山背国の賀茂めぐり⑬ ~まとめ2・カモ考~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

古事記・日本書紀には、
賀茂建角身(たけつみ)や
賀茂別雷神(わけいかづち)は

出てこないといいます。

この方々が登場するのは、
山城国風土記

(やましろこくふどき)だそうです。

その系図は、

ホツマツタヱとも

違っていました。



風土記によると
賀茂建角身は、
神産巣日神(かみむすび)の
孫として生まれ、

日向の曾峰(そのたけ)に
降臨したといいます。

そうして
八咫烏(やたがらす)となって
初代・神武(じんむ)天皇を導き、

大和の葛城(かつらぎ)
たどり着いたそうです。



それから

北上して

山城国にいたり、

伊賀古夜比売

(いかこやひめ)を娶って、


玉櫛媛(たまくしひめ)を
産んだといいます。

この玉櫛媛の別名が
玉依姫(たまよりひめ)

なのだそうです。

その後、
玉櫛媛は鴨川の
丹塗り矢によって受胎し

賀茂別雷神を
産んだといいます。



さらに、
玉櫛姫は
都味歯八重事代主神

(つみはやえことしろぬし)に
見初められて、

媛蹈鞴五十鈴媛
(ひめたたらいすずひめ)を
産みます。

この五十鈴媛が、
神武天皇の妻となります。

すると、

記紀の系図はこうなります。

 



そして、

ホツマの系図が

こちらです。

 



賀茂氏が天皇家の

父方(神武天皇)にくるか

母方(五十鈴媛)にくるか

 

大きな違いだと

思います。

また記紀だと

父なし子を産むのは、

玉櫛媛ですから、

天皇家の人間とは

結ばれてはいません。

 

もしかすると、

天皇家に嫁ぐ女性は

物語上、

清い身体でなければならない

のかもしれません。

 

その体裁を

調えるために、

丹塗り矢や白矢の

伝説が生まれたのでしょうか?

 



ただ、

賀茂神社のどこをみても
「玉依姫」とあり、
 

「玉櫛媛」の表記は
なかったように思います。

感触としてですが、

賀茂神社の方々は

 

口にはしませんが

ホツマ側の系図を

信じているように思います。



ホツマツタヱによると、
玉依姫と
別雷神の御霊の子は

「ミケイリ」だといいます。

おそらくこれは、
記紀でいうところの
三毛入野命(みけいり)でしょう。

記紀では、
玉依姫とウガヤの

子にされており、

 

神武天皇の

兄となっています。

そして
記紀でもホツマでも、
神武東征に参加して、


和歌山県の

熊野市沖で
海中に没したといいます。



一説には、
生き延びて九州に至り、
高千穂(たかちほ)神社を

創建したともいいます。

高千穂神社の
二之御殿では
十社大明神として、

妻の鵜目姫(うのめひめ)と
八人の皇子とともに
祀られているのだそうです。



さて、

賀茂建角身の

変化ともいわれる
八咫烏(やたがらす)の登場は、
 

ミケイリやイナヰイなど

神武天皇の兄たちが

亡くなったすぐ後です。

まるで、
兄弟の死によって
召還されたように、

救いの手が現れます。

 


(行水する烏)

風土記の時系列だと、
神武天皇が
大和を治めたのちに、

八咫烏あらため
賀茂建角身が北上し、

賀茂の地(久我国)に
たどり着いたというようです。



これがホツマだと、

神武東征以前に
すでに京都は拓かれています。

このあたりが、
記紀の物語的に
不都合だったのかもしれません。

とはいえ、
風土記や記紀が
違うとも思いません。

とくに賀茂氏の

北上ルートなどは、
理に適っています。

神話や伝承は、
その裏に古代氏族を
うつしているのだと

ぼくは考えています。

聞いた話によれば

古代氏族は
血縁関係のみに
拠らないのだそうです。

他族の人間でも
帰化するように、
氏族の一員となれたようです。

 



そうすると、
ものごとはもっと
柔軟に考えられるの
かもしれません。

奈良の
葛城に暮らした、
アチスキタカヒコネ
下照オクラ姫は、

カモイトを結んで
カモと名乗ったといいます。

その末裔たちが、
木津川から
淀川、鴨川へと

北上して、

まずは
御蔭山(みかげやま)

至ったのでしょう。

そこを拠点に、
繁栄していったのでは
ないでしょうか?



かつて
高野川と鴨川は
もっと南側で合流していた
といいます。

鴨川と高野川に
はさまれた地は、
いまよりもはるかに
広大だったのかもしれません。

そしてその地を、
賀茂氏が治めたのでしょう。

 



ではなぜ
北上したのでしょうか?

おそらくそこには、
さきに京都を治めていた

秦(はた)氏との姻戚関係

あったように思います。

秦氏と賀茂氏の
族長同士のような、

それこそ、
タカヒコネ(国つ神)
オクラ姫(天つ神)の
婚姻のようなことがあり

京都の地に
賀茂が広がっていった
のではないでしょうか?



ホツマツタヱでは、
下鴨(しもがも)神社
ウガヤフキアワセズ、

上賀茂(かみがも)神社
ニニキネ(瓊瓊杵尊)
祀るといわれています。

ですが
それと当時に、

下鴨では
賀茂の御親である

賀茂建角身や

玉依姫を祀り、

上賀茂では
賀茂氏と秦氏の

あいの子である

通称・賀茂別雷を

祀ったのではないでしょうか?



鴨川の
上流と下流に位置する
この二社は、

京都盆地を
二分するような
境界線を描いています。

奈良に残った
カモ氏を鴨として、

京都に登った
カモ氏を賀茂とすれば

上賀茂・下鴨という
略称も
納得がいくかもしれません。

また、
鴨川デルタのように

 


合流する姿が
賀茂神社では
度々繰り返されましたが、



それは下鴨神社の
参道のように、



左側が
上賀茂神社や

貴船神社へつづく
 

正道であると
あらわしているのでは
ないでしょうか?

というのも、
貴船神社では、
水神・ミヅハメ

祀っていたといいます。

賀茂氏がたどったは

北上ルートは、


近畿圏を
縦につらぬく水のルートです。

 

もしかすると

賀茂氏は、

近畿圏の水を

守っていたのかもしれません。

 



そして秦氏は、
水に対して火であり、

谷に対して山であり、
大山咋神(ヤマクイ)

祀っていたのかもしれません。

神山(こうやま)のはなしで、
立砂(たてすな)の二つの山は

神山と西賀茂円峰では
ないかと書きましたが、

さらに拡大すれば、

それは
比叡山(ひえいざん)と

愛宕山(あたごやま)とも
なるのかもしれません。

そして
その山のあいだに、
谷の存在である
賀茂がいる、

鴨川が流れるのでは

ないでしょうか?

 



そしてここに、
出雲の存在が

からんできます。

愛宕山を越えた
亀岡(かめおか)には

元出雲(もといずも)の名がのこり
出雲氏が暮らしていたといいます。

出雲大神宮では
ミホツ姫が国常立尊(くにとこたち)の
磐座を護っていたといいます。

 

さらに
松尾(まつお)大社の秦氏とは、
蹴裂(けさき)伝説にもあるように

保津川・桂川で
繋がっています。

そのミホツ姫と

事代主クシヒコ夫婦の孫であり、
大物主コモリの子が、

イソヨリ姫といい、
賀茂建角身の妻と
なるのです。



幸神社(さいのかみやしろ)は、
出雲にゆかりのある
イソヨリ姫が

賀茂氏に嫁いだために、

河合神社の西に
出雲路(いづもぢ)の名が

残ったのではないでしょうか?



ところで、

二葉葵の神紋にもある

この三叉ですが



鴨川デルタや、
秦氏の三つ鳥居や、
ミケイリ(三毛入野)
という名もあるように、

賀茂、秦、出雲という

3大氏族の血縁が

すべて
合わさったという
ことではないでしょうか?


そんな思いを膨らませて、
賀茂めぐりの旅と

カモ考を愉しんでみました。


賀茂めぐり ~終~


参考:カモ考シリーズ

葛城めぐり⑤~鴨族とカモイト結ぶ~
山背国めぐり③~カモ考~
鞍馬・貴船めぐり⑨ ~豊玉姫と玉依姫~

☆賀茂めぐり全記事リスト☆
山背国の賀茂めぐり① ~河合神社~
山背国の賀茂めぐり② ~糺の森~
山背国の賀茂めぐり③ ~下鴨神社と御祖神~
山背国の賀茂めぐり④ ~三井と波爾~
山背国の賀茂めぐり⑤ ~上賀茂神社と別雷神~
山背国の賀茂めぐり⑥ ~上賀茂神社と二葉姫~
山背国の賀茂めぐり⑦ ~上賀茂神社と摂末社・境内編~
山背国の賀茂めぐり⑧ ~上賀茂神社と摂末社・境外編~
山背国の賀茂めぐり⑨ ~神山と立砂と貴船と鴨川~
山背国の賀茂めぐり⑩ ~神紋・二葉葵~
山背国の賀茂めぐり⑪ ~幸神社と出雲~
山背国の賀茂めぐり⑫ ~まとめ1~
山背国の賀茂めぐり⑬ ~まとめ2・カモ考~

 

 

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