マルトリートメントと私27.ポケットの中のお守り | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、

マルトリートメントと私1.私の1番古い記憶

をご覧ください。

 
幼少期のまでの記事はこちら。

マルトリートメントと私20.貯まらないお金

マルトリートメントと私21.父親を迎えにいく小学生

マルトリートメントと私22.問題児認定

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私は元々、父親から要らないと言われて生まれてきた子供でした。

そして、兄からも


と言われていたため、
私にとって家族の中にいることは、
決して居心地のいいことではありませんでした。

けれど、そんな家族の中で母だけが、
私を可愛がってくれる存在でした。

私が小学校2年生の時、
自分の名前の由来を親に聞いてくるという宿題があったのですが、
私は自分が父親に望まれていなかったことを知っていたために、
その質問をすることがとても怖くもあり、
また少しだけ、
期待する心もありました。

兄の名前は父と母が2人で考えて付けたと、
以前兄が同じ宿題をしていた時に聞いていたため、
私が生まれたことを喜ばなかった父も、
私の名前を考えてくれたのではないか、
もしそうなら、
それは私が生まれたことを、
父が少しは認めてくれていたことになるのではないかという、
そんな希望的な考えを持っていたのです。

けれど、この宿題の質問をした時に、
母から返ってきた答えは、
やはり期待とは違うものでした。

「お父さんは女の子なら要らないと言って病院から帰ってしまったから、
お母さんが1人で一生懸命に考えて付けたのよ」

私の名付けに、父は一切関与していませんでした。
それはとても悲しい事実ではありましたが、
母が一生懸命に考えたと言ってくれたことが、
辛うじて私の心を支えてくれました。

「母は私のことを大切に思ってくれている」

私にとっては母が、家族の中の唯一の味方でした。

でも、そんな母に対して私は、

「お前のせいで母さんは死にかけた」

「母さんの体が悪いのはお前のせいだ」

と父親から責められていただけに、
素直に甘えることが出来ませんでした。

特に幼い頃、
私が母の膝の上に座るのが好きだったせいで、
母の膝は悪くなり、
定期的に水を抜かなければいけなくなったのだと、
父親から責められた以降は、
幼児だった私は母に対して罪悪感を抱くという、
とても苦しい状態で過ごしていました。
(実はこれは父の嘘で、
母が膝を悪くしたのは若い頃に無理して肉体労働をして、
リウマチが発症したからであり、
私が母の膝の上に乗って甘えたからではなかったのだと、
20歳の時に初めて知りました)

それでも私のことを、
家族の中で唯一気にかけてくれる母は、
私にとって家族の中に居場所を作ってくれる、
とても大切な存在でした。

だから、1人で筆箱を買いに行くことがあった時も、
私は悲しいと感じることはあっても、
母を酷い人だと思うことはありませんでした。

小学校に上がる前から、
家を出る準備をコツコツと進めていた時も、
私が家を出ることで、
母が幸せになることを望んでいました。

けれど、私が母を大切に思う気持ちは、
どんどん無くなっていきました。

母から言われた、

「どうしてお前は、他の子と同じように出来ないんだろうね?」

という質問は、
ASD(自閉症スペクトラム障害)として生まれた私が、
一番自分で悩み苦しんでいて、
答えが知りたいと思っていた問題でした。

母からのこの言葉の後に、

「勉強だけ出来たってダメなんだよ」

という誹りを受け、
さらにその後に、

「勉強くらい出来ないでどうするの」

という非難を受けた私の母に対する信頼は、
ズタズタに壊れました。

自分という人間を必要としてくれることも、
理解してくれることもない家族に対して、
小学校2年生が終わる頃には私は、

この家族は私の本当の家族ではない。

と考えるようになりました。

私は人に与えられた家族ではなく、

自分を必要としてくれる家族を自分で作ろう。

と決意したのです。

肉体を生かしてくれたとしても、
私の心をじわじわと殺していく、

この家族は私の敵だ。

と私は考えました。

私はその日から、
小学校入学の時に母に買ってもらった、
図工用のカッターを、
スカートのポケットに忍ばせるようになりました。

それはとても小さく頼りない、
紙しか切れないようなカッターだったけれど、
私が持っている中で唯一の刃物でした。

それは自分を傷つけようとする人間に対して、
小学校低学年の子供が唯一とれる、
自衛の手段でした。

私は家の中でも学校の中でも、
このカッターをポケットに忍ばせて、
辛いことがあると、
そっと服の上から、
カッターの存在を確認するようになりました。

何かの時には反撃することが出来る。

そう自分に思わせることで、
私はようやく自分の心のバランスを、
取ることが出来ていたのでした。

 《後日談》
父の初盆の時だったでしょうか。
ある時兄が私に、

「お前が子供の頃、カッターを持ち歩いていたことを知ってるんだぞ」

言ってきました。

私は兄のその言葉に、
激しい怒りを覚えながら、
でも無言で受け流しました。

兄のその言い方は、
私の秘密を知っていたけれど黙っていた、
とでも言いたげな口調で、
兄はなぜ、
私がポケットにカッターを入れていたのか、
そのことに対して深く考えたことは、
一度もなさそうでした。

あぁ、兄は子供の頃から変わっていない、
そう思いました。

自分は父に愛される安全な場所にいて、
父からマルトリートメントを受ける私に、
気付かないか、
気付いてもただ眺めているだけだった兄。

自分が巻き込まれると、

「お前さえいなければ、うちの家族は上手くいく」

と、
自分より弱い立場の私を、
かばうのではなく責め立てた兄。

そんなあなたの態度が。 

幼かった私の心をどれだけ追い詰め、
カッターを持ち歩くことになったのか、など。

一生理解することは無いのだろう、と思いました。