岡本太郎の「今日の芸術」(1954年)に感銘を受け、続編「日本の伝統」(1956年)も読んだが、これも凄かった。「パリ暮らしが長い前衛芸術家が日本の伝統を語れるのか?」とも思ったが、彼の伝統文化に対する卓見と芸術への確固たる信念と情熱に圧倒された。ご紹介戴いた岩渕さん(dr.)に改めて感謝である。

 

主に「縄文土器」「日本画」「日本庭園」と全く異なる3分野について、時代背景から社会構造、生活様式や行動原理をベースに地に足の着いた本質的な芸術論であり日本文化論だ。そして何より我々の“間違った日本主義、伝統主義”を糾弾、「伝統は現在我々が新しく創り出さなければならない」と主張している。

 

【どちらも光文社知恵の森文庫】

 

興味ある方は是非お読み戴きたいので要約は避け、私が感じた事を中心に書く。私が最も感銘を受けたのは「伝統芸能などの芸事や工芸品の素晴らしさ」と「芸術」は別モノという点だ。匠の職人技の凄さは認めても神秘化するのはナンセンスだし、そもそもそれは「芸術」と混同してはいけないと岡本氏は戒める。

 

現在の古典は往時のアバンギャルド(前衛的)で、その手法等が確立して「型」になったらもう芸術としての価値ではない。以前、クラシック音楽やスタンダードは「その時代の優れた音楽が後世に残った」という定義をブログに書いたが、確かにバッハもモーツァルトもベートーベンも往時の革新的前衛だったはず。

 

往時の絵画の“常道”は、パトロンである貴族らが立派な装束で描かれている人物画や、神話や聖書の名場面を描いた宗教画だった。なのに庶民の日常や寛ぐ裸婦や卓上の果実等を描いたミレー、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン等の絵は、まさに生活に根差した、往時の「革命的前衛芸術」だった

 

それが後世の日本では西洋油絵における静物画や裸婦画の“型”になっている馬鹿馬鹿しさに我々は何の疑問も感じないどころか歌舞伎や日本舞踊など伝統芸能のような“型”として有難く受け容れていることが大間違いだと岡本氏は指摘する。「芸能」と「芸術」は言葉は似ているが全く異なるようだ。

 

日本でも西洋でも伝統芸能や職人技は長年かかって修得できる素晴らしい「技術」ではあるが「芸術」ではない。岡本氏が主張する芸術とは、自由に自分の個性や感性を表現することで自らの生き様を創造する営みであって、師匠の指示通りに意味も分からず何十年も修行して獲得するアプローチとは真逆だ。

 

岡本氏は「芸術はここちよくあってはならない/きれいであってはならない/うまくあってはいけない」と断言する。この意味は、「心地よくきれいで上手いもの」は、既に万人が価値を認めている手慣れた芸事(伝統芸能)や巧みな技ではあったとしても、決して人の心を揺さぶる「芸術」ではないという意味である。

 

過日、ジャズ喫茶「SEABIRD」でベテラン男性ヴォーカリストが来訪しスタンダード曲をスキャットを交えて小粋に歌い上げ拍手喝采を浴びた。私はマスターに「いやぁ、流石ですねぇ…」と感心半分、自虐半分で話しかけたら、「まあ、あれは一種の芸みたいなもんだからね…」と、マスターが私に微笑みながら答えた。

 

その時、私は自分もあの域に達しなければならないがとても出来ないと半ば落ち込んでいたのだが、マスターの言葉を聞いて何故かホッとした。「君は君のやりたい事を目指せばいいんだよ」と、優しく背中を押されたような、慰められたような気がしたのだ。でもこの本を読んで、その意味が少し分かった気がした。

 

私自身はMCで小噺もやるし、同じコード進行の2曲をテレコに歌う“ジャズの遊び”(下記参照↓)も、語りや口笛も含めて定番の芸として確立させたい一方で、下手でも失敗してもいいから新しい何かに挑戦し創造したい時もある。芸能(エンタテイメント)も芸術(アート)も価値は違うが上下貴賤はないのだから。

 

♪I'm Gonna Sit Right Down And Write Myself A Letter (手紙でも書こう) ~ It's A Sin To Tell A Lie (嘘は罪)…2011年9月13日、本郷三丁目「Gout」でのジョイントライブにて♪

 

※上記2曲はほぼ同じコード進行なので、同じ伴奏でどちらのメロディ&歌詞でも歌える。そこで3コーラス目を8小節ずつ交互に歌うという“ジャズの遊び”を某先輩Vo.の持ちネタから頂戴した。

 

Saigottimo