山背国の賀茂めぐり⑤ ~上賀茂神社と別雷神~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

上賀茂(かみがも)神社の
名で親しまれている、

山背(やましろ)国

一の宮の

賀茂別雷(かもわけいかづち)神社
です。



下鴨(しもがも)神社
おなじく、
山背国一の宮だといいます。

おそらく
賀茂神社という

くくりのなかで

上社と下社という
ことでしょう。

 



こちらも
世界遺産に
登録されていました。

境内はひろく、
こどもたちの
憩いの場にもなっていました。

 

 

かつての社領は

貴船(きふね)神社あたりまである

広大なものだったといいます。

 

それが、

豊臣秀吉の太閤検地で

縮小されたといいます。

 



公園のような

参道をすすむと、

二の鳥居です。



神域に入って
まず目につくのは、
立砂(たてすな)でしょう。



これは祭神である
賀茂別雷神(かもわけいかづち)が
降臨したという
 

神山(こうやま)を
かたどっているといいます。

 

少しばかり遠い

神奈備(かんなび)の山を

再現しているのでしょうか。

 

この白砂には、

祓い清めの効果が

あるといいます。
 

なぜ

2つあるのかというと、
陰陽思想による、
陰と陽の一対なのだそうです。

立砂の頂上には、
松の葉が、
 

右に2本(陰数・雌松)、
左に3本(陽数・雄松)

刺さっているそうです。



とはいえ、
ひとつの山を
陰陽だからといって

ふたつにわけたとは、
ちょっと違和感があります。

なにかほかに

理由があるのでしょう。

また

上賀茂神社の立砂が、

盛り塩の形の

発祥だともいいます。



境内には
せせらぎが流れており、

東側を流れる
御物忌川(おものいみがわ)では

神事につかう祭器を清め、

西側を流れる
御手洗川(みたらしがわ)では

人を清めたといいます。

この2本の川は、
手水のあたりで
合流します。


ですから

本殿はすっぽりと
水に囲まれているようです。





この合流は、
鴨川デルタ
そっくりですね。

合流地点からは
楢の小川(ならのおがわ)となり、

境内をでると
明神川(みょうじんがわ)と
いわれるようです。

この
合流地点にある
手水は地下水であり
飲用もできるようです。

 



もちろん

御手洗川と

いうくらいですから、
 

小川を手水に

利用することもできます。

 



では、

本殿へ向かいます。



楼門の

真向かいにあるのが

玉橋(たまばし)です。

 

こちらは、

通ることはできません。

 

隣の

片岡橋(かたおかばし)を

使うか、

 

 

手水すぐの末社、

橋本神社の

横を抜けるかです。

 

 

楼門をくぐると、

本殿前は少し狭いように

感じました。

 

しかも、

東側は工事中です。

 

 

本殿は

こじんまりとしていますが、

どれも国宝だといいます。

 

特別参拝に
参加すれば、

神社の由緒を

神官さんから聞き、
国宝の本殿にも
近づくことができるといいます。

 

 

一般参拝は、

賽銭箱までですが、

 

特別参拝は、

奥の玉砂利にまで

入れるというのです。

 

拝観料も

500円とお手頃なので、

参加させていただきました!

 


上賀茂神社は、
伊勢神宮とおなじく
式年遷宮(しきねんせんぐう)の

制度があるのですが、

伊勢のように
取り壊すわけではなく、
補修をする程度だそうです。

境内には
本殿(ほんでん)と、
借りの本殿という意味の
権殿(ごんでん)がならび建ち、

補修の際は、
権殿にご神体を
遷すのだといいます。

 



本殿と権殿、
さらに

祈祷用の廊下をあわせて

上空からのぞくと、

ちょうど神紋の
双葉葵を
あらわしているといいます。

 



この神紋は

反転させています。

似ているといえば、

似ているようです。
 

数百年も前から

これを意図的に

造っていたということでしょうか?


その他にも、
境内には
だれも参拝できない、
若宮神社や

杉尾社、
土師尾社があり、
興味をそそられました。



祭神の
賀茂別雷神は
玉依姫(たまよりひめ)

子だといいます。

玉依姫は、
鴨川に流れてきた
丹塗りの矢を
もちかえって寝ていると、
 

処女懐胎したという

伝説があります。

こうして
生まれた子が
賀茂別雷です。



別雷が元服したさい、
叔父の
賀茂建角身(タケツミ)
父の名を聞いたところ、

父親は、
乙訓(おとくに)国の
乙訓神社の
火雷神(ほのいかづち)だ!

と言ったといいます。
 

そうしてそのまま、

別雷は天に昇ったといいます。

その後、
息子に会いたがった
母・玉依姫によって、

別雷はふたたび
神山に降臨したのだそうです。



それによって、

賀茂氏でしかなかった

玉依姫の子が、

 

天津神を

名乗りはじめた、

というのも、

意味があることなのでしょう。

 

一説には、
上賀茂は
天津神を祀り、

下鴨は
国津神を祀る

のだといいます。



また一説によると、


下鴨神社が
平安京の鬼門を
護っていたのに対して、

上賀茂神社は
長岡京の鬼門を
護っていたといいます。

その
長岡京があったのが、
乙訓国だというのも
無関係では

ないのでしょう。



ホツマツタヱでは、
謎の父親は、
瓊瓊杵尊(ニニキネ)の
御霊だといいます。

名前は、
賀茂別雷ではなく、
三毛入野命(ミケイリ)と
いうようです。

母の玉依姫とともに、
御蔭(みかげ)神社のある
出雲路(いずもぢ)の
高野の森に隠れ住んだことから、

出雲の御子とも
いうようです。

 



このミケが、
狐の三毛
通じるのか、

食事の御饌(みけ)に
通じるのかも
気になりますね。

 

もし

狐につながれば、

伏見(ふしみ)稲荷

秦(はた)氏にも

つながりそうです。

 

そもそも、

日吉(ひよし)大社では、

秦氏の祖神という

大山咋神(ヤマクイ)との子、

ということになっています。

 



下鴨神社とおなじく、

ここでも
御生れ神事(みあれしんじ)
ならぬ
「御阿礼神事(みあれしんじ)」
がおこなわれるといいます。

読みは同じでも、
このふたつの祭りは
別々に行われるようです。

 

しかも

御阿礼神事は秘儀であり、

一般公開は

されていないといいます。



母・玉依姫は、
摂社の
片山御子(かたやまみこ)神社で
祀られていました。

上賀茂神社の
第一摂社であり、

 

またの名を

片岡社(かたおかのやしろ)
ともいうようです。

それは、

背後の片岡山に

由来するようです。

 



真向かいには、
磐座(いわくら)がありました。



これは
岩上(がんじょう)と
いうそうで、

神山とおなじく
賀茂氏の祭祀の

原点だといいます。

 



賀茂別雷は、
神山に降臨したというのに、


すこし離れた
この地に社を建てたのは、
この磐座があったからでしょうか。



ぼくとしては、
この磐座がある、
片岡山にもなにか

神聖なものを感じました。

 

 

磐座の上には、

参拝客が立ち入れない

祭祀場がありました。

 

どうやらここも、

神奈備山と

いうことでしょう。

 

その御山を

祀るような摂社が、

こちらの須波神社です。

 

 

ここでは、

坐摩(いかすり)神

5柱を祀っていました。

 



土壌を

クリーンアップする、

水の神と

火の神といったところ

でしょうか?

 

それがいったい、

なぜこんなところに

いらっしゃるのでしょう。

気になります。

上賀茂神社は

まだまだ続きます!

 

 

山背国の賀茂めぐり⑥ へ つづく

 

 

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