山背国の北野① ~平野神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都・北野天満宮の
北西にある

平野(ひらの)神社です。



桜の名所として知られ、
境内には、
約60種類400本の桜が
植えられているそうです。



なかでも
魁桜(さきがけざくら)は
京都の開花を告げるといわれ、

3月には
咲き始めるといいます。



この地の桜は、
平安貴族にも愛されたそうで、

第65代・花山天皇は、
その短い在位期間中、
この地にお手植えしたといいます。

花山天皇といえば、
瀬織津姫に帰依した
とてもスピリットな方ですが、

その御陵も、
平野神社の北

ほど近くにあるようです。

 



現代の社領は
150メートル四方ですが、

当時は
1500メートル四方の
巨大神社であり、

現在の京都御所と

ほぼ同じ広さだったといいます。

のちの金閣寺領も
境内に含まれていた

といいますから、

もしかすると、
花山天皇の御稜も
境内にあったのかもしれません。



平野神社は、

伊勢神宮、
賀茂(上賀茂・下鴨)神社、
岩清水八幡宮、
松尾大社に次ぐ
名社だと言われていたそうです。

というのも
平安京への遷都の際、

大和の地から、
ともに遷座してきた
唯一の神社だといいます。



しかも遷座地は、
大内裏(だいだいり)という、
天皇家の御所の
すぐ近くだったといいます。

その由縁は、
平安京に遷都した
第50代・桓武天皇の
母親にあるようです。

その方は、
高野新笠(たかののにいがさ)

といい、

京都・八瀬の
祟導(すどう)神社で祀られていた、
早良親王(さわらしんのう)の
母親でもあります。

この高野新笠は、
百済(くだら)系渡来人である
和氏(やまとうじ)の

出身だといいます。



その美貌によって、
先代・光仁天皇の后となり、
高野の姓を賜ったそうです。

また、
渡来人氏族は身分が低く、


その子どもは
天皇になることはできない
と言われていたのですが、

政争の末に、
わが子を天皇に擁立し、
皇母となられたようです。

 



そこで、
高野新笠は祖神を
母子ともども祀ったといいます。

それが、
平野神社で祀られる、

今木皇大神

(いまきのすめおおかみ)
だといいます。

 



今木とは、
今来(いまき)のことであり、


かつて

新しく帰化した人のことを、
今来といったそうです。

ですから今木神は
百済の王ではないかとも
いわれているようです。



こうした経緯のため、

皇太子守護の
御利益があるともいわれ、

平野神社は例祭で、
皇太子より奉幣を受ける
特別な神社になったといいます。



平野神社の祭神は
4柱であり、
ほかには

久度大神(くどのおおかみ)
古開大神(ふるあきのおおかみ)
比売大神(ひめのおおかみ)

を祀っているといいます。



久度神は、
竈(かまど)神ともいわれ、

京都では台所を
お久度(くど)さんと呼ぶそうです。

宮中には、
3つの御竈(台所)があり、

平時の食事をつくる
庭火御竈(にわびのみかまど)

祭時の食事をつくる
忌火御竈(いみびのみかまど)

そして
健康と吉祥を司るのが
平野御竈(ひらののみかまど)

だといいます。

吉祥を司るというから、

占いでもするのでしょうか?

 

よくわかりませんが、

平野御竈は、
平野の4神が1体となって
竈を守っているといいます。

 

平野神社のほかに
久度神を祀るのは、


奈良の王寺町にある
久度神社のみだといいます。

その近くには、
高野新笠の父である
和乙継(やまとのおとつぐ)の
墓と比定される、

牧野(ばくや)古墳が

あるそうです。(諸説あり)



古開神も、
平野神社にしかいない神

だといいます。

かつては
久度神と同一であったとか、
渡来神であるとか

言われているようです。

 



そして、
比売神ですが

一説には、
高野新笠のことである
ともありました。

やはりこの
高野新笠という方、
とても興味深いです。

父親は、
和氏という渡来系ですが、

母親は、
土師真妹(はじのまいも)という
土師(はじ)氏だそうです。



土師氏とは、
古墳造営に関った氏族であり、
 

その祖神は、
相撲で有名な
野見宿禰(のみのすくね)
だといいます。

第11代・垂仁天皇が
古墳への生き埋めを
禁じたときのこと、

それならば、
人間の代わりに
埴輪を作って埋めようと
案を出したのが
野見宿禰だといいます。

そこで
出雲から土部を呼び寄せ
埴輪作りに当たらせたことから、

 

野見宿禰は、
「土師」の名を

賜ったといいます。



そしてこの
土師氏は、

やがて
大江(おおえ)氏、
菅原(すがわら)氏、
秋篠(あきしの)氏にも
繋がります。

菅原氏とは、
北野天満宮でも祀られる
菅原道真

(すがわらのみちざね)公の

氏族です。

また大江氏は、
京都西京区の
亀岡盆地へとつながる
山陰道のふもとに、

大枝(おおえ)神社という、
大江氏の氏神を

祀る神社があります。

ここには、
土師氏のつながりから、
 

高野新笠が、
幼少期を過ごしていたともいい、
 

高野新笠の御陵も
あるのでした。



氏族でいえば、


遷都当時から
「臣籍降下(しんせきこうか)」
という制度があり、


皇族が
源氏や平氏などの
姓を賜って臣下になる

ことが多々あったようです。

そうして

皇室ゆかりの氏族が、
平野神社を氏神として
尊崇していたといいます。



なにかと
とんでもない神格を
付与された神社ですが……
 

ここからは
ぼくの推量です。


平安京遷都以前、
山背国の葛野(かだの)群を
開拓していたのは、
秦(はた)氏でした。

おなじく、
京都盆地を開拓したと
神話に残る
オオヤマクイは、

松尾大社
秦氏によって

祀られていました。

そして
平安京の造営には、
秦氏がおおいに
関わっていたといいます。



さらに、
土師氏・大江氏が住まう
亀岡盆地との境には、

秦氏と出雲族による
蹴裂伝説が残っていました。

ここに
渡来系氏族とくれば、

この高野新笠が
秦氏であると考えるのも
なくはないことだと思います。

むしろこの今木神こそ
秦氏が祀っていた
祖先の神ではないかという
気さえしてきます。

となると、
カモ族同様に、

秦氏も
天皇家の血筋に、
色濃く関わっている
ということにもなりそうです。



むしろここから、
天皇家に関わって、
神道に根をおろし、

全国津々浦々に
稲荷神社を祀るようにした
ともいえるのかもしれません。

もちろん、
これはぼくの妄想です。



さらに

妄想を逞しくするならば、

平野神社で祀られる
4柱の神様は、

祓戸大神

(はらえどのおおかみ)にも
対応しそうです。

気吹戸主神(いぶきどぬし)
瀬織津比売神(せおりつひめ)
速開都比売神(はやあきつひめ)
速佐須良比売神(はやさすらひめ)
の4柱です。

イブキドに坐す
イブキドヌシ
今木(イマキ)神、

サクナダリにおちたぎつ
セオリツヒメ
久度(クナド)神、

潮のやほあいに坐す
ハヤアキツヒメが
古開(フルアキ)神、

根の国底の国に坐す
ハヤサスラヒメが
比売神、

という対応は、
考えすぎでしょうか?

 



それならば、
花山天皇が
桜を手植えしたり

陵がある意味も、


瀬織津姫に

繋がる気がしました。
 

 

山背国の北野② へ つづく

 

 

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