山背国の太秦めぐり⑥ ~月讀神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

松尾(まつお)大社
300メートル南に
月讀(つきよみ)神社が
あります。

 



松尾大社の
境外摂社ですが、

摂社となったのは
明治以降のことで、

それまでは
延喜式神名帳
(えんぎしきじんみょうちょう)
にものこる

名神大社
(みょうじんたいしゃ)
だったといいます。

松尾大社とならぶ
社格をもった、

由緒正しい神社
だったようですね。



天照大神の弟である
月読尊(つきよみ)を
祀るとありますが、

もとは
月読尊ではなく、
『月の神』を
祀っていたといいます。



日本書紀によると、

オケ・ヲケ兄弟として

知られている、第23代・
顕宗(けんぞう)天皇の世に

朝鮮半島へ
使者としておくった
阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に

月の神から
神託がくだったとあります。




わたしは
高皇産霊(たかみむすび)
末裔です。

わたしを祀ったならば
慶福が得られるでしょう


そこで
山背(やましろ)国の
葛野(かだの)郡
歌荒樔田(うたあらすだ)に、

 

月の神を祀ったのが
月讀神社のはじまり
だそうです。



気になるのは

そのとき、

壱岐県主(いきのがたぬし)の
祖先である
 

押見宿禰(おしみのすくね)に
祀らせたということです。

 



壱岐氏は、
天児屋根(あまのこやね)の子孫である
中臣烏賊津(なかとみのいかつ)
祖先だといいます。

中臣(なかとみ)氏といえば、
藤原(ふじわら)氏へと
つながる系譜であり、

中臣烏賊津は
神功皇后(じんぐうこうごう)
つかえた
4大臣のひとりです。



壱岐氏は
海人(あま)族ともいわれ、

伊岐や伊吉とも
表記されるといいますから、

「息(いき)」につながると
みることもできるでしょう。

一説には、
渡来人系の氏族とも
されているといいます。



葛野郡に
秦(はた)氏が入植したのは
5世紀後半とされていて

月讀神社の創建とも
ほぼ同時期のようです。



さらに

日本書紀には、

 

月の神につづいて
日の神にからも神託があり、

大和の橿原(かしはら)に

日の神を祀ったといいますが、


そのときには、
対馬下県直
(つしまのしもあがたのあたい)
に祀らせたといいます。

 



壱岐の
月の神と

対馬の
日の神が

都のある

大和(やまと)と

山背(やましろ)の地に
祀られていたことになります。



さらに、

701年の
大宝律令以降、

亀卜(きぼく)によって

吉凶の占いをした
卜部(うらべ)という役職が
できたのですが、

その卜部は、
壱岐氏と対馬氏と
伊豆(いず)氏から
選ばれていたといいます。



日本の吉凶は、ほぼ

壱岐・対馬の人びとに
占われていたようです。

いったい
なぜなのでしょう??

ちなみに、
伊豆の卜部は
吉田(よしだ)社
平野(ひらの)社
わかれていったといいます。

 



こうみていくと、
「日」と「月」、
そして国という「地」が
それぞれ

日神・天照大神
月神・月読尊
地神・素戔嗚尊(そさのを)とされ、

日本神話のなかに
秦氏がもちこんだ
三位一体(トリニティ)が
あらわされてきた
ようにも思えてきます。

そのために
天照大神の姉である
ワカヒメさま

700年ごろ編纂された
記紀で抹消されたのかも
しれませんね。

 

 

そんないわれのある

月讀神社ですから、

 

境内にも

興味深いものが

たくさんあります。

 



本殿左にある
御船(おふね)社は、


天鳥舟命(あめのとりふね)という
船の神さまを

祀っているといいます。

 

 

壱岐氏や海人族との

つながりからみれば、

 

航海の船を祀るのも
わかる気がします。

 

また太古は

川が交通路でしたから、

 

桂川から淀川へながれ

大阪湾へとゆきつく

主要道に船はかかせません。

 

 

さらに、5世紀後半に

葛野大堰(かどのおおい)を

築いて桂川流域の

治水をおこなった

 

秦氏との関係も

みえてきそうです。

 

ですから御船社は

松尾大社の

末社だといいます。

 



本殿右には、
聖徳太子(しょうとくたいし)
をまつる社があります。

月読尊を崇敬した
太子を祀るといいますが、

広隆寺(こうりゅうじ)
秦河勝(はたのかわかつ)との
関係からすれば、

縁故があって
祀っているのでしょう。

 



壱岐氏はこの地で、
秦氏とも交わってゆき、

 

一時は秦氏を

名乗っていたともいいます。

 

いまでは、

松室(まつむろ)氏となり
地名にもなっているようです。




こちらは、
神功皇后ゆかりの
月延石(つきのべいし)です。

第15代・
応神(おうじん)天皇

ご出産のときには、


この石を撫でて
安産になったという

伝説があるようです。

第34代・
舒明(じょめい)天皇の世に
筑紫から運ばれた
といわれていますが、

この舒明天皇は名を
息長足日広額天皇
(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
といい、

神功皇后の名である
息長帯姫(おきながたらしひめ)

にもあるように、


息長(おきなが)氏

に繋がりがあった

のかもしれません。

 



「壱岐(いき)」が
「伊岐(いき)」や
「息(いき)」につながるなら

伊夫伎(いぶき)」や
息長(おきなが)」にも
通じそうですね。

月延石も

子授けや安産の

神徳があるといい、


梅宮(うめのみや)大社

梅・産め・埋めとも

つながりそうですね。


山背国の太秦めぐり⑦ へ つづく

 

 

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