筑前国の太宰府めぐり② ~政庁跡と令和~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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さくっとまとめてます。

令和元年5月1日、
太宰府市の
政庁跡でおこなわれた

「令和」の人文字つくりに
参加してきました。

 

 

まだ朝はやきうちに、

1500人もの地元民が

集まって並んでいました。

 

ヘリコプターやドローンが

何台も飛び交う空を

ぼくははじめて見ました。

 

 

太宰府は
「令和」発祥の地と
いわれています。

 

ここには、

防衛と外交の窓口である

大宰府政庁がおかれ、

 

当時の長官であった
大伴旅人(おおとものたびと)が
ひらいた

梅花宴(うめはなのうたげ)

の様子が

日本最古の和歌集である

万葉集にのこっており


初春の令月にして
きよく風和(やわ)らぎ
梅は鏡前の粉をひらき
蘭は珮後(はいご)の香をかをらす


から、

「令和」を採ったといいます。

 



初春のうつくしい月夜に
空はきよく
風もおだやかだ

梅はまるで
鏡前で白粉する女性のような
花を咲かせ

蘭はまるで
高貴な人の香水のような
薫りをただよわせている

 

見事な情景描写ですね。

これは歌ではなく、

序文だといいます。

 

ところが、

すこし出遅れたぼくは、

「文字」ではなく、

 

周囲の

「梅の花」の花弁に

選ばれました。



政庁跡といっても、

公園のようになっていて、

 

邸の柱を建てたという

敷石のレプリカが

並んでいるくらいです。

 

ひらけた場所ですから

空撮にはもってこいでしょう。

 

地元ではここを

政庁跡ではなく

都府楼跡(とふろうあと)と

いいます。

 

それは「政庁」の唐名が

都督府(ととくふ)だった

ところからきているようです。

 

 

平城京や平安京のように

碁盤の目のような

街造りがされていて、

 

いまでも

政庁跡から南には、

朱雀大路(すざくおうじ)が

伸びています。


 

令和の由来となった、

梅花宴ですが、

大伴旅人が
梅花宴をひらいた
邸宅跡というのが、

政庁跡の北西にある
坂本八幡宮(さかもとはちまんぐう)

といわれています。

常駐の宮司も

社務所もない

小さな神社なのですが、

 

令和フィーバーとなり、

この5月1日から

御朱印はじめたといいます。





大伴旅人というかたは、
665年生まれの
731年没といいますから、

激動の時代を生きたかた
のようですね。

武人として
隼人(はやと)鎮圧をおこなったり

大臣として
国政を預かったり、

歌人としても
おおくの歌を残しています。

 



大宰府の長官になったのは、
60歳ごろといいます。

左遷人事とはいうものの、
都では政争がつづいており、

高官が

のきなみ亡くなってから


大納言として

帰京したといいます。



大伴旅人はここで、
山上憶良(やまのうえのおくら)とも
親交があったといいます。

山上憶良も、
貴族であり歌人でもある方で、

遣唐使として
唐にわたり学問も修めたようです。

のちに筑前の国司として
大宰府にいたのだといいます。

吉松宮にほど近い
歴史スポーツ公園には
そんな彼らの歌碑が

たくさんあります。



どうやらぼくにとって

和歌はとても

身近なものだったようです。

 

さて、

あまりに人がおおくて

坂本八幡宮への

参拝はかないませんでしたが、

 

大伴旅人の邸宅跡は、

ほかにも候補地があり、

 

坂本八幡宮の可能性は

低いといいます。

政庁のなかにある、

東側の邸に住んでいたとか

 

菅公にゆかりのある

榎社(えのきしゃ)ちかくに

住んでいたともいいます。
 

 

それではつぎは、

榎社へと参ります。

 

 

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