筑前国の太宰府めぐり⑪ ~まとめ~ | NAVI彦 ~つつがなき神さまめぐり~

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神社めぐりをしています。
その土地ならではのお話も、
さくっとまとめてます。

吉松宮(よしまつぐう)
水城(みずき)の堤防に
ついて書きましたが、



これは海外勢力からの

防衛のため

664年に築かれた土塁だと

言われています。


防衛拠点としては
ほかにも、

四王寺山(しおうじやま)に
大野城(おおののき)、

基山(きやま)に
基肄城(きいのき)、

宮地岳(みやじだけ)に
阿志岐山城(あしき)が
あったようです。



こうしてみると、
遠の朝廷(とおのみかど)と
うたわれた

大宰府(だざいふ)

四方から守る
布陣だったようです。



ところで、
太宰府より西へ
10キロほどゆくと

那珂川(なかがわ)という
市があります。

そこには、
真鍋大覚(まなべだいかく)という
九州大学の助教授がのこした、

『儺の國の星』
(なのくにのほし)

『儺の國の星 拾遺』
(なのくにのほし しゅうい)

という摩訶不思議な
歴史書があるといいます。



その本によると、
水城の堤防は
灌漑用の貯水池として

西暦500年ごろには

すでに築かれていた

というのです。

巨大なダムのように、

堤防の南(太宰府側)に

水が蓄えられており、


「中大江(なかのおおえ)」
とよばれていたそうです。

これが後年、
天智(てんじ)天皇の諱である

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

にもなったというのです。

 



また、

水城を造るよう命じたという

天智天皇は、

 

『儺の國の星』によると、

博多湾から有明海まで
疎水式に船を通す湖に
切り替える大工事を
行ったといいます。

というのも、
太古のむかしは
海面がもっと高く、

玄海灘と有明海は
海で繋がっていたそうです。



右側を
右佐島(うさのしま)

左側を
左佐島(ささのしま)と
呼んでおり、

この右佐島が
宇佐(うさ)の語源

だともいいます。



そしてこの2島が
もっとも接近するのが、

水城のあたり
だったというのです。

天智天皇は、
この太古の水路を
復活させるべく、

玄海灘と有明海をつなぐ
疎水を造ろうとしたというのです。

 

第38代・天智天皇といえば、

皇子のときより手腕を振るい、

 

大化の改新を成し遂げ、

「日本」という呼称や、

「天皇」という称号や、

「元号」を定めたといいます。

 

東アジアの情勢に目をむけ、

豪族中心の政治から、

天皇中心の政治へと変え、

 

現在の国家の基盤を

築いた方でもあります。

 



そんな方が、

九州に疎水を通すという

計画を立てていたとは、
ロマンがあります。

ふたつの海をつなぐには、
筑紫野市の

針摺(はりすり)あたり

海抜40メートルを
越えればいいのだそうです。

なんだか、
頑張ればいけそうな

気がしてきます。

 



この話を
信じたい理由のひとつには、

本が那珂川市から
出版されていることもあります。

那珂川の河口にある、
住吉(すみよし)神社では
イザナギが禊をして
住吉3神を産んだといい、


その上流である
那珂川市には、


現人(あらひと)神社という
住吉三神の総本宮が
あるのです。

 

さらに那珂川市には、

天智天皇をはじめ

おおくの天皇が

行宮を築いたといいます。




住吉といえば、
舟の一族であり、
海人族へと繋がります。

ホツマツタヱによると、

九州には、
この一族の末裔が
おおく暮らしていたようです。

 



さらに、
博多湾にある
志賀島(しかのしま)には

シガヒコという
船の一族がいて、
これが後の安曇氏へと
繋がっていったようです。

神話にもあるように、

海の一族は
天皇家を援ける立場として
九州に暮らしていたのでしょうか?

 



それだけではありません。

 

ランドマークのように

何度も登場する

四王寺山(しおうじやま)には、
 

初代・神武(じんむ)天皇が
東征の際、

4人の皇子を祀った

という言い伝えがあり、

4皇子が転化して
四王寺となったそうなのです。

 



また

神功(じんぐう)皇后が、
香椎宮(かしいのみや)から
松峽宮(まつおのみや)へ

遷られる途中、

大野城市のあたりで、
笠が飛び、
森の木にかかったといいます。

その聖蹟が
御笠の森(みかさのもり)として

いまでも残っていて、

そこから
御笠川(みかさがわ)という名が
ついたといいます。



ですから源流である
宝満山は
御笠山ともいうようです。

海や湖といえば、

太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)

に祀られる


菅原道真(すがわらみちざね)公
縁がふかいようです。

琵琶湖(びわこ)の北東にある
余呉湖(よごこ)には、

日本最古ともいわれる
羽衣伝説がのこり、

天女と人間の相の子が、
菅原是善(これよし)
養子として育てられ、

 

道真公になった

という話があるのです。



道真の母は
大伴(おおとも)氏

いわれていますが、

あまりはっきりとは
描かれていません。

さらに、
石穴(いしあな)稲荷には、

道真を案じた母の霊が
稲荷を勧請して鎮まった
という話もあるようです。

 



くわえて、
天開(てんかい)稲荷
ふもと広場にあった
植木のあとは、



渡辺星という家紋だとすると、
渡辺綱(わたなべのつな)にはじまる

渡辺氏の紋ということになります。

 

辺から船を渡したことから、

渡辺といわれるようになった

ともいいますから、


ここでも、
海と道真公が
繋がりそうですね。

 

とはいえ、

写真ではまわりにも

丸い植木がみえますから、

さて、どうでしょうか?



さらに、
太古の平野が
海に沈んでいたとして、

そのつぎの
重要拠点となるのは、

おそらく東西への分岐点の

近くに突き出た
この場所(赤丸)でしょう。



そこは、
高良山(こうらさん)とよばれ、

筑後国一宮である
高良(こうら)大社

鎮座しています。


そこは、

わたくしNAVI彦の
父方の実家であり、


代々神職のご先祖さまが

奉職してきた場所でもあります。

そういうわけで、

次はふたたび、
高良大社へ伺います。

 

 

筑前国の太宰府めぐり ~終~

 

 

☆太宰府めぐり全記事リスト☆

筑前国の太宰府めぐり① ~吉松宮~
筑前国の太宰府めぐり② ~政庁跡と令和~
筑前国の太宰府めぐり③ ~榎社と道真公~
筑前国の太宰府めぐり④ ~観世音寺と日吉神社~
筑前国の太宰府めぐり⑤ ~太宰府天満宮・参道~
筑前国の太宰府めぐり⑥ ~太宰府天満宮・本殿~
筑前国の太宰府めぐり⑦ ~太宰府天満宮・摂末社~
筑前国の太宰府めぐり⑧ ~天開稲荷社~
筑前国の太宰府めぐり⑨ ~鬼すべ堂と祖霊殿~
筑前国の太宰府めぐり⑩ ~石穴稲荷と磐座~
筑前国の太宰府めぐり⑪ ~まとめ~

 

 

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