マルトリートメントと私25.失った味方 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、

マルトリートメントと私1.私の1番古い記憶

をご覧ください。

 
幼少期のまでの記事はこちら。
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私と小学校2年時の担任との相性は、
かなり良くなかったのだと思います。

小学校1年時の担任は、
笛の事件などの間に立ってくれて、
一般常識が身に付いていない私に対して、
注意をしてくれることはあったものの、
小学校2年時の担任のように、
私が扱い辛い子供だからといって、
(私は大人になって、精神科医から、
発達障害の可能性が高いとの所見をいただいています)
私を無視することはありませんでした。

問題児だという認識はあったと思いますが、
(授業中に泣いて暴れる本当の問題児だったので)
精いっぱい問題児である私が学校生活に馴染めるよう、
私という人間に対して、
正面から取り組んでくれた先生でした。
(ただ、この頃には自閉症スペクトラム障害といった、
発達障害に関する概念が浸透していなかったため、
自分の特性にあった療育を受けることは出来ませんでした)

1年生の時は担任の先生のおかげで、
集団生活の中でも何とか、
過ごすことが出来ていたのですが、
2年生の時には、
自業自得とはいえ、
先生から無視されるといった状況に、
学校に行くのが苦痛になっていました。

小学校2年生だった私に、
もちろん、ASD(自閉症スペクトラム障害)といった知識もなく、
何で自分が学校でイライラしたり悲しくなったりして、
暴れてしまうのかを言葉にして母親に訴えることも出来ず、
学校の先生に無視されていることも、
母親に言い出せなかった私は、
学校に行きたくないという自分の気持ちを、
やっぱりただ泣いて、
母親から学校に行くように、
家の外に引きずり出されても、
その引きずり出された道路の上で、
ただ泣き続けて学校に行かない、
という行為でしか、
表現することが出来ませんでした。

その頃の母親は、
子供達2人が小学校にあがったため、
家計を助けるために家で行なっていた内職を辞めて、
もっと稼ぎのよい、
朝の8時30分から夕方5時まで会社で働く仕事に、
切り替えていました。

そのため、
学校に行きたくないと泣く私に、
いつまでも付き合い続けることは出来ず、
時間が来ると母は、

「もう知らないからね!」

と言って、
怒りながら仕事に行ってしまっていました。

母に引っ張られていた手を、
投げ捨てるように離された時に、
自分が見捨てられたようで、
とても悲しい気持ちになったことは、
覚えているのですが、
その後に自分がどうしたのか、
実はあまり記憶がありません。

私の小学校時代の記憶は、
抜けていたり、飛んでいたりして、
思い出そうとしても、
端的なエピソードばかりで、
記憶が繋がらないことがかなりあるのです。

これでも、20代の頃と比べたら、
大分思い出せるようになったのですが、
20日というかなり長い期間が空いてしまったのも、
そのような理由があったからでした。

きっと母親も、
自分の仕事と家事に加え、
育てにくい私の子育てに、
疲れてきていたのだと思います。

私が泣いて学校に行かないことで、
もしかしたら担任の先生に、
子供の躾がなっていないと、
責められていたのかもしれません。

ある時私は、
薄暗い居間に座っていた母から、
こんな言葉を言われました。

「どうしてお前は、他の子と同じように出来ないんだろうね?」

この言葉は、
私の心に酷く突き刺さりました。

それは学校生活を上手く送れない自分が、
誰よりも自分に対して、
一番繰り返し、問うていたことでした。

今となっては、ASD(自閉症スペクトラム障害)といった気質のために、
他の子供と同じように出来なかったのだと推測出来るのですが、
そんな知識は私にも母親にも、
学校の教師達にもありませんでした。

その頃の私への周囲の認識は、
自分の気に入らないことは泣いてしない、
単なる頑固でワガママな、
集団行動の出来ない問題児でした。

母の問いに対して、
自分でも何で他の子と同じように出来ないのか、
分からなかった私は、
答えることが出来ずに無言でいました。

そうすると、母はこんな風に言葉を続けました。

「お前のことは理解出来ないから、
もう、放っておくことにする」

そんな母の言葉に、
私は心からホッとしました。

何とか他の子と同じようになろうと、
努力しても出来なかった私は、
自分が他の子供と違うことで、
大好きな母を悲しませることが、
とても辛くて苦しかったのです。

でも、母が放っておいてくれるのなら、
これからはもう、
私が他の子と違っても、
私は大好きな母を悲しませずに済むと、
そのように考えたのでした。

「ありがとう」

もう母を悲しませることは無いのだと、
心底ホッとした私は、
心からのお礼を母に伝えました。

すると、母は、
そんな私の態度に怒り出しました。

私はそんな母に、
驚いてしまいました。

自分から放っておくと言っておいて、
私がそれを感謝して受け入れたら、
怒り出すという態度は、
私にとっては理不尽極まりないものだったからです。

母からその時言われた言葉の詳細は、
よく覚えていません。

「お前のそんな態度が、人をバカにしているんだ」

といったようなことを、
言われように思います。
(この頃の私は図らずも、大人をくったような態度を取る子供だと、
思われていました)

大人になって、色んな経験を経た今なら、
母親がこの時に本当に望んでいた答えは、
母親に放っておかれると困ると考えた私が、

「お母さん、ごめんなさい」

と、改心することだったと思うのですが、
残念ながら私は、
言葉の裏を読むことが出来ないASDで、
努力しても普通の子供のようになれない、
お母さんを悲しませる自分の存在を、
申し訳ないと思っていた子供でした。

私は本当に、
母親のことが大好きだったのです。

けれど私のそんな気持ちは、
母親には伝わりませんでした。

私は自分の気持ちを、
泣いて表現するしか出来ない子供でしたが、
母親は自分の気持ちを、
素直に伝える大人ではありませんでした。

その後も母親は、
言葉の裏を読まないASDである私が、
混乱するようなことを口にしました。

その中でも一番傷ついた言葉は、

「勉強だけ出来たって駄目なんだよ」

と私に母が非難めいて言ってきたため、
(私は集団行動は出来ませんでしたが、
学校の勉強は出来る子供でした)
私は学校の勉強が出来なくなるように努力したのですが、
学校の成績が落ちると今度は母親から、

「勉強くらい出来ないと」

と言われてしまったことでした。
(母親にとっては、学校で問題行動ばかり起こす私が、
成績まで悪くなったら良いところは無いと、
考えたようでした)

私は大好きな母親の言った通りに行動して、
母親の言った通りの結果を出したはずなのに、
その母親から謗られたことに、大変傷つきました。

私は勉強が好きな子供でした。

でも、母親も大好きだったから、
母親を喜ばそうとして、
勉強が出来なくなる方を選んだのです。

この言葉も今なら、
勉強だけでなく、
集団行動も出来るようにならなければいけないと、
母親が暗に言っていた言葉だと分かるのですが、
そんな言葉の使い方では、
小学校低学年のASDの子供には、
全く伝わりませんでした。

ただただ、母親の言葉通りに行動して、
謗られてしまった私は、
その後も母親から同様な言動を受け、
とても混乱してしまいました。

私が、この一連の母との会話で、
分かったことは1つだけでした。

私は母に理解してはもらえない。

それは、今まで家族の中で、
唯一の味方だと思っていた人を、
失った瞬間でした。