10万ウォン紙幣に金九

テーマ:

ちょっと今日は、土地調査事業における「国有地の紛糾」についてはお休み。
今日はまず、エンコリでgerbera_tetra氏から頂いたこの記事から。

金九高額紙幣の肖像に

韓国初の10万ウォン紙幣、肖像に金九氏
http://www.asahi.com/international/update/1105/TKY200711050293.html


韓国銀行は5日、09年に初めて発行する新紙幣10万ウォン(約1万2600円)券の肖像に、日本植民地時代の独立運動家、金九(キム・グ)を選定したと発表した。
現在の最高額券は1万ウォン(15世紀の朝鮮国王世宗)だが、財布がかさばるなど不満も多く、高額券導入を進めていた。

金九は19世紀末の日本人による朝鮮王妃、閔妃の殺害に憤り日本軍人を殺害。
脱獄後、独立運動に加わり、上海に樹立した大韓民国臨時政府の指導者として抗日テロも指揮した。
日本の敗戦後、韓国だけの単独政府樹立を進めた李承晩元大統領に対し、金九は南北統一政府を主張したが、49年に軍人に暗殺された。
閔妃が誰に殺されたかが分かってないのに、とりあえず日本人だとは断定できるという、素晴らしいアサヒ脳は今日は置いておきます。(笑)

今日の問題は、その次。
「閔妃の殺害に憤り日本軍人を殺害」の部分ですね。
以前この件に関しては、「金九は誰を殺したか」として、3回に渡ってとりあげました。

金九は誰を殺したか(一)
金九は誰を殺したか(二)
金九は誰を殺したか(三)


取りあえず、おさらいです。

1.軍関係者等は損害賠償請求をしない事になったが、土田はそこには含まれていない。

昨年の2月21日のエントリーで「注意:身分上に△印を附したるは、朝鮮政府に対する照会に用いたる名称なり。」とありました。
ちょっと元の史料を見てみましょう。

陸軍雇△旅行 (クリックで拡大)

ってことで、朝鮮政府に対して「旅行」として照会した「米田豊吉」や「近藤卓爾」についても、ちゃんと「陸軍雇」と記されています。
その上で、「将又被殺害者43名の中、29名を限り損害を要償致候義は、右29名は純然たる行商者若くは旅行者にして、其被れる損害に付朝鮮政府に要償するの理由充分ありと認むる者なれども、其他は電信工夫、軍夫、若くは測量班員等にして、即ち朝鮮政府にのみ責を帰すること能はざる者に有之候。」として、朝鮮政府に対する損害賠償請求から除外されるわけです。
しかし、これに対して土田讓亮は、損害賠償請求の対象になっています。


2.遺品は雇い主に引き渡され、親族への通牒も雇い主に命じている。

昨年の2月21日のエントリーでの、「遺留財産は右雇主に引渡し、其他同人死亡に関はり親族への通牒方等は、右雇主に命じ置けり。」の部分です。
軍籍を持っていればあり得ない話。
ちなみに、この遺品や通牒を命じられた雇い主の大久保機一氏、詳細情報が無いため断定はできませんが、1910年には京城果物合資会社という、果実や瓜を扱う日韓合資会社の取締役になっています。


3.金九は、供述調書でも土田を軍人と述べていない。

この辺は、昨年の2月23日のエントリーで分かりますね。
最初の切っ掛けは「女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。」です。(笑)

勿論、「それでその人の根本を調べると日本人なので、不共戴天之讎と考えになると胸の血が走った。」や、「国民された身として、国母の仕返ししようと恨みを抱いたのでこの巨事を行ったのだ。」とあるとおり、日本人に対する敵意は持っているんでしょうが、土田を軍人であるとは述べていません。


ということで、土田讓亮は仁川の貿易商大久保機一に雇われた、長崎県対馬市厳原町出身の薬売りという結論に至ったわけです。

まぁ、そもそも調査能力の無い朝日新聞に過大な期待はしませんので、せいぜい自伝の嘘記述でも有り難がって奉戴していれば良いと思います。(笑)
どうせ無能がばれるのが怖くて、記事の訂正もしないでしょうけど。
いや、そもそも普通の日本人は、金九に全く興味がないんだけどね。(笑)


というか、当時多数発生していた日本人殺しと、中国国民党の外人部隊のようにテロ活動してた事と、統一政府樹立失敗。
その程度の実績で、高額紙幣の顔になれるってのは、ある意味凄いなぁ・・・。(笑)



AD

金九は誰を殺したか(三)

テーマ:

孤藍居士氏からコメントをいただいたので、何となくエントリー。
彼が提示してくれたのは、『独立運動史資料集11/義烈闘争史資料集』(らしい)。
国家報勲処かよ!というツッコミは置いておいて、内容を少し見てみましょう。

但し、申し訳ないですが機械語翻訳(句読点・誤訳等若干修正)。

http://e-gonghun.mpva.go.kr/portal/html/book/book_xml_view.jsp?lm_sHisCode=PV_DJ&lm_sBookCode=A011&lm_sItemCode=2.1.0.0&rid=ID2.1.0.0

義挙顛末

[故経文で] この資料は、1896年(建陽元年)9月から1942年に至るまでの抗日義挙闘士たちを、日帝が検挙した後取調した記録たちだ。
その中に’土田譲亮撃殺でもツィゾムン’万敵方記録ではないのだ。
敵方記録ではないと夏期よりも、敵方圧力に押された旧韓国末法院の記録であることだ。
この資料に出る金九・安重根・姜宇奎・郭在驥・朴治毅・朴載赫・金祉燮などの名前はあまりにもよく知られていて、その外の医者さんたちが行った義挙も当時の世の中を大きく驚かした事実たちだ。
国を奪われたが息をつく間もなしに、こちらあちらで噴き出した医者さんたちの義挙が今日に来て新しく私たちの胸を響いてくれている。(編集者注)
んー、俄館播遷中でも韓末の法院は、日本の圧力を受けていたらしい。(笑)
まぁ、よし。

土田譲亮撃殺でもツィゾムン

ヘズゴ金昌洙 当年21歳

初招

[門]
君の行った事は、もう李化甫が明白に告げた事があるから、ありのまま言いなさい。
[答]
私が今年正月24日、竜崗から安岳に行った途中に、平壌人鄭一明と咸境道定平人金長孫と金致亨に会って、同じ船に乗って鴟河浦に来て店主李化甫を尋ねて夕飯を食べてその所に泊まった。
明くる日、明るい夜明けに朝飯を終えて旅に出ようと思ったが、店幕の法道が旅人に食膳を与える時、老少を分別してその回を当然に守らなければならないのに、お客さんの中におかっぱをして刀をさした受賞した人が食膳を先に要求すると、女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。
それでその人の根本を調べると日本人なので、不共戴天之讎と考えになると胸の血が走った。
そういう時、その日本人がわき目をふっているすきに乗じて足で車倒して、手でぶっ殺して氷が凍った川に捨てた。
そうしてお供した三人の人は、少しの現金を持って来て店主に8百金を任せて、その外のお金は〔小判に推測される-訳者株〕三人の人の老子に使う事にした。
そして本人は、日本人の環刀を奪取して、ろ馬一匹を七十ダソッニャングで四書単騎で載寧で向かってから、同年3月に家に帰って来てから海州巡使に逮捕してここに至るようになったのだ。

建陽元年8月31日
仁川港警務官 金順根
罪人 金昌洙
この金昌洙が、金九の別名というか旧名とされてます。
「その人の根本を調べると日本人なので」って、どうやって調べたんだろう?
つうか、その前に土田の配膳の順番が先になったくらいで、甚だしく憤慨しなくても・・・。(笑)

で、「小判に推測される-訳者株」ということは、当然原文は漢文であったものを、ハングルに直しているためと考えられます。

再招

[問]
君は、同当たり何人と李化甫の家で一緒に留接している途中、日本人を殺したのか?
[答]
初めて平壌南門の外で初面人常民三人の人に会って、お供して李化甫の家で一緒に夜が明けている途中、日本人を殺す時彼ら三人の人は逃げた。
[問]
君は、同行三人の人と李化甫の家に到着して、君が言った言葉の中同当たり何百人がすぐ後に従って到着するはずだから、草履などの物品をあらかじめ準備しなさいと言ったと言うのに、これは同当たりがあることを意図しないか?
[答]
当時は、各所に盗賊たちが一揆することにそんな虚勢を張ることで、店主を眩するようにしようとしていたのだ。
[問]
君は日本人を殺した後、義兵と自称して日本人が梨に持っていた金品を奪取したから、それは彼が船の中にお金を持っていることをあらかじめ分かって、財物を貪って日本人を殺したのではないか?
住み次第にところで言いなさい。
[答]
日本人を殺した後、彼の舟にお金があるというのを初めて分かって、同行三人の人と一緒に舟の中に入って行って現金を持って来た。
[問]
持って来たお金が何両もなって、何に使おうと思ったことか?
[答]
金額量はよく分からなく、同行人の老子でオルマンがを酒庫、ろ馬一匹を小判七十ダソッニャングに四書乗って来たので、おおよそ全額は小判バックニャングほどで分かる。
[問]
君は初めて公述で、8バックニャングを李化甫の家に任せたと言ったが、今来ては小判バックニャングだけだと言ったら一体どうなったわけなのか住み次第にところで言いなさい。
[答]
初めて公述は急に思い出さなくて過ち言ったが、もう詳らかに考えて見たら8バックニャングを任せた事実はなくて、同行三人の人のNozawaろ馬一匹値段イルフンダソッニャングだけだった。
[問]
日本人をぶっ殺す時に使った凶器は何であり、同行三人の人も一緒に協力したのか?
[答]
初めは石で殴って、また木に殴ると彼が倒れてからまた起きて逃げだすのに、川辺まで追って付いて行って棒で重ねて殴ぐって殺した後、死骸をひいて来て氷版に捨てたし、同行三人の人はこの事に関係したところがない。
[問]
李化甫の公述の中、君は同行三人の人と一緒に力を合わせて犯行をやらかしたと言うのに、君は単独で行ったと言ったら一体どうなった事か?
実はあったそのまま言うようにしなさい。
[答]
日本人を殺す時近所人々も驚いて逃走したのに、店主李化甫が敢えてどんなに参観することができたのか?
これは李化甫自分が作り上げた言葉や信じられないのだ。
[問]
舟の中のお金を持って来る時、近くの部落民たちももしか参加した事はないか?
そして事件がある前に、君はどこから来たのか?
[答]
あの時洞民たちは皆逃げて参加したところないし、同行三人の人と船員何人はお金を持って来る時参加したところはある。
そして本人はおかっぱを避けて、安州に行って滞留している途中、断髪令が止められたという消息を聞いて帰って来る途中に、鴟河浦にある李化甫の家に止宿している途中、この事を敢行こんにちはだった。
[問]
君は、自称中国で出帖一左統領といったと言うのに、真実で中国でツルチォブしたことか、そのようにしなければ自ら自称したのか?
[答]
それは仮称ではなく、中原(中原=中国大陸)人徐敬章の下帖を受けたし、これしかに言うものがない。

建陽元年9月5日
起草 西紀本当陣(秦貞鎭)
警務官 金順根
罪人 金昌洙
「初めて公述は急に思い出さなくて過ち言った」ねぇ・・・。
まぁ、そういうことにしておきますか。(笑)
でもねぇ、「これは李化甫自分が作り上げた言葉や信じられないのだ。」って、お前の言ってる事の方が信じられねぇよ、と。
つうか、警務官も強盗殺人を疑ってますな。

金昌洙 三招

[問]
君は本来海州人か?
[答]
海州で生長こんにちはだった。
[問]
君の両親は生存しているか?
[答]
生存している。
[問]
何人兄弟か?
[答]
兄弟はいなくて、7代読者だ。
[問]
君の行為はもう憔憔と再初で把握するけれども、何の不協一心があってこのように人命をいたんだのか?
[答]
国民された身として、国母の仕返ししようと恨みを抱いたのでこの巨事を行ったのだ。
[問]
君は臣民された者として痛憤したシムゾングイあったと一つ、地方官は法を掌握しているのに、君任意に日本人を殺すことはバングザスロウン仕打ちではないか?
[答]
自分が思うに、たとえ地方官に告げると言っても実施しないだろうのでこの巨事を取り掛かった。
[問]
君の1、2回公述で、石と棒で日本人を殺したと言ったが、あの時日本人も佩刀あったくせにどうして対敵しなかったのか?
[答]
日本人を足で蹴って倒れるようにしようあの時彼が刀を抜こうと思うので、石で殴って地面に倒れるようにして、直ちに刀を奪ってしまった後同行 三人と方案にあった多くの行人たちが、皆半期を帯びて力を合わせて殺した。
そんな後、多くの人々が死後に起こる事に対してその取り計いを心配するので、私が彼らに死骸は埋葬せずに氷が凍った川に捨てなさいと言ったらそうするのだ。
[問]
君とお供した三人の人の名前は何か?
[答]
もう先立って一調書で皆明らかにした。
[問]
君は1、2回取調の時には単独に犯行したと言っておいて、今は多くの人々と力を合わせて射殺したと言ったら、先後ではなくようではないことはどうする事か?
[答]
私が先に仕事をやらかしてから、後で多くの人々が力を合わせたことなので、自分自身が多くの人々を引き入れた結果になった。
だから他の人々が仕事をはかったことではないのでそのように公述したのだ。
[問]
君は李化甫と前からお互いに分かっていたのか?
[答]
その商店へ行ったことはあの時が初めなのにどうして前から分かっていたのか。
[問]
李化甫は店主として君が事件を起こすことを木刀したのか?
[答]
李化甫は、怖気ついて身を避けてなくてサラムウルボネ呼んで来た。
[問]
君がこの事件を起こしたことは、財物を貪って韓仕事ではないと言いながらも、どうして財物を奪取したのか?
[答]
お供した三人の人が故郷に帰る老子をくれと哀願するので、彼らが要求し次第にお金をくれて送ってから、後残りお金8百両は店主に任せた。
[問]
君が初めて事件を起こした後、多くの人々が力を合わせて殺したという話は理に適わないのに、それは仕事を起こした責任を兔れようとこんなに公述しているのなのかを明らかに答えなさい。
[答]
私はもう血忿として手を洗った。
すなわちどうして敢えて他の人々に締める着せて自分自身が兔れようとするのか。
今すぐすべての人々を指揮して日本人を殺して、何の別のまねがあるか。

罪人 金昌洙
建陽元年9月10日
仁川港裁判所 判事 李在正
日本領事館警部 神谷清
仁川港裁判所注射 金昌鍵
・・・。
良くみんな信じるよね・・・。
まぁ、確認のしようも無いのでしょうがないんだけど。

っていうか、普通の取り調べって住んでる所とか家族とか、こっから始まるんじゃないのか?

安岳郡鴟河浦店主李化甫 年48 初招

[問]
日本人土田譲亮被告件に、店主は金昌洙の行動を間違うことなしに詳らかに見たはずだから、少しも隠さずにありのまま告白するようにしなさい。
[答]
私が本土の店主なのに、本年正月24日夜に名前分からない日本人一人が通訳する子供一人と来て、夕飯を買って食った後休息を取っている頃に、非道金昌洙が一党を従えて竜崗から渡り場を渡ったが、あの時行人13人も、彼らが今年の頃に到着して夕飯を請ずるので、飯を炊いてくれたら日本人は船員たちとともに止宿しようと船舶先で進んで、通訳する子供一人と船員一人だけ当宿屋に泊まるようになりました。
ところで金昌洙の仲間も泊まりをして、日が明けると朝飯を急き立てて彼らが食べようと思う頃に、日本人もまた帰って来て朝御飯を食べた後そのまま座っていました。
ところで少し後通訳する子供が急に駆けて来て、けんかが起ったが非常に危急だから速く来て救援してくれと言ってしました。
それで大変驚いて駆け付けて見ると、金昌洙が日本人をつかんででたらめに殴っているのに、引き止めようと思ったがもう日本人を殺してクルオだ川辺に捨てて、環刀一袋を奪取しては自分がガレージろ馬一匹を買って乗って去りました。
だから彼の行った所は分かることができないが、日本人を殺害したことは金昌洙が明らかです。

建陽元年8月31日
仁川港警務官 金順根
罪人金昌洙
成る程。
土田が刀を所持していたのは事実のようですな。

で、林学吉20歳は通訳だ、と。
白凡逸志では「朝鮮語が随分上手だった」筈ですがねぇ。

李化甫 再招

[問]
最初金昌洙が、仲間誰誰とあなた家に泊まっている途中日本人を殺したし、そしてあなたは前から金昌洙と分かっていたのか?
[答]
鴟河浦津を渡って来る時、彼の同行が17人だったのに、渡り場を渡った後13人は他の所に行って、金昌洙と三人の人が一緒に私の家に到着して泊まっている途中日本人を殺したし、本人は金昌洙と分かることができません。
[問]
金昌洙が巨事をする時、同行三人の人も力を合わせたし、あの時犯行に使った這っては何か?
[答]
金昌洙が犯行をやらかす時、同行三人の人も一緒に飛びかかるのに、乾かそうとすると金昌洙が駆けて来て殴って、彼ら三人の人の中に一人があいつもぶっ殺しなさいと叫びを打つので恐ろしくて逃げました。
その頃は真暗夜中だから指尺を分別しにくかったので、犯行に使った品物がムオッインジルン見分けることは難しかったです。
[問]
金昌洙が自称義兵だと言ったことは、日本人を殺しの前か殺してナソか?
[答]
日本人を殺害した後左統領金昌洙という名刺を取り出して見せました。

建陽元年9月5日
基礎西紀 朴永来

仁監電報
凡夫金昌洙、玉顔李化甫を速く判決してすぐ釈放して帰るようになさることを期待します。

建陽元年10月2日上午10時
仁監 李 答電
金昌洙中
李化甫の公述によって無罪方面する。
10月2日法部
んー、質問者が「金昌洙が巨事をする時」で、李化甫が「金昌洙が犯行をやらかす時」ねぇ・・・。(笑)
ハングル翻訳版じゃなくて原文見たいな、やっぱ。


さて、以上が孤藍居士氏の提示してくれた資料です。
朝鮮側の供述調書でも、やはり「陸軍中尉」は見られないね。

ということで、さらに孤藍居士氏から「鶏林奨業団」という団体についてコメントが為されました。
土田が鶏林奨業団の核心団員であり、それは半官半民の団体である(だから彼はただの民間人じゃない)。
という意見があると言うものです。
ま、この件に関しては大体の設立経緯は想像が付くんですが、史料的裏付けを取ったら公開したいと思います。



金九は誰を殺したか(一)
金九は誰を殺したか(二)


AD

金九は誰を殺したか(二)

テーマ:

さて、前回は『駐韓日本公使館記録9』によって言及したわけですが、小村から李完用ってことで、対外的な嘘ではないかと思う方も居るかもしれません。

しかし、勿論アジ歴にも記録は存在します。
まぁ、他にも『駐韓日本公使館記録』などで、史料有るのが分かってるのに出揃って無い処が、「相変わらず仕事おせ~なぁ~」と愚痴をこぼしたくなる所以なわけですが。(笑)
まぁ、アジ歴のせいじゃなくて、外交史料館の文書管理がなっちゃいないという噂もあるんですがね。

とりあえずそのアジ歴の史料を見てみましょう。
史料は、『公文雑纂・明治二十九年・第十一巻・外務省三・外務省三/在仁川領事館事務代理萩原守一ヨリ仁川港ノ情況ニ付続報ノ件(レファレンスコード:A04010024500)』。
1896年(明治29年)4月6日付『公第68号』から、該当部分を抜粋。

二.平壌附近に於て日本人の被害

3月9日、黄州治下浦に於て長崎縣平民土田譲亮が韓人の為めに殺害せられたる顛末は、当時平壌出張中の京城領事館警部平原篤武に於て詳細調査の上、当館附警部新納英彦に該件を引渡せり。
今其顛末を、現場より逃れ来りたる同人雇韓人より、口頭を以て在平壌平原警部に届出でたるを以て、事実取調の為め、同警部は巡査田中仲之助、税所珪介及朝鮮巡検5名を引率し、翌13日和船に乗じて平壌を発し、15日治下浦着。
同村民及土田が宿泊せし旅店主に就て尋問するに、土田は同月8日、黄州十二峯より韓人1名と共に韓銭6俵其他の貨物を小舟に搭載し鎮南浦へ赴く途次、同夜治下浦に着し、翌9日午前3時上陸して、同所旅人宿李化甫の家に到り、朝飯を喫し、将に乗船せんとして前庭に出しに、同宿の韓人4、5名、突然鉄棍を以て其背部を打ち、終に之れを撲殺して死骸を江中に投じ、直ちに船に至りて其所持せる韓銭其他を奪ひ、韓銭は之を宿主に預け、其の携帯品を奪て海州方向に遁走したりとの事にて、当時血痕尚ほ土に印せりと。
依て嫌疑者宿主の妻(当時宿主は遁走して家に在らず)、村民其他を引致し、発見したる韓銭其他を携へて、16日平壌に帰り種々詰問したる末、右は全く同宿旅人の所為なること判然として、各地方官に加害者の逮捕方を依頼し置たりとの事なり。
右土田譲亮は、長崎縣対馬国下郡厳原のものにして当港貿易商大久保機一の雇人なるが、商用の為め客年10月より鎮南浦に至り、後11月4日更に転じて黄州に在りしも、3月7日同地を発して帰仁の途次、終に此厄に罹りしものなりと云ふ。
依りて、遺留財産は右雇主に引渡し、其他同人死亡に関はり親族への通牒方等は、右雇主に命じ置けり。
ええ。
彼、今で言う長崎県対馬市厳原町出身の商人とされてるわけです。
仁川の貿易商、大久保機一に雇われて、商用で鎮南浦から黄州を回って仁川へ帰る途中に殺されたんですね。
しかも、韓国人4、5人に鉄棍で撲殺。
で、金は宿主に預け、所持品を奪って逃亡、と。
義挙?

単なる複数犯による強盗殺人じゃね?

続いて、再び『駐韓日本公使館記録9』の史料を見てみましょう。
本文はあまり重要ではない(笑)、1896年(明治29年)5月30日付『機密第41号』。

去2月11日の事変の前後に当り、当国各地に於て我人民に危害を加へたる朝鮮人の処分に関し、朝鮮政府と談判の模様并に右に関する卑見、去4月6日付機密第23号信を以て委■具報及置候処、其後引続き各領事の報告に依り本官より朝鮮政府に処分を要求致居候。
今日に至り、右被殺害者数43名、負傷被虐待者数19名相達候。
而して朝鮮政府に於ては、我要求に対し速に処断すべき旨、毎次回答し来り候。
我第1回の要求を提示して以来2ケ月余を経過し、数回厳重なる督責を受たる今日に於て、尚ほ未だ井出常太郎に関する1件を除く外、未だ何等の結局を見ざるは誠に不都合の至に存候(井出常太郎処分1件は京城領事より報告済に付略す)。
■又我被害者に関し朝鮮政府へ要求すべき件に付ては、去3月11日電報並に前号機密第23号信を以て具申致置候次第有之候処、4月10日附を以て「本邦人被害事件に関しては、3月16日付電信を以て御訓示の次第も有之候得共、3月11日附を以て本官より申出候通り、此際更に朝鮮政府に向て要求すべし」と御電訓相成候。
依て、時機を見計らひ早速右の要求方提出致す積りの処、当時は露公使との協議1件未だ結着不致、王妃殺害事件審問、政府部内の動搖等内外人民の注意を惹く事件迭出して、今日に至る迄適当の時期を認めず候処、這回本官帰朝を命ぜられ候に付ては、出発前に当り之を提出し置くこと必要と存候に付、本日を以て別紙乙号の通り照会致置候。
今日新に提出したる要求の中、生命及身体上の損害を償金額14万6,000円と算出致候は、被殺害者に関しては兼て電稟致候通り1名に付5,000円、負傷者及被虐待者に関しては各自申出の金額、若くは本官の評定したる額(別紙丙号)を以定めたる総計にて、更に之を類別すれば、被殺害者20名に対する金額14万円、負傷者及被虐待者14名に対する分6,000円に有之候。
将又被殺害者43名の中、29名を限り損害を要償致候義は、右29名は純然たる行商者若くは旅行者にして、其被れる損害に付朝鮮政府に要償するの理由充分ありと認むる者なれども、其他は電信工夫、軍夫、若くは測量班員等にして、即ち朝鮮政府にのみ責を帰すること能はざる者に有之候。
即ち、電信工夫の如きは元より電線守備隊に於て之を保護すべき者なるのみならず、其筋の命に依り危険を犯して行動する者なれば、万一の場合之を救済するの責を其筋に存すと云はざる可らざる義有之候。
測量班員に至ては、表面旅行者として内地に立入し者に候はば、朝鮮政府に其責を負はしむること能はずと云ふにあらざれども、是等の人達も亦た其筋の命に依り進退致候者に候はば、万一の場合に於て之を救済するの責罰、命令の出処の其所にありと云はざる可らずと相考候に付、是等の人員の被害に対して、朝鮮政府に要償致す事穏かならずと認め候に付、前條通り取計たる義に有之候。
負傷者、被虐待者に関しても、右同様の理由に依り19名の中5名を省き候。
尤も、右は本官限りの内定にして、朝鮮政府に対しては無論被害者総数に対する賠償として前記の金額要求したる義は御承知相成度候。
尚又、財産上の損害に付いては、調査上困難の次第有之。
別信を以て請訓致置候に付、追て御指揮を得て相当の手続を盡したる上、要求可致と存候。
右、本件今日迄の成行別紙相添及具報候也。
ざっくばらんに言えば、損害賠償請求ですね。
日本人の被害者数、この時点で62名。
そのうち、殺害された者43名、負傷及び虐待を受けた者14名。
死者43名のうち、29名は純然たる行商者或いは旅行者で、残りの14名は電信工夫、軍夫、若くは測量班員。
負傷者も、計19人のうち5名は電信工夫、軍夫、若くは測量班員である、と。

ただ、被害額の算定の被殺者1名に付き5,000円で20名で14万円というのが、全く意味不明。(笑)
つうか、1人5,000円で14万円なら28名だなぁ・・・。
まぁ、取りあえず置いておいて、これに附属する被害者リストを見てみましょう。

帝国民庶遭害に関し朝鮮政府と交渉月日表

遭害区別 照会月日 回答月日 身分 姓名
殺害 三月十八日 三月二十六日 売薬行商 井上誠之助
電信工夫 池畑兼太郎
電信工夫 三橋藤次郎
陸軍雇△旅行 米田豊吉
  〃 △ 〃 近藤卓爾
電信工夫 新井林吉
役夫 船越福松
電信工夫 立石参次郎
囑託 中田保吉
雑貨行商 吉岡藤十
陸軍雇△旅行 橋本留三
電信工夫 辻繁吉
  〃 田中彌市
  〃 井出常太郎
売薬及雑貨行商 遠藤松五郎
  〃 同人妻リヨ
行商 近藤栄藏
売薬商 吉崎祐太郎
三月三十一日 四月四日 売薬商 土田讓亮
四月四日 四月七日 漁業者 土橋佐久馬
  〃 村上多市
  〃 村上多作
  〃 田中貞吉
  〃 山崎金次郎
  〃 田中伊三郎
  〃 田川仁右衛門
  〃 大藏
  〃 平仁右衛門
  〃 小川平吉
  〃 尾崎徳二郎
  〃 尾崎庄太郎
  〃 角岡米市
  〃 山池甚太郎
  〃 宮田初太郎
四月九日 四月十日   〃 今弘重吉
  〃 川添秀明
  〃 中村熊市
  〃 木曾與右衛門
医師 山野好敏
四月二十八日 四月二十九日 電信工夫 山田友吉
  〃 下村藤吉
陸軍測量手 植田鹿太郎
  〃 小川茂幾
負傷 電信工夫△軍役夫 新井房吉
△陸軍雇旅行 東儀文美
△陸軍雇旅行 泥堂谷之助
△  〃 美田萬壽之助
△車夫 瀧野與三郎
売薬 吉富幸三郎
大工職 岡田直吉
林田貞十
  〃 酒見敬吉
漁業 桑岡竹次
  〃 山村善太郎
  〃 橋浦寅太郎
  〃 鷹野一次郎
雑貨及売薬行商 太田良三郎
  〃 白石亀三郎
受害者 五月二十八日 五月三十日 雑貨行商 山口久治郎
  〃 大国保国太郎
  〃 平田兼作
  〃 坂口己一郎

注意:身分上に△印を附したるは、朝鮮政府に対する照会に用いたる名称なり。


被殺害者43名、負傷者等19名。
被殺害者のうち、電信工夫、軍夫、若くは測量班員は、上から順に池畑兼太郎、三橋藤次郎、米田豊吉、近藤卓爾、新井林吉、船越福松、立石参次郎、中田保吉、橋本留三、辻繁吉、田中彌市、井出常太郎、山田友吉、下村藤吉の14名ということになります。

というわけで、土田譲亮は薬売りでした。

続いて、文中の『別紙乙号』は飛ばして、『別紙丙号』を見てみましょう。

職業 姓名 就業 1日間 就業費全額 休業日數 一日間休業損害 休業損害総額 合計
売業行商 吉富幸三郎 14日 2円 28円 31日 3円 93円 121円
大工職 岡山直吉 20日 1円75銭 34円94銭 34日 1円20銭 40円80銭 75円74銭
林田貞十 27日 2円9銭 56円48銭 27日 2円 54円 110円48銭
酒見敬吉 56円48銭 27日 2円 54円 110円48銭
漁業 桑岡竹次     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
山村善太郎     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
橋浦寅太郎     10銭 3日 2円 6円 6円10銭
鷹野一次郎     3円 7日 2円 14円 17円
行商 太田良三郎 7日 2円 14円 33日 3円 99円 113円
白石亀三郎 7日 2円 14円 33日 3円 99円 113円
山口久次郎       27日 3円 81円 81円
大久保国太郎       27日 3円 81円 81円
平田兼作       27日 3円 81円 81円
坂口已一郎       26日 3円 78円 78円
合計 1,000 円



ということで、負傷者及被虐待者14名に対する分6,000円ではなく、負傷者及被虐待者14名に対する分が1,000円、被殺者1名に付き5,000円で29名分で14万5,000円。
合計額は変わらず、14万6,000円というのが正解。

ちなみにこの損害賠償、約9年後の1905年(明治37年)になって、4分の3に減額されてようやく支払いが行われます。
理由。
日本側が大韓帝国の財政難を理解していたから。
昔から変わらず、半島には大甘ですな。

ということで、土田譲亮は、仁川の貿易商大久保機一に雇われた、長崎県対馬市厳原町出身の薬売りであり、韓国人4、5名によって鉄棍で撲殺され、電信工夫、軍夫、測量班員等が算定基礎から除外された損害賠償についても、彼は算定基礎の対象とされました。

で、金九が殺した土田譲亮って、誰?


(了)



金九は誰を殺したか(一)


AD

金九は誰を殺したか(一)

テーマ:

金九。
日韓翻訳掲示板に入り浸る廃人には、今更説明の必要もない人物でしょう。(笑)

 金九


一言で言えば、後期の上海臨時政府を主導した、テロリストの親玉。
ここでは真偽は触れないが、取りあえずの詳細はWikipedia及び独立記念館でも確認出来ます。

さて、本日問題を提起するのは、韓国に於いて「鴟河浦義挙」と呼ばれる事件。
上記Wikipediaでは、「1896年 閔妃殺害事件(1895年10月8日)に憤り、閔妃殺害に何の関係もない日本陸軍の土田譲亮中尉を殺害して投獄される。」と書かれている件。
独立記念館では、「1895年、明成皇后弑害事件が起こり、翌年2月、安岳郡治河浦で偶然、日本軍一人に会った時、彼の名は土田譲亮であった。白凡は彼を見て激奮を抑えきれず、その場で刀で彼を殺し、「国母の敵をうつため、この日本人を殺した」という文を塀に貼って自分の名前と住所まで書いた後、その場を去った。」と記載されている件ですね。
要するに、閔妃暗殺を憤慨して「日本陸軍中尉の土田譲亮を殺害した事件」を以て、「鴟河浦義挙」と呼んでいるわけです。

この「日本陸軍中尉の土田譲亮を殺害」という話は、金九自身の自伝であり、1928年から書き始めたとされる『白凡逸志』の記述によるものでしょう。

この部分の記述に関して、少し抜粋してみます。

 (前略)

まん中の部屋に、一人断髪した人がいるのが目についた。
その人が、誰か他の旅行者と挨拶を交わしているのを聞いていると、彼は姓は鄭氏で長淵に住んでいるという。
たしかに、長淵では、早くから断髪令が実施され、民間人でも髪を切った人が多かった。
しかし、その言葉遣いは長淵の方言ではなく、ソウルの言葉だった。
朝鮮語が随分上手だったが、わたしの見るところでは、彼は明かに倭奴だった。
よく観察してみると、彼の白い周衣(トゥルマギ)の下には、軍刀の鞘が見えた。
「どこへ行くのか」と声をかけられると、彼は「鎮南浦へ行くところだ」と答えた。
普通の商売人や工業家の日本人ならば、このように変装、変名するわけがないのだから、これはきっと国母を殺した三浦梧楼のやつかそうでなければその一味の者に違いない。もしいずれでもないとしても、わが国家と民族に害毒を流す者であることは明かなのだから、あいつを殺して少しでも国の恥をそそごう」とわたしは決心した。

 (中略)

わたしは主人に、「あの倭は誰か」と尋ねた。
その答えによれば、あの倭は黄州で朝鮮舟を1隻借り、それに乗って鎮南浦へ行くところだったということだった。
わたしは主人に命じて、その舟の船員を呼ばせ、舟にあったその倭の所持品を取り揃えて持って来るようにさせた。
やがて船員たちがその倭の持ち物を持ってきて、「手前どもは、ただ船賃を貰ってあの倭を乗せた罪だけしかありませんから、許してください」と懇願した。
所持品によって調査したところ、その倭は陸軍中尉土田譲亮という者で、葉銭800両がその荷の中に入っていた。

 (後略)
さて、この土田譲亮。
どのサイトを見ても、無条件に陸軍中尉とされていますが、本当に軍籍があるのを確認した人は居るんでしょうか?

この疑問は、ずっと私の中にあり、もしかして金九はこの時期反日活動などしておらず、単なる箔付けのための嘘ではないかと思っていたんですね。
そして、昨日までの俄館播遷について調べる中で、該当する史料を発見したので報告しておこう、と。
調子に乗って、ENJOY Koreaに予告スレ立てちゃったわけですが。(笑)

ということで、予告もしていますし、結論から述べましょう。
土田譲亮は史料中に実在し、丁度俄館播遷の頃に殺害されているのも事実です。
しかし・・・。

史料は、『駐韓日本公使館記録9』より。
小村寿太郎から李完用外務大臣への、1896年(明治29年)3月31日付『公文第20号』。

以書翰致啓上候。
陳者我仁川領事之稟■に拠るに、長崎縣平民土田譲亮なる者朝鮮人1名(平安道龍岡居住林学吉二十歳)を隨へ、黄州より帰仁の為め鎮南浦へ向ふの途次、黄州十二浦より韓船一隻を僦ひ大同江を下り、3月8日夜治下浦に泊し、翌9日午前3時頃同所出帆の用意を了へ、喫飯の為め同所旅宿業李化甫方に到り再び帰船の際、同家の庭前に於て同家宿泊韓人4、5名の為め打殺せられたり。
雇韓人林も亦殺害の難に遭はんとせしも、辛ふじて危険を逃れ、同12日夜平壌に来り同所駐留平原警部に右の顛末を訴へたるを以て、同警部は巡査2名、巡検5名を率ひて同15日現場に臨み検視を行はんとせしに、右旅宿主人は警部等の到を聞きて逃走し、殺害者の屍体は既に河中に投棄したるを以て検死することを得ず。
只旅宿の庭前血痕■■たるを認めたるのみ。
而して警部一行は郡吏等へ厳談の結果、加害の嫌疑者7名を伴ひ帰りて取調べたるに、何れも加害本人にあらずして只前顕事体を聞得たるのみ。
被害者土田譲亮の遺留財産は、韓銭10俵、行李1個にして、中韓銭2俵は何者か之奪取し、残余は無事仁川領事館に引取りたる趣に有之候。
査するに、本件被害の顛末は前顕我領事の稟報に拠つて事実明了なるのみならず、其加害者の如きも容易に捜索せられ得べく儀と存じ候に付、貴政府に於て時日を移さず直に平壌観察使並に当該郡守に厳重なる訓令を下し、日を期して加害者を拿捕したる上、相当の御処分有之度候。
此段照会旁得貴意候。

敬具
へー。
他の点ではそれなりに自伝と整合してますが、長崎縣平民土田譲亮ですなぁ。
(・∀・)ニヤニヤ


今日はこれまで。