小学校時代の記事はこちら。
※自分の記憶に基づいて書いているため、
事実と違っている可能性があります。
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私が小学校3年生に上がる頃、
父が入院していたことがありました。
手術を伴った入院だったため、
父は数週間ほど入院していました。
父が手術する時には、
母も泊まり込みで付き添ったため、
私と兄は手術前後の3日間ほど、
親戚の家に預けられました。
その家はとても躾に厳しい家だったため、
あまり躾を受けておらず、
ASD(自閉症スペクトラム障害)で食べ物の好き嫌いが激しい私には、
過ごし辛い家でした。
親戚の家から手術が終わった父に会いに行く時、
私は父に対してお見舞いを渡そうと、
道端に咲いていた花を摘んで手に持ちました。
それはオオイヌフグリという雑草で、
とても小さな青い花でしたが、
躾の厳しい親戚の家で私が用意出来た、
唯一のお見舞いの品でした。
私がそっとその花を手に持って車に乗るのを、
眼ざとく預けられていた親戚の家のお姉さんが見つけました。
「なにそれ?お見舞いのつもり?」
親戚の家のお姉さんに鼻で笑われて、
私は恥ずかしくなりました。
私はすぐに、手に持っていた小さな花を、
車の外に投げ捨てました。
(お父さんはこんなもの私にもらっても喜ばない)
父親に子供が出来ることを好意でしても、
価値がなければ子供のやることでも受け取らない、
そんな経験は何度もしているはずなのに、
親戚のお姉さんに笑われるまで、
気付かなかった自分をバカだ、と思いました。
私は父の病院に行っても特に話すこともなく、
ただ胃潰瘍で切除した大食漢の父の胃が、
常人の3倍以上あったという話を、
ぼんやりと聞いていました。
さらに父は長い入院生活で親しくなった、
同じ病室の患者の人から教わった、
絵の描き方が気に入ったようで、
自慢気に自分に絵を教えてくれた患者の人の絵を見せると、
「退院してから俺も描く」
と、嬉しそうに話していました。
なんの気なしに聞いていたのですが、
実はこれがこの後、
家での苦痛を跳ね上げる原因になるとは、
思ってもみませんでした。
その頃に私が住んでいた家には、
机は六畳の居間にあるコタツと、
隣の和室にある兄と私の学習机だけでした。
居間のコタツは、
テレビを見たり食事をしたりといった、
家族で使う団らんの場所でした。
退院してきた父は早速、
教わった通りの絵の道具を揃えると、
居間にあるコタツに座って絵を描き始めました。
コタツは一辺が90センチほどの正方形で、
家族4人がそれぞれの辺に1人座ったら、
それでいっぱいになるくらいの、
小さなものでした。
父が絵を描く画板をコタツに置くと、
その一辺からはみ出して、
私が座っていた場所まで届いたため、
私は動くたびに、
よく父の画板にぶつかり、
父に怒られました。
「動くな!!」
これは、小学校3年生の子供には、
とても守ることが難しい命令でした。
父が絵を描いている時には、
動くことも喋ることも、
テレビを見ることも禁止されました。
父から怒鳴られた私は、
コタツにいる時は座るのではなく、
画板にぶつからないように、
コタツの中に潜りこんで、
寝転がるようになりました。
けれど成長するにつれて、
体が大きくなってきた私は、
コタツに潜りこんだ体を反転させる時、
コタツの足組の上の部分に、
体が当たるようになってしまいました。
「動くなって言ってるだろう!!」
父に激怒された私は、
コタツに入ることを諦めました。
私は家の中での身の置き所に困りました。
居間の隣に置いてある自分の学習机は、
以前机で自分の夢を書き綴っていた時に、
背後から母に覗き見されたことと、
悲しい記憶に繋がっていること、
何より自分以外の家族3人が、
隣の居間でコタツに座って、
団らんしている声が聞こえる場所に、
(父が絵を描いている時も、父が話しかけた場合は話すことが出来ました)
1人でいることは、
いくら家族は敵だと心に決めたとしても、
とても辛いものでした。
なぜなら私は、
自分から積極的に家族を嫌った訳ではなく、
家族に必要とされない、
理解してもらえない寂しさから、
「この家族は敵だ」
と自分に言い聞かせることで、
自分の心の安定を図っていたに過ぎなかったからでした。
私は自分が孤独に苛まれることなく、
安心して居られる場所を、
家の中で探し回りました。
そして、縁側の端にあった、
一畳にも満たないくらいの大きさの、
物置に目をつけました。
そこには灯りをつけるための裸電球が1つ、
天井からぶら下げられていて、
使われていないコタツ布団が置いてありました。
居間からも部屋1つ分隔てられているため、
他の家族の声もあまりハッキリ聞こえませんでした。
私は食事をしたり寝たりする時以外の、
家にいる時間の大半を、
ここで1人で本を読んで過ごすようになりました。
そこは物置だったために薄暗く、
窓もないような場所で、
私の視力はどんどん落ちていきましたが、
その家の中で唯一、
私が安心して居られる場所となりました。
けれど私のそんな平安は、
長くは続きませんでした。
ある日、何を思ったのか父は、
居間からすぐにいなくなる私が、
どこに行っているのか興味を持ったらしく、
兄を伴って探しにきたのでした。
もしかしたら、
母も兄も私がいつも物置にいることは知っていたため、
私の居場所を父に聞かれた兄が、
父を案内してきたのかもしれません。
6畳間が4つの平屋の家屋の中で、
人が隠れられる場所など殆どなく、
私の唯一安心していられる居場所は、
あっという間に父に知られることとなりました。
父は物置に1人で座っている私を面白そうに、
笑いながら見下ろしていました。
「なんだぁ、じゅんはこんな場所が好きなのか」
それは人を馬鹿にした、
とても不愉快な笑いでした。
私は何の言葉を発することもなく、
じっと下を向いて黙っていました。
「こんな場所が好きなんて、じゅんは穴熊と一緒だなぁ」
私は父の言葉に対し、
やはり身を固くしたまま動きませんでした。
「穴熊ちゃん、穴熊ちゃん」
父は私を揶揄するように、
しばらく兄と一緒に私を囃し立てました。
私はそれでもずっと、
無言のまま身動きすることなく、
ただこの嵐が過ぎ去るのを待っていました。
父は何の反応もしない私がつまらなかったのか、
しばらくすると物置からいなくなりました。
もちろん、兄も父に付き従っていきました。
けれどこの訪問は、
父が暇を持て余していたり、
何か嗜虐的な気持ちになったりすると、
たびたび行われるようになりました。
「穴熊ちゃ〜ん、またここにいるのぉ?」
馬鹿にしたような笑いに、
私は心を殺して必死に耐えました。
私のポケットの中のお守りのカッターは、
この大人の中でも体が大きい男に対しては、
猫の爪ほどの威力しかないことは、
自分でよく分かっていました。
私は父に対して無力でした。
母も兄も、
父のこの行動を止めてはくれませんでした。
家族の中の誰1人、
何で小学校3年生の子供が、
夏暑く冬寒い物置に1人でこもろうとするのか、
考えてくれることはありませんでした。
マルトリートメントと私29.子供の限界に続きます。