長門国の豊浦めぐり③ ~忌宮神社と豊浦宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

長門国二之宮の
忌宮(いみのみや)神社です。



一之宮の
住吉(すみよし)神社から、
真東へ3キロにあります。

いまでは

埋めたてられていますが、
当時はもっと

海岸が近かったのでしょう。



ここは、
豊浦宮(とゆらのみや)の
旧跡だといいます。



第14代・
仲哀(ちゅうあい)天皇が、
九州の

熊襲(くまそ)鎮圧のため、

一時的においた皇居、
行宮(あんぐう・かりみや)であり、

妻の神功皇后(じんぐうこうごう)
ともに7年間ここで、
政治を執ったといいます。



また福岡の

香椎宮(かしいのみや)での
仲哀天皇崩御のさい、

遺骸はここへ運ばれ、
南の土肥山(どひやま)に
仮埋葬されたといいます。

 



その後、
三韓遠征を終えた
神功皇后が

豊浦宮の地に
仲哀天皇の御霊を祀ったのが、
創建だといいます。

 



第45代・

聖武(しょうむ)天皇の

時代になってから、

神功皇后を祀って
忌宮(いみのみや)とし、

さらに神功皇后の子の

第15代・
応神(おうじん)天皇を祀ると
豊明宮(とよあけのみや)として、

 

それぞれ社殿を建立し
三殿別立の神社と

なっていたようです。



ところが、
火災や戦火によって
豊浦宮と豊明宮が焼失し、

忌宮に合祀されたため、
現在は忌宮神社と

呼ばれているようです。



「忌(いみ)」は、
「斎(いみ)」と

おなじだといいます。

つまり斎王(女)として、

仲哀天皇を祀った

神功皇后のことでしょう。

そして「豊浦」とは、

豊かな海のことだそうです。

 

いまでも本殿の

第一殿には

仲哀天皇を、

 

第二殿には

神功皇后を、

 

第三殿には

応神天皇を祀っている

といいます。

 

 

ヤマトタケの子である

仲哀天皇を祀るからか、

 

賽銭箱の神紋は

白鳥のようでした。

 



およそ2千年も

さかのぼる神社であり、
境内にはたくさんの

聖蹟がありました。



まずは、
武内宿禰(たけうちのすくね)の
手植えによるという
銀杏(いちょう)です。



住吉神社につづいて、
ここにも手植えが
残っていました。

さらには、
神功皇后の手植えも
ありました。


こちらは松です。


三韓遠征まえの
忌籠(いみごも)りのさい、
戦勝祈願として
逆さに植えたといいます。



すでに枯れていますが、
それでも

伝説としてその樹が

残っているのでした。

ところで松といえば、
ヤマトタケの神話では、

剣を松の木にかけたままにして、
「松」と「待つ」を
掛け言葉にしていましたが、

その「松」を
逆さに植えるというのは、

「待たない」という
決意の表れ

だったのではないでしょうか?



そんな女傑ともいうような
皇后ですから、

仲哀天皇の神社でありながら、
神功皇后にあやかった
安産祈願の信仰もあるようです。

 



「豊浦宮」という名も
神功皇后ゆかりの

「忌宮」になりましたし、


仲哀天皇の功績が、
神功皇后に

塗り替えられている

ようでもあります。

香椎宮で

神をうたがい崩御した
仲哀天皇よりも、

 

神がかって

三韓征伐を成し遂げ
応神天皇を産んだ

神功皇后のほうが

魅力的なのもわかります。

 



一説には、
身長180センチの
美男子であったともいう

仲哀天皇ですが、

ヤマトタケの子である

仲哀天皇がただの

優男だったというのでしょうか?

そんな一抹の寂しさを、
払拭してくれる聖蹟が、
境内にありました!

それがこの、
鬼石(おにいし)です。



仲哀天皇7年7月7日に
朝鮮半島より
塵輪(じんりん)という武将が、

穴戸に攻めてきたようです。

皇軍は苦戦を強いられ、

名だたる武将が次々と

斃れていったといいます。

そこで仲哀天皇は
みずから弓矢をとって
戦場へとおもむき、

見事、
塵輪を射抜いたといいます。



敵は散り散りとなり、
皇軍は幟(のぼり)を振って
歓喜に包まれたといいます。

そんな逸話から、
塵輪の首が眠るという
この鬼石では、

数方庭(すほうてい)という
奇祭が行われているといいます。



30メートルにもおよぶ
竹製の幟や、

笹飾りを振りながら、
鬼石をまわるといいます。

当初は

鎮魂の意味もあったそうですが、
 

現在では

五穀豊穣や子孫繁栄の祭と

なっているようです。



つぎつぎと斃れゆく
家臣たちを憐れ哀しみ、
憤怒した仲哀天皇が、

みずから馬に乗り
敵将を討ち取る勇ましい姿は、
 

父・ヤマトタケと
重なるように感じました。

さてそんな仲哀天皇に
かかわる事績がもうひとつ
ありました。



ここは、
蚕種渡来之地だといい、

中国からはじめて、
蚕(かいこ)の卵が

渡ってきたといいます。

秦の始皇帝の
11世の子孫である
功満王(こまおう)が
帰化して伝えたそうです。

 



蚕といい、秦といい、
まさしく秦(はた)氏ですね。


長門国の豊浦めぐり④ へ つづく

 

 

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