豊前国の宇佐めぐり③ ~菱形池と八幡神~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

宇佐神宮の境内を
散策しています。

大鳥居を抜けると
菱形池(ひしがたいけ)
が見えてきます。



この池は、
宇佐(うさ)神宮の創建や
八幡(はちまん)神の信仰に
深く関わるといいます。



569年、
池にわく泉のほとりに

8つの頭をもつ
鍛冶師の翁が
あらわれたといいます。



その姿を目にしたものは、
亡くなったり、
病気になったりしたので、

大神比義(おおがのひぎ)
がかけつけたところ、

鍛冶の翁ではなく、
金色の鷹が
あらわれたそうです、

さらに鷹は
鳩へと姿をかえ
比義の腕に
留まったといいます。

 



これは天啓にちがいないと、
大神比義は3年間、
断食をして祈り続けたところ、

571年、
泉のほとりに
光輝く3歳の童子が
あらわれたといいます。


われは
誉田天皇広幡八幡麿
(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)
なり


童子は
そう告げたかとおもうと、
ふたたび金の鷹になって
飛び立ったといいます。

 



これが、
八幡(はちまん)大神が

日本にあらわれた
最初の事跡だといいます。

そのため宇佐神宮は、
八幡神社の総本社と
いわれているようです。



ところが、
伝説には別バージョンも

ありました。

鷹の姿であらわれた
八幡大神は気性が荒く、

5人ゆけば3人殺し、
10人ゆけば5人殺す
というほどだったといいます。

そこで
辛嶋勝乙目
(からしまのすぐるおとめ)が
祝(はふり)として

3年間祈祷をして
大神の心をやわらげ、
神社を建立したといいます。



これらの話が
どこまで真実なのかは
わかりませんが、

実際に創建当初は、

大神(おおが)氏が
宮司職をつとめ、

辛嶋(からしま)氏が
祭祀を担当していたようです。



豊前の
大神(おおが)氏は、

大和の
大神(おおみわ)氏
分派ともいわれています。

そして
辛嶋氏は
辛国、韓国から
渡ってきた氏族で

新羅神(しらぎがみ)を
信仰する
製鉄民であったともいいます。



また辛嶋氏は、
秦(はた)氏

分派であるともいい、

秦氏は
ユダヤの失われた氏族の
生き残りともいわれることから、

ヤハウェ(神)、ヤハタ、八幡、
八幡(はちまん)大神と
繋がっていく所以は

ここにもあるようです。



さらに、
豊前国の宇佐めぐり①でも
書いたように

ここには
姫神を祀る宇佐(うさ)氏も
いましたから、

宇佐氏の姫神
(ホツマ・古代王朝・アニミズム)

大神氏の応神天皇
(当時の王朝)

辛嶋氏の新羅神
(仏教・儒教・ユダヤ)

が混じり合って、
八幡大神が生まれた
ということのようですね。

 



だからこそここは、
神仏習合はじまりの地とも
いわれているようです。

ちなみに、
菱形池から
飛び立った鷹が

最初に留まったのが、
2キロほど北西の
駅館川(やっかんがわ)の
ほとりにある

境外摂社の
鷹居(たかい)社
だといいます。

 



当初は鷹居社に
八幡神を祀っていたようで、

この神社がおそらく
日本ではじめて
八幡神を祀った場所のようです。



その後、
小山田(こやまだ)社をへて、

725年に、
宇佐八幡宮として
すべての神様が
祀られるようになったといいます。


 

別の社伝によれば、

ほかにも数か所、

遷座を経たのちに

宇佐神宮となったようです。

とはいえ気になるのは、
川のほとりに辿りついた
荒ぶる神とは、
いったい「何者」だったのでしょうか?
 

 

豊前国の宇佐めぐり④ へ つづく

 

 

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