山背国の太秦めぐり⑦ ~ハタ考~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

秦(はた)氏について
まとめてみます。

 


秦氏は、
秦(しん)の始皇帝
末裔だとか、

ユダヤの失われた氏族
末裔だといわれる、

 

渡来系の氏族です。

 

酒造や養蚕

機織り灌漑事業など、

 

技術力にも財力にも

長けていたといいます。



およそ

西暦200年ごろ、


第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇の世には


山口県の下関あたり
入植していたようです。




そこから
関門海峡をこえて

大分県の
宇佐(うさ)神宮のあたりに
定着していったといいます。

 

社家の

辛嶋(からしま)氏は
秦氏の分派だそうです。



300年から

400年ごろ、

第15代・
応神(おうじん)天皇

第16代・
仁徳(にんとく)天皇という


巨大古墳がきずかれた時代には、
諸外国との交流もはじまり

秦氏は

正式に渡来して

帰化していったようです。

 



はじめは、
奈良県の
葛城(かつらぎ)あたり
居ついたといわれれいます。

もしかするとこのころに、
鴨(かも)氏との関係も
築かれたのかもしれません。



500年ごろになると、
そこから北上し、

紀伊(きい)郡の
深草(ふかくさ)や、

葛野(かどの)郡の
太秦(うずまさ)
移住したようです。

オケ・ヲケ兄弟でしられる
第23代・
顕宗(けんぞう)天皇
第24代・
仁賢(にんけん)天皇の
時代です。



秦氏はここで、

山向こうの

亀岡(かめおか)に暮らす

出雲(いずも)族と手を組み


たびたび水没する
葛野の地を


葛野大堰(かどのおおい)を築いて
治水したといいます。




600年ごろ、


日本初の女帝といわれる

第33代・
推古(すいこ)天皇の世には、

聖徳太子(しょうとくたいし)によって
広隆寺(こうりゅうじ)が築かれ、

 

秦河勝(はたのかわかつ)が

奉斎して、

氏族をまとめたといいます。

おそらく、

治水事業によって
京都盆地は住みよい地に
変わっていったのでしょう。

 


700年ごろの
和銅(わどう)年間は、

第43代・
元明(げんみょう)天皇の世です。

首都の遷移、
憲法の施工、
国史の編纂、
貨幣の鋳造と


国家の礎を築いた
激動の時代でした。



このときには神社も
整備されていったようで、

深草では
伏見稲荷(ふしみいなり)大社
創建されて
 

秦伊侶具(はたのいろぐ)が
奉斎したといいます。



太秦では
松尾(まつお)大社
創建されて、

秦忌寸都理(はたのいみきとり)が
奉斎したそうです。

 

とはいえどちらも、

背後の山や磐座を

古代より祀っていた地ですから、

 

社殿が整備された

ということなのでしょう。

 



女帝が活躍していた時期に

記紀が作られたのも、

天照大神が

女神(おんながみ)となった
ひとつ理由なのかもしれません。

800年ごろの
第50代・
桓武(かんむ)天皇の時代には

平安京に遷都され、
秦氏や鴨氏が栄えていた

京都盆地が

国の中心地と
なってゆきます。



都の鬼門と

裏鬼門をまもるのは
 

松尾(まつお)大社
日吉(ひよし)大社であり、


どちらも

秦氏が祀った
大山咋神(おおやまくい)
祀られています。



どちらにも
巨大な磐座があり
その直線状には、

平安京の
大内裏(だいだいり)をはじめ

梅宮(うめのみや)大社
下鴨(しもがも)神社など
おおくの神社があるようです。

またその中心に

秦氏の神社といわれる

蚕の社(かいこのやしろ)

あるのも面白いところです。



さらに
日吉大社では、

玉依姫(たまよりひめ)
大山咋のあいだに
賀茂別雷(かもわけいかづち)
産まれたとされており、

そこに
鴨氏と秦氏の婚姻関係
観ることができそうでした。



ホツマツタヱによれば、
賀茂別雷の名は
『ミケイリ』だといいます。
 

記紀では、

初代・神武(じんむ)天皇

兄弟となっています。

 

ミケイリは、

三狐(みけつ)や
御饌(みけ)とも通じ

稲荷神(いなり)や
保食神(うけもち)とも

繋がりそうです。

 


ホツマツタヱには、
稲荷神の由来

載っていました。

天照大神(アマテル)らの

朝廷に対抗する反乱軍を

『ハタレ』というのですが、

 

そのうち、

狐に憑かれた輩を
『キクミチ』と

いっていたそうです。
 

三兄弟を頭目として

筑紫で蜂起すると、

天照大神らのいる

伊勢を目指して、

花山(はなやま)

集結していたといいます



これを討伐に向かったのが、
葛野(かだの)をおさめていた
カダマロだといいます。

油で揚げた鼠を
敵陣に投げ込んで

翻弄すると、
 

見事に三兄弟を
捕えたといいます。



三兄弟(三狐)は
死刑を宣告されるも、


カダマロによって
情状酌量され

カダマロの祖神である
保食神(うけもち)と
宇迦御魂神(うけみたま)を
奉斎することになります。

長男は

伊勢にとどめおき、

次男は
伏見稲荷大社に、

花山稲荷神社とも)

三男は

和歌山の
阿須賀(あすか)神社に

奉斎したといいます。

 



ところで、

賀茂別雷でもある
ミケイリが亡くなったのは、

和歌山の新宮市沖であり、

神倉(かみくら)神社の

コトビキ磐に

祀られていたといいますが、

阿須賀神社は

そのすぐ近くでもあります。


また

カダマロの子孫の
荷田春満(かだのあずままろ)

伏見稲荷大社の

東丸(あずままろ)神社で
祀られています。



荷田氏は

伏見稲荷大社の社家

だともいいますから、


こうみると秦氏は
ハタレのキクミチとも

近い気がしてきます。

秦氏ら渡来人は、
とおく神代の時代から
入植していたのかもしれませんね。

 



秦氏が松尾大社や

日吉大社で祀っていた

大山咋(おおやまくい)ですが、

 

ホツマツタヱでは
出自不明のようです。


けれども、

天孫・

瓊瓊杵尊(ににきね)
 

天曾孫・

彦火々出見尊(ほおでみ)

つかえて大活躍していました



しかも、

大山咋の開拓地は
京都です。

山背(やましろ)という名も
大山咋が

比叡山(ひえいざん)を築いたとき、

比叡山の

山背(やまうしろ)の地
ということでついた名だといいます。



秦氏が

大山咋を祀ったのは、

 

京都造営の神徳に
あやかったからでしょうか?


もしくは

秦氏の系譜に
大山咋がいるのでしょうか?

 



もしかすると

大山咋は、

カダ家とキクミチ家の
子孫では?などと
想像してみたりもします。

カダマロは娘を
天照大神(アマテル)に
嫁がせる大人物です。

 

皇室とも

ふかい関わりが

あったことでしょう。



この「カダ」が
とても気になります。

京都の
葛野(かどの)も

もとは「かだの」ですし、

奈良の
葛城(かつらぎ)にも

葛(かだ)の字があります。

和歌山には
加太(かだ)浦があり

応神天皇出産
宇美(うみ)八幡宮
蚊田(かだ)の森です。

神代文字のフトマニから
高天原(かたまのはら)の

「た」と「か」の間(ま)に

 

「かた」をみたことも
ありますが、

 



ヲシテ文字からすると
「カタ」から
「ハタ」になるには、

線を一本
増やせばいいとか、

カ行のとなりが
ハ行だなあとか、

想像をたくましくしています。

 

秦氏については、

今後もまだまだ

考えてゆきたいと思います。

 

 

山背国の太秦めぐり ~終~

 

 

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山背国の太秦めぐり② ~大酒神社~
山背国の太秦めぐり③ ~広隆寺~
山背国の太秦めぐり④ ~蛇塚古墳~
山背国の太秦めぐり⑤ ~梅宮大社~
山背国の太秦めぐり⑥ ~月讀神社~
山背国の太秦めぐり⑦ ~ハタ考~