鞍馬・貴船めぐり⑨ ~豊玉姫と玉依姫~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

貴船(きふね)神社は、
1055年の
本宮への遷座より、

上賀茂(かみがも)神社
摂社だったそうです。



明治以降になって、
独立したそうですが、

おそらくそれは、
淀川から登ってきたという
玉依姫(たまよりひめ)



カモ氏だと
いわれているからでしょう。

たとえば、
奥宮の境内摂社も、
すべてカモ氏に
関連がありました。



吸葛(すいかずら)社は
味耜高彦根命

(あちすきたかひこね)
を祀っていますが、



この方は奈良の

高鴨(たかがも)神社でも
祀られており、

別名を、
迦毛大御神

(かものおおみかみ)
といいます。



鈴市(すずいち)社は
媛蹈鞴五十鈴媛
(ひめたたらいすずひめ)が
祀られていますが、



この方は
初代・神武天皇の妻であり、
玉依姫とおなじく
丹塗り矢伝説があります。

しかし調べてみると、

その父は、
鴨氏の氏神といわれる
積羽八重事代主(つみは)
でした。



おなじく摂社の、
日吉(ひよし)社は

 



日吉(ひよし)大社

祭神である
大山咋神(オオヤマクイ)
祀っていました。

日吉大社では、
ヤマクイの妻として、
玉依姫が
「鴨玉依姫」という名で
祀られています。



さらにいえば、
上賀茂神社には、

玉依姫が
処女懐胎で産んだとされる
賀茂別雷神

(かもわけいかずち)が
祀られています。

これが史書では、

天照大神の孫である
瓊瓊杵尊(ニニキネ)の御霊が

産ませた子だといい、

日吉大社では、
ヤマクイの子となります。



位置関係としては、

このようになります。

 

鴨川の分岐点に、

下鴨(しもがも)神社と

河合(かわい)神社があり、

(河合は

川と川が合流する

川合(かわあい)からきています)

 

西へゆけば、

下鴨の元宮という

御蔭(みかげ)神社があり、

 

東へゆけば、

上賀茂神社と

神山(こうやま)を通って、

 

源流である

貴船神社へ着きます。




ですから、
このあたりは

カモと川で、
繋がっているようです。

ではここは、
玉依姫の神社なのか、
というと……

そうではないようです。

 

ホツマツタヱによると、

ここはかつて

ミズハメの社(やしろ)と

呼ばれていたようです。

 

罔象女神(みつはのめ)

といえば、

水の神です。

 

貴船とおなじく、

祈雨の神社といわれる

丹生川上(にうかわかみ)神社でも

祀られているといいます。

 

 

やはりここは、

元より水の神を祀る場

だったのでしょう。

 

そして水の神とは、

龍神であり、

龍田(たつた)神とも

言われていたようです。

 

 

さて以前、

御蔭神社には、

玉依姫が隠れていた

と書きましたが、

 

貴船神社には、
玉依姫の叔母である、
豊玉姫(とよたまひめ)が
隠れていたといいます。



ここからはまた、

ホツマツタヱを追って
書いてみたいと思います。

流れとしては、
近江大津めぐり⑤ ~山幸彦とヤマクイ~
のつづきとなります。

ニニキネと
木花咲耶姫
(このはなやくやひめ)の
子である

山幸彦(やまさちひこ)と
海幸彦(うみさちひこ)の
兄弟喧嘩が
おさまったところからです。




鹿児島(籠洲)の

ハテツミ(海神)のもと

にいた山幸彦は、

ハテツミの娘の
豊玉姫を紹介されました。

そこで
ハテツミの館(鵜戸神宮)から
鹿児島神宮に遷り、
式を挙げられました。



そのまましばらく
九州に居ついて、

父・ニニキネがしたように、
田畑を整え、
民を潤したといいます。

しかしそうこうするうち、
父・ニニキネは、
山幸彦への
譲位を決めました。

筑紫にいた

山幸彦は、
志賀浦(しがのうら)から

最速の

ワニ舟に乗って、
北の津(氣比神宮)へ向かい、

そこから
陸路を経て、

父のいる
琵琶湖南部の
ミズホの宮へと
帰ったそうです。



妻の

豊玉姫はというと、
このとき懐胎しており、

揺れは少ないが
やや遅い

鴨舟に乗って、
 

山幸彦の
後を追ったといいます。

出帆前の

山幸彦に姫は


どうか産屋を建てて
お待ちください


と伝えていました。

北の津についた
山幸彦は
すぐに敦賀の松原に
「茅葺きの産屋」を
造らせたといいます。

しかし、
まだ茅も葺くまえに
豊玉姫は到着し、

未完成の産屋で

御子を産んだといいます。

というのは、
航海の途中に、
難破したのですが、

御子を守らねばとの

必死のおもいで、

渚を泳いで渡り、


島根の

美保崎(みほざき)で
ワニ舟に乗り替えると

またたく間に
北の津に

着いたといいます。



そこで
御子の名は、
斎名(いみな)を
『カモヒト』、

称え名を
『ナギサタケウガヤフキアワセズ』

と賜りました。

渚を猛々しくわたり、

産屋の茅も葺くのが

間に合わなかった、

という名前だそうです。

ところが、です。

生後75日まで

男性は産屋に

入ってはいけない、

という決まりがあったのですが、

山幸彦は、
うっかり入って、
姫を覗いたのでした。

あられもない姿でいた
豊玉姫は、
すっかり恥じ入ってしまい

弟の
タケスミ(賀茂建角身)

を連れて、
 

若狭(わかさ)の

遠敷(おにゅう)にくだり、

そこから
若狭街道を通って、
ミズハメ社(貴船神社)に

籠ったといいます。



すぐに鹿児島から
父・ハテツミと
妹・オトタマが呼ばれて
説得に当たるのですが
失敗します。

このとき、

ハテツミ一行は
瀬戸内海を通って、

西宮から
貴船に至ったそうです。


もしかすると、

これが奥宮に残る、
玉依姫の

淀川遡上ルートかもしれません。

かつては、
西宮から伊丹空港、
高槻にかけて

入海だったといいます。

 

ちなみに、

このとき玉依姫は

まだ産まれていません。

 

オトタマ姫が、

玉依姫の原型に

なっているのかも

しれませんね。

 



その後もたびたび
使者を遣わすのですが
豊玉姫は

帰ってきてくれません。

そこで
引退したニニキネが、
上賀茂神社の

神奈備山である
神山(コウヤマ)で

葵と桂を取ると、
貴船へ向かいました。



ニニキネが、
その葉をもって

「これはなんでしょう」

と訊くと

「葵の葉です」

と豊玉姫は

こたえました。

「ではこれはなんでしょう」

とまた訊くと、姫は

「桂の葉です」

とこたえました。
そこでニニキネは、

諭すように言いました。


どちらも一対の葉が、

欠けることなく生えています。
 

葵と桂の葉は

夫婦を象徴する葉で、
世の理をあらわしているのです。


あなたは世を捨てて、
妹背(男女)の道(理)を
欠いてしまうのですか?

 

そういうと、

豊玉姫も哀し気に

語るのでした。


女の身で

猛々しく海を渡ったという

あざけりと


腹這い姿を見られた

恥が重なっては
 

これ以上、
宮にいることはできません


恥ではありません。
しかと聴きなさい。
 

子を産んだ後は

男女のまぐわいを絶って
75日は養生しなければ、
ホルモンバランスが壊れて
回復が遅れ、

精神にも異常をきたします。

 

これは決まりを破った、
わが息子の恥なのです



ここでニニキネは、
龍田の神を

例にをとって、

 

天・地・人について

語りました。

 

すると、
豊玉姫もいよいよ

理解したのでした。

しかしまだ、
心の整理が

追いつきません。

そこで
豊玉姫は、
弟のタケツミとともに、

下鴨神社にほど近い、
河合神社の地に遷って
養生したといいます。



父・ニニキネは
その足で

鹿児島神宮へとくだり、
しばしそこで暮らしたのち、

霧島神宮ちかくの
高千穂の峰で
薨去されたといいます。

 



豊玉姫は、
河合神社で

喪に服しました。

喪が明けたのち、
山幸彦は

妻を都に迎えようと、

ミホツ姫に相談します。
この方は、
事代主クシヒコの妻です。

記紀では、
大国主の妻として、
亀岡の出雲大神宮でも
祀られています。

その助言により、
和歌を送ることにしました。


おきつとり
かもつくしまに
わかいねし
いもはわすらじ
よのことごとも


『おきつとり』は枕詞で、

『鴨』にかかります。

 

様々な意味が

織り込まれているのですが、

 

あなたのことを

ずっと思っていますという

ことのようです。

 

すると、

豊玉姫は
返歌をしました。


いみといひ
けがれとたつる
ひのもとの
かみのこころお
しるひとぞかみ


超訳すると、

 

忌み穢れから

あなたのもとを

去りましたが、

 

父神・ニニキネさまの

御心を知って、

 

こうしてわたしに

歌を寄せるあなたもまた

立派な神(守)にあられます。

豊玉姫はこの歌に、
葵と桂の葉を添えて

送ったといいます。

受け取った山幸彦は


おきつとり
かもおをさむる
きみならて
よのことごとお
ゑやはふせがん

 

そう三度唱えながら、

涙したそうです。

 

これを訳すなら、

 

その身をもって

子・カモヒトの命を繋いだ

あなたのことを、

 

世のそしりから、

わたしが護ろう!

 

という

男気のこもった

誓いなのでした。


こうしてようやく、
豊玉姫は

山幸彦のもとに

帰ってきたといいます。



ところで、
弟のタケツミですが、

コモリの娘の
イソヨリ姫と結ばれて、
玉依姫を産まれます。

豊玉姫が

ミズホ宮に戻ったあと、
このふたりは
河合神社に

暮らしたといいます。

 



この、

伊賀古夜日賈が
イソヨリ姫のことのようです。

コモリの子と、

タケツミが結ばれた

ということは、

 

ちょっと強引ですが、

こうなるようで、


もしかすると、

ここで鴨と賀茂が、
結ばれたのかもしれません。

 

鞍馬・貴船めぐり⑩ へ つづく

 

 

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