山城国の松尾大社①~秦氏~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都・嵐山の
松尾大社へゆきました。



創建は
701年だといいますが、

背後の松尾山には
磐座(いわくら)があり、
古代より
祭祀が行われていたそうです。



祭神は
大山咋神(おおやまくい)です。

古事記によると、


スサノヲの孫であり、
大歳神(おおとしがみ)の
子だといいます。

ただし、
大歳神は

多くの神の父と

されていて、

由緒づけのため、
系譜に利用されている
面もあるようです。



たとえば、
大阪の坐摩神社
祀られていた、

阿須波神(あすは)、
波比岐神(はひき)、


も大歳神の子と

されていました。
 

これも、

ホツマツタヱをひもとくと、
オコロ(土竜・もぐら)の民である、
イクシマ・タルシマ

かもしれないことがわかり、

もしかすると、
「あすは・はひき」から
「アラハバキ」という
土の竜を祀る土着の民が

朝廷に組したことが
書かれていたのかもしれないと

いう話でした。



大山咋神(おおやまくい)というから、
大山祇神(おおやまづみ)の家系と
思っていたのですが、

どうやら
まったく関係ないようです!

 

なのでここからは、

大山咋神のことを

ヤマクイと表記します。



ヤマクイさまは、

滋賀・大津、
比叡(ひえい)山の麓の
日吉(ひよし)大社でも
祀られているといいます。

日吉大社にも
磐座があるといいますから、
古代より
祭祀されていたのでしょう。
 

ヤマクイと
日吉大社の関係について

ホツマツタヱには

書かれていました。



あるときヤマクイは、

 

天照大神の孫である
ニニキネ(瓊瓊杵尊)より、
こんな勅命を受けました。


なんじやまくい
やまうしろ
のおほりつちを
ここにあげ
おおひのやまお
うつすべし



ヤマクイよ、
この山の背(うしろ)の
野を掘り 土を
ここにあげて
大日山(富士山)に
みたて〔農地開拓をし〕なさい


「この山」とは
比叡山のことで、

京都がかつて
山城(やましろ)国と
いわれていたのは、

山背(やましろ)、
つまり
琵琶湖側からみた
比叡山の「うしろ」、
 

京都盆地のことを

いうようです。



ところでこの、
松尾大社と日吉大社を
線で結ぶと

中央あたりに
京都御所があるようです。

御所からみると、
日吉大社が

鬼門(北東)で、

松尾大社が

裏鬼門(南西)ですね。

また、
松尾大社と
比叡山山頂をむすぶと、

線上には
下鴨神社や
晴明神社、
梅宮大社があるようです。




この配置は

ある一族によって
「意図的に」行われた

といいます。

その一族とは、
松尾大社に
奉斎してきた氏族、

秦氏(はたうじ)です。



日本書紀の、
応神天皇の段には、

秦の始皇帝の末裔である
弓月君(ゆつき)を筆頭とする
難民約1万人を

朝鮮半島から受け入れた、
とあります。

これが
秦氏のはじまりと
されているようです。

秦の始皇帝だから
「秦」なのでしょうが、

絹織物が得意で、
「肌」のようになめらかだから
「はた」になったともいいます。



ルーツにも
諸説あって、

漢民族とも、
チベットウイグル族とも、
ユダヤとも、
失われた10支族とも
いわれているようです。

機織りや養蚕、
酒造、
土木技術に
すぐれていたといいます。

 



当初は、
大分の宇佐神宮あたりを
拠点にしていたようですが、

やがて
奈良の葛木地方へとうつり、

大和朝廷とも
親密になってくると、

大阪の寝屋川太秦や
難波津

京都の太秦や伏見、
亀岡盆地へと
広がっていったようです。

亀岡盆地
かつて湖に沈んでおり、
治水事業によって
開拓されたと書きましたが、

その事業を推進したのが、
秦氏だといいます。

また、
引いた水は、
亀岡から桂川を通って

松尾大社のある、
嵐山のふもとの地を
潤したといいます。

 



土地開拓に長けた
一族ですから、

平安京の造営にも
おおいに関わったといいます。

また秦氏は、
双ヶ丘・比叡山・稲荷山・愛宕山・松尾山
の五つの山を
聖地としていたそうですから、

比叡山・松尾山の間に
京都御所があるのも
うなずけるかもしれません。



さらには、
賀茂氏とも関係も深く、

以前、
葛城の鴨氏
記事でも書いたように、

葛城にいたときに
関係が築かれたのでしょう。

鴨氏が
山城に北上して、
賀茂神社に奉斎したルートと
まったく同じです。



ところが、
秦氏はこれだけ
国政にからんでおきながら、

歴史の表舞台には
あまり出てきていないといいます。

資料も少ないゆえに、
さまざまな憶測が
飛び交っているようです。

ですからぼくも、
すこしだけ便乗しようと
おもいます。



祭神のヤマクイと、
秦氏の関係が深いのは
わかりましたが、

そうなると、
応神天皇の時代より
はるか以前から、

 

秦氏系渡来人が

日本に来ていたということでしょう。

 


そこで思い出したのが、
難波神社で触れた、

キツネとカダマロです。

キツネに憑かれた
反乱軍を、
山背の葛野群を治める
カダマロが討伐し、

キツネの首領に、
各地でカダ家の祖神を
祀らせたといいます。

そのひとつが
伏見稲荷大社であり、
 

境内には
荷田(カダ)社があるといいます。

また境内の
東丸(あずままろ)神社には、
江戸時代に活躍した
荷田春満(かだのあずままろ)を
祀っています。

賀茂真淵(かものまぶち)、
本居宣長(もとおりのりなが)、
平田篤胤(ひらたあつたね)
とともに
国学の四大人と呼ばれたそうです。

このように

荷田家は代々、
カダマロを名乗っているようです。

また荷田家は、


ホツマツタヱでは
男神・天照大神の
12人の后のひとり
アチコを輩出した家でもありますから、

とても由緒のある家柄です。



ところでこの
伏見稲荷大社も、
秦氏が奉斎したといいます。

しかも、


もとは荷田家が
奉斎したいたものを、
秦氏が継いだというのです。

そうなると、
秦氏の分布はまるで、

荷田家に仕えた

キツネの分布を
なぞっている気がするのです。



もしかすると、
ホツマツタヱにある
反乱軍の「キツネ」とは、

 

太古の秦氏のことでは
ないでしょうか?

動物に憑かれた反乱軍のことを
ホツマツタヱでは
「ハタレ」といいますが、

秦氏の「はた」は、
「ハタレ」から来ているのでは
ないでしょうか?

つまり、
大陸よりやってきた
「荼枳尼天(だきにてん)」や
「ダーキニー」を祀る人々が
「キツネ」であり、

カダマロに制圧されて、
ウケモチ神、
つまり

「宇迦之御魂神(うかのみたま)」
と習合されて祀られた
ということではないでしょうか?

この姿は、

坐摩神社のオコロとも

重なります。



さらに後年、
キツネのなかから
「ヤマクイ」という人物が
朝廷側に登用されて、
実績をおさめたので、

応神天皇以降にやってきた
秦氏らは
このヤマクイを祀った、
という時系列も
考えられるのではないでしょうか?

 



とすると、
静かに朝廷内で活躍していた秦氏は、

現在ではお稲荷として、
各神社で祀られており、

しかもお稲荷様は、
たいてい境内の

鬼門にありますから、

京都御所における
比叡山や松尾大社の位置と
重なることにもなります。

こうして秦氏の影響は
いまでも各地の神社に残っていると考えると、
なんという歴史ロマンでしょう。



さて、あとは

調べていて驚いた
すごく個人的な余談です。

秦氏は
摂津の豊嶋郡も
拠点にしていたといいます。

大阪府池田市には
豊島という地名が残っていますが、

そこは、
ぼくがいま住んでいるところでした。

わお。

 

 

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山城国の松尾大社① ~秦氏~

山城国の松尾大社② ~市杵島姫~