近江大津めぐり⑤~山幸彦とヤマクイ~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

前回の
近江大津めぐり④ ~天孫神社とシノ宮~
のつづきです。

ホツマツタヱによると、
天照大神の孫である、
瓊瓊杵尊(ニニキネ)は、

(日吉大社の劔宮社)


琵琶湖畔にある
ミズホ宮にて
国政を執っていたといいます。

このとき、
ニニキネの息子たちも
各地に遣わされ、

次男のスセリは、
琵琶湖西岸の
ウカワ宮(白髭神社)にいて

釣りを愉しんだので、
海幸彦(うみさちひこ)と
呼ばれたそうです。

また、

三男のホオデミは
琵琶湖南の
シノ宮(天孫神社)にいて

山狩りを愉しんだので、
山幸彦(やまさちひこ)と
呼ばれたといいます。



スセリとホオデミは
仲が悪かったといいます。

各地に遣わされる際、
ホオデミは
ウカワ宮に行きたいと
要望を出したのですが、


父ニニキネに

断られたといいます。

このときから、
兄弟のあいだに、
わだかまりがあったようです。



それからしばらく後、
父ニニキネが、
九州へ巡幸することが
決まりました。

ニニキネは、
長男のホノアカリを
ハラアサマ宮(酒折宮)から、

ミツホ宮まで呼び寄せて、
国政を預けます。

そして、
次男・三男には
「北の津(キタノツ)」ゆきを命じて、

しばらく
一緒に暮らすようにと
言い渡したそうです。

そこにはニニキネの
兄弟仲良くしなさいという
教えがあったといいます。

この北の津というのは、
福井県の敦賀(つるが)に

あたるそうで、

比定地は、
氣比(けひ)神宮と
いわれているようです。



ここからは、
古事記や日本書紀とも
一緒の流れです。

ある日ふたりは、
それぞれ得物を
替えてみようといい、

海幸彦は、
弟の弓矢をもって
山へ行き、

山幸彦は
兄の釣り竿をもって
海へ行きました。

けれどその日は、
お互いになんの成果も
ありませんでした。

仕方なく、
それぞれ借りたものを
返すのですが、

山幸彦は、
兄の釣り針を、
魚に取られて失くしてしまったのです。

海幸彦は激怒して、
おれの釣り針を返せと
いって聞きません。

山幸彦は、
新品を用意したり、
自分の刀を潰して
釣り針をこしらえるのですが、

海幸彦は受け取らず、
失くした針を返せの

一点張りです。

困り果てた山幸彦が
浜辺を歩いていると――

塩土老翁(しおつちのをじ)と
出会います。

話を聞いた老翁は、
わたしに任せなさいと、

山幸彦をカモ舟に乗せて、
海へと出るのでした。



ここから、
古事記や日本書紀では、

海中へもぐって
竜宮城へゆき、
海神(わだつみ)と出会うのですが……



ホツマツタヱでは、
鹿児島へゆきます。

もとは
籠州(かごしま)であり、

古事記・日本書紀でも
山幸彦は
無目堅間(メナシカタマ)という

籠に入れられて

海へ出たといいます。

京丹後の元伊勢といわれる
籠(この)神社にも、
 

山幸彦のはなしや、
浦島太郎の話が
残っていました。



さて、
鹿児島は当時、
ソヲの国といわれており、

ハテツミという方が
治めていたといいます。

この方は、
住吉大社で祀られる
カナサキの孫にあたり、

その祖は、
シマツヒコ・オキツヒコ・シガという
舟の一族だといいます。

舟を考案したという
この一族は、

滋賀県高島市の
安曇川(あどがわ)近辺を
拠点にしていたそうです。

 



そんな舟の一族の
血を引くハテツミは、

最果ての守(かみ)から
ハテカミとも

呼ばれていたようです。

もしかすると、
海を渡ったことから
渡つ海、わたつみ、
海神(わだつみ)
と転化したのかもしれません。

その
ハテツミの協力により――
なんとか魚から釣り針を
取り戻すことに成功します。

(一説には、
海幸彦の使っていた
特殊な釣り針の
製造元をつきとめて、

同一品を作らせたとも
考えられるのだそうです)



さて、
個人的にすごく面白いのは、
ここからです。

古事記・日本書紀では、

海神から、
潮干玉(しおひるたま)と
潮満玉(しおみつたま)を
いただくと、

山幸彦は
陸へ戻ってきて、

海幸彦をこらしめます。

ところがホツマツタヱでは、
帰るのは山幸彦ではなく、

使者の

シガの守(かみ)です。

 

おそらくこれは、

のちにシガの国守になるから、

こう書かれているのだと思います。

 

このシガが、
ワニ船を飛ばして

帰るのです。

琵琶湖西岸には、

「志賀」と「和邇」が
ありましたね。

 



しかもその帰路に、
シノ宮でヤマクイを乗せます!

このヤマクイとは、
もちろん
大山咋神(オオヤマクイ)のことで

日吉大社

松尾大社のヤマクイです。

そして
シガとヤマクイのふたりで、
ウカワ宮に訪れます。

海幸彦は、
なぜかこのとき、
ウカワ宮に帰っていたようです。


ちょっとここで、
話しが脇に逸れますが、

この
鹿児島→大津→鵜川の
ルートを考えると、

おそらく
大阪湾(西宮)から、
淀川→宇治川→瀬田川
遡上して
琵琶湖に至ったと思います。

 



とすると、
鹿児島ゆきも
敦賀からの日本海ルートは
行きにくいのでは?

と思って、
琵琶湖の北に
なにかないかしらと
探してみると――

ありました。
その名も、
塩津(しおつ)神社です。



祀られているのは、
塩土老翁(しおつちのおじ)と
彦火火出見尊(ホオデミ)と、

妻の豊玉姫(とよたまひめ)でした。

 

びっくりですびっくり
 

もしかすると、
ここから鹿児島へ

出発したのではないでしょうか?

さて、

話を戻しまして、

ウカワ宮へやってきた、
シガとヤマクイです!

海幸彦にむかって、
ヤマクイは堂々と


これは弟宮が、
兄君から借りて
失くしてしまった釣針です。

無事に取り返しましたので、

シガの守を遣わして
早急にお返しにあがりました


と言ってのけます。

 

すると海幸彦は、

ふーんと検分して、

「ああ、おれのだね」

とだけいって受け取ると、

そのまま席を立って、

行こうとしました。

山幸彦の

誠意と苦悩をよくわかっている
シガはいよいよ頭にきて、
 

海幸彦の袖をつかむと

「マチヂ(なんて貧しい鉤だ)!」

と叫びました。
これには海幸彦も血が上り、

「おれには弟が
直接返しにくるのが
道理だろう!」

と怒鳴ります。

しかし
シガも毅然として
応戦しました。


ならば古い釣り糸を
新しい糸に替えて
貸すのが道理でしょう!


兄弟への思いやりだというのなら、
あなたこそ
手をついて弟に謝りなさい!


この言葉に、
痛いところを突かれた
海幸彦は、


反論もできないが、
腹の虫もおさまらず、

ふたりを無視して
琵琶湖へと舟を

漕ぎ出してしまいました。

そこでシガは、
ハテツミからあずかった
玉を投げました!

すると、

琵琶湖の水が
みるみる干上がってゆきます。

これには、

さすがの海幸彦も

驚きを隠せません。

追ってきたシガが
舟に飛び乗ると、

海幸彦は
恐れをなして、
舟から飛び降りました。

しかしそれも、
追いついたヤマツミが、

海幸彦の手をひいて、

逃しませんでした。

シガがまた玉を投げると、
今度は琵琶湖の水が
みるみる満ちてきました。

あわや、

海幸彦は
溺れそうになってしまいました。

すっかり肝を冷やして、
頭も冷えた海幸彦は、

「悪かった、
これから先は
弟のもとで働くことを誓おう」

といって
改心したといいます。




シガとヤマクイの
大活躍ですね。

ヤマクイといえば、
松尾大社でも書きましたが、

ニニキネが巡幸を終え、
3つ子を産み、
父オシホミミを弔ったあと、

比叡山にのぼって、

ヤマクイよ、

この山の背(うしろ)の

土地(京都盆地)を
開拓しなさい。

開墾した土を
積み上げれば、

ここに富士山を
築くような労力にも
なるでしょうが、
やってのけなさい

」(超訳)

と命じたのが
ホツマの

初出のようです。

どうやらニニキネに
仕えていたようですね。

しかもこの大事業を、
短期間で

見事やり遂げたので、

それ以後は、
重たい役職に
召し抱えられたのでしょう。

北の津へいった
山幸彦の留守中に、

シノ宮を
預かっていたようなので、

比叡山や、
大津、山背国には
ゆかりが深いのでしょうね。



ちなみに、
鹿児島へいった山幸彦は、

そこで
ハデカミの娘の
豊玉姫と結ばれます。

この豊玉姫の兄が
賀茂建角身(タケツミ)であり、

賀茂氏の祖とも
なるわけです。

これは
以前のカモ考にも、
通じているのですが、



豊玉姫については、
また次回か次々回の

 

京都・貴船神社
書こうかと思います。


近江大津めぐり ~終~


☆近江大津全記事リスト☆

近江大津めぐり① ~日吉大社と摂社~
近江大津めぐり② ~日吉大社と磐座~
近江大津めぐり③ ~三尾神社と猿田彦~
近江大津めぐり④ ~天孫神社とシノ宮~
近江大津めぐり⑤ ~山幸彦とヤマクイ~

 

 

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