小学校時代の記事はこちら。
事実と違っている可能性があります。
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自分の唯一の味方だと思っていた母親から、
理解してもらえないと感じた私には、
家庭の中にも、学校の中にも、
自分の居場所はありませんでした。
家庭でも実の兄から、
と言われていたし、
この頃の私は学校に行っても、
教室に入ることが出来ない子供でしたが、
私が教室にいなくても、
担任の先生も同級生達も、
誰も私を探そうとはしませんでした。
存在していることが、
毎日辛くて苦しくて、
誰かに助けて欲しかったのですが、
誰に助けを求めたらいいか、
分かりませんでした。
私は授業時間中、
学校の裏にあった、
トイレの建物の陰に隠れて泣いていました。
その場所は、
授業をしている教室から、
ギリギリ見えるか見えないかの位置で、
私は誰かに自分を見つけてもらうことを、
期待していたのでした。
自分の存在を見つけて、
その場所から連れ出してもらうことで、
私は誰かに存在していいと、
言って欲しかったのだと思います。
これは何の力もない、
子供だった私が出していた、
消極的なSOSでしたが、
それまでの素行があまりにも悪すぎた私は、
もう誰からも相手にしてはもらえず、
私を見つけてくれる人はいませんでした。
そんな中で唯一、
私に手を差し伸べてくれた存在がいました。
それは、昔の小学校には必ずいた、
用務員のおじいちゃんでした。
授業時間中に、
学校の清掃をして回っていた、
用務員のおじいちゃんは、
トイレの陰で泣いている私に気付いて、
「寒かったでしょう、こっちにおいで」
と言ってくれて、
私を用務員室に連れて行ってくれました。
用務員室は、
職員室や教室のある鉄骨の大きな建物から、
少し離れた位置にある、
木造の掘立小屋みたいな建物で、
四畳半ほどの広さながら、
畳が敷かれいて、
その真ん中にはコタツが置いてありました。
用務員のおじいちゃんは、
寒い中、ずっと立って泣いていたために、
体が冷えきっていた私を、
コタツの中に入れてくれました。
置いてあった蜜柑を私に勧めてくれると、
「どうしたの?」
という、
その時の私が一番言って欲しかった言葉を、
私に言ってくれました。
その言葉が嬉しくて、
私はまた泣いてしまい、
上手く自分の気持ちを、
言葉にすることは出来ませんでしたが、
用務員のおじいちゃんは、
泣きながら話す、
私の聴き取り辛かったであろう言葉を、
一生懸命に聞いてくれました。
用務員のおじいちゃんは、
母親や先生のような他の大人のように、
決して私に対して、
「授業に出なさい」
といった、
高圧的な言葉を言いませんでした。
ただただ優しく、
私の話を聞いてくれて、
私の気が済むまで、
用務員室に居させてくれました。
それが、私には心の救いになりました。
家庭にも学校にも無かった、
私が存在していい唯一の場所を、
用務員のおじいちゃんが与えてくれたのでした。
私は拒否されるのが怖かったため、
自分から用務員室に行くことは出来ませんでしたが、
用務員のおじいちゃんは、
授業に出ていない私を見つけると、
私に声をかけて、
用務員室に連れて行ってくれたので、
私は用務員のおじいちゃんが見つけてくれるのを、
心待ちにするようになりました。
それは今でいう、
保健室登校のようなものだったと思います。
用務員のおじいちゃんは、
自分の仕事でも無いのに、
その優しさから、
私に居場所を作ってくれたのでした。
この頃の私は、
用務員のおじいちゃんがいたから、
生きていられたのだと思います。
そんな大切な、
用務員のおじいちゃんとの記憶なのですが、
私の辛い過去の記憶にあまりにも絡んでいるために、
大人になるまでずっと、
記憶の奥底に仕舞ったままに、
なっていました。
私の唯一の居場所であった用務員室で、
用務員のおじいちゃんと過ごしたのは、
そんなに多い回数ではなかったように思います。
それでもあの頃の私が唯一心を開いた、
恩人とも呼ぶべき人でした。
(小学校1年生の時に、とても一生懸命に私に関わってくれた担任の先生は、
転勤か定年でいなくなってしまっていました)
あの頃の私が必死に求めていたのは、
自分に教育や知識を与えてくれる人ではなく、
ただ自分の存在を受け入れてくれる人、
だったのでした、、、
マルトリートメントと私27.ポケットの中のお守りに続きます。