昨日(6/2)から朝ドラで清原果耶演じる主人公達が学生時代に吹奏楽で演奏している曲はグレン・ミラーの「アメリカン・パトロール」。彼の曲は「イン・ザ・ムード」「真珠の首飾り」「ペンシルバニア6-5000」など軽快なナンバーが多いが、グレン・ミラー楽団のテーマ曲はスロウでムーディーな「ムーンライト・セレナーデだ。

 

 

さて、タイトルにあるように「ムーンライト•セレナーデ」が何故6月なのかお分かりだろうか?スイングジャズのスタンダードとしてビッグバンドなどで演奏されることが多いこの曲だが、恐らく楽器奏者の方々は余りご存じないだろう。ということは、そう、単純に歌詞に「june night(6月の夜)」というくだりがあるからである。

 

 

といってもミラーが作曲したのはメロディーであって、歌詞はミッチェル・パリッシュによって後から付けられたものだ。でも、タイトルからして、やはりこの曲は6月が相応しい。何故かといえば、そもそも「セレナーデ(serenade):小夜曲」とは、お屋敷の二階にある(であろう)深窓のご令嬢の窓下で歌うための曲だからである。

 

「あら、こんな夜に誰かしら…?」と、歌声を耳にしたご令嬢が窓の鎧戸を開け放って下を見ると、自分に気がありそうだと思っていた男性が自分を見上げて求愛の詩を吟じているという状況である。「まあ、やあねえ、困った人だわ」なんて呟きながら妙齢の女性が月の光を浴びながら窓辺で聴いている姿は絵になる。

 

とはいえ、男性側もアカペラやギターの弾き語りなど独りで実行するのはシンドイ。そこでバンドを仕立てて馬車(serenade wagonと呼ぶらしい)の荷台で伴奏させる。これは、事態に気づいた執事やご令嬢の父親が血相変えて猟銃を手に出てきたら、一目散に馬車で逃走できるという危機管理も兼ねてのことだったろう。

 

まあ、いかにも中世のヨーロッパを彷彿とさせる背景ではあるが、こんな事が可能なのは寒くも暑くもない季節で、かつ月の光(ムーンライト)だけが灯りだったろうから、歌詞にあろうがなかろうが、どうしたって「セレナーデの決行は、6月の月光輝く夜!」という事になると思いませんか(日本なら梅雨があるから5月か?)。

 

例によって原詞は歌詞専門サイトを見て戴くとして、ナンチャッテ和訳を試みると…こんな感じ。

―――――――――――――――――――――――

ムーンライト・セレナーデ (月光小夜曲)

 

僕は貴女の家の前に立つ
そして僕は月の光について歌う

6月の夜、僕は貴女の手が触れることを

心待ちにしてここに立っているんだ
庭のバラは月光のセレナーデにため息をつく

今宵、星は輝き、その光は私を夢にいざなう
貴女の眼差しは星のように輝き、僕の愛を照らす

貴女はそんな僕の心を知っているだろうか
僕は貴女を連れ出し、月光のセレナーデを歌う

夏の空は、貴女と僕の二人だけ
夢の中にある愛の谷で陽が高くなるまで共に過ごそう
ほら、天国のそよ風が梢にキスをしているよ

6月の今宵、どうか待たせないで

やさしく僕のそばに来て欲しい

僕は貴女の家の前に立つ
そして僕は月の光について歌う
愛しい人へのラブソング、月光のセレナーデ

 

(tlansrated by Saigottimo)

―――――――――――――――――――――――

私がナンチャッテ和訳をする際は、歌う主体が男性でも女性でも通じるように、「僕」ではなく「私」、「貴女」ではなく「貴方」、としているが、さすがにこの曲は男性目線で和訳した。いくら時代が変わったとはいっても、女性が男性の自宅の窓越しにセレナーデを歌うとは状況的に考えにくい(てか怖くて引く)からである。

 

と言いながらも、私のイチオシは女性ヴォーカルの小野リサ盤。彼女は様々なスタンダードをボサノヴァにアレンジしてポルトガル語で歌っているのだが、何故かこの曲はアルバム「DREAM」の中でも、原詞の英語のまま歌っている(下記のライブ録音はボサノヴァではなく4beat、というかスロウバラッドだが)。

 

さて、グレン・ミラーの活躍は戦前から戦中にかけてであり(終戦間際に搭乗した軍用機が消息不明)、戦後生まれの私がよく知っているのは、何度観たか分からない大ヒット映画「グレン・ミラー物語」の影響だ。ジェームス・スチュアートとジューン・アリソンの仲睦まじい夫婦役の名演は名曲の数々と共に鮮烈な印象を残した。

 

従ってグレン・ミラーといえば、ジェームス・スチュアート演じる好人物のイメージしかないのだが、死去についても「実はパリの娼館で腹上死した事を隠蔽した」との噂が消えないくらい、実際は結構クセのある人物だったらしい。「テニスでも毎球エースを狙って球を打つ奴」と誰かの評伝で読み、「なあるほど」と思ったものだ。

 

♪Monnlight Serenade・・・2003年8月21日・四谷三丁目「Bobby's」での根市タカオさんセッションにて♪

 

Saigottimo

小学校では図工だけ「5(最高評価)」で他は全部「3(普通)」だった私は「老後は絵でも描こう」と思っていたが、65歳の退職を機に歌や朗読のように誰にも習わずに始めようと思い立ったことは先日の記事で書いた通り。その後は、思い立つと下記のようにクレパスなどでグジグジと自由に絵を描き続けている。

 

【Saigottimo画伯の最新作】

 

しかし「図工」は「図画工作」だから、図画だけじゃなくて工作もあると気付いた。私はカミさんに「口先小手先男」と呼ばれるだけあって昔から手先が器用。ならば金がかからない工作として先ず折紙を折ってみた。レパートリーとしてすぐに折れるのはカンガルーで、これは脚の角度を調整すると、ちゃんと両足だけで立つ。

【折り方は鶴とほぼ同じで簡単!】

このカンガルーには思い出がある。45年前の成人記念に欧州を貧乏旅行で巡った際、別の記事に書いたスイスでの逸話の数日後、当時は東ドイツ内の飛び地だったベルリンにフランクフルトから列車で入る途中、コンパートメントで一緒になった東ドイツの親子連れの幼い男の子に、このカンガルーを折ってあげた

 

子供はビックリして喜び、母親は笑顔でグラッチェと言ったが、父親は眉一つ動かさず怖い顔で「君が降りるのは次の(西ベルリンの)ズールガーデン(動物公園)駅だよ」と私に告げた。当時東ドイツ側の軍事設備等を写真に撮ると連行されるらしく、私が降り際に監視塔を撮ろうとしたら親切な老婆が慌てて止めてくれた。

 

私は列車を降り、チャーリー検問所経由で数時間だけ東ベルリンに入った後、西側に戻ってハノーヴァーに向かった。検問所でパスポートと私の顔を交互に睨んだ東ドイツの検問官の眼は、あの列車の父親と同じく鷹のように鋭かった。その後ドイツは統一されたので、あの時、数時間だけでも東ドイツに入れて良かった。

 

私が子供の頃から家にあった立派な折紙の本(昭和45年マコー社刊「暮らしをかざるおりがみ」高濱利恵・著)を出してきて、そこからシャム猫を折ってみた。これは完成写真が英字新聞紙で折ってるせいもあり、なかなかオシャレでインテリアにもなりそうだが、結構ムズい。でも折る過程自体が「知恵の輪」的な面白さもある。

【このシャム猫は結構、難易度が高い】

これらの折り方を創案する折紙作家の創造力と表現力は凄いと思うが、その手本通りに折る事に絵を描くような創造性を発揮する楽しさはない。但し、正方形の紙を折っていき最終的にこれだけの立体造形物を作っていく過程はワクワクするし、幾何学的な脳トレと指先の神経&筋トレになるので高齢者にも向いている。

 

私がダイニングテーブルで折紙をしていると30歳になる長男が夕飯を食べに来たついでに「親父、この水牛を折ってくれよ。オレ、難しくて折れなかったんだ」と昔の子供向け絵本を指して言う。成程、この図じゃ子供には難しかったろうなと思いながら折ってやると「お、すげーじゃん!」と珍しく父親をリスペクトした様子だった。

 

Saigottimo

先週(5/21)、メディア界驚愕のニュースが流れた。英・BBCが故ダイアナ妃を欺いて取材したことを認めて英王室に謝罪し、1995年の衝撃のインタビュー番組が獲得した賞を全て返上する意向を示したのだ。BBC(英国放送協会)といえば英国の公共放送であり、日本ならNHKが皇室を欺いて取材するような大不祥事だ。

 

ジャーナリズムは民主主義の根幹かつ必須機能だ。国民に選出された代議員が政治を行う“間接民主主義”では「国家を取り巻く情勢はどうか」「自らの意に沿った政治が行われているか」といった情報を国民はメディアを通して知るしかないからだ。そのメディアが国家の中枢にある王室と国民を欺くとは・・・。

 

とはいえ資本主義社会ではメディアといえどもコマーシャリズム(商業主義)は無視できず、さりとて非資本主義(社会主義や共産主義)社会では政府を監視することが難しい。父親が新聞社勤務だったからかジャーナリズムに対する関心が高い私にとって、メディアの在り方を改めて考えさせられるニュースだった。

 

【右端は瞳さんのブログから】

 

「ダイアナ」と聞くと私は3人の女性を思い浮かべる。ダイアナ妃、そしてポール・アンカの大ヒット曲「ダイアナ」で歌われた彼の憧れの女性、もう1人は1976年の米映画「ネットワーク」フェイ・ダナウェイ演じる主人公の凄腕TVウーマンだ。メディアの本質を鋭く抉ったシドニー・ポラックのこの映画には個人的な思い出もある。

 

今でもこの映画のラストシーンの衝撃は忘れられない。私は口を半開きのまま呆然自失、エンドロールが終わって場内が明るくなっても金縛り状態で動けなかった。「いかん、立たなきゃ」と思い隣の連れを見ると、なんと全く同じくフリーズ状態だった。因みにこの時の連れは「うる星やつら」でラムちゃん役の声優、平野文さん。


文さんと私は同じ大学の同級生で共通の友人を介して知った。まだラムちゃんになる前だったが、既にラジオDJ等メディアの仕事をしていた彼女は身につまされたのだろう。この時は私の従弟が鹿児島から上京していて文さんのファンだというので彼女に声をかけ、お互い気になっていたこの映画を3人で観たのだった。

 

終演後も固まったままの我々二人を見て従弟が戸惑っていたので私が「フミさん!」と声を掛けると「いやぁ...業界の人が『観終わって動けなかった』と言ってたけど本当だぁ…」と呟きながらヨロヨロと立ち上がった彼女の姿をまだ覚えている。観終わったまま動けなくなるなんて経験は、私は後にも先にもこの映画だけだ。

 

今ではネットワーク≒インターネットなのでタイトルを見てもTVの話だと思わないかも知れないが、この映画が制作された当時まだインターネットは存在せずネットワークと言えばTV局の全国ネットの事だった。ただし、時代が変わっても、この映画と筒井康隆の短編「マス・コミュニケーション」はメディアの本質だろう。

 

そして1957年に全米No.1の大ヒットとなったポール・アンカの「ダイアナ」。例によって原詞は専門サイトを見て戴くとして、ナンチャッテ和訳するとこんな感じ。まあ、とてもじゃないが、この直訳の日本語では私を含めて日本人は恥ずかしくて歌えない内容だ。

--------------------------------
ダイアナ (words&music by Paul Anka)

僕はまだ幼くて、君は年上のひと
でも誰がなんて言おうと気にしない
僕は永遠に祈るからね、愛しい人
君と僕は自由になるんだ
木々の鳥たちが空に舞うように
ああ、僕のそばにいて欲しいよ、ダイアナ

君が僕を抱きよせる度に感じるスリル
ああ、愛しい人、君が一番さ
僕は君を愛してる、君は僕を愛してる?
ああ、ダイアナ、分からないよ
僕は君を心から愛してるよ
そして僕達は決して別れないよね
ああ、僕と一緒にいて欲しいよ、ダイアナ

愛しい人、ああ、僕の恋人
誰にも言わないことを僕だけに言って
心から君を愛してるから
ああ、君だけが僕の心をつかむ
君だけが僕の心を引き裂く
君がその愛しい腕に僕を抱くとき
僕は君の魅力の全てを感じとるのさ

僕をしっかり抱きしめて、愛しい人

力の限りに僕をすくい取って!

ああ、僕のそばにいて欲しいよ、ダイアナ
ああ、どうかお願い、ダイアナ
(Tlansrated by Saigottimo)

--------------------------------

ポール・アンカの心をここまで悩ませたダイアナという人は一体どんな女性だったのだろうと調べたら、どうやら3歳年上で弟のベビーシッターだったらしい。10代の男は年上の女性に憧れるもの。当時15歳で思春期の彼にとって、甘えられるベビー・シッターが18歳の女性なら、それこそ光輝く女神のような存在だったろう。

 

「ダイアナ」は、往時のロックンロールというか昭和30年代の日本のロカビリーブームの頂点に立つ曲。ジャズではないので歌う機会は余り多くないが被災地や高齢者施設等で歌うと間違いなく女性(お姉さま方)に大ウケして驚いたが、なるほど、こうした背景がお姉さま方の母性本能をキュンキュンさせるのかも知れない

 

最後に、故ダイアナ妃の名言を紹介したい。この一言は、私がこれまでこのブログを通じて模索してきた「自由に振る舞うにはどうしたらよいか」という問いの一つの答えではないかとも思われる。

"Only Do What Your Heart Tells You." by Princess Diana

「あなたの心があなたに語ることだけをしなさい」(ダイアナ妃)

 

♪Diana…2019年6月7日、渋谷・SEABIRD第一金曜ライブにて♪

※ テナーサックスの御子柴さんが、ママさん命名の“鶯谷サウンド(サム・テイラーばりのコテコテのキャバレー風サウンド)”をイントロから炸裂させてくれて(ロカビリーファンの私は)ゴキゲンでした!

 

Saigottimo

オーディオドラマ「桃太郎たちの焚火を囲む会」に参加させて戴いた。これは、桃太郎や赤鬼、雪女などが焚火を囲んで海辺でBBQをする石貫慎太郎さんのオリジナル作品で、このご時世にピッタリの設定だ。かぐや姫や一寸法師も登場するから、まるで通信会社のCMの打上げを連想してしまいそうだ。

 

今回、私は赤鬼(&かぐや姫のお迎えの人)役を頂戴した。鬼は今まさに「鬼滅の刃」の大ヒットで注目されているが、石貫ワールドの鬼は恐ろしい存在ではなく、穏やかなやさしいおじさん(お爺さん?)として描かれている。宿敵であったはずの桃太郎とも旧知の仲で、そのホノボノとした交流がほほえましい

 

オーディオドラマ「桃太郎たちの焚火を囲む会」【16分間】

  ↑クリック!

■スタッフ
原作・制作:石貫慎太郎

■キャスト

桃太郎:能登洋宇

赤鬼:Saigottimo

かぐや姫:​山木梨花
雪女:中田真由美
一寸法師:南春奈


一般的に、朗読というのは読者が目で読む活字作品(小説や詩やエッセーなど)を1人または複数の朗読家が読み、耳で聴かせるもの。一方、ラジオドラマはTVや映画なら配役された役者達が演じるところを声優達が声だけで演じるドラマ。そして紙芝居や絵本読み聴かせは絵(静止画)を見せながら演者が声で演じるものだ。

 

今回の作品は「オーディオドラマ」、つまり基本は耳で聴かせるのでラジオドラマに近い。でもドラマというからには物語として何か出来事が起きて起承転結などのストーリーがあるものだが、ここでは何も起きない。登場人物が現れてボソボソ話して帰るだけ。そして、その間ずーっと「焚火」の動画が映っているのだ。

 

なんと登場人物は桃太郎も赤鬼も一切出てこないまま、映像は延々と「焚火」を映し続けている。そしてその焚火を一緒に囲んでいるであろう登場人物たちの会話だけが聞こえてくるのだが、そうなると何故かもう七面倒臭い物語など展開してくれない方が良くて、むしろどーでもいい話をダラダラと聴き続けたくなる

 

話の内容自体は「鬼ヶ島は自給自足で宝物など不要」とか「月には海がないので宇宙船は作れても海上移動は手漕ぎ」など、言われてみれば成程!と膝を叩くような石貫理論も展開されているのだが、なにせ焚火の前では、まったりした時間の中で流れていくだけだし、それがまた妙な快感でクセになりそうなのだ。

 

焚火といえば、私は昨年亡くなった漫画家のジョージ秋山の代表作「浮浪雲」を思い出す。幕末を舞台に、雲助の元締で居合の達人でもある主人公、通称・浮浪雲は、いつも女物の着物を羽織って「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」とフラフラしている得体の知れない人物なのだが、確か彼の趣味は「焚火」だっだ

 

テレビでも「魂のタキ火」(NHK)という番組があり、各界から異色の3人が集まって焚火をしながら身の上話などをするのだが、これが不思議に面白い。視聴者である我々も何となく一緒に焚火を囲んで話を聴いているような気分になって、時間を忘れてずーっと焚火の炎を眺めてしまうのだ。まるで魔法にかかったようだ。

 

石貫作品への参加は「キューピッドは雪女」「海沿いの夜行列車」に続き今回が3回目だが、最初に台本だけ見た時は「これでドラマになるのかな?」と疑問にも思った(自分の担当台詞はとても自然で読み易かった)が、焚火の動画があれば逆にそれが心地良くて、これは是非ともシリーズ化してもらいたいと思っている。

 

Saigottimo

米国MLBエンゼルスの大谷翔平選手が大活躍している。打者として14本塁打は両リーグ単独トップ(5/20日時点)、投手でも防御率2.37(同)はチームの先発投手陣の中で断トツだ。走者としても俊足を生かして6盗塁、外野守備でもレーザービームで走者を刺す。2刀流どころか投げて打って走って守る4刀流の超人ぶりだ。

 

彼は日本でも2桁勝利と2桁本塁打を記録(2016年)した唯一の選手であり、「本塁打トップの選手が先発投手を務めるのはメジャーの歴史上でも100年前のルース以来2人目」など球聖ベーブ・ルースとよく比較され「今はルースの時代とは違うよ」と言っていた日米の野球マニアの鼻をへし折り続けていて、痛快この上ない。

 

MLB Angels の公式サイトから】

 

100マイル超の速球を投げ、400フィート超の大飛球を打ち、打席から一塁まで3.8秒台で走るという、メジャーでも類のない規格外の身体能力、しかも某メジャーリーガーがツイッターで呟いていたらしいが「俺より野球が出来るのは認めるが、あんなにgood lookingでなくてもいいよね」とボヤくほど、容貌まで麗しい。

 

カミさんに「大谷、今度は先発だよ」なんていうと「投手と打者でフル稼働ならお給料2人分もらわないとねぇ」と言う。なるほど、彼の仕事は野球だから、投手で先発したら翌日は休んでいいし上司(監督)も休ませたいだろう。仕事の成績になる勝ち投手の権利まであと1アウトなら交代する事を拒んでもプロならおかしくない。

 

でも彼を見ていると、そういうプロ根性とは違うものを感じる。自分の年俸や評価に繋がる記録など全く気にしている様子がない。3試合連続本塁打中の強打者なら三塁手も後方に守る、と見るや彼はすかさず3塁線にセーフティバントを決めるのだ。こんなことは本塁打数の記録を意識していたらやるはずがない

 

解説者の武田一浩氏が「どんな過酷な状況でも彼はいつも楽しそうですよね。きっと世界一野球が好きなんでしょう」とコメントしていたが、実はこれが大谷翔平の本質的な部分ではないかと思う。降板後も外野守備につき登板翌日も打者で出場するのも彼は「野球をするのが楽しくて楽しくて仕方ない」からなのだろう。

 

メジャーへの挑戦も2刀流に拘ったのも、最高の舞台で投げて打って野球を目一杯楽しみたかったからであり、本人にとっては記録などどうでもいいのかも知れない。彼の日本での年俸は5年目で2.7億円だったのにメジャー初年度の年俸は0.5億円台と大幅ダウンした仕事と考えたら“年俸8割減の転職”なんてあり得ない

 

実は私は国家資格2級キャリアコンサルティング技能士でもあり、現役時代は多くの人のキャリア相談に乗った。「キャリア」というと一般の人はどうしても仕事のことだと思ってしまうが、それは「ワークキャリア」であり「ライフキャリア」の一部に過ぎない事は下記の図(キャリア・レインボー)を見れば一目瞭然だろう。

 

この図で説明すると、大谷翔平にとって「野球をすること」は「ワークキャリア」であることは間違いないが、単に「生活の糧を得るため」であれば仕事は「手段」の一つだ。でも彼にとって「野球をすること」は子ども時代からの「ライフキャリア」全体を通しての「ライフワーク」ともいうべき人生の「目的」なのではないか。

 

彼の様に突出した才能や能力は発揮できなくても自分なりの「ライフワーク」を見つけて従事することは誰でも出来るはず。プロ野球で結果が出ず別の道でそれを見つけた選手もいるし、ドラフト1位入団で大成せず「それでもグラウンドに居たい」と生涯マスコットの着ぐるみで大活躍した島野修氏もその1人である。

 

ありし日の島野修氏

【左:ブレービー、右:ネッピー】

 

コロナ禍の現在(2021年5月)、大谷翔平選手の活躍が日本で明るいニュースとなる事は嬉しいし、彼の人並み外れた能力については「凄い」という言葉しかない。でも単に彼の能力や成績を賞賛し、応援するだけではなく、我々のような凡夫でも彼の「自分が好きな事を徹底的に貫く」という姿勢だけは学べそうである。

 

Saigottimo

岡本太郎によれば芸術とは人間の生まれながら持っている情熱であり欲求」なので「人は誰でも芸術家」だという。さらに「芸術は技能ではないので決して教えたり教わったりできない」し、生き方に専門家が居ないように芸術には本来、専門家も玄人もなく、むしろ「モーレツに素人たれ」と主張している

 

我々がこの「芸術」とよく混同しがちなものとして「芸能」先の記事で挙げた。能や歌舞伎のような伝統芸能や陶器や漆器のような工芸などは専門職人(匠)の熟練を要する素晴らしい技(技能)だが、これは「芸術」とは別物だという。であれば同様に我々が「アート(芸術)」と混同しそうな「デザイン」はどうか?

 

 

カセットテープ全盛期に日本の某メーカーが若者ウケする製品を出そうとイタリアの有名カーデザインスタジオにデザインを依頼した。すると彼等が手始めに要求したのはカセットテープ本体の技術的な機能の説明だった。果たして出来上がった製品は、回転が滑らかで消費電力性能まで向上していたという。

 

伝説的なデザイナーレイモンド・ロ-ウィ、日本のタバコ「ピース」箱の(ハトが枝葉を加えた紺地の印象深い)デザインで売上アップに貢献したことで知られるが、実は旧デザインでの色数や色階を減らすことで印刷コストの削減も果たしたデザイナーは、対象物の機能効率も考慮する“設計者”なのである。

 

【デザイン論の古典となったローウィの著作】

 

デザイン(de-sign)とは文字通り不要な印し(sign)を排除(de)して、本当に必要な機能を残すことだ。「これは単なるデザインで何の意味もないんです」など笑止千万!デザインとデコレーション(decoration:装飾)を混同している人の発言である。だから良いデザインがシンプルなのは当たり前なのだ。

 

つまり、デザインとアート(芸術)は違う。デザインは機能設計であり、アートは生命の迸りだ。ある部分が「赤い」のは、デザインなら赤くする意味(設計意図)があり意味がないのはダメなデザインだが、逆にアートなら「私のハートが赤くしたかったから」であるべきで計算された意味があるのはダメ(不純)なアートだ。

 

但し、違うとはいっても両者には「美」という共通価値基準はあるし100%純粋にどちらかのみということはないはず。画家は自ずとキャンパス内に収めるデザイン(機能設計)をしているし、岡本太郎氏の「太陽の塔」だって建築構造物としてのデザインをしっかり果たしているはず。両者は隣接し一部重複もしている。

 

注文婦人服デザイナーだった私の母も、クライアントだった某交響楽団ピアノ奏者にステージ衣装を頼まれた際、実際にコンサートを観てそのピアニストの動きを観察してデザインしたと話していた。服飾デザイナーなら装いの美しさだけでなく立ち居振る舞いにおける衣装の機能設計が要求されるという事である。

 

絵画自体は純粋なアート(芸術)作品だったとしても、どの絵をどんなフレーム(額縁)に入れてどこに飾るかと考えた時点で、来訪者のカテゴリや来訪目的やその空間で狙いたい効果などを計算して設計するだろう。だとしたら、それはアートを利用したデザインとして、空間デザイナーの領域になってくる。

 

程度の差こそあれ「アーティスト(芸術家)はデザイナー(の要素も求められる)」だし、冒頭の岡本太郎氏の言「人は誰でも芸術家」によれば、当然「デザイナーもまたアーティスト(芸術家)」ということになる。但し「デザインとアートは(どちらが上でも下でもなく)全く別物」という点はしっかり認識しておくべきだろう。

 

Saigottimo

今年2021年の「立夏」は5月5日、一年を四季で4等分したら今はもう春ではなく夏なのだ。今年のGWはコロナ禍で原則ステイホームとなったが、気候的にも初夏に向かっていて海辺が恋しい。こんな時、オールディーズ・ファンならパット・ブーンの「砂に書いたラブレター」がピッタリの気分ではないだろうか。

 

 

「砂に書いたラブレター(Love Letters In The Sand)」といえば1957年に5週連続全米No.1に輝いたパット・ブーン最大のヒット曲である。この曲がヒットした時代背景は既に別の記事で書いた通り、アレンジとバックを担当したビリー・ヴォーンの会心作でもあるので彼の楽団によるインスツルメンツ(歌無し)盤も聴いて欲しい。

 

【At Itoshima City, Fukuoka Pref.】

 

さて、家族連れなら浜辺で潮干狩りや貝殻探し、カップルなら砂の城を作ったりして遊ぶのだろうか(あ、そうそう、ミレイユ・マチューの「砂の城」という曲も素晴らしいですよ)。あるいは、この歌のように「砂の上にラブレター(恋文)を書くなんてのも結構ロマンチックだなぁ…」などと思うでしょう?

 

でも、ちょっと待った!“Love Letter”じゃなくて“Love Letters”と複数形になってるんだよね。えぇ~っ、いくらなんでも砂の上に手紙を何通も書けますか、書けないでしょ、ね?つまり、この“Letter”は「手紙」じゃなくて「文字」のこと。だから“Love Letters”は愛の文字列(例えば「I LOVE YOU」とか)でしょうね。

 

例によって、原詞は歌詞専門サイトを参照戴くとして、ナンチャッテ和訳を試みると、こんな感じだろうか。

-------------------------

砂に書いたラブレター

(words by Kenny Charles F, Kenny Nick A)

 

ちょうど今日みたいな、あの日
私達は時間も忘れ、砂に愛の文字を綴っていた

でも波が砂から文字を奪っていくたびに
私が泣くと、貴方は笑っていた

永遠の真実(まこと)を誓ったはずなのに

どういうわけか、それは貴方にとって

何の意味もなかったみたい

あの日、砂に書いた愛の文字を

奪っていった時のように、波が崩れるたびに、

いま、私の傷ついた心は痛む

(translated by Saigottimo)
-------------------------

 

もとは古いポップソングだが、ロカ・バラード(三連符×4拍)にして口笛を入れるという“50's洋楽の王道”にアレンジした、私が大好きなビリー・ヴォーンの手腕とパット・ブーンの甘い歌唱がハマった。これほどの大ヒットなら多くのカバーがあるはずだが、ここまでハマると、もう誰もカバーする気にもならないようだ。

 

下記の音源は茅ケ崎「Hi-Hat」にてHi-Hatカルテット・ライブに客演させてもらって6年目の録音だが、この曲はリハでも様々なアレンジを試みた結果、「やっぱりオリジナルのロカ・バラードにしかなり得ないね」という結論に至って、頭にゆみりーのアルトを2小節入れ、間奏に私の下手な口笛を入れた思い出がある。

 

♪Love Letters In The Sand ・・・2012年3月24日、茅ケ崎「Hi-Hat」にて♪

 

Saigottimo

5月9日は母の日。43年前に他界した私の母はファッション・デザイナーだったこともあり、私は他の科目は全て「3」だったが図画工作だけはいつも「5」だった。クルマ好きだったので小学生の頃は将来カーデザイナーになろうと思っていたが、母の「工業デザイナーは数学が出来ないとダメ!」の一言であっさり諦めた。

 

それでも「いつか歳を取ったら絵でも習おう」と漠然と思っていたが、気づいたらもうしっかり歳を取っており、そしてまさにリタイアした「今でしょ」になってる。「じゃ近くの社教館でデッサンでも習うか」と思った矢先、「モーレツに素人たれ」と説く岡本太郎氏の本を読み、そもそも歌も朗読も習ってない自分に気づいた。

 

そうだ、自分は歌も朗読もウクレレもハーモニカも「何事も本格的にやらない」がモットーだった。絵だけは小学生時代の思い込みのまま習おうとしていたが、習う必要なんてないじゃん。数年前の誕生祝に妹から豪華な水性色鉛筆セットをもらって殆ど使ってなかったことを思い出し「まず何でも描いてやろう」と考えた。

 

【左:新生Saigottimo画伯の処女作】

 

画用紙製のハガキに何か色鉛筆で描こうとしたが、急にクレパスで思いっ切り大胆に描きたくなり、昨年就職した次男の小学時代のクレパスを引っ張り出して描き、切手を貼っていま仕事で福岡に住む妹に送った。投函する前にカミさんに見せたら「何か悩みでもあるの?」と心配された。妹からも何も返事が来ない。

 

因みに、5年前に描いた水彩色鉛筆画がハガキ画用紙に残っていた。え、これの方が上手いって?いやいや、こんなもんはね、単なるテクニックで誰でも描けるんですよ。だって水彩色鉛筆のテキストに付いていたDVDを観ながら描いたんだもん。だから自分では「やっぱ俺って器用だな」くらいで、何の感動も無い。

 

 

岡本太郎氏も著したように「芸術はここちよくあってはならない/きれいであってはならない/うまくあってはいけない」ってね。この絵なんて、典型的に“綺麗だし心地良いし上手い”じゃないの。全然ダメだよね。だって、テキスト29ページの右下のお手本通りで何も面白くない。そうだそうだ、こんな絵はもう描かないぞ!

 

次に川崎駅から観たMUZAホールを油性ボールペンと色鉛筆で描いて知人に送った。こっちも反応がない。そんなに酷いか?いや、ホンモノのゲイジュツは同時代人には理解されないしそもそも他人の評価なぞ気にすべきではない。そーだ、返事が来ないがどうした。俺は描きたい絵を描くのだ、それでいいのだ!

 

 

あ、あの、何か問題ありますかね?(え、描いてもいいけど人に送るなって?そっか…やっぱ、どこかで他人に認めてもらいたいという下心があるんでしょうかねぇ…ゲイジュツの道は険しいっすね、岡本先生!)

 

Saigottimo

コロナ禍で各種イベントも中止や無観客開催を余儀なくされ、リモート配信等に切り替わっている。私自身もヴォーカリストとしてはリモートセッションは試しに参加させてもらったが、やはりジャズはオーディエンス(聴衆)を含めたリアルライブでないとね。但しジャズスポットでのライブ出演は自粛して1年超になる。

 

一方、朗読に関してはリモート絵本読み聞かせ」をリアルライブで一度だけ体験したがその後機会はなく、録音を送っての編集では「きつねのでんわボックス」「キューピッドは雪女」「海沿いの夜行列車」に参加した。視聴回数を見ると(「きつね~」は公開期間終了したが他は公開中)、朗読のネットニーズはありそうだ

 

そこで今回、私が所属する朗読集団「5Thanks(サンク・サンクス)」ではリモートで新たに動画コンテンツを制作した。といっても企画から制作に関しては専らリーダーの前尾さん頼みだが、彼女のセンスとパワーは流石だ!演目は宮沢賢治作「やまなし」で、5Thanksとして旗揚げした2015年の美術館公演の再演である。

●朗読動画「やまなし」【12分間】 ←クリック!

原作:宮沢賢治
企画・制作:朗読ユニット「5Thanks(サンク・サンクス)」

語り:前尾津也子

兄さんのカニ:大幡(おおばん)かおり

弟のカニ:久木崎なお江

お父さんのカニ:Saigottimo

音楽:ななえ

 

6年も前の公演だったが、メンバーは皆、当時の台本を持っていたし、一度リモートで読み合わせをしたら、間合いもバッチリだった。当時はキーボードで巧みに音色を変えて瞬時に対応していたななえさんの音楽も、いっそう磨きがかかったように思う。波や泡の効果音も情景動画とよく合っているのではないだろうか。

 

今回、カニやお魚などを制作したのはプロのナレーターである大幡ちゃんだし、音声や音楽の編集から動画制作~合成まで担当した前尾さんはもともと朗読では「プロフェッサー」の称号を持つものの本業は博物ジャーナリスト(?)だからズブの素人のはずなのに.…「何をさせても出来る人は出来る」という事だろう。

 

これまで5Thanksは旗揚げ公演以降も、詩の朗読カフェでの朗読&音楽エッセイの朗読オカリナ&歌と朗読夏休みお話BOX池袋と湘南でニューヨークの魔法古楽器リュートとグリム童話屋外での絵本読み聞かせ教科書展での朗読&歌等々、2019年まで実に様々な活動をしてきた。

 

昨年(2020年)も、春に高円寺でのイベントを企画していたし、秋にはプラネタリウムで宮沢賢治作「双子の星」を朗読しようと構想まで練っていたのだが、コロナ禍で断念!そして今年の「きつねのでんわボックス」&今回となるが、高円寺イベントもプラネタリウム企画も機が満ちればいつか必ず実現したいと思っている。

 

Saigottimo

岡本太郎の「今日の芸術」(1954年)に感銘を受け、続編「日本の伝統」(1956年)も読んだが、これも凄かった。「パリ暮らしが長い前衛芸術家が日本の伝統を語れるのか?」とも思ったが、彼の伝統文化に対する卓見と芸術への確固たる信念と情熱に圧倒された。ご紹介戴いた岩渕さん(dr.)に改めて感謝である。

 

主に「縄文土器」「日本画」「日本庭園」と全く異なる3分野について、時代背景から社会構造、生活様式や行動原理をベースに地に足の着いた本質的な芸術論であり日本文化論だ。そして何より我々の“間違った日本主義、伝統主義”を糾弾、「伝統は現在我々が新しく創り出さなければならない」と主張している。

 

【どちらも光文社知恵の森文庫】

 

興味ある方は是非お読み戴きたいので要約は避け、私が感じた事を中心に書く。私が最も感銘を受けたのは「伝統芸能などの芸事や工芸品の素晴らしさ」と「芸術」は別モノという点だ。匠の職人技の凄さは認めても神秘化するのはナンセンスだし、そもそもそれは「芸術」と混同してはいけないと岡本氏は戒める。

 

現在の古典は往時のアバンギャルド(前衛的)で、その手法等が確立して「型」になったらもう芸術としての価値ではない。以前、クラシック音楽やスタンダードは「その時代の優れた音楽が後世に残った」という定義をブログに書いたが、確かにバッハもモーツァルトもベートーベンも往時の革新的前衛だったはず。

 

往時の絵画の“常道”は、パトロンである貴族らが立派な装束で描かれている人物画や、神話や聖書の名場面を描いた宗教画だった。なのに庶民の日常や寛ぐ裸婦や卓上の果実等を描いたミレー、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン等の絵は、まさに生活に根差した、往時の「革命的前衛芸術」だった

 

それが後世の日本では西洋油絵における静物画や裸婦画の“型”になっている馬鹿馬鹿しさに我々は何の疑問も感じないどころか歌舞伎や日本舞踊など伝統芸能のような“型”として有難く受け容れていることが大間違いだと岡本氏は指摘する。「芸能」と「芸術」は言葉は似ているが全く異なるようだ。

 

日本でも西洋でも伝統芸能や職人技は長年かかって修得できる素晴らしい「技術」ではあるが「芸術」ではない。岡本氏が主張する芸術とは、自由に自分の個性や感性を表現することで自らの生き様を創造する営みであって、師匠の指示通りに意味も分からず何十年も修行して獲得するアプローチとは真逆だ。

 

岡本氏は「芸術はここちよくあってはならない/きれいであってはならない/うまくあってはいけない」と断言する。この意味は、「心地よくきれいで上手いもの」は、既に万人が価値を認めている手慣れた芸事(伝統芸能)や巧みな技ではあったとしても、決して人の心を揺さぶる「芸術」ではないという意味である。

 

過日、ジャズ喫茶「SEABIRD」でベテラン男性ヴォーカリストが来訪しスタンダード曲をスキャットを交えて小粋に歌い上げ拍手喝采を浴びた。私はマスターに「いやぁ、流石ですねぇ…」と感心半分、自虐半分で話しかけたら、「まあ、あれは一種の芸みたいなもんだからね…」と、マスターが私に微笑みながら答えた。

 

その時、私は自分もあの域に達しなければならないがとても出来ないと半ば落ち込んでいたのだが、マスターの言葉を聞いて何故かホッとした。「君は君のやりたい事を目指せばいいんだよ」と、優しく背中を押されたような、慰められたような気がしたのだ。でもこの本を読んで、その意味が少し分かった気がした。

 

私自身はMCで小噺もやるし、同じコード進行の2曲をテレコに歌う“ジャズの遊び”(下記参照↓)も、語りや口笛も含めて定番の芸として確立させたい一方で、下手でも失敗してもいいから新しい何かに挑戦し創造したい時もある。芸能(エンタテイメント)も芸術(アート)も価値は違うが上下貴賤はないのだから。

 

♪I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter (手紙でも書こう) ~ It's A Sin To Tell A Lie (嘘は罪)…2011年9月13日、本郷三丁目「Gout」でのジョイントライブにて♪

 

※上記2曲はほぼ同じコード進行なので、同じ伴奏でどちらのメロディ&歌詞でも歌える。そこで3コーラス目を8小節ずつ交互に歌うという“ジャズの遊び”を某先輩Vo.の持ちネタから頂戴した。

 

Saigottimo