学・神秘主義・超常現象における概念であり、
霊的・精神的な力によって作成された存在や物体を指す用語である。
現代では、意識を持ち、
比較的自律的な意志を有すると作成者によって考えられている、
イマジナリーフレンドの一形態を表すために使用されている。
タルパは、作成者とは別の思考・感情・人格を持っているとされ、
一連の瞑想的手法で意図的に作成される場合と、
長期間持続しているイマジナリーフレンドによって偶発的に作成される場合がある。
タルパを作成し交流することはタルパマンシー(英: tulpamancy)と呼ばれ、
タルパの保有者はタルパマンサー(英: tulpamancer)と呼ばれる。”

とあります。
 

昔、2chのオカ板でタルパをつくろう!みたいなスレがあって、

皆、あれこれ情報交換をしながら、挑戦していました。

私はROMしていただけなんだけど…。

そういうのは昔からあります。

 

ある引き寄せ界隈で、自分の好きな異性のイメージを作って、

話しかける遊びが流行っている様なので、

少しこのことについて触れてみました。

 

10年くらい前は、地表上で肉体を持っていない、

ツインフレームが自分にコンタクトを取ってきて、

いつも会話したり、夢に出てきたりする、

というのが一部の主婦の間で流行っていました。

好みの俳優の顔をして、嬉しくなるようなセリフを言ってくれる、

という感じなんだけど、

だんだん自分の想像の範疇なのか、

何か別のモノに取って代わっているのかが、

曖昧になってきて、

メンタルがおかしくなる人も、ちょいちょいいました。

それを行なう動機はなんなのか、

どうしてそのようなものを創りたいのか、

という根本的な原因によって、

どういう方向に向かうのかが変わってきます。

 

ポジティブな想像をしたり、

自分が生活の中で素敵だなと思う人の要素を、

自分の望みのイメージに取り込む、という方法を、

エイブラハムたちは教えていますが、

その実践の部分はまたまとめてご紹介しようと思っています。

ちなみに、私はこのブログ記事で引用している箇所は、

一文字ずつ本を読みながら入力しています。

入力して読み直して、音読してと繰り返すことで、

しっかり理解出来たり、

後から読み直したい時に、ネット上に置いておくと、

便利なので書き写しています。

自分が便利だから他の人もそうかもしれないと思い、

シェアしています。

私がまとめた部分を読んで、

「望みの叶え方を特別に教えます!」とか、

やっている人もいますけど…。

それがどんなものを引き寄せるのかな?と、

自分の行動の結果を少し想像してみて下さいね。

自分がしたことには責任が生じます。

 

自分の望みのイメージに取り込むとか、

自分の望みは何かをはっきりさせる為に、

想像するということと、

意志を持った霊的な存在を呼び込むのは、

別のことですよね。

そういう霊的な存在を創り出そうというテクニックは、

昔からあります。

自分がコントロール出来る範疇であれば、楽しいと思うのですが、

その存在が意志を持ってコントロール出来なくなるというケースもあります。

 

その様な妄想の存在を創り出すことで、

 

現実的に存在する人を、

思い通りに動かそうという狙いがある場合、

どのような存在が近付いて来るのか。

よく考えてみて下さい。

 

 

「フラワー・オブ・ライフ」第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)には、

ヒーリングを妨げる「好ましくない霊的な存在」や

「無秩序な想念型」が存在しているという例が紹介されています。

 

その人の一部でないものが、
内部で生き続けているのです。

そうしたものたちは寄生虫のような振る舞いをします。

それらは、その人自身ではありませんが、
しかし本人の思考や感情・感覚や行為などによって
惹きつけられたものです。

こういう存在は大きな病気の原因となるだけでなく、
癒しを妨害し続けるのです。

好ましくない霊的存在とは何でしょうか。

それは他の次元に属しているのに、
どういうわけかこの世界に入り込んだ生きものです。
それらも、もといた世界では
宇宙の完全性に貢献しており、
不可欠な存在であることに変わりはないのですが、
この世界では問題になります。

「フラワー・オブ・ライフ」第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)より

 

ある女性が夫婦で私のワークショップに
参加しました。

二人は何年も前に結婚し、
お互いに深く愛しあっていました。

ところが年を重ねるうち、
女性のほうが「架空の男」相手に
性的な妄想にふけるようになってしまったというのです。

別に夫婦間がうまくいっていないわけではなく、
そうした妄想は突如として始まったと言います。

時とともに、その架空の男は
ますます彼女の性エネルギーを
搾取するようになりましたが、
とうとう女性はその架空の男でなければ
オルガズムを体験できなくなっってしまったのです。

それで夫とのセックスを拒むようになり、
彼女いわく、
自分ではどうにもならないというのです。

彼女が望むわけではないのに、
架空の男は自分の都合で日に2度も3度も
関係を迫るのでした。

その女性は振り回されっぱなしでした。

こうした例では
感情や思考に問題がある可能性もありますが、
このケースは違いました。

その「架空の男」は、
別次元からやってきた実在の霊だったのです。

女性は薬物を使用したことで
侵入の隙を与えてしまいました。

薬は二度用いただけですぐやめたのですが、
時すでに遅し、
男はもう彼女の体内に入っていたのです。

「フラワー・オブ・ライフ」第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)より

 

 

何度かご紹介していますが、

精霊にとりつかれた婦人の話というものもあります。

 

わたしは、精霊にとりつかれていた
ある婦人を直した。

その精霊どもは、
はじめは彼女の好きなものをもたらし、
彼女の良いことのために力をかしてくれた。

だがしまいには、
完全に彼女を支配下におき、
彼女に何を別のことをさせようとした。

彼女が手紙で、わたしにこんな憑霊状態から
救い出してもらえないかと言って来た。

もう、精霊どもの来るのを
とめられないのだというのである。

初めは、彼女の方がその現象にものすごく
熱中したのであり、
今は逆に取りつかれてしまっている
というのが手紙を見てのわたしの判断であった。

わたしはその女に会ったことがなかったので
どんな女性か知らなかった。

何が彼女に入り込んでいるのか分らなかった。

しかし、わたしは、その様な精霊どもの従う
原理原則を知っていた。

彼らはまず、本人から信用を得る。

それから取りつく。

それからその本人の意志を
自分らの自由にするというのが常道である。

このようなことは、
神秘学徒にとって適当な指導者がいない場合は、
非常に危険なことであることは、
あなたも知っているはずである。

その様な精霊やネガテブ(悪霊)の取りつく場合は、
まず、人間の信用を得てかかるのである。

そして、その信用を得る場合にさえ、
自分たちは宇宙意識(神秘一体の悟り)を
得ているのだと嘘をつくのである。

これは完全に嘘なのである。

なぜかなれば、本当に宇宙意識を得ている者は、
何事をも何人にも頼むなんてことは
ないのであるから。

その悪霊は、彼女に、
彼女のところへ来ているのは、
マスター(大師、大聖者)であると
言ったのである。

彼女は実際は、そんなことを
よく知らなかったのである。

知っていれば、その様な嘘にだまされることは
なかったのである。

彼女は無言の態度をとったのである。

ほとんどの人々が沈黙と言っていることは、
わたしにとっては非常に危険なことに思われる。

一般の人々はそれによって、
自分自身が何をされてもかまわない
完全な道具としてしまっているのである。

自分自身を護るだけの力と
知識とがないと、何ものかがやって来て、
しがみついて来てあなたを喜ばすのである。

不在者治療をする場合で
沈黙に入る唯一の時間は、
意志と強さと明確な目的とをもっている時である。

神がかり的霊媒になろうとして
坐ることは、一種の沈黙に入ることであるが、
これは危険なことなのである。

彼らはそこに坐って何かを得ようと意志しているのである。

何回も何回も長時間にわたって坐っていれば、
必ず何かがやって来るのである。

あなたが見ようと思っていることは、
例の彼女にもやって来た力であり、
彼女を高めた力である。

最初の内は、すぐにあなたを高めてくれる様な
真の聖者は誰もいないのである。

精霊どもはその人のプライド(誇り)と
エゴ(自我)とに働きかけるのが
その人を支配する最良の確かな方法であることを
よく知っているのである。

その様な精霊どもは、
神秘学徒の誰か、特に財産家をとりあげて
「あなたは過去には大師(マスター)であった」
などと言うのである。

もし、その人が過去世で
大聖者の境(神秘一体境)にまで
達していたならば、それを失なうことはないのである。

そして人生から人生へと化身しても、
そのことを知りながら生まれ更るので、
自分の達したものを失なうことはないのである。

一部の人々は、この宇宙意識を
霊的に与えられたものとして
素直に受け取るが、
多くの人は、失敗するのである。

もし、本当に霊界の大聖者(アデプト)の一人が
あなたのところへ来ているのなら、
そのかたは、あなたの魂を得意がらせる様なことは
されないのである。

例の婦人は、ある程度真実のことを
聞かされたのであるが、
また、大聖者が来て話をしているのだとも
聞かされたのである。

もし、大聖者の誰かが
あなたのところへ来たなら、
その人は決して自分は聖者(大師、マスター)だとは
言わないのである。

我々がその人が
聖者(マスター)や大聖者(アデプト)
でないということを知ることの出来る唯一のことは、
その人が「自分は聖者(大聖者)である」
と言うということなのである。

例の悪霊につかれた婦人の場合は
「わたしは聖者である」と言って
彼女の信用を得たのである。

そして、彼女を支配し、彼女に取りついたのである。

彼女はそれらのために扉を開けたのである。

そして彼らは真理へのまっすぐな道を進ませる代りに
「この道を降りましょう」と言ったのである。

彼女は彼らに抵抗し、わたしに助けてくれと
泣きついて来たのである。

こんな場合にわたしが直してやる唯一の理由は、
そんな状態に知らず知らずに陥った
という場合だけなのである。

何者といえどもその人がみずから選んだものを
取り去ることが出来ないのである。

しかし、今の婦人の場合は、
自分が選んだのでなく、
自分の無知の故にそこにはまり込んだのである。

もし、人がこの様なことを知っていながら、
尚かつ悪霊どもと交わるのは、
ブラックブラザーフッド(悪霊同胞団)と
結びつくことなのである。

そんな人がその中へ入ってしまってから
引き返らせれば、死んでしまうのである。

だから、そんな人には、
この世にいる間に苦しませておく方が
かえってよいのである。

その方が、彼らも死をもってそれから逃れるのよりも、
意識的に、その様なものと交わることの
恐ろしさというものを学べるのである。

あなたは、自分のまくところに従って
刈らねばならないのである。

わたしが、今ここで言っていることは、
神の道から悪霊の道へと
転落した魂のことなのである。

そんな人は、自分に大衆を隷属させ、
尊敬を受けたいので、
個人的霊能力を得るために
ネガテブ(悪)の法則に従いますと
悪魔と契約した人なのである。

わたしはここであなたにある力の語(マントラム)
を教えよう。

それは、コ・レ・ゴル(KO-RE-GOR)

ティア・ベル・アメット(TIA-BEL-AMET)
とである。

この二つの語は幻と悪を追放する語である。

もし、あなたが悪霊を追払ったと思って、
それでもって、
その住家(肉体)を清めなかったなら、
その悪霊は、以前の七倍の強さにもなって
戻ってくるのである。

あなたは、自分の家(肉体)を清めるまでは、
悪霊の戻ってくるのをまぬがれることが
出来ないのである。

 

「療法の眞義」(M・ドーリル博士著)より

 

 

霊的な知識があってわざとやっているのか、

まるで知らなくて、

誘導される様に行なってしまっているのかは、

分かりませんけれども、

様々なパターンがありますが、

最終的には乗っ取るというところに向かっている、

霊的な存在の侵入を許す手法も、

昔からありまして…。

無防備な人は許してしまうんですね。

こういう場合も、

自分がどのような思惑があるのか?で、

寄って来るものが変わりますので、

誰かを支配しようとする人は、

同じ様なものが寄ってきますし、

想像を楽しもうというのであれば、

同じ様なものが寄ってきます。

ポジティブかネガティブかということですが、

ネガティブなのに、ワクワクしているからポジティブ!

みたいな解釈が横行していますので、

どうぞお気を付け下さいね。

 

自分ではどうにもならなくなってしまうケースも、

あるそうなのです。

霊的な学びに入るなら、

無防備な状態、無知な状態は大変危険ですよ。