大和国の春日めぐり⑦ ~春日大社 若宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

春日大社には、
摂末社めぐりとして、

北側をまわる
水谷(みずや)九社めぐりと

南側をまわる
若宮(わかみや)十五社めぐりが
あります。



水谷めぐりは、
水谷神社を中心とした
龍神信仰だといいます。

そちらは

またいずれ廻るとして、

今回は若宮めぐりです。



こちらは、
天児屋根命(あめのこやね)
御子である

天押雲根命(あめのおしくもね)
を祀っているといいます。

 



由緒によると、
1003年に
蛇の姿であらわれ

はじめは
母神である
本殿の第4殿内に、

その後は
第2殿と第3殿のあいだで
祀られていたようです。

1135年になって
ようやく社殿が造られると、

以後800年ちかく
「春日若宮おん祭」という
例祭まで欠かすことなく
祭祀が続いているそうです。

 



ではこの
子・オシクモさまが

どんな方だったのか、
ホツマツタヱをひらいてみます。

まず時代は、
糺の森(ただすのもり)
河合(かわい)神社
養生していた

豊玉姫(とよたまひめ)

天照大神の曾孫の
山幸彦(やまさちひこ)
復縁したときのことです。

オシクモは、
関東を治めていたようです。

これはおそらく、
鹿島や香取を所有していた
父・天児屋根によるのでしょう。



その後、

天照大神の玄孫の
ウガヤフキアワセズ

時代になると、

オシクモは父に代わって
多賀(たが)大社にて

左大臣を務めたようです。

子を授かる法の書である
「よつぎふみ」を代々
管理しており、

これによって、
ウガヤは第一子の
ヰツセを授かったといいます。

また、

ヰツセの乳母であった
玉依姫(たまよりひめ)
とのあいだに


イワレヒコ(神武天皇)が

産まれると、

その斎名は、
オシクモの子である
天種子(あめのたねこ)が
名づけたといいます。



天種子は以後、
神武天皇に仕えたようです。

この天種子が
中臣(なかとみ)姓を賜ります。

さてそんな
天児屋根家に伝わる
「よつぎふみ」に目をつけたのが、
ナガスネヒコです。

ナガスネヒコは、
天皇家の遠縁である
ニギハヤヒを擁立して、

飛鳥にもうひとつの
朝廷をひらいていました。

ウガヤ朝は、
そちらにも配慮しながら
政治を執っていたのですが、

ナガスネヒコは
満足していなかったようです。

 



ニギハヤヒの子を得るべく
「よつぎふみ」を見せるよう

嘆願するのですが、

先を見越していた
オシクモは、

もちろん突っぱねます。

 

ところが後年、

この書を春日殿(かすがどの)に

納めていたところ、

 

ナガスネヒコが忍びこんで
「よつぎふみ」を
写し盗ってしまったのでした。

この騒動が、
やがて神武東征にまで、

発展していったといいます。

 



オシクモは多賀にのこり、
ナガスネヒコらを
飛鳥に押しとどめていたといいます。
 

天種子は、
神武天皇とともに
東征を戦ったようです。

父・天児屋根を
大原野(おおはらの)神社に

祀ったのはオシクモです。

 

オシクモは、

父から酒の飲み方ま

教わっていました。

その父の御霊を
枚岡(ひらおか)に招いて
枚岡神社を築いたのも

オシクモだといいます。

そしてオシクモは、
枚岡に罷ったといいます。

また
孫の天種子も、
神武天皇に仕えたのちは

春日大社の神奈備山である
御蓋山(みかさやま)

身罷ったといいます。



大原野神社(京都)には
父・天児屋根がねむり

枚岡神社(大阪)には
子・オシクモがねむり

御蓋山(奈良)には
孫・天種子がねむる
ということのようですね。

 

こうして代々、

神(かみ)に仕えてこられた

臣(とみ)の血筋が、

 

ここ春日大社に

所縁があるようです。

 

ホツマツタヱには

こんな一説もあります。

 

あまのこやねも
かすかくに
とふひのおかに
やまとかわ
ほりてつくれる
みかさやま

 

灌漑事業のため、

大和川を掘ったその土が

飛火野に積み上って

御蓋山となったそうです。

 

これが

事実か比喩かはさておき、

飛火野(とびひの)には

古代祭祀の跡もあるといいますし、

 

社殿が創建される以前から

ここは聖地であったのでしょう。

 

 

大和国の春日めぐり⑧ へ つづく

 

 

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