小学校時代の記事はこちら。
※自分の記憶に基づいて書いているため、
事実と違っている可能性があります。
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父親、母親、先生といった大人達からだけでなく、
家でも学校でも、とても孤独でした。
「たった1人でいいから自分を愛して欲しい」
という思いは、
いつも私の心の中にありましたが、
私は渇望とも呼べるこの思いを、
どうしたら満たせるのか、
全く分かりませんでした。
家を建てるために父が出稼ぎに行き、
私は父の怒りを避けるために、
物置に引きこもるといった行動を取らなくても良くなったのですが、
私は自分のASD(自閉スペクトラム症)の性質と、
父との関係性の悪さから、
この頃には母とも心の確執があり、
幼い頃は庇うこともあった兄とも、
と言われる程に仲が悪くなっていたため、
今さら暖かな家族の繋がりを、
求める相手はいなくなっていました。
さらに父が出稼ぎに出て建ててくれた、
新しい家に引っ越した後は、
兄と私に一部屋ずつが与えられていたのですが、
長男だからという理由で、
部屋にテレビと、
その当時大流行していたファミコンを、
買い与えられていた兄は、
食事の時以外は主に自分の部屋で、
ゲームをして過ごしており、
兄が居間で私や母と一緒に過ごすことは、
ほとんどありませんでした。
兄の部屋にだけテレビがあるという格差に納得出来ず、
私が母親に対して文句を言うと、
母親からはこんな言葉を返されました。
「お兄ちゃんはいずれこの家を継いでいく人間だ(から、特別待遇で当たり前)」
「お前はいずれ(結婚して)この家を出ていく人間なんだから(お兄ちゃんと同じでなくて当然)」
私は鹿児島の、かなり田舎で育ったため、
父親だけでなく親戚からも、
長男が特別扱いされることには慣れていましたが、
母親からも、このように思われているとは知りませんでした。
その後も母親は、ことあるごとに、
「お前はいずれ出ていく人間なんだから」
という言い方をしては、
私と兄の扱いの格差を、
当たり前だと納得させようとし、
兄には何もさせず、
私にだけ家の用事を言いつけました。
私は元々、母親が大好きで、
幼い頃には自分から、
喜んでお手伝いをする子供でした。
けれど、そのお手伝いをしなくなったのは、
母親が私がお手伝いをするのを当たり前と捉えて、
私を独りぼっちにし、
文句ばかり言うようになったからでした。
私がいくら頑張ってお手伝いをしても、
それは当たり前のことで、
父や母が可愛がるのは長男の兄でした。
そんな環境の中で、
家事の手伝いなど喜んでやる気持ちも起きず、
しかもこの頃には私は、
肋骨の裏がつって息が出来なくなるといった、
原因不明の痛みに襲われるようになっていて、
さらに小学校で続けていた、
普通の子を演じるという行為は、
すーちゃんが離れていった後も行なっており、
私の心身の疲労はピークで、
家では寝てばかりいる子供になっていました。
そんな私の様子が、
母には怠け者の娘と映っていたのでしょう。
母が私に言いつけたことを、
させようとして繰り返し使った、
「お前はいずれ出ていく人間」
という言葉は、
私の頭の中に次のような暗示として、
変換して刷り込まれました。
「お前(私)はこの家を出ていくまで間借りさせてもらっている人間」
いずれ出ていく女の子は、
間借りしているだけなのだから、
家族の中に居場所など最初から無いのだ。
生まれた時に父から、
「女の子なら要らない」
と言われた私の誕生を、
それでも母は望んでくれていたのだと、
心の中で希望を持っていた私は、
母からのこの言葉に、
自分の存在意義が、
全く分からなくなってしまいました。
「たった1人でいいから誰かに愛されたい」
私の心からのたった1つの望みは、
なんて高くて叶わない望みなのだろうと、
母の言葉に、
改めて思ったのでした。