ゴンザのことば 江戸時代の少年がつくったロシア語・日本語辞書をよむ

ゴンザのことば 江戸時代の少年がつくったロシア語・日本語辞書をよむ

1728年、船が難破して半年後にカムチャツカに漂着した11歳の少年ゴンザは、ペテルブルグで21歳でしぬ前に露日辞書をつくりました。それを20世紀に発見した日本の言語学者が、訳注をつけて日本で出版した不思議な辞書の、ひとつずつの項目をよんだ感想をブログにしました。

 子どもの教育のための書物であるはずなのに、「世界図絵」井ノ口淳三訳 平凡社 「112 節制」につぎのような記述がある。

 

「節制は食べ物と飲み物の限度を教示し、欲求を手綱のように抑えます。

そしてあまりに生じすぎないように、すべてのものをほどよくします。

大酒飲みは酔っ払って、ぐらつき、吐き戻し、けんかをします。

酩酊から好色が生じ、ここから女郎やお引きずり女の間にあって、

くちづけし、なでさわり、抱擁し、踊るようなみだらな生活が始まるのです。」

 

 下線の部分

 

       原文:E Crapula oritur Lascivia

   井ノ口淳三訳:酩酊から好色が生じ

       英訳:from Drunkenness proceedeth Lasciviousness

    英訳の和訳:泥酔からみだらなことにいたる

    ロシア語訳:от пiянства происходить похмелье

 ロシア語訳の和訳:泥酔からふつかよいが生じる

     ごんざ訳:екърочкара джераръ камьно итаго

          いぇくろちから ぢぇらる かみの いたご

ごんざ訳の現代語訳:泥酔から でる 頭の いたみ

 

リーダーズ英和辞典「lascivious みだらな、好色な;挑発的な。」

岩波ロシア語辞典 「похмелье 1宿酔、二日酔。2迎え酒を飲むこと。3酔い。」

 

 ラテン語の原文は

「泥酔すると好色になる」とかいてあるのに、

ボグダーノフ師匠のロシア語は

「泥酔するとふつかよいになる」というようになっていて、「ふつかよい」と「好色」がうまくつながらない。

 

 ごんざ訳はボグダーノフ師匠の「похмелье」をさらに具体的に説明して「泥酔すると『かみのいたご』(頭のいたみ)(『かみ』は「頭」いたご』は「いたみ・病気」)になる」とかいているので、これも「好色」にはうまくつながらない。

 

 ボグダーノフ師匠は、泥酔しても好色にはならず、ふつかよいになるタイプで、ごんざが「похмелье」(ふつかよい)に『かみのいたご』(頭のいたみ)という訳語をかいたということは、ごんざはのみすぎると頭がいたくなるタイプだったんだな。

 

 おもいだした!

 「世界図絵」の「72 居間と寝室」で、寝室に尿瓶があるという記述があって、原文は

「しびんは膀胱を軽くするのに役立ちます」なのに、ボグダーノフ師匠のロシア語訳は

「便座は胃袋を軽くするのに役立ちます」になっている。

 もしかすると、ボグダーノフ師匠は大便をするためではなく、ふつかよい対策のために寝室に「便座」(便器)をおいていたんじゃないだろうか。

 ボグダーノフ師匠のふつかよいは、ゲロをはく(胃袋を軽くする)タイプだ。

 キリル文字の母音字「ы」(y)は、現代日本語を表記する時にはふつうつかわれないが、ごんざの日本語キリル文字表記ではつかわれている。

 

 子音とのつながりでいうと、「цы」(tsy)が一番おおく(たとえば『фтоцы』(ftotsy)『ふとつぃ』(ひとつに))、二番目が「вы」(vy)(たとえば『яквытацъ』(yakvytats')『やくうぃたつ』(役にたつ))で、三番目が「сы」(sy)(たとえば『сыка』(syka)『すぃか』(すっぱい))だ。

 

 このうち「цы」(tsy)「つぃ」と「цу」(tsu)「つ」のかきかえについて、前にかいた。

 

 今回は「сы」(sy)「すぃ」と「су」(su)「す」とのかきかえ

 

「ロシア語」(ラテン文字転写) 「村山七郎訳」 『ごんざ訳』

 

「квашеный」(kvashenyi)    「酸っぱい」 『すぃか

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(су)(su)(す)とかいてから、(у)(u)にかさねて『ыкатъ』(ykat')『ぃか』とかいていた。

 

「насыщаю」(nasyshchayu)   「十分食わせる」『くわする

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(квасы)(kvasy)(くわすぃ)とかいてから、(ы)(y)にかさねて『уръ』(ur')『うる』とかいていた。

 

「возлюбленныи」(vozlyublennyi)「好いたる」 『すぃた

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(су)(su)(す)とかいてから、(у)(u)にかさねて『ытатъ』(ytat')『ぃた』とかいていた。

 

「дружелюбiе」(druzhelyubie)  「友誼」   『どしすぃたこ

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(су)(su)(す)とかいてから、(у)(u)にかさねて『ытакотъ』(ytakot')『ぃたこ』とかいていた。

 

 

「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」  『ごんざ訳』  村山七郎注

 

A「кавкасъ」(kavkas')    「カフカース」 『かふかすちゆ かわ』

                           カフカス(コーカサス)という川

 

B「кафтанъ」(kaftan')    「男性用長上衣」『ののこ』

  cf.  ヌノコ(布子)。麻布の袷(あわせ)。綿入れ。ノノコ 綿入れの着物。各地。TZH.

 

C「кадь」(kadi)       「桶」     『おけ

 

 ならんででてくる3つのみだし語。

 キリル文字のならび方の規則では、BはCよりもずっとうしろでなければならない。

 

 Bはごんざの別の著作の「世界図絵」の「61 仕立て屋」に「кавтанъ」(kavtan')というつづりででてきて、ごんざはおなじ『ののこ』という訳語をかいている。

 

 辞書の原稿も「кавтанъ」(kavtan')というつづりで、この位置に配列されていて、つづりだけを「в」(v)から「ф」(f)に修正したので、変な位置になってしまったのだとおもう。

 

 現代ロシア語では「кафтанъ」(kaftan')のつづりがただしい。

モンゴル語で

「カエル」は「мэлхий」(melkhii)

「カメ」は「яст мэлхий」(yast melkhii)(直訳:骨のあるカエル)

 

トルコ語で

「カエル」は「kurbaga」

「カメ」は「kaplumbaga」(直訳:おおわれたカエル)

 

ドイツ語で

「カエル」は「kroten」

「カメ」は「schildkroten」(直訳:盾をもつカエル)

 

オランダ語で

「カエル」は「padden」

「カメ」は「schildpadden」(直訳:盾をもつカエル)

 

 系統のちがういくつかのことばで「カメ」は「かたいカラをもつカエル」とよばれている。

 

 ごんざの「世界図絵」の「31 這う虫」に興味ぶかい記述がある。

 

ラテン語:「Cochlea, circumfert Testam.」

     「カタツムリは もってまわる 殻を」

 

ロシア語:「желвь обноситъ домъ свои」

     「カメは もってまわる 家 自分の

 

ごんざ訳:「вакда навос вага ево」

     「わくだ なおす わが いぇを」

     「カエルは はこぶ わが 家を」

 

 「Cochlea」というラテン語がわからなかったボグダーノフ師匠は、辞書をひいたら、ドイツ語で「Schneck」とかいてあって、これもわからない。

 しかたがないので、「殻をもってまわる」という記述から「カメ」だろうと推測して、「желвь」(zhelvi)(カメ)という訳語をかいたんじゃないだろうか。

 

 一方、ごんざの辞書に「желвь」(zhelvi)(カメ)はでてくるんだけど、

 

「желвь черепаха」(zhelvi cherepakha)「亀」『かめ』

「черепаха」(cherepakha)       「亀」『かめ』

 

 そえがきしてある「черепаха」(cherepakha)はわかったけど、「世界図絵」「31 這う虫」には「желвь」(zhelvi)だけしかでてこないから、わからなかったんじゃないだろうか。

 そして、「カエル」と「カメ」はおなじグループ、というドイツ語的な感覚を、なぜかごんざはもっていたのかもしれない。

 

 本物の「カメ」「Testudo」は、おなじ「世界図絵」の「32 両棲類」にでてきて、ボグダーノフ師匠は「черепаха」(cherepakha)という訳語をかいていて、ごんざも「かめ」という訳語をかいている。

 「世界図絵」井ノ口淳三訳 平凡社 「13 果樹」につぎのような記述がある。

 

「りんごはまるく、なしといちじくは細長いです。

さくらんぼは長い葉柄につながっています。」

 

 原文は 

A Malum est rotundum

リンゴ は まるい

B Pyrum, & Ficus funt oblonga

梨と いちじく は ながい

C Cerasum pendet longo Pediolo

サクランボは ぶらさがっている ながい 葉柄に

 

 ボグダーノフ師匠のロシア語訳は

A яблоко есть кругло

リンゴ は まるい

B груша и вишня ягода суть продолговаты

梨 と サクランボ・フルーツ は ながい

C вишня висит на долгомъ стебле

サクランボは つりさがっている ながい 柄に

 

 ごんざ訳は

A かきゃ ある まるか

B なし びわ ないもん ある ひょろながか

C びわ すただっちょる ながか くき

 

 ごんざ訳の現代日本語訳は

A 柿は まるい

B 梨と ビワ果物は ひょろながい

C ビワは たれさがっている ながい茎に

 

 A ロシア語の「リンゴ」が日本語で「柿」になってしまった。

 江戸時代の日本にリンゴはなかったから、これはしかたがない。

 ごんざも承知した上での意訳だろう。

 

 B ラテン語の「イチジク」がロシア語で「サクランボ」になって、日本語で「ビワ」になってしまった。

 さむいロシアのボグダーノフ師匠はイチジクをみたことがなかったから、サクランボに訳したんだろうか。

 ボグダーノフ師匠がイチジクをみたことがなかったとしても、知識としてはしっていたんじゃないだろうか。

 イチジクはロシア語で「инжир」(inzhir)(ヨーロッパ語の「Ficus」の系統とはちがう、たぶんペルシャ語・トルコ語起源)といって、聖書に数百か所でてくる。

 どうかんがえてもサクランボではないことはわかるはずだ。

 アダムとイブのイチジクの葉がサクラの葉だったら、前をかくすにはちいさすぎる。

 

 ボグダーノフ師匠は、もうひとつまちがいをおかしている。

 ラテン語原文の「イチジクはながい」というのは植物学的にただしいけれど、ロシア語の「サクランボはながい」というのはただしくない。サクランボは今も昔もまるい。

 

 一方、江戸時代の日本にサクランボはなかったから、ごんざはロシアでサクランボをたべたことがあったとしても、それを日本語でなんというかわからず、ビワと訳した。

 「продолговаты」(prodolgovaty)「ながい」とかいてあるから、柿やみかんではなく、ビワと訳したんだろうか。

 

岩波ロシア語辞典 「продолговатый 長めの、細長い。」

 

 ロシア語の「продолговатый」(prodolgovatyi)は、ただ「ながい」ことのようだけど、ごんざの「ひょろながい」というのは否定的な評価をふくんでいるように感じる。

 江戸時代の薩摩方言ではどうだったんだろう。

 ごんざは、ロシアではじめて洋梨をみた時、「なんだか変な形の梨だな」とおもったから「ひょろながい」とかいたのかもしれない。

 

 C の「Cerasum」はラテン語でサクランボのことだから、「вишня」(vishnya)というロシア語訳はただしい。

 

岩波ロシア語辞典 「вишня オウトウ;その実、さくらんぼ;そのジャム、その材。」

 

 「Cerasum」がサクランボであることを、ボグダーノフ師匠はわかっていたのだから、「Ficus」「イチジク」がサクランボでないことも、わかっていたはずなのに。

 

 Bの「вишня」(vishnya)「サクランボ」に「ビワ」とかいたから、Cの「вишня」(vishnya)にもごんざは「ビワ」とかかなければならない。

 そうすると、ビワが「ながい茎にたれさがっている」ことになってしまって、これは植物学的にただしくない。

 キリル文字の母音字「ы」(y)は、現代日本語を表記する時にはふつうつかわれない。

 一方、ごんざの日本語キリル文字表記ではつかわれている。

 

 このうち、「цы」(tsy)「つぃ」と「цу」(tsu)「つ」のかきかえについて前にかいた

 2件の追加がみつかった。

 

「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」『ごんざ訳』

 

「лютость」(lyutosti)     「残忍なこと」『くつぃこと』

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(цу)(tsu)(つ)とかいてから、(у)(u)にかさねて『ыкотъ』(ykot')『ぃこと』とかいていた。

 

「скуделныи сосудъ」(skudelnyi sosud')「粘土の容器」『つちのもん』

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(цы)(tsy)(つぃ)とかいてから、(ы)(y)にかさねて『у』(u)『う』とかいていた。

「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」『ごんざ訳』  「村山七郎注」

 

「кротю」(krotyu)      「柔和にする」『だくうぃなす』 「楽になす」

 

 ごんざが訳語を(мишконасъ)(mishkonas')(みしこなす)(みじかくする)から(даквiнасъ)(dakwinas')『だくうぃなす』「楽にする」にかきかえていたことを前にかいた。

 

「краткiй」(kratkii)    「短い」  『みしかか

「кроткiй」(krotkii)    「柔和な」 『だくな

 

 よくにた2つのことばをまちがえそうになって、気づいてかきかえたわけだ。

 

 ごんざの別の著作の「世界図絵」の「113 勇気」と「115 人間性」では、まちがいに気づけなかった。

 

「113 勇気」

「кроткоумныи」(krotkoumnyi)(柔和な心の)

 

『мишкакакокоронтъ』(mishkakakokoront')『みしかかこころん』(みじかい心の)

 

「115 人間性」

「кроткiи」(krotkii)(柔和な)

 

『мишкакатъ』(mishkakat')『みしかか』(みじかい)

 

岩波ロシア語辞典

「кроткий 柔和な、温良な、従順な、おとなしい。」

「ум 1知、知力、知能、知性、頭脳;才知、知恵。2良識、思慮分別、理性。」

「ロシア語」(ラテン文字転写)        「村山七郎訳」       『ごんざ訳』

 

A「удобновратныи」(udobnovratnyi)「向きを変えることが出来るところの」『かいぇちなる

B「удобнопременныи」(udobnopremennyi)「変化し得るところの」   『かいぇちなる

 

 ならんででてくる2語にごんざはおなじ訳語をかいている。

 

 ごんざはならんででてくる同根のことばに、おなじ訳語をかかないようにしているようだ。

 たとえば、指小辞のついた名詞とついてない名詞、再帰接辞のついた動詞とついてない動詞におなじ訳語はかかない。

 

 この2語は同根ではないので、おなじ訳語をかいてもかまわないんだろう。

 

Aは「удобно」(udobno)(容易に)+「вратныи」(vratnyi)(まわる)

Bは「удобно」(udobno)(容易に)+「пременныи」(premennyi)(とりかえる)

 

Aの『かいぇち』は、自動詞「かいぇる」(まわる)のテ形(現代日本語の「かえって」)、

Bの『かいぇち』は、他動詞「かゆる」(かえる)のテ形(現代日本語の「かえて」)で、

活用した形がおなじになってしまった、ということなんだろう。

「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」『ごんざ訳』「村山七郎注」

 

「блокъ」(blok')       「滑車、せみ」『しぇび』 せみ

 

 ごんざは滑車のことを『しぇび』とよんだ

 

岩波ロシア語辞典 「блок 滑車、プーリ、せみ。」

 

日本国語大辞典 

「せみ(蝉)②高所に物を引き上げるのに使われる小さい滑車。建築・土木・帆船などで用いられる。特に、和船では帆を上下する身縄をこれに通して作業を容易にする。大型船では身縄の元を船内のロクロで巻き、帆の上下以外に、碇・舵・伝馬船・荷物など重量物のあげおろしにも使う。蝉本(せみもと)。せび。」

 

「せび(蝉)(方言)②帆柱の上部にある滑車。帆を巻き上げるためのもの。長崎県西彼杵郡茂木、五島中通島。」

 

 第1義が虫の蝉で、第2義が滑車、ということになっていて(蝉)という漢字がかいてあるけど、本当に滑車の「せみ」は虫の「せみ」とおなじなんだろうか。

 

 柳田国男の『分類漁村語彙』国書刊行会には、つぎのような記述がある。

 

「シブ 帆柱の上にあって帆のあげ降しに用いる滑車をセミ又はセビとよび、その芯を雷除けの呪として桑に限ることは、九州をはじめかなり弘い。船唄に「黄金のせみ」などと歌われている。今は之をナンバという別の物の名を以てよんでいる地もある。雲州の海岸で、今のトロッコとかボロッコなどを用いる以前に行われた、シブ又はスブというものも亦このセミと同語に相違ない。辞書には蝉の樹を抱けるに似たればとあるが疑わしい。日向や肥後の木おろし唄に樹の梢をセビとかセメというのがある。このセミと関係ある語かも知れない。」

 

 滑車の「せみ」は、木(帆柱)の上の方にちょんとくっついている蝉のようなものではなく、つよい力でひっぱる縄の方向をかえる道具だから、別の語源だとおもう

「ロシア語」(ラテン文字転写)「村山七郎訳」       『ごんざ訳』

 

「изтощаю」(iztoshchayu) 「栄養不良で極端に衰弱する」『うつす』

                  村山七郎注 cf. ウツホ なかがからであること。 

                   ウツヲ 内部がうつろで中空な(もの)。

                   ウツヲナ脈 非常に衰え弱った人の脈拍 日葡。

 

 鹿児島県立図書館にあるコピーをみると、ごんざは(уцуръ)(utsur')(うつる)とかいてから、(р)(r)にかさねて『с』(s)をかいていた。

 (うつる)から『うつす』へのかきかえだ。

 

 みだし語を辞書でしらべると、

 

岩波ロシア語辞典 

「истощать1 → истощить

 истощать2 やせ衰える、やつれる。」

 

となっているので、おくられたところをみると、

 

「истощить 1衰弱させる、憔悴させる;弱くする、力をなくさせる。」

 

 つまり「истощать」には、おなじ形の他動詞と自動詞があるということだ。

 

 ごんざは自動詞の訳語から他動詞の訳語にかきかえたんだろう。

 ごんざがロシア語のかなりこまかいところまでしっていたことがわかる。