大和国の春日めぐり② ~山陵八幡神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

神功皇后陵といわれる
五社神(ごさし)古墳の南に、

山陵八幡(みささぎはちまん)神社が
あります。

 

小高い丘のうえにあり、

ここもまた

古墳なのではと思えるような

生気の豊かな場所でした。

 



ご祭神はもちろん、
神功皇后
(じんぐうこうごう)こと
気長足媛命
(おきながたらしひめ)です。

女帝であり、武人であり、

巫女である皇后さまですね。

ぼくはこの方とのご縁が

とても深いようです。

 

それはもう、

人生を導かれているくらい

深いご縁を感じています。

ぼくの神社めぐりの旅も、

神功皇后さまや

瀬織津姫(せおりつひめ)さまに

よるところが大きいです。



ところが、
古事記や日本書紀には、

まるで神功皇后が

皇室を乗っ取ったように

描かれています。

 



神功皇后の子である
応神(おうじん)天皇の
出生については、

さまざまな
議論があるといいます。

日本書紀には、

2月に夫・仲哀(ちゅうあい)天皇が亡くなり
10月に出兵し
12月に帰福して
応神天皇を産んだとあります。

仲哀天皇が亡くなってから
応神天皇が産まれるまで、
約10か月なので、
辻褄はあっているのですが、

一説には、
2年の空白があった
とも言われていて、

それで父親が
武内宿禰(たけうちのすくね)や、
新羅王、高句麗王という

話もあるようです。



さらに、
神功皇后が大和に戻る際、
難波津(なにわつ)沖で

立ち往生したのは、

腹違いの兄御子たち、
正当な皇位継承者たちに
入港をはばまれたからのようです。

そこで、
神戸まで引き返して
土地の豪族たちと組み、

 

再度、攻め入ったとも

考えられるようです。

それが、

廣田(ひろた)神社をはじめ

各神社の創建とも

繋がるのでしょう。

 


しかもその際、
応神天皇と武内宿禰は
同船せずに、

紀伊半島を

南から登る別ルートを
とらせています。

これは

初代・神武(じんむ)天皇の

東征をなぞっている

のだといいます。

そうして

無事に都にはいると、
腹違いの兄御子たちを
攻め滅ぼすのでした。


その徹底具合といえば、

京都・滋賀と追い詰めて

瀬田川(せたがわ)に
入水自殺した兄御子を、

遺体があがるまで

探させたほどです。
 

これでようやく安心したのか、
神功皇后は若き応神天皇に

歌とともに

神酒を傾けるのですが、

 

それには

応神天皇にかわって

武内宿禰が返歌をして

酒を飲んだようです。

 

ホツマツタヱにもあるように

「ささ」といって飲む神酒は

皇神の結婚儀礼でもあるので、

 

このふたりの関係が

ますます危ぶまれるのでした。

 

 

品陀和気命(ホンダワケ)というのが、

応神天皇の名です。

 

応神天皇は、

のちに

八幡(はちまん)大神として

祀られることから、

 

応神天皇を祀る神社を

八幡神社というようです。



しかし、

応神天皇と八幡神が

結びついたのは、

 

奈良から平安時代に

かけてだといいます。

 

どうやらここにも

秦(はた)氏の影が

あるようですなのです。

 

秦氏の祖とされる

弓月君(ゆづきのきみ)は

この応神天皇の時代に

日本に渡ったとされています。

 

そして

平安京の造営にも

秦氏は深く関わっていました。

 

さらに

八幡という言葉は、

もとは訓読みで

「やはた」と読まれていた

といいます。

 

そんな秦氏ですから、

古事記・日本書紀の編纂に

無関係であったはずは

ないかと思います。

 

 

もっといえば、
八幡信仰は
稲荷信仰に次いで
多いといいます。

 

稲荷と言えば

伏見稲荷(ふしみいなり)ですが、

ここも秦氏が関わる神社です。

つまり秦氏の影響力は、

いまでは日本全国の
神社に浸透しているとも

いえるようです。

 

そして

日ユ同祖論を覗けば
ヤハタとヤタウェや
古墳とマナの壺の類似性など、
多くの話があふれています。

 

ここ

山陵八幡人にも、

 

すぐ隣に

福松大神という

お稲荷さんがありました。

 

 

ここでいったん、

これらの情報から離れて

じぶんの感性に従って、
 

神功皇后さまを
愛をもって眺めてみます。

まず浮かぶのは、

鎧に身を固めた姿です。

これも

神話になぞらえば、

古事記の

誓約(うけい)で描かれる
武装した天照大御神であり

ホツマツタヱでいうところの
武装したワカヒメさまです。

戦乙女ともいうような、
嫋やかさと雄々しさ、
愛と峻厳とをあわせもった
イメージがあります。

 

また、

応神天皇を

神武天皇になぞらえたように

 

神功皇后を

神武天皇の母である

玉依姫(たまよりひめ)に

例えたのもわかります。

 

 

賀茂(かも)氏

玉依姫が皇母になったのと

 

息長(おきなが)氏

神功皇后が皇母になったのは、

 

たしかに

二重写しなのかもしれません。



だとしたらそこには、
皇室に君臨するという

政争や権力欲ではなく、

 

なにかしらの神意によって

動かされていた

とも思えてきます。

 

そしてその行動が、
この国や、この国の歴史を
救ったのではないかとさえ

思えます。

 

あらゆる史書は、

時代の都合によって

書き換えられていることを

前提に話さなければなりません。


だからこそぼくは、

神功皇后がのこした

事績の真意を

受け取りたいなと思っているのです。

 

 

大和国の春日めぐり③ へ つづく

 

 

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