「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を読みながら、

エイブラハムという霊的なグループが伝えてくる、

「引き寄せの法則」と呼ばれるものについて、まとめて書いています。

 

鵜呑みにしないで検証しましょう

宇宙の法則の定義(エイブラハム)

引き寄せの法則とは何か?(エイブラハム)

思考と引き寄せの法則の関係(エイブラハム)

思考と現実の関係(エイブラハム)

道を敷く(エイブラハム) 

欲求の優先順位(エイブラハム)

許容し可能にする人間関係(エイブラハム)

という記事の続きです。

 

あるスピ系教祖様は、
自己犠牲をして他人を助けるべきだと、
いつも主張していると書きました。
 
では苦痛を感じている人が目の前にいた時、
どうやって助けたらいいのでしょうか?
 
ジェリー わたしは素晴らしい人生を
楽しんでいますが、周りの世界には
とても辛い思いをしている人たちがいます。
誰もが苦痛のない人生を送るために、
わたしには何ができるのでしょうか?

エイブラハム あなたには
他人の経験を創造することはできない。
他人に代わって思考することはできないから、
それぞれが考える思考、発する言葉、あるいは行動が、
その人たちの「内なる存在」からの
感情的な反応(苦しみ)を引き起こしている。

その人たちは望まないことに思考を向けることによって、
自分で苦しみを創造している。

さて、あなたに何ができるかと言えば、
喜びの実例を示すことだ。

望むことだけを考える者、
望むことだけを口にする者、
望むことだけを実行する者、
─したがって、
喜びの感情だけがわく存在になってみせることだ。

ジェリー それならできます。
自分は自分が望むことや喜びに焦点を定め、
人がそれぞれ経験するのを受け入れることを
学べばいいんですね。
それではわたしが人の辛い体験に焦点を定めると、
自分でも辛い体験を創造してしまいますか?
そうしたらその辛い体験の例を示すことになりますね。

エイブラハム 誰か辛い思いをしている人と出会い、
その辛い状況を見たあなたは、
その人が辛い状況から脱出する方法を
見つけることを願うとする。

それなら、その人の苦痛は
一瞬あなたをかすめるだけで、
あなたはすぐにその人の楽しい状況に思考を向ける。

そのあと、その人が辛い状況を見事に解決することに
揺るがぬ関心を集中していれば、
あなたは苦痛を感じないし、
その人が解決策を見つけるきっかけになることも
できるだろう。

それが真の励ましだ。

しかし、その人の苦痛や苦痛の原因となっている
状況にだけ焦点を定めていたら、
あなた自身のなかにそれと一致する波動が起こり、
望まないことを引き寄せて
あなたも苦痛を感じ始めるだろう。

ジェリー それでは、自分が喜びを求め続けることが
鍵なんですか?
そういう実例を示し、
人の場合はそれぞれが自分で(どんな方法であれ)
選んだ体験をするのを許容する
─心から許容する─それでいいんですか?

エイブラハム 実際、人の場合はそれぞれが
自分で引き寄せた体験をするのを見ているしかない。

あなたが人に代わって考えたり
波動を起こしたりすることはできないからだ。

したがって、
人に代わって何かを引き寄せることもできない。

真に「許容し可能にする」とは、
人が何をしようと、
自分自身はバランスをとって自分の喜びを
感じていることだ。

あなたがバランスのとれた状態で、
自分自身の「内なる存在」とつながり、
宇宙の素晴らしい生命の源と調和し、
そのうえで他人に関心を定めれば、
その人たちのためにもなる。

その人たちの関心の対象となるあなたが
心地よければ、
それだけあなたの前向きな影響力は大きくなる。

人がそれぞれ望む(あるいは望まない)
生き方をすることを
「許容」できるようになれば、
人が何をしていてもそれで自分が
ネガティブな感情になることはない、
とわかるだろう。

あなたが「許容し可能にする者」になったら、
すべての人の体験を眺めて喜びを感じるだろう。

あなたの質問に答えて三つの「法則」のうちの
重要なことを説明しているうちに、
話が一巡したようだ。

「引き寄せの法則」はあなたの思考の
波動に応じて働く。

意図的に心地よい思考を選ぶことで、
あなたは「内なる存在」、
真のあなたという存在につながることができる。

あなたが真の自分とつながっていれば、
あなたが関心を向ける人たちは
誰でもその恩恵を受ける。

そしてもちろんあなたは喜びを感じる!

やがて、あなたは自分の感情に敏感になり、
思考を意図的に方向づけることに習熟して、
いつも前向きの引き寄せが働く状態になるだろう。

そのときに初めて、
あなたは人がそれぞれ選んだ体験を
創造するのを安らかに見られるようになる。

自分は望まないことに影響されないこと、
すべては自分の思考を通じて
招き寄せていることを理解したとき、
あなたは(どんなに近しい人であっても)
他人の生き方に二度と脅かされなくなる。

他人の生き方が
あなたの体験に入り込むことはないのだから。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

こういう生き方を自己中心的だ!利己的だ!と、

救世主願望がある人は怒りますが、

ループするので、
下記の記事のリンクを貼っておきますね。
 
ちなみに、パクる人の多くは、
読解力もなく、前に書いた記事も、
上っ面しか分かってないので、
後戻りばかりします。
前に書いたんだけど…みたいなのは、
通用しないんですね。

自分で探そう、考えようともしない。

提供されるのをただ待っているだけなのです。
ここ読んでパクっているでしょ!と指摘すると、
自分はオリジナルだ!と、
開き直るのを何回も繰り返したこととかもあります。
 

私たちの霊的なガイドといった存在たちも、

私たちにどんなピンチが起きても、

見事に解決することを確信してくれるので、

結果的にいつもその未来を引き寄せています。

私は辛い時に救ってもらうことばかり、

考えていた時期がありましたが、

そうではなくて、必ず立ち上がることを、

信じてくれているのです。

というのも、引き寄せの法則は、

法則だからどこにでも働いているので、

自分の目の前の人の幸せを、

揺るぎなく信じていれば、必ずそうなる、

ということを経験してきて、

自分も人知れず気にかけてくれている存在達が、

絶対的に信じてくれていたから、

這い上がってこれたのだと思ったのです。

これが所謂”光側”、”善側”の在り方です。

苦しんでいる人がいる!とその人の苦しんでいる部分に、

関心を向け続けたら、その現実をまた引き寄せます。

結局後押しするだけなのです。

一見、優しそう、正しそうに見える行為が、

実際は悪手だったりします。

 

下記は、「ライトボディの目覚め」
(大天使アリエル&タシラ・タチーレン著)のライトボディ第七レベルの部分を
抜き出したものです。
 
「私は明日にもアセンションするというだけでなく、
この惑星を癒そうとしている。
私ひとりでも地球を、
そして気の毒なみんなを救い出してあげよう。
私がやらなくては。
全員を光のなかへ引き上げよう。
みんなを自分自身から守り、
カルマから助け出して、闇の勢力から救ってあげるのよ」
といったふうです。

第七レベルにある人は通常はヒーラーや覚醒者、
あるいは自分や人々や地球の救済者として
アイデンティティをもっています。

じつはこれはカルマ的なモナド(単子。
個人的なスピリットをまとめている高次元において
グループソウルのもとになる魂の本質)なのです。

あなたのほとんどの部分が
まだ二元性のなかに存在していることに気づくには、
ちょっと時間がかかるでしょう。

ひょっとするとあなたは、
自分が癒してあげるために地球やだれかを病気にしたり、
自分が救ってあげるために人を迷わせたり、
自分が目覚めさせるために人を眠らせたりしているかも
しれないのです。

それは人が完全に機能しないよう
求めていることになります。

第七レベルでは、すべての存在が
広大で多次元的なマスターであることを
だんだん理解するようになります。

神聖さを探求しているマスターもいれば、
制限を探求しているマスターも
いるでしょうが、
とにかくみんなマスターなのです。

だれもがまさにみずからの望むことを
しているのであって、それでよいのです。

もしもだれかが常に他人の面倒をみたり
守ったりという人生を送っているのであれば、
それは深い啓示を放つことになります。

そしてほかの人たちがみずからのプロセスを歩むのを、
ただ許していけるようになるのです。

ここではほとんどの人々が、おびただしい量の
「スピリチュアルな意義づけ」と
「スピリチュアルな野心」
と呼ばれるものを通り抜けます。

神からの完全な離別という現実の映像は、
肉体の奥深くに恥や罪の意識としてたくわえられています。

人が多次元性にアクセスしはじめたときに
肉体が統合されていないと、この現実の映像を
否定しようとします。

人はしばしばスピリチュアルな形式や
ルールをとり入れたがります。

すべてが「正しい」スピリチュアルなこと、
つまり話すことも身につけるものも
食べ物も「正しく」あろうと努めます。

そして自分の理念に合わないものは、
自分であれ他人であれ、
どんな部分も抑圧するか否定するかしてしまうのです。

精神体は形式やルールが大好きで、
スピリットをしたがわせるための
形式を見つけようと躍起になるのです。

「スピリチュアルな意義づけ」は、
肉体内にたくわえられた恥の意識と
無価値観に対する、精神体の防衛メカニズムです。

「私はスピリチュアルに進化している
(いや、ちがう)。

私は十四万四千人のレインボー・ウォリアーのひとりだ
(いや、ちがう)。

私は今度の土曜日にアセンションする
(いや、ちがう)。

私は天国に行くのだ
(いや、ちがう)」

─「スピリチュアルな意義づけ」
というものには、おのずと排除の性質が
そなわっているのです。

「スピリチュアルな野心」は、
肉体内にたくわえられた罪の意識と無力感に対する、
精神体の防衛メカニズムです。

これにどっぷりつかっている人は、
よく自分のプログラムを押しつけようとして、
躍起になって人をあやつろうとします。

すべてが「最善」で「最高」で「最先端」でないと
いけないのです。

こういう人々は、意見のくい違いがあったり、
何か自分が知らないことを示唆されたりすると、
自分のマスター性が攻撃されたように受けとめます。

そしてぶつぶつ不満を言いつづけ、
他者に非をなすりつけるというのを特質としています。

「僕にはこんなに素晴らしいビジョンがあるんだ。
だから、きみさえこのプランに乗ってくれれば
僕の聖なる目的を実現できるのに。
僕が地上で天国に生きられないのは、きみのせいだ」

とか、

「あなたの映像に欠落があるから、
私の聖なる流れが妨害されてしまうんだわ。
私が貧困にあえいでいるのはあなたのせいよ」

「なんであなたはそんな自分の現実をつくりあげたの?
(どうぞあなたの現実を否定してちょうだい、
そうすれば私は楽になるから。
もしあなたがもっとスピリチュアルに成長していたら、
こんなことは起きなかったはずよ。
だから、あなたは自分で自分に文句を言えばいいわ)」

といった具合です。

「スピリチュアルな意義づけ」

「スピリチュアルな野心」
はエゴの強力な自己防衛です。

あなたが本当に聖なる多次元的マスターで
あることをスピリットが
どんどん現わしていけばいくほど、
それを精神体と感情体は定義と執着によって
個人的な真実として受けとめようとします。

肉体はたいていこれらの発現には無頓着か、
単に受け入れられないかのどちらかです。

すべての人が第七・第八・第九レベルの
どこかしらで、こうした防衛メカニズムに走ります。

多くの人がライトボディ第七レべルで、
スピリチュアルな躁鬱症のパターンにはまり込みます。

あるとき「私は神性なる多次元的存在だ!」
と宣言したか思ったら、
次の瞬間には、「私はなにひとつ、ちゃんとできない!」
と自己の無価値を表明するのです。

こういう人たちは、
多次元的な一体感と、三次元にとどめられている
という分離感とのあいだを、
行ったり来たりしているのです。

ものすごく広大な存在と、
物質によって限界づけられた肉体にいる存在という
パラドックスは、
まさに奇跡的なものです。

この二つの極端さのあいだを行き来する理由は、
このパラドックスを解消しようとするからです。

それは解消できません。

両方の極を同時に保つようにしてください。

両方が完全に存在することを受け入れるのです。

ライトボディの第七レべルの終わりか、
少なくとも第九レベルのどこかで人はこのプロセスが
わかりはじめ、
このパラドックスの中心に生きることが
至福の喜びであることを見出すのです。

あなたは自分のスピリットにしたがいはじめたのです。

あなたがライトボディの第七レベルに入ったとき、
なんとなく「追いついた」という感じがします。

毎日の生活のなかで、あなた自身がスピリットから
機能するようになってきたのです。

自分が生存のための恐怖を出たり入ったりしてるのが
わかるでしょう。

あなたはまるで子供の様に、
何もかも大好きでだれとでも
うまくいく日があると思えば、
別の日には「こりゃ崖っぷちだ」といった恐怖や
生存パターンに襲われます。

二人目の自分がいるような気がすることもあるでしょう。

あなたはこれらのライトボディのプロセスを通して、
二元性をそぎ落しているのです。

あなたは「自分」がはるかに
至福の時を過ごすようになったことに
気づきます。

そしてその状態のまま活動できることがわかるのです。
 
”ひょっとするとあなたは、
自分が癒してあげるために地球やだれかを病気にしたり、
自分が救ってあげるために人を迷わせたり、
自分が目覚めさせるために人を眠らせたりしているかも
しれないのです。”
という仕組みは、ある程度霊的な学びを進めると、
ぶち当たる壁でもあり、気付きでもあります。
これに気付いて猛反省して、自分の生き方というものに、
意識を向けるようになるのです。
自分の責任について考えるんですね。

これは二元性の克服にも繋がる訳ですが、

ここを乗り超えていない教祖様を崇めて、
崖に向かって行く信者さんも沢山います。

 

ジェリー わたしたちが
大事に思っている人の身が心配で、
ついつい悪いことを予想してしまうことがあります。
人の人生に問題が起こるのではないかと
考えているだけで、
実際にその人に
不運なことが起こる場合がありますか?

エイブラハム あなたがたは
他人の経験を創造することはできない。
他人に代わって波動を出すことは
─そこがその人の作用点になる─できないからだ。

しかし、あなたがたが長い期間、
何かに思考の焦点を定めていて、
その思考が強力になり、
さらに強い感情を伴う場合、
それが相手の思考に影響を及ぼすことはあり得る。

ほとんどの人はたいてい
自分が見ることに反応して波動を出している、
ということを思い出してごらん。

だから心配するあなたの不安そうな表情を見れば、
あるいは心配して書き送る言葉を目にすれば、
相手の思考も
望まない方向へ向く可能性はある。

誰かの役に立ちたいと思ったら、
その人が望むとおりの姿で見てやることだ。

そういう影響なら与えたいのじゃないか。

ジェリー 誰かに「プログラム」されて
何かを信じるように仕向けられているとしたら、
そしてその信念がもう自分の人生にとって
望ましいものではないと気づいたら、
その信念を消すことはできますか?

エイブラハム ネガティブな暗い影響の原因は、
大きく言って二つある。

一つは他人の影響。
もう一つは自分自身の過去の習慣だ。

時間とともに思考のパターンができるので、
新しい欲求に調和した新しい考え方をするよりも、
つい古いパターンどおりの思考に落ち込みやすい。

これは関心を新しい方向に向けるために
意識してちょっとした努力をするかどうか、
つまり意志の問題だ。

あなたの言う「プログラム」とは、
自分が何かに焦点を定め、
その焦点に「引き寄せの法則」が作用して
力強く成長した結果にすぎない。

また「プログラム」の一部は
単に現在の社会への健やかな同化にすぎない。

だが、実際にあなたがたの
成長の妨げになるものもある。

練習を積めば二つの違いがわかるようになるし、
自分の思考を自分が選んだ方向へと
向けられるようになる。

実はそれが「意図的な創造」ということだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

思い込みや固定観念、こうであるという刷り込みなんかに、

寄って行ってしまうことがあります。

自分がどう思うか、どう感じるかに主軸を置くと、

こうするべき、こうあるべきとは違う気持ちがあると、

気付くようになると思います。

例えば、スピ系教祖の信者さんたちも、

本当に教祖様の言葉に全て賛同しているのでしょうか?

自分の怒りを代弁してくれる様な錯覚に、

陥っているだけではないですか?

自分の気持ちと教祖様の思惑の、

境界線をしっかり引いた方がよいと思います。

 

ジェリー 集団で協力して力をというか
何かを創造する能力を足し合わせることは
可能ですか?

エイブラハム 集団で何かを創造することの利点は、
それによって欲求が刺激され、強化されることだ。

欠点は、集団になると自分の欲求だけに
焦点を定めておくのが難しくなること。

あなたがたは個人個人として、
自分が想像できるものなら
なんでも創造する力を持っている。

だから他人と力を合わせる必要はない。

協力すれば楽しいかもしれないが!

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

 

学校とか集団行動を嫌う癖に、

仲間同士で団結しょう!

皆で立ち向かおう!とか言うのも、

矛盾していますよね。

なんだか、集団生活からはみ出したけれども、

本当は仲良くやりたかった…みたいな、

未練を感じます。

自分は自分でやった方がいいなとは、

実際は思っていない訳ですよね。

枠に収まりたくないけれども、

自分達が創った枠に、他者を収めたい、

自分達は正しいのだから、

従うべきだと思っていたり。

他者は鏡なので、

誰かとのコミュニケーションが、

自分自身が気付かなかった側面に、

気付くきっかけになることがありますので、

刺激を受けて、さらに発展する場合があります。

それは自分軸同士の付き合いの場合ですね。

他人軸同士だと、顔色を窺い、

足並みを揃え、引っ張り合い、

誰かが幸せになろうとすると僻み、

肯定的に捉えることが出来ません。

(鏡なので)

いい気分にならないような関係からは、

離れるというのも一つの手段です。

引き寄せの法則はいつも働いているので、

必要は人とは必ず出会うことになります。

無理しなくても大丈夫です。

 

ジェリー エイブラハム、誰かと一緒に
目的を達成しようというときには、
この「節目ごとの意図確認プロセス」をどう使えばいいですか?

エイブラハム 自分の「節目ごとの意図確認」が
うまくいっていれば、
欲求に向けた思考はいっそう力強くなる。

そしてあなたの影響力も強くなるだろう。

だから協力相手もあなたのアイデアの精神を
把握しやすくなる。

それから、相手からの最善の力を引き出すためにも
「節目ごとの意図確認」はとても役に立つ。

相手が強力的でなかったり、
焦点が定まっていないと予想していたら、
そのとおりのことを相手から引き出すことになる。

相手が優秀で協力的であると期待すれば、
そのとおりのことが
相手から引き出される。

実際に相手と会う前に、
時間をとって自分の思考を
そのような強力な場所に持って行けば、
自分にとっても
相手にとってもはるかに満足にいく
協力的な創造ができるだろう。


ジェリー この何年か、
非常に重要だと感じる状況なのに
相手がたもわたしも右往左往してしまい、
あとになって「こう言えばよかった」「こう言うべきだった」
「こう言いたかったのにできなかった」と思うことが
よくありました。
それでせっかくの出会いが終っても
達成感どころかいらだちばかりが残ったのです。
どうすればこんな状態を避けることができますか?

エイブラハム その会話に入る「前に」、
自分が望む成果について考えていれば、
思考に勢いがついて、
あなたの意図するところがはっきりと相手に
伝わるだろう。

それに一緒に考えや思いつきや経験を
組み合わせれば、
自分一人よりもっと大きなことが
創造できる可能性があるという認識を持つことも大切だ。

相手の貢献を前向きに期待し、
道を敷いておけば
相手からも明確で力強い
貴重な協力を引き出せるだろう。

心地よい状態を整えておくことで
あなたの精神も明晰になり、
相手もまた明晰になって、
ともに素晴らしい創造ができるだろう。


ジェリー 相手と議論になりそうだなと思ったとき、
相手を動揺させたり、
気持ちを傷つけたりしたくない、
怒らせたくないと考えたら、
どうすればいいですか?
言い換えれば、相手の欲求がこちらと
ぶつかるが、それでも議論を避ければ
お互いにとって利益になる
決着方法がありそうだと思うとき、
どうすればお互いのためになるでしょうか?

エイブラハム その節目に入るにあたって、
共通点、お互いが調和する部分に
焦点を定めようと意図することだ。

同意できない部分にはあまり関心を向けず、
一致する部分に最大の関心を向ければいい。

すべての人間関係のもつれはこれで解決できる。

人間関係の問題のほとんどは、
気に入らない小さいことにばかり
関心を注ぐから生じる。

そうすると、「引き寄せの法則」によって
ますますの望まないことが起こる。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

他人軸の引き寄せだと、

相手が自分の思う通りに動く様になる、

相手が自分のことを尊重したくなる、

みたいなことを意図しますよね。

それから、相手の言動、表情を読みながら、

自分の言動を変えて、

コントロールしようとします。

そうではなくて、自分がどうしたいのか、

という自分の望みに焦点を定めるのです。

相手の肯定的な部分に目を向ければ、

相手を変えようという気持ちは起きないですよね?

 

 

ジェリー 誰かに有効性を示すために、
その「法則」というか原則を検証したいと思って、
「この法則で何ができるかを見せてあげよう」
と言うとしたら、それは「引き寄せの法則」の効力に
影響を及ぼしますか?

エイブラハム そこで問題なのは、
何かを証明しようとすると、
望まないこと対抗しなければならなくなることだ。

だから、自分のなかでその対抗相手と同じ波動を
活性化させてしまい、
望むことの実現が難しくなる。

それに相手が強い疑念を抱いていれば、
その影響であなたも疑念を抱くようになる
可能性があるので、勧められない。

言葉で誰かに何かを証明する必要はない。
あなたの存在そのものが─あなたの生き方が─
人を高揚させるわかりやすい例になればいい。


ジェリー エイブラハム、わたしたち、
つまりこの物質世界に暮らす者の多くが、
自分にいいことが起こるのを正当化しなくてはならないと
思っているようなのですが、
どうしてだとお感じですか?

エイブラハム 一つには、
リソースには限りがあると誤解しているからだ。

それで、なぜ他人ではなくて
自分がリソースを獲得できたのかを
説明しなくてはならないと思う。

もう一つの要素は、「無価値」という信念にある。

あなたがた物質世界の次元には、
「あなたには価値がない、
だから自分の価値を証明するために
この世に生まれた」
という非常に強力な考え方がある。

だが、あなたがたは自分の価値を証明するために
この世に生まれたのではない。

あなたがたには価値がある!

あなたがたは楽しい成長、
拡大を経験するために生まれて来た。

あなたがたの欲求の力によって、
そして「許容し可能に」する力によって
─ここで話をしている「法則」を高く評価する、
まさにそのことによって─
あなたがたはこの時空という現実に出現した。

だから、物質世界に存在していることが
あなたがたの価値の証明であり、
自分の思いどおりの人間になり、
思いどおりに行動し、
欲しいものを手に入れるにふさわしい証明なのだよ。

自分は「無価値」だと考えると
とても嫌な気持ちになるのは、
その思考が「内なる存在」の考え方と
まったくずれているからだと気づけば、
思考の方向を改善しようと思うだろう。

だがそこが理解できれなければ、
他人を喜ばせようとじたばたしてしまう。

しかも、あなたに対する他人の要求には
一貫性がないから、
結局、あなたはわけがわからなくなって失敗する。

正当化したくなるのは
ネガティブなモードに入っているためで、
自分の欲しいものに
思考の焦点を定めていないからだ。

欲しいものに思考の焦点を定める代わりに、
自分が欲求を持つのは正しいのだと
他人を説得しようとする。

だが、そんな必要はない。
欲求を持って当然なのだから。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より

 

私は上記の説明がすごく納得がいきました。

引き寄せ界隈の人たちの、

引き寄せ自慢というのは、痛々しいですよね。

引き寄せの法則が法則だと分かっているのだったら、

当たり前のことなんだから、

なんでいちいち、あれが手に入った、

これを貰った、こんな得をしたと、

報告をするのでしょうか?

引き寄せマウントみたいな。

 

娘の同級生で、ちょっとしたことで、

嫌味っぽい言葉を言ってくる子がいるそうで、

なんとなく突っかかってくる感じなんだけど、

どう思うの?と聞いたら、

そういう子だと思って、腹は立たないそうなのね。

張り合っているんだろうけれども、

突っかかってくる時点で、

負けているんだよね…と話していて、

もし超絶美少女だったら、

絶対にそういうことはしないでしょう?と聞いたら、

うん、相手にもされないと。

逆に、周囲の子に対して、優しく接してくれる。

マウント取るってことは、負けてるって思ったり、

負けそうって思っているものがあるからで、

エイブラハムの上記の説明だと、

自分の価値を感じられていないんだろうね。

だから、正当化したくなる。

でもそれだと、ネガティブなモードに入っているので、

やがて悪循環に入るのでしょう。

 

よく気を付けて観察してみて下さい。

引き寄せ界隈の引き寄せ自慢というのは、

懸命に自分の価値を証明しようとして、

正当化していることの表れです。

そういう人の情報は参考にするのはやめましょう。

(反面教師です)

 

 

 

例えば、このブログ記事が

スピリチュアルをテーマにしたものではなく、

料理をテーマにしたものだとします。

 

私は料理研究家とかではなくて、

料理研究家が考案したレシピを、
ネットや本から選んで料理し、

美味しかったものを紹介している一般人です。

 

レシピを考案した人と、

料理名、材料、手順などを書いて、

感想や注意点などを書いています。
よく作る料理は、
アレンジもするので、それも書いています。
 
紹介しているレシピを考案した料理研究家は、
何人もいます。
 
ある時、ツイッターの料理研究家の何人かが、
ここでご紹介した料理を、
パクってツイートしているのを発見しました。
 
料理研究家〇〇さんの卵焼きを紹介したら、
次の日には、オリジナルレシピとして、
まるで自分が考えた様に発信する。
 
料理研究家××さんの野菜炒めを紹介したら、
次の日には、オリジナルレシピとして、
まるで自分が考えたように発信する。
 
私は、沢山ある卵焼きのレシピの中から、
いくつか作って、一番美味しく感じたり、
家族が喜んだものをここで紹介していて、
オススメですよと伝えているだけです。
興味を持ったら、ぜひ実際に作ってみてね、
と思っているのです。
 
でも、パクる料理研究家たちは、
作る料理も、レシピも、
自分で決めることが出来なくて、
ここの記事を参考にするだけではなく、
別のプロの人が考案しているレシピを、
自分のオリジナルとして発信するのです。
これは泥棒と同じですよね。
その程度の実力で何故、料理研究家になったのか。
料理研究家のファンや、料理が好きな人は、
そのレシピを見れば、誰が考案したものか、
分かるものです。
何故バレないと思えるのか。
自分がレシピを考案するのが大変な様に、
他の料理研究家の人達だって、
人知れず努力をしている訳です。
それを踏みにじり、自分のものの様にする、

考案者に対する敬意はないのでしょうか?

 
今、これだけの情報が溢れていて、
沢山のレシピが出尽くしていて、
逆にどれを選んだらいいのか迷ってしまうので、
私は経験した中から、
良かったものを選んでご紹介して、
同じ様に卵焼きを作りたい人の参考になればいいなと、
思っているのです。
 
一から作りたい、誰かのレシピなんて知りたくない、
オリジナルにこだわりたい、
そういう人は、こんなブログ記事なんて見ていないで、
さっさと卵を沢山買って来て、
必死で研究すればいいんですよ。
 
私は、一から作るくらいなら、
沢山の美味しいレシピがあるのだから、
いつくか実際に作ってみて、
そこから自分の好きなものを選んだらどうかな?と、
お伝えしています。
何故なら、私はレシピを考案することを、
目的としているのではなくて、
美味しい卵焼きを作って、
私や家族たちと楽しむことが目的なのです。
 
逆に言えば、
一からオリジナルのレシピを作りたいという人は、
料理家として活躍がしたいと思うのかもしれません。
そうでないのなら、自分の食事が、
今よりよくなる為に、行なうのなら、
一からいちいち分量や手順を探す必要はないですよね。
元々あるものを参考にして、
何度も作っていくうちに、
いつのまにか自分らしい卵焼きになっていきます。
 
例えば、私とあなたが、
料理研究家〇〇さんの卵焼きレシピを見て、
それぞれ作ったとします。
全く同じ味、同じ見た目に仕上がるでしょうか?
 
卵や調味料、調理器具、火加減など、
微妙に違ってくるでしょうから、
工場で同じ条件で機械で作った様に、
同じ卵焼きが出来るとは思いません。
言い換えれば、経験によるものが、
オリジナルになりますよね。
 
私がご紹介しているスピリチュアルな情報も同じです。
元々の情報から、自分が行なうことで、
段々、独自性を持つようになるのです。
最初の取っ掛かりから、
自分で手探りでやる必要はありますか?
専門家を目指すのでないのなら、
まず出来そうなことから、見よう見真似で、
始めてみる方が大事なのです。
オリジナルであることが重要なのではなくて、
実際に経験して、そこから独自の視点を、
獲得することが大事なのです。
 
例えオリジナルな手法を発見したと思っても、
大体出尽くしていますから、
どっかの誰かは同じことを言っていると思います。
 
また、今の時代の様子を見て、
そんな悠長なことを言っていられる状態でしょうか?
一から探す時間なんてあるのでしょうか?
とにかく身に付ける、実践して、
自分が生きやすくなるだけではなくて、
他の人を助ける方が重要ではないでしょうか?
その繰り返しから独自性が出て来るでしょう。
 
経験から来る言葉は、他の誰かと同じ様でも、
それぞれ違うのです。
同じ環境、同じ状況でずっと過ごす人など、
いませんよね?
それぞれの立場で経験することは、
みんなオリジナルです。
 
同じ卵焼きを作ったのに、
見た目も味も微妙に違ってしまう様に、
そして繰り返していくうちに、
甘めの味付けになったり、
しょっぱめの味付けになったり、
それぞれの独自性が出てきます。
 
教科書なんていらない?
マニュアルなんていらない?
だったら何故あなたは、
自分の意見を発信するのでしょうか?
誰かの参考になればと思っているのでは、
ないのですか?
それとも商売の宣伝の為ですか?
あなたは何を売ろうとしているのですか?
いらないと思っているものを売るのですか?
 
いらないと思っているものを、
他の人に見せようとしているのは何故ですか?
本当にいらないと思っているなら、
一人でネットも使わず、
コツコツとやったらいいと思います。
矛盾していますよね?
よく、自分の心の内を探って下さい。
どういう気持ちで、発した言葉なのでしょうか?
 
私は、とにかく卵焼きを作ってみる、
そして食べてみる、
そっちの方が大事だと思うので、
沢山あるレシピから、選択して、
自分がよかったものをご紹介しています。
あなたは、卵焼きを作ることよりも、
卵焼きのレシピを、
一から考案することの方が重要に感じるのですか?
もう、沢山のレシピが溢れているのに、
わざわざそれを見ない振りをして、
知らない振りをして、
自分のオリジナルにこだわりますか?
どうしてそうしたいのでしょうか?
そうすることで、どんなメリットがありますか?