大和国の春日めぐり③ ~日葉酢媛陵と山上八幡~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

神功皇后陵

(じんぐうこうごうりょう)から
南へくだると

古墳群へゆきあたります。



平城山丘陵

(ならやまきゅうりょう)には
佐紀盾列古墳群
(さきたてなみこふんぐん)
がひろがり

巨大な前方後円墳が
点在しています。



古の森がのこる

このあたりは、

散策も盛り上がります。

 

 

陵にはさまれた小道は

穏やかで心地がよいです。

 

 

堀の水は濁っていますが、

陽射しは透き通っていました。

さてでは、
第13代・成務(せいむ)天皇の

陵墓からゆきます。



佐紀石塚山古墳

(さきいしづかやまこふん)は

 

成務天皇陵の

狹城盾列池後陵

(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)に

治定されているようです。

 



成務天皇は、
日本武尊(やまとたけ)の
腹違いの兄弟です。

各地に
国造(くにつくり)や
県主(あがたぬし)を
置いた方であり、

また、
武人として名をはせていた
武内宿禰(たけうちのすくね)を
大臣として取りたてたといいます。

武内宿禰と、
成務天皇は、
生年月日が同じだったらしく、

武内宿禰は

寵愛を受けていたといいます。



さてさて、
成務天皇陵の東にある

日葉酢媛命(ひばすひめ)陵は、

 

佐紀陵山古墳

(さきみささぎやまこふん)とよばれ

 

狹木之寺間陵

(さきのてらまのみささぎ)に

治定されているといいます。

 

 

 

日葉酢媛は、
第11代・垂仁(すいにん)天皇の

皇后です。

記紀では

このおふたりが、

第12代・景行(けいこう)天皇と、

倭姫命(やまとひめ)

産まれます。


父親は京丹後
丹波道主(たんばみちぬし)

だそうです。



藤社(ふじこそ)神社

乙女(おとめ)神社でも

書きましたが、

 

丹波道主の娘たちは、

采女(うねめ)だったようです。



また、
皇族の薨去のさいは
側付きを生き埋めにするのが

しきたりだったようですが、

垂仁天皇は
それを廃止したといいます。

日葉酢媛の薨去のさいは、
野見宿祢(のみのすくね)ら

土師(はに)氏

 

埴輪(はにわ)を作らせて、

人の代わりに埋めたといいます。

 

つまり、

はじめて埴輪が使われた古墳が

ここだというのです。

 


しかしながら
この陵は、

江戸時代までは
神功皇后の陵だと
信じられていたそうです。

 



ですから、
日葉酢媛陵の南には、
八幡さんがありました。



山上八幡(やまがみはちまん)神社です。

氏子の崇敬が

厚い神社だそうで、

境内もすっきりと

美しかったです。



神功皇后にかけて、
豊臣秀吉も朝鮮出兵のまえに
来たといいます。

何より気になるのは、
拝殿にかざられた絵馬です。



カナサキ翁と、

その妻でしょうか?

 

 

天斑駒(あめのふちこま)

でしょうか?

ほかにも天井を詰め尽すまでの

キャンバスです。



 

さて、

御祭神はというと、

 

 

天照大御神(あまてらす)

誉田別命(こんだわけ)

天児屋根(あまのこやね)

だそうです。

 

皇神の

天照大神と、

 

八幡神の

誉田別命(応神天皇)と、

 

大和や藤原氏と

ゆかりの深い

天児屋根ですね。

 

春日明神ともいわれる

天児屋根については、

いづれ書いていこうと

思っています。

 

さてもうひとつ、

孝謙・称徳天皇陵に

行ってはいないですが

解説しておくと、

 

同じかたが

2度即位したので、

称え名もふたつあるそうです。

 

さらに国史上数少ない

女帝でもあります。

 

こうみるとこの古墳群も、

神功皇后や

その近辺に深く関わるようです。

 

 

大和国の春日めぐり④ へ つづく

 

 

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