豊前国の宇佐めぐり② ~黒男神社と武内宿禰~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

豊前(ぶぜん)国一之宮、
宇佐(うさ)神宮
めぐっています。



大鳥居のまえには、
黒男(くろお)神社が
祀られていました。



こちらは、
武内宿禰(たけうちのすくね)を
祀っているといいます。

第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇
神功(じんぐう)皇后

そしてふたりの子である
第15代・

応神(おうじん)天皇と
あわせて、

八幡神社などでよく
祀られている

武内宿禰さまは、

当時の
軍人であり大臣です。

 



第12代・
景行(けいこう)天皇から

第13代・
成務(せいむ)天皇、

第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇、

第15代・
応神(おうじん)天皇、

第16代・
仁徳(にんとく)天皇と、

5代にわたって仕えた
忠臣だといいます。

 



もちろん、
仲哀天皇と応神天皇の
あいだの空位時には、
神功皇后に仕えていました。

武内宿禰さまは
和歌山県の生まれですが、
 

父方は
第8代・

孝元(こうげん)天皇の

系譜だといいます。
 

成務天皇とは、
同じ日に産まれたといい、

大臣にとりたてられたのも、
成務天皇の御世だといいます。



とても長生きで、
300歳を超えていたそうです。

子孫もとてもおおく、

蘇我(そが)氏や

葛城(かつらぎ)氏をはじめ
 

たくさんの氏族の
祖といわれています。

 



なかでも、
神功皇后とは縁が深く、

仲哀天皇の死を弔い
三韓遠征(さんかんえんせい)

ともに成し遂げたことから、

応神天皇の父親は、
武内宿禰ではないかとも
言われているようです。

武内宿禰は、

高良玉垂神

(こうらたまたれのかみ)として


福岡県久留米市の
高良(こうら)大社

祀られることから、

八幡系の神社では
高良社として

よく見かけます。

 



ですがここでは、
黒男神社となっています。

調べたところ、

福岡県糟屋(かすや)郡にある
黒男(くろどん)神社から

来ているようです。

 

福岡に住む方なら、
「トリアス久山」のそばといえば

すぐわかると思います。

仲哀天皇と神功皇后が
居たという
香椎宮(かしいのみや)にも
ちかいここは、

仲哀天皇が亡くなったあと、

神功皇后がふたたび

神懸ったという

「小山田邑の斎宮
(こやまだむらのいわいのみや)」
に深くかかわるようです。

 



家臣にめいじて

斎宮を造らせた

神功皇后はまず、

 

7日7晩にわたる

忌籠(いみごもり)

おこなったといいます。

 

だれとも合わず話さず、

心身の禊を

おこなうのだそうです。

 

その忌籠りを

おこなっているあいだ、

 

熊襲などの反乱軍から

斎宮を護るため、

 

武内宿禰が

陣をはったのが、

黒男山だといいます。

 

当時は、

護りをかためたことから、

カタメ山と呼ばれていたようです。

 

 

忌籠りがあけると、

神功皇后はふたたび

神懸ったといいます。

 

そこでは

武内宿禰が琴をかなで、

 

中臣(なかとみ)氏
烏賊津使主(いかつのおみ)が
審神者(さにわ)をしたといいます。

降りてきた神は、


向津媛命(むかつひめ)
稚日女神(わかひるめ)
事代主(ことしろぬし)
住吉(すみよし)三神
 

だといいます。

いまでも斎宮では、

その神々を

祀っているといいます。

また、

向津媛さま

天照大神の荒魂とも

いわれることから、

 

神功皇后みずからが

斎王となり、

向津媛さまの御霊を

天照大神として祀ったといいます。

 

いまではそこは、

天照皇大神宮
(てんしょうこうたいじんぐう)といい

 

九州の伊勢といわれるほど

霊験あらたかな場所に

なっているようです。

 

 

つまり

宇佐神宮では、

 

玄関口(鳥居)の

守護として、

黒男神社を

祀ってあるのでしょう。

 

ところで、
なぜ「くろどん」なのでしょうか?


一説には、

武内宿禰の武具が

真っ黒だったからとの

推測もあるようです。

 

 

豊前国の宇佐めぐり③ へ つづく

 

 

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