ジャズは自由にプレイするもの」等と言われると一瞬、「自由は何でもアリだから好き勝手すればいいんだ、楽勝!」と思うのだが実際にやろうとすると「自由に振る舞う」ことは意外と難しい。逆に手本があって「この通りにやって」と言われた方が、(その通りに上手くできるかどうかだけで)選択肢が無い分だけ楽である。

 

よくパンフレットなどが置いてある場所に「ご自由にお取りください」等と書いてあるが、これは自由といっても単に「無料です(It's a free)」という意味だから、選択肢は「もらう/もらわない」の2択しかない。しかし「自由に歌って(演奏して/書いて/描いて)ごらん」等と言われると選択肢が多い分だけ難しくなる

 

それに「自由に振る舞う」とは、様々な制約や周囲の状況や人に拠らない、何かに囚われない、縛られないことを指す。これらは全て「~ない」と否定的な表現だが、肯定的に表現すると「自分の思いのままに振舞う」ことであろう。まさに読んで字の如く」らに根差す理「」によって行動することと言えるかも知れない。


他の人ではなく「自らの理由によって行動する」なら簡単に出来そうなのに難しい原因は再び否定的な表現に変換すると分かる。つまり「自分以外の理由で行動しないこと」だから「何をやってもOK」ではないのだ。つまり無数にある選択肢の中から、本当に分以外の理ではない行動を選択しなければならないからだ。

 

こう考えると、団体旅行の中の「自由行動」の過ごし方のように我々が自らの意思によって自由に振る舞っていると思っていることも、実は何らかの制約や習性等によって縛られているのではないか、本当の意味で分に根差す理によって選択していることではないのではないか、とも思えてくる。

 

つい最近気付いた事がある。私はドライサウナと水風呂を「○回の表/裏」と野球に模して「9回裏で完投」、それがシンドイ時は先発投手の責任回数である5回裏まで、と頑張ってきた。しかしある時、4回で上がりたくなって「いや、もう1回!」と頑張ろうとする自分にふと「え、何のために頑張るの?」と疑問を覚えた

 

誰でもない自分の自由になる時間に好きでサウナに入って気持ち良くなったのに、そこからわざわざ辛い思いをして頑張る理由はどこにもない。その時の気分と体調によって4回でも6回でも上がればいいし、それが自由というものではないか。結局のところ、私は自分で決めたルールに囚われ自由ではなかったのだ。

 

 

上の絵は今年小学校に入った甥っ子が2年程前に私の顔を描いたものだ。似ているかどうかではなく、5歳児が何の囚われもなく自由に描いたこの絵は本当に凄いと思う。しかし彼は間もなく学校でお絵描きを習うから、こんな凄い絵はもう描けなくなるだろう。この「自由さ」も習わないから出来る事の一つかも知れない。

 

子供に必要なのは間違いなく教育だが、我々大人に必要なのはもしかしたら脱・教育(de-education)ではないだろうか。もし「1日中自由に過ごして」「1万円自由に使って」となったら、皆さんならどうします?一切の囚われなく、真に分の理で自分らしい時間やお金の使い方をしようとしたら、ホンの少しでも難しいよね?

 

Saigottimo