山背国の春日神① ~長岡天満宮~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

京都盆地の東、


桂川(かつらがわ)と
宇治川(うじがわ)と
木津川(きづがわ)が合流して

淀川(よどがわ)に

なるあたりに

乙訓郡(おとくにぐん)と
よばれた地があります。



第11代・
垂仁(すいにん)天皇の

后となった
日葉酢媛(ひばすひめ)の妹、

竹野媛(たかのひめ)は
 

姉たちとともに

天皇に嫁いだのですが、
 

あまりに醜いので
ひとりだけ

国に帰されたといいます。

 



竹野媛はその帰路、

恥ずかしさのあまり
輿から飛び出して

落ちて亡くなったそうです。

 

そこでこの地を
堕国(おちくに)と呼ぶようになり、

 

それが転じて
乙訓(おとくに)になった
といいます。



その地は後に、

奈良の
平城京(へいじょうきょう)から

京都の
平安京(へいあんきょう)へと
遷るまでの10年間、

長岡京(ながおかきょう)という
まぼろしの都が
あったそうです。

 



桂川と西山に
囲まれたこの地は

平城京の地理的な難を
克服したともいいます。

そんな

長岡京の跡地にあるのが、
長岡天満宮
(ながおかてんまんぐう)です。

 



菅原道真
(すがわらみちざね)公の
旧領地あり、

道真公は友人の、
在原業平
(ありわらのなりひら)とともに、


詩歌・管弦に興じた
景勝地だそうです。



ここをとても
愛していた道真公は

福岡の
大宰府(だざいふ)に
左遷される際に


我が魂長くこの地にとどまるべし


と名残惜しんで、
都を何度も
振り返ったといいます。


そこでここを、
『見返り天神』とも
いうようです。



ここにはそんな道真公の、
自作の木像と念持仏が
祀られているといいます。


詩歌に興じた地
というだけあって、

境内は
四季折々の景観が
愉しめるそうです。



1600年ごろに

造られたという
八条ヶ池(はちじょうがいけ)の

中島には、

大鳥居からつづく
参道がのびていますが、

そこは

キリシマツツジの名所といわれ

春には真紅の花で

埋め尽くされるといいます。




池には、
水中橋が架けられ、
六角舎という休憩所が
設けられていました。

 



ほとりには、
明治創業という料理旅館が

ならんでいるのがみえます。



池を越えて

境内にはいってゆくと

 

美しく整備された

緑の杜が

広がっていました。

 

その緑のなかには、

いたるところに歌碑が

かくれていました。

 


 

左遷された道真公が、

身の潔白を詠んだ歌と

いわれています。

 

この句は後年、

愛国歌としても

有名になったといい、

 

おなじ句が

別の場所にもありました。

 

 

おおくの人に

知られていた句なのでしょう。

 

道真公の句は

ほかにも

 

 

梅とおなじく

桜も愛したという

道真公ですが、

 

梅を詠んだ

「東風ふかば~」の句とは

姉妹のようですね。

 

梅は飛んだが

桜は飛ばずなどとも

言われたといいます。

 

 

こちらは

百人一首のひとつ

でもある句ですね。

 

宇多(うだ)天皇の

吉野(よしの)の

宮滝(みやたき)への

御幸に御伴したさい、

詠んだ句だそうです。

 

突然の御幸で、

幣(ぬさ)も用意できませんでしたが、

鮮やかな紅葉を幣として

神に捧げましょう

 

という句だといます。

 

色彩の鮮やかさと

精神の豊かさが

伝わってきます。

 

 

長岡天満宮の境内も

秋は紅葉が

とても美しいといいます。

 

 

さて、本殿が

みえてきました。

 

 

こちらは、

昭和16年に

平安神宮の本殿を

移築したものだといいます。

 

 

定期的に

修繕や改築もしているようで

真新しく見えます。

 

 

丑(うし)にゆかりのある

道真公らしく、

 

境内にはおおくの

牛の像があります。

 

 

なかでも、

気になったのが

仔牛の像です。

 

 

道真公が北山に

キノコ狩りにいったときのこと、

 

どこからともなく

子牛があらわれて、

道真公に懐いたといいます。

 

 

かねてより

牛に縁のある道真公は、

 

牛を連れ帰って

大切に育てたそうです。

 

しかし、

左遷が決まった夜、

子牛は逃げ出したのか

姿を消したといいます。

 

 

道真公はしかたなく

筑紫へとくだる

旅路につくのですが、

 

政敵の悪意は

道真公を

逃してくれませんでした。

 

 

刺客の刃が

道真公にひらめいた

まさにそのとき、

 

しげみから突然

荒れ狂った

白い牛が飛び出して、

 

刺客の腹を

角で突いて

撃退したといいます。

 

 

みればその牛は、

道真公が大切に育てた

あの牛だったといいます。

 

道真公は

涙ながらに感謝して

ともに筑紫までくだったといいます。

 

 

道真公の死後、

亡骸をのせて運んだのは

この牛だともいい、

 

この牛が

動かなくなったその地に、

 

太宰府天満宮という

道真公の霊廟を

建てたといいます。

 

 

丑の日に生まれ、

丑の日に亡くなった

という道真公に、

 

こんな

牛とのドラマがあったとは

知りませんでした。

 

 

そんな道真公が亡きあと、

道真公の作である

木彫り像と念持仏をもって

 

この地に祀ったが

菅家の分家である

中小路家(なかこうじけ)です。

 

以来、中小路家は

長岡天満宮の

神職になったといいます。

 

さてでは、

境内末社を

観てゆきますね。

 

 

末社は

6社あるといいます。

 

こちらの

長岡稲荷(ながおかいなり)では、

 

 

倉稲魂神(うかのみたま)

猿田彦命(さるたひこ)

大宮女神(おおみやめ)

祀っていました。

 

お稲荷さんで

猿田彦さまを祀るのは

すこし珍しいですね。

 

 

隣には、

松尾竜神と

菅竜神を祀る

龍神社がありました。

 

 

松尾(まつお)大社

菅原家を守る

龍神さまでしょうか??

 

さらに不思議なのは、

こちらの社は、

末社にも数えられないようです。

 

その隣には、

大山祇神(おおやまずみ)を祀る

山神社がありました。

 

こちらは

末社だといいます。

 

『錦景苑(きんけいえん)』という

紅葉庭園には、

 

和泉殿社(いずみでんしゃ)と
白太夫社(しらだゆうしゃ)が

ありました。

 

 

和泉殿社は、

道真公より6代あとの

菅原定義(さだよし)を

祀っているようです。

 

また白太夫社は、

道真公に同行し

最期を看取ったともいう

 

伊勢の神官の

渡会春彦(わたらいはるひこ)を

祀るといいます。

 

 

どちらも

道真公の関係者ですから

 

北野天満宮(きたのてんまんぐう)

太宰府天満宮でも

祀られていました。

 

さあここで、

今回の旅の本命である

春日(かすが)社です。

 

 

左側のお社が

春日社で、

 

武甕槌命(たけみかづち)

経津主命(ふつぬし)

天児屋根命(あまのこやね)

比売神(ひめがみ)

 

という春日明神

お祀りしているといいます。

 

右は八幡(はちまん)社

応神(おうじん)天皇

祀るそうです。

 

 

京都の地には、

春日神を祀る

重要な神社がいくつかあり

 

今回はそこをめぐる

旅でもあります。

 

平城京から

遷都された地であるからには、

 

やはり春日神とも

縁のふかい地で

あったのでしょう。

 

 

山背国の春日神② へ つづく

 

 

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☆山背国の春日神・全記事リスト☆

山背国の春日神① ~長岡天満宮~

山背国の春日神② ~大原野神社~

山背国の春日神③ ~蚕ノ社~

山背国の春日神④ ~吉田神社~