山背国の春日神④ ~吉田神社~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都御所(きょうとごしょ)
の東、

比叡山(ひえいざん)へ
つらなる東山の手前に
吉田山(よしだやま)があります。



ここはかつて
神楽岡(かぐらおか)
とよばれ、

一説には
事勝神(ことかつかみ・塩土翁?)と

賀茂御祖神(かもみおやかみ)
神楽を奏した場所

だといいます。

 



そんないわれのある霊地に、
春日(かすが)大社より
春日神を勧請したのが
吉田(よしだ)神社です。

 



春日大社が
平城京の東に
鎮座していたように

吉田神社も
平安京の東に
鎮座させたのでしょう。

 

さらにいえば、

藤原京のように
 

耳成山(みみなしやま)

畝傍山(うねびやま)

天香具山(あまのかぐやま)

 

の大和三山(やまとさんざん)

に対比させて、

 



船岡山(ふなおかやま)

双ヶ岡(ならびがおか)

神楽岡(かぐらおか)

 

を葛野三山(かだのさんざん)
としたかったようですね。



勧請したのは、
天児屋根命(アマノコヤネ)

血をひく藤原家の

中納言・
藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)
だといいます。



859年に創建されてからは、
藤原氏の氏神として
崇敬されたようです。



鎌倉時代になると
神祇官の家系である
卜部(うらべ)氏が神職となり、

これがのちに
吉田家となったようです。

鎌倉時代に
『徒然草(つれづれぐさ)』をかいた
吉田兼好(よしだけんこう)も


本来は

卜部兼好といい、
吉田神社の家系だといいます。



また室町時代には、
吉田兼倶(かねとも)が
吉田神道を創始して、

伊勢神道と

対立していったといいます。

ときは
応仁の乱(おうにんのらん)の

最中であり、

戦国時代へ向けて

荒れてゆく時代だったようです。

そんなときに、
後土御門(ごつちみかど)天皇からの
信頼を得て、

 

吉田神道は

権威を強めていったようです。



春日大社、藤原氏、

天皇家にささえられ

吉田神社は
二十二社(にじゅうにしゃ)に
名を連ねています。



祭神は
大原野(おおはらの)神社とおなじく

建御賀豆智命(たけみかづち)
伊波比主命(いわいぬし)
天之子八根命(あまのこやね)
比売神(ひめのかみ)

です。

これは春日大社の

武甕槌命
経津主命
天児屋根命
比売神

とおなじだといいます。

ですから境内には

若宮社(わかみやしゃ)

ありました。

 

 

ほかには、

鎮座する神楽岡をまつる

神楽岡社や、

 

 

勧請した中納言の

藤原山蔭を祀る

山蔭(やまかげ)神社、

 

 

吉田兼倶を祀る

神龍社(しんりゅうしゃ)などが

あるといいます。

 

この吉田兼倶は

吉田神社境内に

葬られたともいいます。

 

それから、

宗像(むなかた)三女神や

金山(かなやま)神・

菅原(すがわら)神を祀る

三社社、


 

産土神を祀る

今宮社(いまみやしゃ)、

 

 

田道間守命(たじまもり)

菓子の神としてまつる

菓子(かし)神社、

在原業平(ありわらのなりひら)が

墓所に定めたとされる

竹中稲荷(たけなかいなり)神社など

 

たくさんの末社が

あるといいます。

 

なかでももっとも

興味深いのは、
斎場所大元宮
(さいじょうしょだいげんぐう)です。

 



吉田神道の
理想を形にしたという社殿は

八角形の本殿に

六角の後房(こうぼう)を設けた

という不思議な造りに

なっていました。

 

 

その周囲には

小さい社がとりまいており、

全国津々浦々の
3,132座を奉祀している
といいます。



応仁の乱で

消失してしまった、

宮中の

八神殿(はっしんでん)

 

以後、
ここで祀られたといいます。



ここに参詣するだけで
全国の神社を

回ったことになるといいます。

 

なんて便利なんでしょう。

 

 

さて、

春日神をめぐる旅は

 

このまま次回の

大和をめぐる旅に

引き継がれます!

 

 

山背国の春日神 ~終~

 

 

☆山背国の春日神・全記事リスト☆

山背国の春日神① ~長岡天満宮~

山背国の春日神② ~大原野神社~

山背国の春日神③ ~蚕ノ社~

山背国の春日神④ ~吉田神社~

 

 

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