近江めぐり②~瀬田の唐橋と龍宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

建部大社より
西に500メートルほどゆくと

瀬田(せた)の唐橋(からはし)

があります。

 

対岸にみえるのは、

中州ですから、
川幅はもうすこし広く、

 

中州を経由して

2本の橋が架かっています。

 

その優美なすがたは、

歌川広重(ひろしげ)の

浮世絵にもあり、



近江八景のひとつにも、
日本三大名橋のひとつにも

数えられているようです。

橋が架かる
瀬田川(せたがわ)は、
琵琶湖から流れでる
唯一の河川であり、

瀬田川、
宇治(うじ)川、
淀(よど)川と名を替えて
大阪湾へと注がれます。


唐橋を制する者は、
天下を制す

 

というほど
軍事的な要衝であり、

その歴史は
ヤマトタケの子、
仲哀天皇の時代まで
さかのぼるといいます。



仲哀天皇の死後、

妻の

神功皇后(じんぐうこうごう)は
 

子の

誉田別命(こんだわけ)をたて、
 

忠臣の

武内宿禰(たけうちのすくね)とともに
政治をおこなっていました。



しかし、
仲哀天皇と
大中姫(おおなかつひめ)の
あいだに生まれた

香坂皇子(かごさか)と
忍熊皇子(おしくま)とのあいだに

世継ぎ争いが起こります。

香坂は
兵庫の五色塚古墳のあたりで
亡くなったといいますが、

忍熊は

大津の逢坂で

武内宿禰に敗れたあと

 

この瀬田の橋で
自害したといいます。



クブツチノ イタデオハズハ

《頭槌 痛手不負》

 

ニホドリノ カヅキセナ

《鳰鳥 潜爲》

 

首を取られるくらいなら

カイツブリのように

水に潜って死を選ぼう

 

こう歌って

飛びこんだようです。

 

 

日本書紀によると、

その後

武内宿禰はこう

歌っています。

 

アフミノミ セタノワタリニ

《近江海 瀬田渡》

 

カヅクトリ タナカミスギテ

《潜鳥 田上過》

 

ウヂニトラヘツ

《宇治捕》

 

忍熊の遺体は
宇治川で見つかったようです。


ずいぶん下流まで

流されていたようですね。

建部大社には
桧山神社遥拝所があって、


神功皇后や
武内宿禰を
祀っていましたが、

もしかすると
この一件が
所縁ではないでしょうか?



ですから
神功皇后のときには、

すでに橋が架かっていたようです。

その後も、

この瀬田の橋は

戦乱の舞台となり続けます。

672年の壬申の乱では
最終決戦場となり、

764年の藤原仲麻呂の乱では
橋が焼失、

1221年の承久の乱では
後鳥羽上皇の朝廷軍と
北条時房の幕府軍が川を挟んで交戦、

1350年の観応の攪乱では
橋が焼失、

本能寺の変では、
安土城へと駆ける
明智光秀を止めるために
橋を焼いたといいます。

 



たしかに、
京都から東へゆくには
瀬田川を

越えるしかありません。

ほかには、

草津の矢橋(やばせ)港から

大津まで琵琶湖をわたる

航路があったそうですが、

 

比叡(ひえい)山の

吹きおろし風がつよく

難航していたようで、

 

武士(もののふ)の 

矢橋の船は 早くとも 

急がば回れ 瀬田の長橋



と詠われ、

これが「急がば回れ」という

ことわざの由来になったそうです。


中州を経由して
ふたつの橋が架かる

この形態を確立したのは、
織田信長だそうです。

かつてはもう少し
下流にあったといいます。

 



唐橋の東のたもとには
勢多橋龍宮秀郷社

(せたばしりゅうぐうひでさとしゃ)

があります。

古来より
瀬田川には龍神がいる

といわれていて、

むかしは
橋を社としていたそうです。

 



橋の中央には、
特殊な杭が打ち込んであり、

これを

御霊代(みたましろ)としていた

といいます。

1440年に、
橋の架け替えをおこなった際、
 

水底の龍神を

一時的に遷座する仮宮として

この社が設けられたといいます。



以後、

修繕や架け替えの際には
ここに御霊を遷したそうです。

その仮宮が、

いつのまにか
本殿として祀られていたそうです。

さて、

ここには龍宮だけでなく、

秀郷社も祀られています。

祭神は、
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)

という平安時代の武将貴族です。

なぜこの方が

祀られているかというと、

 

瀬田の唐橋には
大ムカデ退治の伝説が

残っているのでした。

 



あるとき、
秀郷が瀬田橋を渡ると、


大蛇が

横たわっていたといいます。

人々は恐れて

通れずにいたのですが、
 

豪胆な秀郷は
構わずに踏みつけて

通ったそうです。

すると、
秀郷を呼び止める

青い衣をまとった

美しい女がありました。

わたしは瀬田橋の

水底に棲む龍神です。
 

あなたさまの勇敢さに

感服いたしました。


じつは、

三上山(みかみやま)に住み着いた
大ムカデに困っていたのです。


どうか

討ち取っていただけないでしょうか?



というのでした。

秀郷は快諾して、
夕暮れ時まで

瀬田橋で待っていると、

東のほうより、
三上山を七巻半する

巨大ムカデがやってきました。

弓の名手であった秀郷は、

キリキリと弓弦を引いて
1矢、2矢と放ちます。

 

しかし矢は、

巨大ムカデの

堅い鱗に弾かれてしまいます。

けれども

秀郷は恐れることなく、


「ムカデは
人のツバキをきらう」

といういうと
3射目の矢尻をペロリと舐め、

 

南無八幡大菩薩と唱えてから
ひゃうと矢を放ちました。

すると矢は見事に
ムカデの左眼を射抜き、

 

ついに

討ち果たすことが
できたのです。

こうして秀郷は、
龍神の乙姫より
金銀財宝を得たといいます。




八幡神に祈るとは、


すなわち
応神天皇であり、
 

つまりは幼名の

誉田別命であり、

かつて

この橋で戦った

武内宿禰と忍熊皇子を

暗示していたのかもしれません。

 



ですが、
これには異説があるそうです。

西暦940年、

関東で兵をあげて

朝廷に謀反をおこした

平将門(たいらのまさかど)は、

 

関東の八州を

七州半までまとめあげ、

 

百官具足(ひゃっかんぐそく)〔役人と武人〕は

ムカデの足ほど

多くの軍勢を引き連れていたといいます。

 

その軍勢を、

朝廷軍が討ち破ったのですが、

 

一番の功労者は、

将門の左目を射抜いて斃した

藤原秀郷だといいます。

 

 

合戦は、

下総国といいますから、

千葉県の北部あたり

だったようです。

 

ただ、

敵方の将門も

しかたなくそのような状況に

陥ってしまった感もあり、

 

疲弊していた将門軍は

最後は300兵ほどだった

といいますから、

もどかしさがあります。

 

ですから、

朝廷の正当性をはかるため、

このような伝説が

生まれたのかもしれません。

 

 

面白いのは、


ムカデ退治の後、
秀郷が乙姫より授かったとされる、

 

「蜈蚣切(むかできり)」

という太刀が

 

いまでも伊勢神宮に

奉納されているといいます。


いつか観てみたいですね。
 

 

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近江めぐり④ ~山津照神社と息長氏~