朝日新聞が、今更な記事をあげたらしい。
4日も経ってから取りあえげる俺もどうかとは思うが。(笑)

朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる

日清戦争直後の1895年秋、ソウルの王宮に押し入った日本人らによって朝鮮王朝の皇后閔妃(ミンビ)が殺害された事件で、新史料が見つかった。
日本政府高官の間で交わされた手紙。
日本では駐韓公使三浦梧楼の独断的犯行とされてきたが、三浦の赴任以前に、資金提供などの懐柔策から「強硬策」に転換することで高官の間で合意が形成されていたと示唆する内容だ。
歴史をめぐる日韓の大きな溝となってきた事件で、論議を呼びそうだ。

日清戦争の結果、朝鮮からは中国の影響が一掃された。
しかし、ロシアなどの三国干渉になすすべもなかった日本に対し、朝鮮王朝ではロシアを味方につけようという動きが出てきた。
閔妃はその代表的存在で、日本は駐韓公使の井上馨が中心となり懐柔しようとしていた。
朝鮮に300万円を貸与、さらに300万円贈与する計画もあったことが知られている。
日清戦争前の日本の国家予算は8千万円で、かなりの巨額だ。

手紙は韓国のドキュメンタリー映画監督で閔妃暗殺事件を調べていた鄭秀雄(チョン・スウン)さんが東京の国会図書館憲政資料室で探し出した。
事件前に交わされたもので12通。鄭さんの依頼で熊本大の小松裕教授(日本近代史)が読み解いた。

95年8月2日付で野村靖内相が井上公使に出した手紙は、反閔妃クーデターを企てたとして追放され日本に亡命した朴泳孝(パク・ヨンヒョ)内相に、次期駐韓公使に内定していた三浦梧楼陸軍中将と熊本国権党の代表が「ひそかに会った」様子を伝える。
日本からの資金は閔妃にも配分すると朴が伝えたが、「貰らはナイ」「コハイ事」と閔妃に拒否された様子も生々しく記されていた。

芳川顕正法相が陸奥宗光外相と山県有朋前陸相にあてた手紙は6月20日付。
一時帰国した井上公使と会った様子を伝える。「弥縫(びほう)策ハ断然放棄シ決行之方針ヲ採ラル」よう伊藤博文首相を説得してほしいと芳川が井上に依頼。
長州出身の井上と伊藤は一緒に英国留学した親しい関係。
この方針は芳川、陸奥、山県の3人の「合同の意見」だと芳川が説明すると、井上は了承したと書かれている。

王宮を襲う実行部隊には陸軍の600人などのほか「壮士」と呼ばれる民間人47人が参加した。
うち21人を熊本の関係者が占めていた。
その背景が浮かび上がる手紙もある。

奈良県知事などをつとめる官僚が井上に出したもので8月3日付。
熊本勢の多くがかかわっていた熊本国権党に強い影響力を持つ国民協会代表の品川弥二郎が抱えた膨大な借金を、井上が立て替え完済したことを知らせるもの。
「熊本国権党のメンバーは近年そろって井上に心服している」との内容だ。

井上の後任公使として三浦は9月1日に赴任。
外出もせずに読経に明け暮れていたという。
そして閔妃は10月8日に殺害される。
三浦は、国王の父が首謀者で実行犯は日本人を装った朝鮮人だと主張したが、欧米外交団の強い抗議で、日本政府は三浦を解任。さらに関係者を召喚し、広島で裁判にかけたが民間人は三浦を含め全員が証拠不十分で免訴、軍人も無罪となった。
一方、現地では朝鮮人3人が死刑になった。

手紙を読み解いた小松さんは「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され、実行犯として熊本国権党を手なずけるなど準備が進められた。三浦はそうしたことを承知のうえで赴任し実行、独断での犯行を装った。日清戦争に勝ち『文明国』の仲間入りを果たした日本は、この蛮行を隠すしかなかった」と考える。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授は「日清戦争に勝ったのに、ロシアが出てきて日本にとっては何のために戦争をしたのか分からない事態になっていた。閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。情勢変化を知らない閔妃が、日本が擁立した内相の朴を解任したことで、対立は決定的になる。そうした経緯を手紙は示す決定的証拠で、三浦の独断ではありえないことが明らかになった」と語った。

一方、この事件の研究を一昨年まとめた歴史家の秦郁彦さんは「戦前期を通じて内実に触れるのがタブーとされたため、真偽の見極めのつきにくい事件だ」としたうえで、今回の手紙について「日本政府が関与したというには証拠不足。強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。伊藤を説得する話にしても、穏健派の伊藤がどう反応したのかはわからない。聞き流したことも考えられる。わいろを断ったという点も、だから殺害しなくてはと判断したとは思えない」と話す。

(渡辺延志)
まず問題は、3年も前の話を何故今頃、と。(笑)

【参考】 http://dreamtale.ameblo.jp/dreamtale/day-20051006.html

新しい発見でもあったのかと思ったけど、秦郁彦のツッコミを見るに、3年前と全く状況変わってない模様。(笑)

取りあえず、手紙を読み解いたらしい小松裕熊本大学文学部教授のコメント、「政府高官の間で『決行の方針』が打ち出され」に関して、秦郁彦曰く、「強硬策=王妃の殺害を意味すると見るのは論理の飛躍だ。」。
3年前の俺曰く、「『決行の方針』について何を決行する方針なのか、「対象」を表す史料が全く無いようですが、また「余地がある」のでしょうか?」と突っ込んでいる件に関して取り上げておきたいと思います。

アジア歴史資料センターの『鉄道電信其他ニ関スル日韓条約締結方交渉一件/分割3(レファレンスコード:B07080194900)』の30画像目。
井上馨から外務大臣臨時代理の西園寺公望への、1895年(明治28年)7月1日付『機密受第533号』より。
長いし、恐らく今後ちゃんと取り上げる事になると思うので、必要部分だけ抜粋。
34画像目、左から5行目。

34画像目 (クリックで拡大)

要するに、第1案は300万円を返却せしめ、残余の一半を王室に与へ、国王并に王妃を心服せしめ且抱き込み
30画像目上部欄外右側によれば、これは井上から西園寺に手交され、7月1日に閣議に提出されたもののようです。

あれあれ?
6月20日付の手紙で、『決行の方針』が決まってたのでは?(笑)
王妃を心服させて抱き込む井上の案が、その10日後に閣議に出されてますが。

漢陽大(ソウル)の崔文衡(チェ・ムンヒョン)名誉教授が、「閔妃の懐柔には失敗したが、三国干渉で敵だったドイツを日本は味方につけることに成功し、懐柔策を続ける必要がなくなった。」なんて言っちゃってますが、どの時点で?と。(笑)

寧ろ。
37画像目の右から2行目。

37画像目 (クリックで拡大)

又、本官に於ても該案の結果は名実共に多少朝鮮の独立を損傷し、従って他国より批難の嫌ひも有之候に付、彼此斟酌の上再次鄙見申出置候義も有之候処、時態変更の今日となりては断然の処置を為すこと急要と認め、前陳の通り更に鄙見中述べたる次第に有之候。
要するに、暫定合同條款の履行等について「断然の処置」をすることが急務だ、と。
こっちや、あるいは先ほどの借款の返済方法の変更そのものの方が、弥縫策から決行の方針への転換としては妥当な気がしますがね。

まぁ、これも断定はできないワケですが。
とりあえず、「決行の方針」は閔妃暗殺じゃねーだろ、と。( ´H`)y-~~
ってことで、休日更新してみた。


今日はここまで。



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試しにアジア歴史資料センターで検索かけてみた。
検索結果、見づれぇ・・・。_| ̄|○
しかも、「JPEG、JPEG2000に関しては、今後対応していく予定になっております。」って・・・。

なめてんのか、ワレェ!

ってことで、ちょっと馴れるのに時間が掛かりそう。
おまけに再開しても画像リンクは暫く見れなそう・・・。
何か、アジア歴史資料センターの後ろに(アジ歴)とか付いてるし。
そういうの、どうでも良いから!(笑)

仕方ないので別の話。
今日は、以前NAVERにおいて韓国人ID:nominally氏が指摘していた、NAVER日本人にとっては有名な3人李周會(52)、尹錫禹(40)、朴銑(26)の裁判の話をしてみたいと思います。
当該裁判宣告書の記載された官報、陰暦1895年(開国504年)11月14日(新暦1895年(明治28年)12月28日)付は下の通り。

裁判宣告書2裁判宣告書1

まぁ、官報の年数自体が開国504年であるべきところを、開国500年に間違えているのは、ウリナラチラシ的伝統でしょうか。(笑)
では、その邦訳文を。

裁判宣言書

公州府永同郡 日本人雇
被告 朴銑
26歳

漢城府北部壮洞 前軍部協辨
被告 李周會
52歳

漢城府北部弼雲臺 親衛隊副尉
被告 尹錫禹
40歳


右被告たる朴銑、李周會、尹錫禹等に対する謀反事件検事の公訴に由り審理する処、被告朴銑は本来薙髮洋服にて日本人と仮称し行跡訝ヶ敷者なるが、開国504年8月20日暁の事変に被告は日本人と共に乱徒中に混同し光化門より突入せし時、洪啓薫が拒み逆賊と称せし故を以て剣にて其臂を撃ち、直に殿閣房屋に至り坤殿の御所に突進し手を以て髻を捽して軒端に曳至り剣にて胸を揕せし後、黒褖衣にて巻き石油を灌き焼火したりと、弑逆せし次第を手にて形容せしこと歴々たりと云へる金召史の告発に由り被告を拿訊せしに、被告は一向抵頼すれども、掖属の十目を掩ひ難く、証人が丁寧に断言する所なり。
まずは朴銑に関して。
朴銑は元々、散髪して洋服を着てI'm zapaneseしている行いの訝しい者だったが、閔妃殺害事件に関し朴銑は日本人と共に乱徒の中に紛れ込み光化門から突入した時、洪啓薫がそれを拒んで逆賊と言ったため、剣で洪啓薫の腕に切りつけ、直に坤殿の御所に突進してもとどりをつかんで軒端に引いてきて、剣で胸を刺した後黒褖衣で巻いて石油を注いで火を付けた、と。
髻を捽して軒端に曳至り剣にて胸を揕せし後、黒褖衣にて巻き石油を灌き焼火したりについては、対象が明記されていませんが、閔妃の事でしょうね。

で、この弑逆した次第を細部にわたって述べる金召史の告発によって朴銑を逮捕訊問したところ、本人はしらばっくれたが、周囲の目を隠すことはできずに証人が丁寧に断言した、と。
つまり、本人は否認しているのに目撃証言で罪に問われる形になるわけです。

又、被告李周會は本年8月20日暁の事変に、迎秋門より入り直に長安堂に抵り、王太子殿下と王太子妃殿下を保護し即時退出したりと申立つるも、被告が初度の口供中に、忽ち砲聲の闕内に起るを聞き、平服にて光化門に向ひたるに堅く閉ざしあるを以て転じて迎秋門より入りたるに、番兵寂然として許多の闔門にも攔阻する者全く無かりしにより、当日変乱の事故を探究すれば、暴徒の做事設謀は是の如く疏漏なりと云ひしこと理に近からざるの辞にして、再度の口供中に闕内に闖入する際辰居門に至りしに、適々武監10餘名乱兵等に逼逐せられ列砲中危に濱したるを見、高聲にて手を揮ひたるに、彼輩が即時に武監を釈るして他処に散走したるとあり、彼輩猖獗せる場合に当り被告は何の術ありて一揮手一号令にて能く凶徒を禁遏すること是の若く容易なるべきか其由を究むれば、凶徒と締結せし情跡掩ふべからず。
3回目の口供中、凶徒が被告の号令を甘受して解散せしこと事適々湊会して同心之跡を免れ難し。
此れ乃ち、自分が終命之秋なりと自服せり。
続いて3人の中では一番有名な李周會について。
李周會は、事件当日迎秋門から長安堂に到着し、王太子つまり純宗とその妻を保護して直ぐに退出したと言うが、李周會の第一回の供述では光化門は固く閉ざされていたので迎秋門から入ったが、番兵はひっそりとしており多くの闔門でも妨げる者が全く居なかった事から、暴徒の謀計はこのように疎漏であると言うのは、道理に合わない言葉だ、と。
また、再度の供述中では、闕内に闖入する時に辰居門に差しかかった時に、武監10名余りが乱兵に迫られて危機に瀕しているのを見て大声で手をはらうと、乱兵は他へ逃げていったとあり、乱兵が猛威をふるっている時に、何故李周會の一揮手一号令で簡単に凶徒に禁じて止めさせる事ができるのかといえば、李周會が凶徒と組んでいた形跡は隠すことができない。
3度目の供述では、凶徒が李周會の号令を受けて解散したとの事も、また凶徒と組んでる形跡が見られる。
ということで、自白したも同然だろ、と。

つうか、どの辺が「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述したんだろう?(笑)
長安堂に行くまでの間、妨げる者が誰も居ないっておかしいだろ?とか、暴徒が李周會の号令聞くのは李周會が暴徒と組んでた証拠とかいう話で絞首刑になるわけですが。

又被告尹錫禹は、本年8月20日午前4時に大隊長李斗璜と中隊長李範来、南萬里が夜演習せよとの命令を承け、所領の兵を率い東別宮より起行し太和宮を守りて春生門より入り、康寧殿の庭に到り兵丁を各処に派遣し、光化門、建春門を巡回して鹿山下に至り一屍体の焼燬せるを見て下士李萬成に詳聞せしに、宮女の屍体を焼きたりと云ひしが、翌21日に聞けば宮中の伝説に、当夜の事変に坤聖陛下は播遷せらるる暇なく又宮女の害を受けし者なければ、鹿山の烟の起りたる処が竟に是れ九疑山なりて、事故当夜大隊長禹範善、李斗璜に請ひ焼餘の遺骸の下体のみを掇取し、五雲閣西峰下に潜埋したりと云へり。
被告が当夜兵を率て入闕せしは、将令を承けたりとは雖ども、情跡疑ふ可きもの多きのみならず、鹿山下の屍体を被告は既に已に十分黙会し居りたるに、至重尊厳の地をも憚らず犯手擅動せしこと、自から大不敬の科を犯せしなり。
最後が尹錫禹。
尹錫禹は、演習の命令を受けて東別宮→太和宮→春生門→康寧殿に来て各所に兵を派遣し、光化門→建春門と巡回して鹿山まで来て、そこで一体の死体が焼棄てられているのを見るんですね。
で、下士の李萬成に詳しく聞くと、宮女の死体を焼いたと述べる。
しかし、翌21日に宮中の伝聞情報で、当夜の事変に際して閔妃は播遷する暇もなく、また宮女で被害を受けた者も無いため、鹿山の煙が上がったところが閔妃の葬られた場所であり、事件当夜禹範善や李斗璜に願って焼け残った遺体の下体だけを拾って五雲閣西峰下に密かに埋めた、と。
尹錫禹が兵を率いて入闕したのは命令を受けたからであるが、行動に疑うべき部分が多いだけでなく、鹿山の死体が誰か分かっているのに至重尊厳の地も憚らずに死体を動かして五雲閣西峰に隠蔽しようとしたことは、自然と大不敬の罪を犯している、と。

以上被告等の犯したる事実は、被告等の右陳供と金召史の告発并対質陳供、及李甲淳、金明濟、李敏宏の供辞を証とし、的確疑なし。
此を謀反條に照し、被告朴銑、李周會、尹錫禹を各絞罪に処す。

開国504年11月13日高等裁判所法庭にて。
高等裁判所検事臨時代理法部検事呉容黙立会宣告す。

高等裁判所裁判長 張博
豫備判事 鄭寅興
判事 洪鍾檍
書記 李徽善
以上3名の被告等の犯した事実は、被告等の供述と金召史の告発、対質陳供、李甲淳、金明濟、李敏宏の供述を証拠として疑いない。
これを謀反条に照らして、被告朴銑、李周會、尹錫禹の3名を絞首刑に処す、と。

ちなみに、高宗がロシア公使館に逃げ込んだ後、1896年(明治29年)4月25日に朴銑と尹錫禹は無罪とされ、補償金が家族に出されたり、官位が復官したりしているわけです。

ってことで、7月21日のエントリーでもつっこんだ、『東亜先覚志士記伝』とその写しである名越二荒之助先生の『日韓共鳴二千年史』の「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述した話については、李周會等の処刑日だけではなくその内容自体虚偽の可能性が高いでしょうな。


おしまい。



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タイトルについては、前回の話で既に終わっているわけですが、史料がまだ続いています。

前回は、小村のもとに金宏集が訪れ、大院君の退闕、王妃の復位、犯人の処分の希望を述べ、小村から趙義淵と権濚鎮の免官について突っ込まれた事。
その後、閣議で大院君の退闕が決定されたものの、それを伝える過程で大院君及び高宗を怒らせる。
そんな中、趙義淵と権濚鎮は実力行使に出て、大院君を強制的に退闕させようとして、小村に説得されたというところまででした。

ってことで、今日はその1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』の続きから。

然るに去24日、米公使館書記官アレン来館談話中、昨日国王は露公使に向ひ、大院君退闕の事、王妃復位の事、趙・権2人免官処分の事に付相談ありたりと語れり。
又、同日早朝兪吉濬来館。
善後始未として、政府は大院君の退闕、趙・権の免職、王妃の復位竝に犯罪人処分の4事を決行する計画なるを以て、明日其事を陛下より各国使臣に相談あらせらるる筈なりと申述候に付、其計画は至極結構なれども、万一にも仕損あらば再び騷擾を来すの恐あれば、充分の用心を為し、殊に訓練隊の動搖を予防するの手段を取り置くこと緊要なりと論じたることあり。
即ち、「アレン」と兪吉濬の談話互に相符合する処あるを以て、其趣を「アレン」に告げ、且つ右に関し予め各国使臣と打合せ置き度き事あるにつき、臨時会を開かるる様公使へ伝言相成度と申遣候。
12月24日早朝、兪吉濬が小村を訪れ、朝鮮政府が懸案事項である4つの問題を決行する計画であり、それについて明日各国の使臣に相談するはずだと述べ、これに対して小村はやりそこなったら又騒擾をきたすから、充分に注意して、特に訓練隊の動揺を防ぐ事が大事だと忠告。
また、同じ日にアレンも小村の元を訪れ、その話の中で高宗がロシア公使に大院君退闕の事、王妃復位の事、趙義淵と権濚鎮の免官について相談したという話が出てくる。

双方の談話に符合する処があるため、各国公使で一応打ち合わせしないと駄目なんじゃね?って事で、アメリカ公使に使臣会議の臨時会を開くように述べた、と。

つうか、高宗がウェベルに相談できるくらいの状況だったんだねぇ・・・。
もっと切迫してると思ったのに。(笑)

米公使は翌25日臨時会開会の通知を発し、同日一同米館に会集致候。
此会の目的は、事変の善後策に関し、国王より明日各国使臣へ諮詢せらるることありと聞き込みたれば、予め其答案を議定し置くにありて、其第一に出でたるは王妃復位の事なりしが、露使は此諮詢に対しては答案を要せずとの意見を提出せり。
何となれば、同官に於ては本来廃妃令を有効の者と認めずと云ふにあり。
依て本官は、各国使臣が廃妃令の効力を認むると否とに拘はらず、其国民に対し有効なること勿論なる可し。
果して然らば、国王が廃妃令を取消して王妃を復位せしめんとせらるるは、正しく吾等使臣の希望に副ふものにあらずや。
故に、若し国王より諮詢あらば、至当の事と存する旨答ふること当然なるべしと論じたる処、多少の異論ありたれども結局本官の意見に帰着致候。
次に議に上りしは、大院君退闕の事なりしが、之に就ては一般に極冷淡にして、若し格別の困難もなく実行するを得ば、寧ろ可ならんと云ふ位にて相止り候。
続て、趙・権等免職、犯人処分の事等に移りたる処、各国使臣等は現政府には到底斯る事を実行するの力なし。
従って、予め之に関する評議を為すは畢竟無益なりと云はぬ計にて、殆んど此問題は談議にもならざりしが、兎に角、明日国王より諮詢の件に関して、謁見前控所に於て更に何分の打合せを為す可しと約し、各使臣は尚ほも明日諮詢ありとの事に付半信半疑の中に相分れ候処、同日次■に至り、外部大臣より翌26日午後参内あり度き旨各館へ通知し来れり。
ということで、高宗の諮詢に対して答えを議定しておくために、翌日の12月25日に使臣会議の臨時会が開かれるわけです。

第一の議題は閔妃の復位について。
これに関してウェベルは、「いや、俺最初から廃妃令認めてないし、別に答案いらんだろ」と。
んー、かなり無茶な発言な気が・・・。(笑)

当然小村は、「いや、お前ぇが認めねぇからって、実際廃妃令出ちゃって有効になっちゃってるんだから、取り消す命令出して復位させんと駄目っしょ?」と正論を述べる。
当然、他の使臣も小村に同意。
勿論これは、日本が復位の運動をした事にはならないと思う。(笑)

次の議題は大院君の退闕。
皆、極めて冷淡。(笑)
「もし、特に困難もなく実行できるなら、良いんじゃね?」くらいで決定。

最後は、趙義淵と権濚鎮の免官及び犯人の処分について。
各国使臣は、「いや、今の朝鮮政府にゃ実行する力無いでしょ?」という事で、ほとんど談義にもならない状態。(笑)

そんな感じで大枠が決められ、翌日の謁見前の控え室で更に打ち合わせしましょうという事で解散。
みんな、翌日本当に謁見あるかどうか、疑ってたんですな。(笑)
すると、翌日の12月26日午後に参内するように各館に通知が来た、と。

依て26日には兼て打合せ置きたる通り、王城内に於て詳議の為め、孰れも指定の時間に先だち登城し一同相揃ひたる処、宮内省より暫時控へ呉れ度しとの挨拶ありたる後、外部大臣は一葉の書類を持来りて各使臣に示す。
即ち王妃復位の勅令なり。
之を検するに、副書したる大臣中に趙軍部の名見へざるのみならず、魚度支は署理軍部大臣として記名し居るを以て其理由を外部大臣に質したるに、趙・権の2氏は今回免官の沙汰になりたりと答へたり。
然るに本日は、善後策に付国王より諮詢あることと思ひ来りたるに、王妃復位の事と云ひ趙・権免官の事と云ひ、既に決行したる事の結果を披露ありたる迄なれば、一同案外の思ひを為したるやに見受候。
続て、王妃復位令に対する挨拶振りにつき更に評議したる処、米公使は「廃妃の事は兼てより陛下の御意に出でたることとは信ぜざりしが、此詔勅を以て其事実を確保したるを見るは満足の至りなりと」云ふ可しと説き、露公使は前日の議を固持して、廃妃令の有効・無効の論を提出す可しと述べたるにつき、本官は此詔勅に対する挨拶としては、廃妃令の陛下の意に出でたるや否、或は其効力の有無等に迄深く立入るを要せず。
王妃復位の事、御同然に兼て希望したる所なれば、単に「此通知に接し頗る満足の意を表す」と云ふを以て妥当と考ふると論じたるに、英・独・仏等の代表者は直に同意を表したれども、米・露公使等に於て多少議論ありて、或は各別に挨拶す可しとの説も出でたれども、結局折中説に説に帰着して、米公使は筆頭公使として各員に代り前記本官の提出に係る挨拶を為したる上、追て各別に意見あらば各自の意見として言上することに決したり。
引続き大院君の事に及び、露使は其決行を促す可しと提議したるも、熱心に賛成する者なかりしに付、本官は一時に諸般の大事を断行せしむるは、却て吾人の希望する安寧秩序の維持に有害ならざるやの懸念なきにあらざれば、此議は更に他日を待て提議する方便宜ならんと論じ、一同之れに同意を表候。
追て謁見の通知に接し、一同参内。
前記評議の手順に従ひ、米公使は一且総代として挨拶し終り、更に米露の両公使より各自の挨拶ありて一同引取り候。
ということで、12月26日にはみんな指定時間より早めに参内して、最後の打ち合わせ。
集まってみると、外部大臣の金允植が王妃復位の勅令を持ってきて、各国使臣に見せる。
するとそこには、軍部大臣趙義淵の名前が無く、度支部大臣の魚允中が署理軍部大臣として名前が載っている。
理由を来てみると、今回免官になった、と。
前日協議しないで正解。(笑)

兎も角、閔妃の復位も趙義淵と権濚鎮の免官も既に実施した事の報告であり、各国公使は朝鮮がそこまで出来るとは予想外であったため、皆「へぇ~」と。(笑)

で、閔妃の復位令に対して、どのような挨拶をするかでちょっともめる。
アメリカ公使シルは、廃妃は最初から高宗の意思で行ったものではないと信じるが、今回の詔勅でその事実を確保したのは満足の至りだと言おう、と。
ロシア公使ウェベルは、25日で自分が述べた件で、廃妃令が最初から無効なのか、それとも有効であって復位令になるのか、議論を提出するべきだとするんですね。
なんつうか、お前併合条約が最初から無効とか言ってる韓国人かよ。(笑)

一方小村は、詔勅に対する挨拶としては、高宗の意思とか判断とか効力とか深く立ち入らず、元々閔妃の復位は前から希望してた事なんだから、単に「この通知に接して、大変満足の意を表する」って言っておくのが妥当じゃね?と。
これに、イギリス・ドイツ・フランス等の代表者は同意したものの、結局折衷案で、シルが各国使臣を代表して小村案で挨拶し、その後個別意見を言う事に決まる。

続いて、残りの大院君の退闕に関しては、ウェベルが「決行を促そう!」と言ってみたものの、誰も熱心に賛成する者がおらず、「一気に全部やらせちゃうと、秩序安寧の維持に有害じゃねーか?」ということで、後日にまわそうという小村の意見に皆同意、と。
小村、結構主導権握ってますな・・・。

で、このように決まった手順に従って、シルが総代として挨拶し、その後シルとウェベルが各自挨拶して終了、と。
その反応については何も記載がないけど、どうだったんだろう?(笑)
まぁ、反応が良ければ、この2日後に春生門事件起きなかったかもね。

猶、訓練隊の動揺を防ぐの手段として、国王は同隊兵上等の無罪を宣詔し、併て護衛の労を慰謝せられ、将校へは謁見の上親しく御言葉を賜る等、孰れも深く其恩に感じたる由。
又、趙・権2人に至ては、素より政府の処置振り(此2人免官の事は、各国使臣が入闕したる後突然施行したりと云ふ)に対し、不快の感情を抱くは勿論なりと雖ども、善後始末の魂胆は兼て彼等の熟知したる所にして、已むを得ずんば身を退くるの内意さへありたる事とて、強て政府を怨みとも思はず、又た自分等は勢ひ現政府と興敗を共にせざる可からざる事情をも充分了解し居り。
加ふるに、政府は彼等を慰諭する事に汲々として、種々の手段を施し居るやに承知し居れば、差当り此辺よりは別段危害の懼れなかる可しと被存候。
斯くて、非常手段に依るにあらざれば到底解く可からずと信じたる難局の、極めて平穏無事に融解するに至りたるは、実に内外の幸福にして、這回事変の善後始末も先づ是れにて一段落を結び候事と存候。
而て、今般趙軍部の後任として任命せられたる李道宰は、往年金玉均事件の連累として一時流刑に処せられたるものなるも、昨年の変革後は撰ばれて全羅道監司となり、本年4月頃まで其職にありて好評高き人に有之候。
右要略は、不取敢電報を以て及具報置候得、共茲に重て及詳報候也。
ちなみに、小村が12月24日早朝に兪吉濬に忠告したように、訓練隊の動揺を防ぐために高宗は訓練隊兵上等の無罪を宣詔して、護衛の労をねぎらい、将校には謁見して直接対話する等の手段をとって懐柔。
訓練隊は、皆深く恩に感じたようだ、と。

また、免官が決まった趙義淵と権濚鎮は、勿論政府の突然の処置に不快だったものの、善後始末の魂胆は前から彼等も熟知しており、やむを得ない場合には身を引く内意もあったようで、強て政府を怨みとも思わず、また自分たちが現政府と興廃を共にしなければならない事情も承知しており、政府も彼等を慰撫することに汲々として様々な手段を施しているので、差し当たって安心だろう、と。

こうして、「到底兵力を用ひ他より助けて此難局を解剖せしむるの外、他に方便なき」と言われた難局は、極めて平穏無事に乗り切る事ができた事は内外の幸福であり、閔妃殺害事件の後処理もこれで一段落したということですな。

ちなみに、小村はすっかり忘れているもう一つの懸案事項。
犯罪人処分に関する件ですが、これまた日を改めて取り上げようと思っていますが、実はこの謁見のあった11月26日の深夜、李周會の逮捕が決行されるんですね。
で、死刑判決は7月19日のエントリーでも書いたとおり、1895年12月28日。

名越二荒之助先生の「日韓共鳴二千年史」によれば、李周會が「日本が我国のために尽してくれたことは数えきれない。このたび公使以下多数の志士が拘留せられた。朝鮮人として見るに忍びない」として閔妃暗殺の全責任を負い、自分が閔妃を殺害したと供述したそうです。
おまけに処刑されたのが、明治28年(1895年)10月19日だそうで・・・。
旧暦だと仮定しても、明治28年(1895年)12月5日にしかなりませんな。

実はこの辺の記述、昭和9年に『東亜先覚志士記伝』(葛生能久著/黒龍会編)の丸写しなわけで。
先生、内田良平とか黒龍会なんかを検証も無しに鵜呑みにするって、どうかと思いますよ?


(了)



「明成皇后」は井上馨が付けた?(一)


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さて、前回の続きの話。
一番ポイントになるのは、1895年11月18日の記事と述べました。
その元になっている史料が、1895年(明治28年)12月28日付『機密発第98号』となります。
本来であれば、事変前からの史料をずっと追っていくのが良いんでしょうが、そっちは追々。
途中で、状況説明の為に事変前の史料に基づいてチャチャを入れたりしますが、取りあえずは話半分で聞いておいて下さい。(笑)

今回の『機密発第98号』は、長くて且つ今回の件に関係した話は冒頭にしか出てこないんですが、一応分割しながら全部取り上げておきたいと思います。

10月8日の事変善後始末に関し詳報の件

這回事変の始末に付ては、井上大使御在韓中数回電報を以て及具申候通り、一方に於ては趙軍部・権警務等の勢力牽制するに難く、一方に於ては外国代表者の難詰避くるに道なく、殆んど進退■る場合に陥り、到底兵力を用ひ他より助けて此難局を解剖せしむるの外、他に方便なき迄に相迫り居候。
而して、井上大使御出立の後に至りても外国代表者の圧力は依然として強く、趙義淵派と金宏集派との軋轢愈々激しくして、何等事変の再発するの免機■次に迫りたるやに被考候処、金宏集は井上大使御出立の翌々日、則11月18日本官を来訪して曰く、井上大使は善後策に関し何等の訓誨をも与へられずして出立せられたるは、甚だ遺憾に存ずる処なり。
乍去、何等御申残しのこともなかりしやと相尋候に付、無しと答へたれば、更に本官の意見を求めたり。
仍て本官は、一己人の資格を以てするにあらざれば、意見を述ぶる能はずと云ひたるに対し、夫れこそ却て干渉の嫌なきを以て都合宜しと申述候。
於是本官は、先づ先方の意見を尋たるに、大院君を宮闕外に退かしむること、王妃を復位すること、関係者を処罰すること等を以てす。
本官は之に同意の旨を告げ、且つ趙・権2人免官の事を尋ねたるに、夫れは実行すること六ケ敷しと相答へ候。
然るに趙・権免官の事は、大院君の退闕、王妃の復位、犯人の処分と併せて善後策中最も緊要なる條件なるが故に、政府は最も急速に以上の諸件を断行せざる可からず。
而して、政府が自己の独立を以て進んで之を為すこと特に緊要なり。
何となれば、朝鮮政府にして若し今日迄の如く何等為す所なく荏苒時日を経過せしむる時は、遂には他国の干渉に依り其処置を為すことに立至るの恐れ充分あり。
萬一斯る場合に至らば、其何の点に迄関係の及ぶ可きやを予知すること能はざれば、勿論政府自体の存敗すら疑はる。
政府たるもの、宜しく今にして断乎たる処置を自から進んで施すにあらざれば、他日臍を噬むとも及ぶなきの悔あらんと只管彼れを刺■致置候。
然るに、其後政府の着手したる手段なりとて兪吉濬の語る処に依れば、金宏集及其一派は、大院君退闕の議を内閣に提出したる処、趙・権の2人も熱心に之を賛成したり。
而して此2人が此議を賛成したる底意は、這回事変の罪を大院君1人に帰して、自ら其責を免れんとするにありたりと云ふ。
1月13日のエントリーでは、趙義淵と権濚鎮は宮中に泊まり込んで警備しているとされていましたが、還宮前後の金鴻陸一派の更に緊迫した感じだったんでしょうね。
井上の言うことすら聞かないわけで。
井上の来訪を聞きつけた後、閣議で一切井上の干渉を謝絶するとまで決定してますからねぇ。

一方、外国使臣からも難詰されて逃れられないということで、朝鮮政府は兵力を使って他から助けて現状を打開しない限り、手のうちようがない状況になっちゃった、と。

ちなみに、難詰の内容は、主に閔妃の復位と訓練隊の解散について。
「兵力」が指すのは日本。
外国使臣団が、趙義淵と権濚鎮及び訓練隊が宮中に立て籠もり状態なのを、高宗の命の危機と思い、その打開のために日本の兵を出すしか方法が無い、と言ってくるんですね。
一方で趙義淵は、高宗がロシア公使館に逃げ込むのを恐れて、やはり日本兵を入宮させて欲しいと希望するわけです。
尤も、温和な手段を取りたいとしていずれも断るわけですが。
現在で言えば、北朝鮮に対する中国みたいなもんかな?
朝鮮側、言うこと聞かない所も同じですしね。(笑)

井上馨が出発した後でも、外国代表者の圧力は強く、趙義淵派と金宏集派の軋轢も激しくなって、再び何らかの事変が起きるのではないかと思い始めた時に、井上馨の出発の翌々日、つまり1895年(明治28年)11月18日に金宏集が小村を訪問するわけです。


こっからが、今回の本題。

「井上大使は善後策に関し何等の訓誨をも与へられずして出立せられたるは、甚だ遺憾に存ずる処なり。」
前回の年表での「井上が善後策について何も言ってくれずに帰ったのは遺憾だと、愚痴る」の部分ですね。(笑)
で、しかしながら井上が何か言い残していってないか小村に尋ねる。
小村は「無し」と。(笑)
そこで、金宏集は小村の考えを聞くわけですが、その前に金宏集の意見はどうなのよ?と。
これに対して金宏集は、大院君を宮闕外に退かせること、王妃を復位すること、関係者を処罰することの3つを上げたんですね。

さて。
名越二荒之助先生の「日韓共鳴二千年史」では、井上馨が大院君に対して、「死ねば皆仏になる。過去を水に流して王妃の菩提を弔って、民心の安定をはかること」を勧めたとされているが、これは何の史料に依拠しているのか不明。
事実大院君に言っていたとしても、趙義淵は井上の干渉謝絶であり、金宏集は「何等の訓誨をも与へられず」で、しかも小村にわざわざ閔妃を復位したいと述べるわけで、朝鮮政府の復位等の政策決定には影響を与えていないとするのが妥当でしょうね。

一方で、「日韓共鳴二千年史」で先の井上の話に続くのが、「しかし閔妃を復位させ、「明成皇后」の諡号を贈り、国葬を行なったのは、大韓帝国が誕生した後の明治三十年十一月のことでした。」なわけで、井上馨或いは日本人が復位させた、又は諡を贈ったとは書いていない。
以上から、巷間の「閔妃を皇后に復位させ明成と名付けたは井上馨」というのは、誤読なのか脚色しすぎかは分かりませんが、誤りということになります。
井上、もう帰っちゃってるしね。(笑)


で、小村は大院君を宮闕外に退かせること、王妃を復位すること、関係者を処罰することの3つに同意し、さらに趙義淵と権濚鎮の免官はどうすんの?と聞く。
金宏集は、「いや、それ無理。」と。(笑)
いや、無理って言ったって大院君の退闕、王妃の復位、犯人の処分とあわせて今一番緊要な案件だから、朝鮮政府は自ら至急これらを断行しないと、最後には他国が干渉してくる恐れが充分にあり、もしそうなったら、どこまで関係が及んでくるか分からず、政府の存廃も疑わしいと思うんだけど、後で後悔しないようにねと金宏集にネジを巻くんですね。

その後兪吉濬が語るところによれば、金宏集一派はまず大院君の退闕を内閣に提出し、これに対して趙義淵と権濚鎮も熱心に賛成。
何故かと言えば、今回の事件の罪を大院君だけのせいにして、自分らはその責任から免れるためだ、と。
さて、何の責任でしょうねぇ・・・。(笑)

偖内閣の議は大院君の退闕と一決したれども、其実行に臨んで頻る困難ありたりと聞く。
而て、今其事を予め大院君に知らしめずして、直に国王に奏上するは却て目的を達するに便ならずとの意を以て、先づ金外部大臣をして大院君に内話せしむることとなりたるに、該大臣は何故か自ら面談することを避け、李宮内大臣を経て内閣の決議と其事由とを大院君に通じたるに、李大臣の言語中「大院君を退闕せしめて厳重に監禁すべしと云々」とありたるを聞き、君の激憤一方ならず、直に其事を国王に告げたるに、国王も亦其不敬を怒れりと。
然るに、趙・権の2人は兼て罪を大院君に帰して、自ら其地位を保たんことに熱中し、已むを得ずば強制手段に依るも大院君の退闕を実行すべしとの底意にて、之に先だつ両3日前、窃かに該君の護衛巡査20名なるを増して40名と為したることあり。
当時、大院君は素より趙・権の意中を知らざることとて唯不審を生じ、国王に其越を告げたる迄なりしが、今此閣議の次第を伝へ聞き、国王も共に大に憤怒したりと沙汰せらるるに至れり。
其結果たる、大院君は趙・権2人を処分せざれば其身危ふしと思惟し、趙・権2人は大院君を仰へざれば如何なる禍の身に及ばんも知る可からずとて、雙方互に相疑ひ相懼るるの姿となりたるが、趙・権2人は其実力を恃んで遂に強制手段に出でんとする趣を聞込みたるを以て、本官は今日に於て斯る所行の最も不可なる所以を懇諭し、偏に無事を計り居たり。
金宏集一派が内閣に提出して、趙義淵と権濚鎮が事件の罪を大院君だけのせいにしようとして、大院君退闕に賛成してるわけですから、もう決定なわけですが、当然実行するのはかなり難しいわけで。
まぁ、とりあえず大院君に知らせずに直接高宗に奏上しちゃ、却って反発くらうだろうってことで、まずは大院君に話を通すことに。
その中で、「大院君を退闕させて厳重に監禁すべし云々」という言葉に激怒。
壬午軍乱で、清に連行された時の事でも思い出したんだろうか。(笑)

この話を高宗に言うと、高宗も不敬だと怒る。
高宗に奏上する前に大院君のとこに話に行ってますからねぇ。
完全に裏目ってますな。
まぁ、所詮高宗なので、退闕を先に話してたとしても、大院君に同意してしまう可能性はありますが。(笑)

で、以前から趙義淵と権濚鎮は、罪を大院君に擦り付けて自分等がその地位に立とうと熱中していたわけですが、今回は実力行使でも退闕させようと画策。
一方で大院君は、趙義淵と権濚鎮を処分しないと自分の身が危ないと考えるようになり、お互いに疑心暗鬼となり、互いに互いを恐れる状況になってしまったんですな。
ここに至って、趙義淵と権濚鎮が遂に強制手段に出ようとしているらしい事を聞き込んで、小村は「今それやるの最悪だろ。」と説得した、と。

さて、史料はまだまだ続くんですが、長くなってきたので後は次回という事に。


連載の合間に連載ってのは、どうなんだろうと思いつつ、今日はこれまで。



閔妃と明成皇后


今日は、連載ちょっと休憩。
で、表題の話。

以前、6月2日のエントリーで関連スレッド「■日本史料に見る閔妃の諡號決定経緯」をあげたわけですが、俄館播遷以降の話について、これまで当ブログで取り上げて来た事もあり、更に分かりやすくしてみたスレッドをたててみました。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1712767

1895年10月8日
事件発生。

1895年10月10日
王后閔氏を廃する旨の詔勅が出ます。
ここで注意したいのが、実は閔妃の死はこの時まだ公表されていない事。

1895年10月12日
庶人になった閔妃に特に嬪号を与える詔勅。
ENJOY日本人の中で、嬪号で有名な人と言えば、【張嬪(LINK)】が居ます。

1895年10月15日
新しい王妃選定の手続きを挙行する布達が出されます。
どうも、王妃の座が不在になった場合、即座に次の王妃を選定するのが慣習だったようです。
この慣習は、後に純宗の妻が戸板喰って死んだ(笑)際にも見られます。

1895年10月31日
井上馨着京。

1895年11月12日
広島地裁での審議終了。
裁判の詳細な経緯が散逸してるので、詳しいことが不明。
予審結審書発行は1月20日に発行。

1895年11月16日
井上馨出京。
主に、各国との調整に手一杯だったようである。

1895年11月18日
総理大臣金宏集、小村寿太郎を訪問。
井上が善後策について何も言ってくれずに帰ったのは遺憾だと、愚痴る。(笑)
同時に、小村に大院君の排除・閔妃の復位・関係者の処罰を希望。
小村は許可。

1895年11月26日
閔妃復位&大院君失脚&趙義淵、権?鎮罷免&李周會逮捕。
これらが同一日なのは、直接の史料はまだ見つけていないものの、偶然の一致ではないでしょうね。

1895年11月28日
春生門事件

1895年12月3日
この日、初めて閔妃の崩御が公表される。
当然、諱もこの後考えられる。

1895年12月22日
高宗実録によれば、この日宮内府から諱「純敬」の案が出る。

1895年12月28日
李周會等に死刑宣告。

1896年2月11日
俄館播遷で、高宗がロシア公使館に引き篭もったので、閔妃の国葬とか全部ストップ。


(約一年間ひきこもり)


1897年1月6日
ロシア公使館での引き籠もりも、そろそろ終了が見えかけたためか、高宗実録によれば議政府から文成・明成などの案が出される。
「文成」が一押しだったらしい。

1897年2月18日
1年に渡る引きこもり生活を止め、ついに高宗がロシア公使館から出てくる。
他国の公使館に王様が1年も籠もってるなんて、それだけで既にロシアの属国だろ?というツッコミは頻出。
テストに良く出る。

1897年3月2日
文成だと正宗の諱とかぶるから、明成にすることにする。
案出した時点で気付け!と思うのだが、そこは韓国人のやることなので、優しくスルーする。

この後、数回に渡って閔妃国葬の話が出るが、何故か高宗シカトして延期する。
この時の弁理公使加藤増雄の予想では、「高宗が皇帝に成りたがってるから、それになった後じゃね?」

1897年10月13日
12日に国号が「朝鮮」から「韓」に替わった通知。
「帝国」なんてのは付いてない。
単に「韓」。

因みに、「皇帝号」は国内向けには発表され、併せて閔妃も王后から皇后になったものの、諸外国に正式に通知された形跡なし。
自称皇帝&自称帝国ですか?( ´H`)y-~~

1897年11月22日
ようやく閔妃の国葬。
やっと諱が付き「明成」、高宗は已に皇帝号を使っているので「皇后」になる。
だから明成皇后。
これでも結構ダイジェスト。
結論。
「明成を日本人が名付けた」は無茶。
「復位を運動し、結果的に明成が云々」も結構無茶。
「李氏朝鮮だから、皇后って変」は、実際に諱が送られたのは大韓帝国に入ってからだから。(但し、自称臭いw 尤も、日本は正式な通知が無くても皇帝号を認める事を決定している。)
「国葬まで3年って、何してたのよ?」は上記の通り。

こんな感じ。

文中、「戸板喰って死んだ」等の誇張表現がありますが、その辺はこのブログの読者の方は大丈夫かと。(笑)

後半の、春生門事件以降の話は当ブログでずっと連載してきましたので、一番ポイントになるのは、1895年11月18日の記事でしょうね。
ってことで、明日は当該史料をあげて見たいと思います。


今日はここまで。
(スレ立てとblogの両立は厳しいです。笑)




韓国と北朝鮮、第2次日韓協約の「無効性」確認

クスクス。
昨日の記事は、天啓かな?(笑)


今回は、あまり放っておくと忘れてしまいそうなので、この際書いておこうと思う話。
そのネタは、再び閔妃殺害事件に関係する史料。
もちろん、以前4回にわたって紹介した史料とは、全く別の史料である。

それが、『1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告(國分書記官通訳并筆記)』。
それでは早速。


陛下は、再三長谷川統監代理召見の思召ある趣、宮中より内報ありたるも、統監代理は病気と称し、姑く其の謁見の機会を遅緩ならしめ居らるる際、幹部将校会議に列する為め、来京中の各方面の幹部主任将校も其の任務を了し、不日帰途に就かんとするに当り、拜謁を希望せる折柄恰も好し、本月九日午後三時半、陛下の思召に由り統監代理を召見せらるる旨、宮内大臣の通知に接し、当日統監代理は、前顯将校井口砲兵中佐以下十一名を帯同し、参内式の如く統監代理は井口中佐以下将校を一々陛下に御紹介し終って、陛下と統監代理との御談話の大要如左。



陛下
顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。
然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。
夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。
最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。

今日、東洋の形勢に鑑みるに、日韓両国は将来益々交誼を敦睦ならしめ、其提携の実を明にし、他をして間隙を窺はしむることなきを要す。
故に、朕と卿との間に於ても努めて誤解を避け、情意を疏通するにあり。
就ては、朕に於て疑はしきことあらば、直接之を卿に確めん。
卿も亦、之と同一の方法に出んことを、切に望むなり。



王妃殂落(死亡)事件は、高宗の臣僚中の不逞の徒が行ったと、自ら述べていますな。

まぁ、岡本柳之助や杉村濬が積極関与し、この事件自体にも多数の日本人が係わったのは、当然否定するものではない。
しかし、朝鮮人自身のこの事件への関与は、従来あまりにも軽視されて来たと思うのである。


統監代理
王妃殿下の事変に関しては、今日にして三回陛下より拜聞せり。
其都度奉答したる如く、外臣頗る此事変の弁解に苦しむ者なり。
乍去、是れ全く我政府若くは国民の意思に非ざることは、茲に断言するを憚らざる所なり。
又陛下の聴明、夙に御認識相成る所にして、従って為之国際上甚しく感情の衝突を見るに至らざりしは、全く陛下御宏量の然らしむる所にして、両国の幸福不遇之なり。
今外臣の上言せんとする所のものは、今回統監は、大に満足を齎らして帰国せるものと御信用相成居れるやに洩れ聞く統監の意、盖し然るやも知れず。
然るに外臣の察する所にては、統監は決して満足帰したるものに非ず。
何となれば、其出発前、外臣が親しく統監に承はる所に拠れば、今春来任以来、予は韓国施政改善の衝に当り、内閣大臣等を指導し、誠意赤心を注ぎて陛下に忠諌する所あり。
且又全力を盡して之が実行に従事したりと雖、更に其効を奏する能はず。
斯る状態にあっては、到底予の力の及ぶ所に非ざれば、陛下の御隨意に放任する外なし。
乍去、今日に於ける日韓の関係は、日本の責任上、無為にして終る能はざるが故に、予は帰朝の上猶ほ熟慮を加へ重ねて、来るの日は何等かの手段を執るやも測られず云々由之観是統監の意中察するに余あり。
陛下に於られて宜く、深思御熟慮あらんことを要す。
外臣任に闕下に駐すること、茲に二年有余。
日常に陛下の殊遇を荷ひ衷心感謝に堪へず、故に敢て聖意の程をも憚からず、此言を奏して以て陛下の御考慮を促す次第なり。



この謁見は、ハーグ密使事件の前年、1906年(明治39年)12月9日に行われた。
就任から半年で「このような状態では、到底私の力が及ぶところではない」と言わせるとは、一体大韓帝国で何があったのだろうか。
いや、見当はついてるけどね。(笑)

この史料はこれ以降も続いており、それがまたなかなか面白いので、明日改めて続きをエントリーしようと思う。
但し、本日記載した部分以外は閔妃殺害事件に関連する記述ではないので、別なタイトルを付けることになるだろう。


さて、閔妃(明成皇后)殺害事件について。
李泰鎮教授の重視する『機密第36号』と『機密第51号』及び『附属地図』を基本とし、そして以前取り上げた『往電第31号』と『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』を見ていくと、単純に一つの説が出来上がる。

附属地図』から、閔妃は「図中に示せる(1)の所より(2)の所に引出され、此処にて殺害に遭われた」。
図中の(1)とは長安堂であり、高宗の居間である。

『機密第36号』には、「然るに他の壮士輩は王妃を逃したると聞き、処々捜索を始め、終に国王の居室に迄踏み込まんとせしが、此所には国王始め世子宮も亦居らせられ、何れも頗る御恐怖の御様子につき、荻原は直に国王の脚座に進み御安心あるべしと告げ、狂い犇めく壮士輩に向い、大手を張って大字形をなし「此処は国王陛下の宸殿なり。立ち入るべからず」と号叫し、其乱入を制止したりしかば、予て大院君より「国王及世子丈けは、必ず助命し呉るべし」との依頼ありたるとかにして、一仝異議なく、其場を立退きたりしかば、国王及世子は、身を振はして荻原の両腕に取りすがりつつ、頻りに保護を頼み給いたり。」とある。
つまり、壮士輩は(1)の場所に入っておらず、且つ高宗と純宗は現場に居た。

在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』において禹範善は、「旧年王妃を弑せしは自己なり」と自白

純宗は『往電第31号』で「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」と述べる。

そして高宗は、今回の史料における「勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたる」。


即ち、閔妃は高宗と純宗の目の前で朝鮮人によって高宗の居室から引出され、禹範善の命令或いは禹範善本人により殺害された事件であり、それは純宗も目撃していた、と。

李泰鎮のように、『機密第51号』及び『附属地図』を重視すると、こういう結果になりますがどうしましょう?(笑)


「次のような解釈も可能」「推論も可能」「余地がある」「思っています」。

韓国国史学の権威である李泰鎮の学問基準から言えば、史料記述のみからなる私の説は、李泰鎮の珍妙な盲説以上にマスコミで発表するに足りますね。

勿論私は、先行研究の調査・検討については不充分であり、さらに「恥」を知っていますので、「新発見」などとは口が裂けても言いませんよ。(笑)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)
閔妃殺害事件史料(四)



前回は、高永根による禹範善殺害事件について記した。
再び話を本筋に戻そう。

1907年(明治40年)9月2日付『往電第36号』より。


第17号に関する貴電の趣、委曲敬承。
然るに其の後、当時の事実を取調べたる処に依るに、李斗璜・李範来に命令を下したる時の軍部大臣は、安駉寿にして趙羲淵にあらず。
故に、趙羲淵の特赦を以て之に律すべからず。
併し高永根特赦に関する閣下の御意見は、内大臣を以て言上せしむべきも、若し尚ほ韓皇に於て同意せられざる場合には、李斗璜・李範来をして平理院に自首せしむるか、若くは閣下の御帰任を待ちて解決の事に致すべきか、重ねて御回示を請ふ。



確かに安駉寿は、事件の起きた際の軍部大臣である。
事件の当日の1895年(明治28年)10月8日に、責任をとる形で軍部大臣を辞している。

ここで思い出した事がある。
李泰鎮教授が内田第1次報告書と勝手に名付けた事で知られる(笑)、1895年(明治28年)11月5日付『機密第36号 明治二十八年十月八日王城事変顛末報告ノ件』の一節である。


其関係者は、朝鮮人中にも現軍部大臣趙義淵、訓練隊大隊長禹範善、李斗璜を始め、其他大小の人員数多有之


事件当時軍部大臣ではなかった趙義淵も、関係者として報告されているのである。
つまり、軍部大臣の命令云々はともかく、趙義淵はこの事件に何らかの形で係わっていたのではないだろうか。
では何故趙義淵の特赦は許され、李斗璜・李範来は禹範善のとばっちりを受けたかのように許されなかったのか。
様々憶測は可能であるが、ここでは止めておこう。

純宗

続いて、『往電第36号』と同日付けの『来電第18号』によって、伊藤は自らが帰任してから解決する旨を伝える。

しかしながら、長谷川好道は伊藤の帰任前に内大臣と面会。
1907年(明治40年)9月5日付『往電第38号』より。


昨朝、内大臣を招き貴電第17号の旨を伝へ、此の上は直接陛下に言上する外無之に付き、明日を以て謁見を賜はる様、取計ひありたしと稍強硬に (現状維持に関係なし) 申入れたる処、本日午前兪吉濬以下8名は固より、其の当時の内閣員金宏集外数名も特赦の詔勅、内閣に下れり。


長谷川、強引すぎ。(笑)
この謁見の後韓国政府から詔勅案が出され、それに長谷川が承認を与える形となる。
1907年(明治40年)9月6日付『往電第48号』より。


本日左の詔勅案に対し、承認を与へたり。
詔に曰く、開国五百四年八月の事変は、朕に於て提言するに忍びざる所なり。
然れども実犯は曩に既に戮に就き、余外の諸人は実に犯す所無きを朕は確知せり。
而も尚暗昧の中に在り一、ニ勿問に任ずるに、趙羲淵、兪吉濬、張博、李斗璜、李範来、李軫鎬、趙羲聞、権東鎭等の罪名を、一体蕩滌せり。



趙羲淵、兪吉濬、張博、李軫鎬は露館播遷(俄館播遷)の際に逆賊認定を受け、日本へ亡命。
ちなみに張博は李周會、尹錫禹、朴銑の「裁判宣告書」において、高等裁判所裁判長とされている。
李軫鎬は、李斗璜と同じく元訓練隊大隊長であり、2月11日のエントリーで少しだけ記載した親露派・親米派のクーデター、所謂「春生門事件」において内通し、それを未遂に終わらせた人物である。
趙羲聞はどのような人物か不明。
権東鎮は、後に万歳事件(3.1独立運動)で独立宣言書に名を連ねる事になる人物である。
権東鎮は、「春生門事件」直前に趙羲淵と共に排斥運動を受けた、当時警務使の権濚鎮の誤記の可能性が高い。
李斗璜は閔妃殺害事件の際の訓練隊大隊長、李範来は副隊長。

以上の8名が特赦を受けることとなった。
結局、李斗璜、李範来は禹範善のとばっちりを受けずに済んだのである。
以上で、今回の史料紹介を終わる。
見てきたとおり、閔妃殺害の実犯が禹範善であることを思わせるに、充分な史料があった。

さて、閔妃殺害事件については、角田房子氏の小説「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」によって日本人に虐殺されたというイメージが、日本はおろか韓国にまで広がっている。
小説を信じるのもあまりに愚かな話ではある。

さて、角田房子氏はこの小説の後に「わが祖国―禹博士の運命の種」という、禹範善の息子を題材とした小説を著している。

何かの予防線にしか見えないのは、気のせいですか?


ひとまず(完)


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)
閔妃殺害事件史料(三)



乙未事件(閔妃殺害事件)で、「陛下」が目撃した国母の仇であるとされた禹範善。
彼を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解するとの『往電第31号』の続きから。

1907年(明治40年)9月1日付『来電第17号』


貴電第31号に関し、本官が李斗璜・李範来を他の六名と共に特赦すべしと主張するは、彼等に命令を下したる時の軍部大臣、趙羲淵すら証拠不充分の廉を以て、特赦の恩典に浴するに拘はらず、彼等にして之に浴せざれば事理一貫せず、聖徳洽ねからざるを慮るに由る。
我が帝国の版図内に於て殺人罪を犯し、我が国法の下に処罰せられたる高永根を特赦するに至りては、必ず我が国法の定むる条件を具備せざるべからず。
決して茫漠たる復仇説・忠臣論を以て、交換的に特赦を為し得べきものにあらず。
何となれば、帝国官憲の高永根を処罰したるは、単に我が国法を犯したるに由るものにして、決して乙未事件を眼中に措きたるものに非ざればなり。
故に本官は、本件に関する陛下の御沙汰に、同意を表するを得ず。



高永根が禹範善を殺害した事件は、広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日に起きた。
その前後の模様は、アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』に見る事が出来る。
それによれば、高永根による殺害前から禹範善の殺害計画があった。
以下、上記一件のうち『1 明治36年9月16日から明治36年12月2日(レファレンスコード:B03030222700)』から見てみよう。

この禹範善殺害計画が漏れたのは、9月16日のようである。
首謀者は尹孝定。
事件の発端は、「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」である。【4画像目より】


尹孝定はその後、時の皇太子つまり純宗から令旨(皇太子以下の皇族が発する命令文。皇帝の場合は綸旨)と千円を受け取っている。
但しこの令旨の草案は、尹孝定が作ったものとされる。【手写画像】
しかしながらこの際の計画は、高永根が禹範善に密告したことにより発覚。
そしてこの密告から、禹範善と高永根は付き合うようになったようである。

恐らくは機会を狙っていたのであろう。
11月14日になって魯允明と共に禹範善を殺害する。
尚、高永根は魯允明以外の共犯者、命令者、教唆者は居ないと供述。
一方で、魯允明は皇太子(純宗)から、王妃の復讐を為すべき旨の依嘱を受けた事があったが、今回の事はその依嘱を果たす為ではないとの供述をしている。

結局、広島地方裁判所における一審では、高永根は死刑、魯允明は無期徒刑。
その後1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期徒刑、魯允明に有期徒刑12年の刑が言い渡され、同6日判決が確定した。

思いの外長くなってしまったが、上記のような過程を経て、高永根は日本国内で事件を起こし、日本の裁判によって無期徒刑の確定判決を受け、刑に服していたのである。
日本国内の慶事によって特赦を得るならともかく、韓国での慶事で日本国内の犯罪者に特赦というのは、些か虫が良すぎるであろう。


さて、今回の史料において、禹が自ら王妃を殺したと言ったとされる事については、昨日の「現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」が係わってくる。
本当に目撃したのか、それともこの事件の際にそう思い込んだのか。
純宗の恨み具合等から見ても、「目撃せし」は本当であろうと考えるのが普通であろうが、さて・・・。
論集 朝鮮近現代史には「乙未事件と禹範善」が収載されているが、どのような中身なのか非常に興味が出てきてしまった。


三回くらいで終わるはずだったのに、今日はこれまで。


閔妃殺害事件史料(一)
閔妃殺害事件史料(二)



昨日に引き続き、趙羲淵等八名の特赦の話。
特に、「陛下」に恨みを買っているらしい李斗璜・李範来についてである。
それでは早速つづきから。

1907年(明治40年)8月25日付『来電第9号』。


貴電第18号に関し、李斗璜・李範来の両人は、王妃事件の際、軍部大臣の命に由り其の部下を率ひて宮中に入りしものにして、凶行下手者に非ず。
且つ、已に軍部大臣たりし趙羲淵にして特赦の典に浴するものなれば、彼等両人も亦、勿論特赦に与かるべきものと思考す。
乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず、若し事情の已を得ざるものありとせば、彼等両人を其の筋へ自白せしめて、罪を待たしめ、出来得べくんば近々即位式挙行の機会に、大赦の恩典に浴せしむるを良策と認む。



陛下が、「前記両名は、現に証跡の顯然たるものあり」と言っているのに、伊藤が擁護している。(笑)

「凶行下手者に非ず」という伊藤の言葉は、当時対外的に朴銑が下手人として処刑されている事を受けての言葉であると、素直に解釈した方が良いだろう。
注目に値するのは、「軍部大臣の命に由り」である。
以前から、大院君と朝鮮の訓練隊が参加していた事は知っていたが、軍部大臣ねぇ。

相変わらず伊藤統監は、「乍去由来韓国の事、理窟計りにも参らず(しかし韓国の事だから、理屈通じねぇかも)」等と、本当の事を言っちゃってますな。(笑)


続いて、8月31日付『往電第31号』。


過日の御電訓に依り、李斗璜・李範來の特赦事件に関し、再応侍従院卿をして陛下に転奏せしめたるに、今夕同院卿旨を奉じ、来邸し、左の要求を為したり。

趙羲淵以下六名の特赦に関し、統監代理の懇切なる勧告に依り、特赦することに決定したるも、李斗璜・李範来をも特に其の罪を赦すに於ては、朕は国母の仇、何に依て報ずるを得ん。
乍去、統監代理に於て証拠を挙げ、無罪を主張するに拘はらず、疑問中の両人を強ひて罪に問ふは、公の許さざる所なれば、乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善一人に当時の罪を負はしむるときは、一切を解決するに至るべし。
然れども、禹範善既に高永根の為め殺害せられ、今更ら犯人を罪するを得ずと雖、朕に代り逆賊禹範善を殺し仇を報ひたる高永根は、朕が為めに忠臣なり。
此の忠臣、今日本に在り罪科服役中なりといえば、之に特赦を与へ其の罪を赦さるるに於ては賞罰明白となり、乙未事件の始末、茲に始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解し、益々厚誼親交の実を見るを得べし。
故に、特に高永根を許されなば、趙義淵等一切の形式上一応の審問を為し、必ず特赦すべしとの御沙汰なり。

陛下聖慮のある所、本官に於ては至極御尤の儀と思考す。
就ては、右に対する閣下の御高見、折返し御回示を請ふ。



「乙未事件に際し、現に朕が目撃せし国母の仇、禹範善」ですか。
この「国母の仇」が何を指すのかは、読者の想像に任せる。(笑)
但し、「今更犯人を罪するを得ず」であり、禹範善を殺した高永根を特赦すれば「乙未事件の始末、茲に始めて解決し、両国間数年の疑団も氷解し」である。

さて、何を目撃したのだろうねぇ・・・。


今日はここまで。


閔妃殺害事件史料(一)



えーっと、尻切れトンボ気味だった昨日 までの連載から、気分を一新してお送りします。
今回は、閔妃殺害事件史料について。
閔妃殺害事件史料とは言っても、事件後の経過報告の類ではない。

まずは、これから扱う史料の前提から。
それが、露館播遷(俄館播遷)である。
当ブログでも、2月11日のエントリーで一度取り上げた。

この時金弘周、鄭秉夏らが惨殺された事は書いたが、その他にも高宗の詔勅と称し、市街各所に逆賊趙義淵外数名を斬殺すべしというような掲示物が貼られたようである。
【画像】

これにより、趙義淵らは逃亡。
仁川から小樽丸に乗って広島(宇品)に向かい、そのまま亡命した形となった。
【画像】

(以上の二画像は、『1 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)』(レファレンスコード:B03050313400)より)


さて、これらの理由により亡命した者のうち、8名の帰国及び特赦を巡る話が、今回の史料である。


1907年(明治40年)8月24日『往電第18号』より。
発信者長谷川好道統監代理(京城)、受信者伊藤博文統監(東京)。


今回帰韓したる、趙羲淵等八名の亡命者特赦の件、李総理大臣に協議したるに、右は他の亡命者と異なり、王妃事件に関係せる者にて、臣子の分として之を特赦の奏請を為すを憚かるのみならず、之が為、皇帝と内閣との間に疎隔を生ずるの虞あるに付、寧ロ日本側より直接陛下へ申入れられたき旨、懇望せり。
本官に於ても、事情尤なることと思慮し、更に内大臣を招きて、今日は既に、他の亡命者も悉く特赦の恩命を蒙りたること故、此の際、同人等も同様の殊恩に浴せしめられ度旨、懇々奏上せしめたるに、陛下は、李斗璜・李範来の両人を除き、他の六名は十分の証拠も無きこと故、本官の希望を容れ、内閣大臣に命じて、特赦の方法を講ぜしむべきも、前記両名は、現に証跡の顯然たるものあり。
断じて之を許容し難き旨、仰せられたる由なり。
就ては、右李斗璜及李範来の両人は、此際再び日本に逃れしむるか、或は其筋へ自首して、相当の処分を受けしむるの外なかるべしと思考す。
右に関する御意見、至急御回示を請ふ。



この特赦は、時期的に、恐らく純宗の即位に関係した特赦であろう。
という事で、ここにおける皇帝は、7月19日に退位した高宗ではなく、純宗の事であると解釈して話を進める。
「王妃事件」とは、勿論「閔妃(明成皇后)殺害事件」である。

李斗璜・李範来は、現に証跡の顯然たるものありとの事。
今回は、この一連の件について追ってみたい。

つうか、露館播遷の際の親露派政権に名を連ねていた李完用に、趙羲淵らの特赦の奏請をさせるって、酷だなぁ。
そりゃあ、拒否するって。(笑)


土曜日はお客さんが少ないので、今日はここまで。(笑)