長門国の豊浦めぐり⑥ ~豊功神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

忌宮(いみのみや)神社
飛び地境内である、

豊功(とよこと)神社へ
向かいます。

 



忌宮神社から
1・5キロほど南東の

海辺の断崖に
鎮座しています。

 



参道口には、
櫛崎(くしざき)城の
石垣が残っていました。



築城は
平安時代とも
戦国時代ともいいますが、

関ヶ原の戦い後は、
長府(ちょうふ)藩主となった
毛利(もうり)氏が
居城にしていたようです。



もともと、この地には
串崎(くしざき)八幡宮が
祀られていたそうです。

「くしざき」には
元寇のときに、
敵将の首をならべた

「くびさき」
という由来があるそうですが、

異国の武将を
鎮魂・征圧する

という意味もあって、

 

八幡大神である

第15代・応神(おうじん)天皇

母・神功(じんぐう)皇后

祀ったのかもしれません。

 



そこへ、

毛利氏は氏神である

広島県安芸高田市の
宮崎(みやざき)八幡宮
〈現・宮崎神社〉を
勧請したといいます。

 



さらになぜか、
高良(こうら)大明神である

武内宿禰(たけうちのすくね)も

勧請して、

左殿に
櫛崎八幡宮、

中殿に
宮崎八幡宮、

右殿に
高良大明神をあわせ祀り、

宮崎八幡宮と
改名したそうです。

 

ですからここは、

いまでも宮崎町と

いうようです。

 



そして後年、
ここが城の
松崎口にあったことから、

松崎(まつざき)八幡宮と

改名されたようです。



また、
毛利家の邸は

忌宮神社のそばであり、

忌宮神社の境内には、
代々の藩主を祀る
祖霊社のような社が

あったといいます。

 

初代・長府藩主の

毛利秀元(ひでもと)の御霊には

豊功大明神の

称号があたえられたため、


豊功社と

呼ばれていたといいます。

 



大正時代になって
その豊功社が
松崎八幡宮に

遷座・合祀されて

豊功神社と
呼ばれるように
なったようです。

 



由緒には、

左殿に
櫛崎八幡大神

中殿に
豊功大明神

右殿に
大国主大神

とありますが、

 


これはそれぞれ、

左殿に
応神天皇

中殿に
毛利家代々当主

右殿に
武内宿祢
 

を祀っているようです。

本殿の左には、

串崎稲荷があり

 

 

本殿右の倉には、

武内宿禰の肖像が

掲げられているのも

 

そうした意味が

あるのでしょう。


 

これとおなじ絵が、

忌宮神社の宝物殿にも

ありました。

 

 

説明書きには、

このようなことが

載っていました。

 

 

日本書紀によると、

神功皇后

豊浦宮へ着いたさい、

 

海中より

如意宝珠(にょいほうじゅ)

得たといいます。

 

一説にはこれが、

山幸彦(やまさちひこ)

海神(わだつみ)から

授かったという

 

潮満珠(しおみつたま)

潮干珠(しおひるたま)

だったといいます。

 

 

古事記では、

その珠をつかって、

兄・海幸彦(うみさちひこ)を

こらしめたといいますが、

 

ホツマツタヱでは、

日吉(ひよし)大社で祀られる

大山咋神(ヤマクイ)

叱責していました。

 

 

その珠が、

その後どうなったのか、

記紀には書かれていませんでしたが、

 

ここ下関には、

山幸彦が

潮満珠・潮干珠を
埋めた場所というが

残っているというのでした。

 

 

それが、

豊功神社の

沖合に浮かぶ

満珠島(まんじゅしま)と
干珠島(かんじゅしま)です。

 

 

あの島に、

山幸彦は珠を埋めた

というのです。

 

また別の伝説では、
神功皇后は
豊浦宮(とゆらのみや)

着いたとき

龍神から
潮満珠・潮干珠を
授かったともいうようです。

 

三韓征伐のおり、

こうして得た珠を、

武内宿禰がつかって、

敵陣を苦しめたのでしょう。

 

その姿はどこか、

山幸彦につかえた

ヤマクイとも重なります。

 

 

記紀には、

 

三韓遠征のとき

大波がおこって、

敵陣をのみこみ、

戦わずして勝った

 

というようなことが

書かれていますが、

 

それもこの

珠の力だったのかもしれません。

 

 

三韓遠征から凱旋すると、

神功皇后はこの珠を

海に還したといいます。

 

すると、

珠から島が産まれ、

満珠島・干珠島になった

という伝説もあるといいます。

 

いまでは

日の出の名所として

親しまれているようです。

 


手前が干珠島で、

奥が満珠島だといいますが、

諸説あるようです。

 



この2島は、
忌宮神社の

飛び地境内であり、

聖地として
上陸も禁止されています。

しかし、
壇ノ浦の戦いのさいは、

源義経ひきいる
源氏軍がこの島を
拠点にしていたそうです。

 



そんな由緒の

ある地ですから、

境内には
龍神を祀る

お社がありました。

 

その名も

龍神社です。

この社は、
櫛崎八幡宮が
まつられるよりも

はるか以前から
鎮座していたといいます。

 

社のまえには

狛犬ではなく、

龍が渦を巻いていました。

 

祠も石造りで

歴史を感じます。

 

左隣には、

お地蔵さまか

大日如来像のような

ものがあり、

 

右隣には、

船のプロペラが

くくりつけられていました。

 

ここでの龍は

海神さまですから、

船とも関わりがあるのでしょう。

 

 

また、

社の背には、

おおきな龍の絵が

掲げられていました。

 



由緒では、
珠は住吉大神から
授かったとされていました。

 



豊浦の海は、
竜宮界との
窓口だそうです。

遷座85年祭には、
龍神像が

出現したともいいます。



ここはまさに、
龍神に守られた、
島を遥拝するための場所
なのかもしれません。

この地にたったとき、
ぼくはようやく、

「穴戸の豊浦宮にきた」
という気分になりました、

 



吹きつける潮風もまた、
伊吹山(いぶきやま)

感じたような

浄化のための荒々しさ
というようでした。

ところで、
2島の位置関係は、

 


 

京丹後

浦嶋(うらしま)神社

沖合にあった、

冠(かんむり)島と

沓(くつ)島にも
似ています。

 

 

冠島と沓島は、

籠(この)神社

飛び地境内であり、


冠島は、

浦嶋太郎のモデルとなった、
浦嶋子(うらしまこ)がたずねた

竜宮城ともいいます。

龍神、海神、山幸彦が

またしても

神功皇后と結ばれていきます。

 

 

長門国の豊浦めぐり⑦ へ つづく

 

 

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