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自分と同じ年齢の子供に、
殆ど出会ったことはありませんでした。
だから小学校に入学した時の私には、
他の子供達のように、
幼馴染みもいなければ、
ご近所の顔見知りの子供もおらず、
全く初めて会う子供ばかりでした。
そんな私が初めて仲良くなったのは、
小学校1年生の子供の足で、
私が住んでいた家から、
20分かからない程の距離に住んでいた、
同い年の女の子でした。
小学校に入学したての頃は、
下校する時に、
同じ地域に住んでいる子供達で、
グループを作って家に帰るように、
学校側から指定されていて、
私とその子は、
他に家が近い子供がいなかったため、
いつも2人で一緒に家に帰っていました。
その子と私では、
私の家の方がその子の家より学校に近くて、
私の方が先に家に帰り着いたこと、
私の住んでいた家は、
台風がきたら吹き飛びそうな借家だったけれど、
その子はお嬢様で、
ピアノがある大きなお家に住んでいたことなどから、
学校から家に帰り着くと、
私は家に自分のランドセルを置いて、
その子の家に遊びに行くことが、
毎日の日課になっていました。
その子供が、
私が小学校3年生の時に、
とお願いした、すーちゃんでした。
私はすーちゃんの家で、
色々な初めてのものに出会いました。
紅茶というとても上品な飲み物も、
マドレーヌという美味しいお菓子も、
キウイという緑の果物も、
オルゴールという綺麗な音を奏でる楽器が付いた人形も、
裕福ではない自分の家では、
見たこともないものばかりでした。
上品で家の中で暴れ回らない、
そんなお父さんのいるすーちゃんの家は私の憧れで、
私はすーちゃんの家に遊びに行って、
家族の団らんの中に入れてもらっている時、
自分1人よそ者な居心地の悪さと、
擬似的でも仲の良い家族の中に入れている喜びで、
いつも複雑な思いを抱いていました。
私は、私が遊びに行くと、
私にもオヤツをくれる、
すーちゃんのお母さんに嫌われないように、
自分に出来うる限りの、
良い子にしていたつもりでしたが、
小学生の自分が迎えにいくような父親がいる、
機能不全家族の中で育ち、
自分自身も、
学校の先生から問題児認定されていた私は、
すーちゃんのお母さんにとってはやはり、
自分の子供と遊ばせたい子供では、
無かったようでした。
それまでは他に遊ぶ子供がいないからと、
私との付き合いを黙認していた、
すーちゃんのお母さんでしたが、
私とすーちゃんが小学校4年生の頃に、
家の近所に同い年の女の子の、
ゆきちゃんという子が転校してきて、
すーちゃんと仲良くなると、
私との付き合いを辞めさせようと考えたようでした。
ある時私は小学校の教室で、
すーちゃんから呼び出され、
こんなことを言われました。
「お母さんがあなたと遊んじゃいけませんって言うからもう遊べない」
そう言って、
すーちゃんはゆきちゃんと一緒に、
私の目の前から去っていきました。
私は1人、その場に取り残されて、
何も言えずにただ、
その言葉で受けた衝撃に、
打ちのめされていました。
自分が人の親から、
「あの子とは遊んではいけない」
と言われるような人間なのだという事実は、
私の心を竦ませ、
酷い屈辱を私に味あわせました。
私はそうやって人に捨てられる自分が惨めでした。
父親から自分の存在を否定され。
母親からお前のことは理解出来ないと言われ。
それまでしょっちゅう一緒に遊んでいたのに、
お母さんの"あの子と遊んではいけない"と言う一言で、
友達にあっさり捨てられた自分。
誰か1人でいいから愛して欲しい。
生まれてから10年の間に、
何度願ったか分からない願いを。
もう願う気力さえ、ありませんでした。
マルトリートメントと私43.母親から言われた言葉に続きます。