さて、前回は「提示されなかった委任状」について。
前々回は「御璽偽造と李泰鎮いぢり」をお送りしました。
ついて来れてますか?(笑)

今日は、記事そのものへのツッコミを行って、今回の連載「俵孫一の訓示からの逃避」を終わらせたいと思います。(笑)
さて。
どのように進めて行けば良いか迷ったんですが、大まかに笑える部分は既に前2回でやりましたので、チマチマと順番に当該部分を引用しながら見ていく事にします。

まずは、「今から100年前の1907年4月、大韓帝国のイ・ジュンとイ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の「密使」は、日帝による侵略の不当性を訴えるため、オランダ・ハーグで開かれていた第2回万国平和会議の会議場へと旅立った。
いや、自分で地図載せてる通り、4月に旅立ったのは李儁だけですが?
( ´H`)y-~~

日本による妨害は執拗(しつよう)なものだった。
へぇ、どんな?
( ´H`)y-~~

密使らは死を覚悟していた。
また想像で物を言う。
( ´H`)y-~~

「ドゥ・ヨン」ホテルの位置に建てられた「イ・ジュン烈士記念館」。訪ねる人もほとんどいないこの場所には、「信任状」の写真がきれいに飾られている。
誰か行ってやれよ、韓国人。
( ´H`)y-~~

白紙の信任状を渡したということだ。
何も書いていない白紙は、既に信任状と呼べないと思います。
( ´H`)y-~~

事をしくじった場合、善後策を講じることのできなかった高宗としては最善の防御策であり、目前に迫っていた万国平和会議を前に焦っていた密使らにとっても、ほかに選択肢がなかったのだろう。
現地で騒いだのに失敗したら、結局同じジャン。
( ´H`)y-~~

「当時、万国平和会議の副総裁だったドゥ・ボフォートが密使らと話を交した後、“本物の密使”との判断を下した」
本当だとしたら、オランダ人もテキトーだなぁ。(笑)
( ´H`)y-~~

イ・ジュンは3月24日夜、徳寿宮重明殿で皇帝に極秘裏に拝謁したが、やはり信任状を受け取ることはできなかった。
何の史料から分かるのか、ちょっと知りたい。
つうか、『笞100の刑』の宣告から20日後くらいに極秘拝謁って、元気だねぇ。
( ´H`)y-~~

しかし、密使らは出国が迫った4月末まで、誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の信任状」すら受け取れず、高宗はロシアから送られた招待状も密使らに渡すことができなかった。
結局、物的証拠皆無なわけね。
( ´H`)y-~~

ただ明らかな事実は、信任状に問題があることを知りつつも、急きょ出発しなければならないほど、3人の密使のハーグ行きが非常に差し迫った状況の中で行われたものだったということだ。
「信任状に問題がある」とか言うレベルじゃねーだろ。(笑)
大体、差し迫ってたなんて言いつつ、地図見ても分かるとおり、1ヶ月もウラジオストックで遊んでんじゃねーか。
何が「明らかな事実」なんだか。
( ´H`)y-~~

イ・ジュンが釜山港を出発したのは、信任状の日付からわずか3日後の4月23日だった。
「誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の信任状」すら受け取れず」はどこに行った?
( ´H`)y-~~

しかし、ハイデブリンク氏は、この3人が第2次日韓協約は強制されたものであると訴える書簡を各国代表に送ったことは、「国際社会に向けた最後の訴え」として大きな意義があると指摘した。
何、そのよく頑張った史観。
( ´H`)y-~~

この抗議書について、ハイデブリンク氏は「当時、弱小国が作成した多くの抗議書を見てきたが、この抗議書のように明瞭かつ卓越した表現で、列強による侵略の不当性を訴えた文書はほかにない」と高く評価した。
要するに、これ言いたかっただけだろ。(笑)
( ´H`)y-~~


以上、前回前々回の分を除いた形で突っ込んでみました。

まぁ、「ハーグ密使事件」も100周年を迎え、HDが吹っ飛んで休憩中のkimuraお兄さんのブログ「木村幽囚記」の中で取り上げられた、「< 李ジュン烈士 切腹の 真相は?>(連合ニュース6月22日)」のように、李儁の死因が切腹じゃない事は50年も前に結論が出ていて、大韓毎日申報の梁起鐸が申采浩やベセルと協議し、 李儁の憤死を切腹として新聞に使うようにしたという証言があったりしましたし、今回の御璽が偽造だった話や、委任状がそもそも提示されていないらしいとか、今までの通説間違じゃんという話がボコボコ出てきているわけです。

韓国の「愛国精神の象徴的教材」のためだからといって、日本を貶めるのは勘弁して欲しいですな。


つうか、何度も記事を読み返しているんですが、一昨年の6月22日のエントリーの1907年(明治40年)7月4日『来電第125号』の記述、「然れども誰も取合ふものなし。」。
外交権云々以前に、そりゃ門前払いされて当たり前だろ、と。(笑)


ってことで、「★ハーグ密使事件100周年」はお終い。



★ハーグ密使事件100周年(一)
★ハーグ密使事件100周年(二)
★ハーグ密使事件100周年(三)


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果たして、当初の目的である「更に分かりやすくまとめ」る事が出来ているのか、非常に不安な昨今、如何お過ごしでしょうか?(笑)
前回は、李泰鎮せんせいいぢりで終わってしまいました。
あれだけいぢり甲斐のある素材も珍し・・・くは無いんですよね、あの国。(笑)

さて、今日は「提示されなかった委任状」についてのお話を。
オランダ国立文書保管所の担当者・ハイデブリンク氏曰く、

「3人がハーグで皇帝の信任状を提示したという記録はまったく存在しない」
ですね。

これについては、「■二年目の回答 関連スレ」の方でちょっとツッコみました。
まずは、一昨年の6月22日のエントリーの、1907年(明治40年)7月4日『来電第125号』から一部抜粋。

尚、同人等は韓帝の全権委任状を有すと謂ひ居れり。
まぁ、既に「李相卨(咼の上にト)は韓帝に謁見を遂げたる後」なんて嘘吐いてるわけですが、取りあえず「皇帝の全権委任状を持っているニダ!<#`Д´>」と。

続いて、一昨年の6月26日のエントリーの、1907年(明治40年)7月7日付『来電第57号』から一部抜粋。

海牙に於て、陛下の派遣委員は委任状を所持することを公言し、且新聞に依り日本の韓国に対する行動を悪意的に非難したる以上は、彼等が陛下より派遣せられたることは、世界の熟知する所なりとの事を明白に申込みたり。
前掲、1907年(明治40年)7月4日『来電第125号』に基づいての発言かも知れませんが、取りあえず委任状の所持を公言、と。

ついでに、★ハーグ密使事件100周年(一)の記事中より。

最近、オランダ・ライデン大のクン・ツィステル教授は、高麗大が主催した学術大会で、「当時、万国平和会議の副総裁だったドゥ・ボフォートが密使らと話を交した後、“本物の密使”との判断を下した」という趣旨の発言をした。
しかし、この際も信任状を示したわけではなかった。
これについて、やはりHDが吹っ飛んで休憩中のkimuraお兄さんのブログ「木村幽囚記」の中で、「< ヘイグ 特使は 列強の 目に どうに 映っただろうか?>」として取り上げられています。
ってことで、元記事である(連合ニュース6月13日)の機械語翻訳から抜粋。

ドボポトは朝鮮使節団の到着消息を聞いて ホテルで行って 彼らを 会った.
特使を 会った ドボポトの 一番目質問は"あなたたちが 朝鮮皇帝が 親しく送った謝絶が当たりなさい?"であった.

高宗の特使は 皇帝の勅令を持ってあると言ったし ドボポトは彼らが偽り密使がないという判断を下った.
しかし 使節団の活動に 大海は極めて懐疑的だった.
やはり、「皇帝の勅令を持ってある」と言ってるだけなんですね。
口だけ大将。(笑)

そして、前出の「< ヘイグ 特使は 列強の 目に どうに 映っただろうか?>」(連合ニュース6月13日)によれば、

李ジュンの 噴射( 憤死) わ 李ウィゾンの 積極的な 言論活動は ついに 主要 言論の 関心を 導いて 出すのに 成功した.
ということで、主要言論が関心を持ったも係わらず、委任状が提示された記録が無い。
そんな中、記事によれば1907年8月に突然ニューヨークの雑誌『インディペンデント』に掲載されるわけですよ。
何じゃそりゃ?と。(笑)

内容は前回の通り非常に疑わしい。
おまけに、現地で提示されない委任状って何ですか?と。(笑)

というわけで、再び一昨年の6月26日のエントリーの1907年(明治40年)7月7日付『来電第57号』から一部抜粋。

皇帝は急に、右は朕が与り知る所に非ずとの弁明せらるるも、本官は今日の事、最早虚言を弄して解決すべきに非ず。
この、「右は朕が与り知る所に非ず」って、存外マジだったんじゃね?と。(笑)

ってところで、今日は早めに。



★ハーグ密使事件100周年(一)
★ハーグ密使事件100周年(二)


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前回は、俵孫一の訓示の長さに飽きていたところへ「★ハーグ密使事件100周年」という面白い記事が引っかかり、その記事とENJOY Koreaに立てたスレの紹介という、実に手抜きのエントリーをお送りしました。(笑)

で、今日は前回の予告通り、「更に分かりやすくまとめて、他にもツッコんでみる」事を目標にお送りしたいと思います。
ちなみに、今回の記事は「ハーグ密使事件」のカテゴリーと、李泰鎮教授が折角また馬鹿を晒してくれているので、「バファリン作戦」のカテゴリーへのダブルエントリーとなっています。
同記事が二つ並んでいるのはそのためで、重複というわけでもありませんので宜しく。

それでは本題に入りましょう。
まずは、委任状に関する整理。

一昨年の6月17日のエントリーで、

ここで私が疑問に思っているのは、ハーグ密使の所持していた委任状の日付である。
大韓光武11年4月20日。
1907年4月20日である。
この時点で、李儁は兎も角として、北間島にいた李相卨(咼の上にト)、ロシア領内におり未だ名前の出てこない李瑋鐘が、委任状に名前を記載されている事になる。
条約書類発見と玉璽偽造事件を見てきた私などは、当然思ったりするわけである。

これ、本物の委任状ですか?(笑)

と書いた。
元々、同エントリーの1907年(明治40年)5月24日付『機密第6号』中、

今般同人等協議の末、元学部協弁李相卨(咼の上にト)なる者の北間島に在りて学校を私設し、子弟を教育しつつありしを当地に呼寄せ、更に謀議を凝らしたる結果、韓国の将来に関し、直接露国政府に向ひ嘆願する為め、委員簡派の議を決定し、前記李儁・李相卨(咼の上にト)及当地の富家車錫甫の子某の三名は、愈々去るに11日を以て当地出発、露都に向ひたる由に有之候。
の記述の時点で「誰が委任されたか」について疑われたわけですね。
ここで、前回の地図を見てもらうと更にイメージが浮かびやすいと思います。

ハーグ密使行程

ウラジオストックで合流した李相卨(咼の上にト)については前述の史料から疑わしく、サンクトペテルブルグで合流した李瑋鐘に至ってはあり得ないだろ。
どうやって連絡とってたんだよ。(笑)
という状況証拠による類推だったわけです。

さて、今度は前回の記事。
イ・ヤンジェ氏(イ・ジュン烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)曰く、

信任状に押された皇帝の印章である御璽が、本物ではないことは明らかだ。
皇帝のほかの親書と比べて見ると、印刻の字体が大きく異なり、印章を押したのではなく、筆で描かれたもので、にじんだ跡が見える
印刻専門家のチョン・ビョンレ氏(古岩篆刻芸術院院長)曰く、

“帝”の字は、上の部分の画の長さや間隔がそろっておらず、“璽”の字も真ん中の文字の切れ目がないことから見て、ほかの文書にある御璽とは完全に異なっている。
非常につたない実力で作成した模作に過ぎない
と断定しちゃうわけです。
これを受けて朝鮮日報も、

密使らは出国が迫った4月末まで、誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の信任状」すら受け取れず、高宗はロシアから送られた招待状も密使らに渡すことができなかった。
とするわけですね。
そんな中、我等がイテジン(李泰鎮、李泰鎭)せんせい。

わたしが見ても信任状の御璽や手決に違和感が感じられる。
しかし、皇帝の命もないのに特使として活動することはできない。
そのため、信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状と見るべき
■二年目の回答」のpolalis氏の発言より。

「しかし、皇帝の命もないのに特使として活動することはできない。」…ここまでわかっていれば、もう少しなのにねぇ。
御璽が偽物でも、皇帝の命はあったとする李泰鎮せんせい。
勿論、そんな事を示す史料があるはずも無く、既に、絵合わせ状態の李泰鎮せんせい。
それでも、外交通商部で「日本侵略史」を講演したりする、ソウル大学国史学科のとても偉い李泰鎮せんせい。

同じく「■二年目の回答」から、jpn1_rok0氏の発言。

そう言えば、李泰鎮って、併合役に皇帝の璽がないことを不法の根拠としてなかったっけ?w
併合は皇帝の璽が無いから無効で、密使の委任状は璽が偽物でも皇帝の命はあったとする李泰鎮せんせい。
絵合わせ大好きな李泰鎮せんせい。
それでも、外交通商部で「日本侵略史」を講演したりする、ソウル大学国史学科のとても偉い李泰鎮せんせい。

続いて、同スレよりhitkot氏の発言。

♪またマスコミの都合でトリミング加工< `∀´>。w
これは、バファリン作戦の際の李泰鎮教授の回答14、「御'はもとは私のノート記録にはあったが、新聞のインターネト画像では切られそうです。」を当てこすった発言でしょう。(笑)

兎も角、hitkot氏の指摘通り委任状の冒頭の3行が削られています。
実はこの3行目が重要だったりするわけです。

まずは「擡頭」。
敬意を高めた表現で、対象となる偉い人の名前なんかが書かれる時に、普通の部分よりチョコンと飛び出る書き方。
勿論、自分が偉い人はやりません。

次いで、冒頭の「大皇帝勅日」。
「大皇帝が言いました」ですので、これまた高宗の書いたものでは無いわけです。

ってことで、本文も「誰か」が書いたもの、なわけですね。

で、勢い余って「手決(自筆署名)」にまで違和感を感じちゃう、流石ボクらの李泰鎮せんせい。
李泰鎮教授の言葉も勘案すると、次の通りになります。

ハーグ密使委任状3

先生!
高宗が関与した部分が一箇所も無くなります!(笑)


「信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状と見るべき」
先生!
これは委任状でも白紙委任状ですらなく、既にただの白い紙です!(笑)


それでも、外交通商部で「日本侵略史」を講演したりする、ソウル大学国史学科のとても偉い李泰鎮せんせい。
( ´H`)y-~~


僕らの李泰鎮教授の素敵さを満喫したところで、今日はここまで。



★ハーグ密使事件100周年(一)


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俵孫一の訓示が長すぎて、倒れて保健室に運ばれそうなので、ちょっと休憩。(笑)
ってことで、標題。

ハーグ密使事件から100周年ということで、何やら朝鮮日報が特集しているらしい。
先月も、HDが吹っ飛んで休憩中のkimuraお兄さんのブログ「木村幽囚記」で、【【コラム】100年前の6月(上)】(朝鮮日報6月7日)と、【【コラム】100年前の6月(下)】(朝鮮日報6月7日)の2つの記事が紹介されていました。

で、今日は合計4つの記事を紹介したいな、と。
全部纏めて掲載します。


まともな「信任状」もない旅立ち(上)
まともな「信任状」もない旅立ち(中)
まともな「信任状」もない旅立ち(下)
ハイデブリンク氏「信任状に関する文書、所蔵していない」


今から100年前の1907年4月、大韓帝国のイ・ジュンとイ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の「密使」は、日帝による侵略の不当性を訴えるため、オランダ・ハーグで開かれていた第2回万国平和会議の会議場へと旅立った。

しかし、当時世界を牛耳っていた列強は、彼らに関心を持とうとせず、日本による妨害は執拗(しつよう)なものだった。
国運の危機は頂点に達し、密使らは死を覚悟していた。
彼らがハーグに到着したのは6月25日のことで、イ・ジュンは7月14日に現地で亡くなった。
本紙は、密使らの動きを逆追跡(ハーグ←サンクトペテルブルク←ウラジオストク←釜山←ソウル)し、この100年間埋もれたままになっていた新事実を発掘する。

時々刻々と締めつけを強める日帝の圧迫、そして国際社会から疎外され、冷遇を受け、絶望と鬱憤(うっぷん)に倒れていった彼らの絶叫が今も耳に響いてくるかのようだ。


◆密使らが到着した100年前の駅はそのままだが…

2007年6月15日、オランダ・アムステルダムのスキポール空港から汽車に乗り、30分余りでハーグ中央駅に到着する。
ここから1キロ程度離れた場所に、今でも100年前の姿をそのままとどめたハーグHS駅がある。

1907年6月25日、3人の東洋人が暗い表情を浮かべながら、ハーグHS駅に降り立った。この3人の東洋人とは、前平理院(最高裁)検事のイ・ジュン(48)、前議政府参賛のイ・サンソル(37)、前駐ロシア公使館参書官のイ・ウィジョン(20)。
釜山港を出発してから2カ月後、数万里におよぶ旅路がここで終わりを告げた。

万国平和会議は既に10日前に開幕していた。
彼らの足取りは重かったが、取り急ぎ、みすぼらしい「ドゥ・ヨン」ホテルに宿所を定めた。
そして、その翌日に彼らは「皇帝の玉璽が押された信任状」を手にし、会議への出席を要求したとされている。

しかし、今回の取材で会ったオランダ国立文書保管所の担当者・ハイデブリンク氏は、本紙とのインタビューで意外な事実を指摘した。

「3人がハーグで皇帝の信任状を提示したという記録はまったく存在しない」

「ドゥ・ヨン」ホテルの位置に建てられた「イ・ジュン烈士記念館」。訪ねる人もほとんどいないこの場所には、「信任状」の写真がきれいに飾られている。
この写真は、イ・ジュンがこのホテルの部屋で亡くなってから1カ月後の1907年8月、米ニューヨークで発行された雑誌『インディペンデント』に掲載されたものだ。
4月20日付となっているこの信任状には、3人の特使を派遣し、韓国の外交権回復に当たらせるという内容が記されている。
左側には「大皇帝」という文字の下に手決(自筆署名)があり、その下に「皇帝御璽」の印が押されている。
以来、この写真は多くの書籍に転載された。


◆信任状の御璽を偽造

しかし、この信任状に押された皇帝の印章は、偽造の可能性があるとの主張がソウルで提起された。
書誌学者のイ・ヤンジェ氏(イ・ジュン烈士殉国100周年記念事業推進委員会総務理事)は「信任状に押された皇帝の印章である御璽が、本物ではないことは明らかだ。皇帝のほかの親書と比べて見ると、印刻の字体が大きく異なり、印章を押したのではなく、筆で描かれたもので、にじんだ跡が見える」と指摘した。

また、印刻専門家のチョン・ビョンレ氏(古岩篆刻芸術院院長)も写真を見た後、「“帝”の字は、上の部分の画の長さや間隔がそろっておらず、“璽”の字も真ん中の文字の切れ目がないことから見て、ほかの文書にある御璽とは完全に異なっている。非常につたない実力で作成した模作に過ぎない」と断定した。

だが、御璽が偽造とは一体どういうことなのだろうか。
ソウル大国史学科の李泰鎮(イ・テジン)教授は「わたしが見ても信任状の御璽や手決に違和感が感じられる。しかし、皇帝の命もないのに特使として活動することはできない。そのため、信任状には高宗の意中が込められており、任務を口頭で伝え、後で書き入れるようにした委任状と見るべき」と推測した。

つまりこれは、日本軍が宮中を取り囲んだまま、水も漏らさぬほど厳重に皇帝を監視していたため、白紙の信任状を渡したということだ。
事をしくじった場合、善後策を講じることのできなかった高宗としては最善の防御策であり、目前に迫っていた万国平和会議を前に焦っていた密使らにとっても、ほかに選択肢がなかったのだろう。
ハーグ密使委任状2


◆高宗の「特使」派遣努力は挫折

最近、オランダ・ライデン大のクン・ツィステル教授は、高麗大が主催した学術大会で、「当時、万国平和会議の副総裁だったドゥ・ボフォートが密使らと話を交した後、“本物の密使”との判断を下した」という趣旨の発言をした。
しかし、この際も信任状を示したわけではなかった。

イ・ジュンは3月24日夜、徳寿宮重明殿で皇帝に極秘裏に拝謁したが、やはり信任状を受け取ることはできなかった。
信任状はその後、尚宮(宮廷女官)や外国人のハルバート博士のように、日本軍によるチェックを余り受けずに済む人物によって持ち出されたものと推定されてきた。

ここで再びハーグ現地のイ・ジュン烈士記念館に話を戻すと、記念館にはイ・ギハン館長が探し出したロシア側の招待国リストの写本が展示されている。
このリストによると韓国は、47カ国におよぶ招待国の中で12番目に記されている。
1905年の第2次日韓協約(韓国の外交権を日本側に譲り渡した条約)直前、ロシア皇帝ニコライ2世が06年に予定されていた万国平和会議の招待状を高宗に送った。
このとき高宗は特使派遣に非常に積極的な姿勢を見せ、列強の国家元首らに親書を送り、第2次日韓協約が無効であることを訴えた。
しかし、既に外交権を喪失していたため、皇帝の努力は挫折に終わった。

その後、万国平和会議が1年延期され、今度は民間から特使派遣を唱える声が上がった。
1907年3月、ソウル尚洞教会を中心に、全徳基(チョン・ドクキ)、イ・ジュン、李会栄(イ・フェヨン)などの人物らがこの問題について協議し、この3人を特使として派遣するという原則が打ち出された。
そこでイ・ジュンが高宗に拝謁し、「特命」を受けたというのがこれまでの通説だった。
ハーグ密使行程



◆密使らはどれほど暗鬱で切迫していたのか

しかし、密使らは出国が迫った4月末まで、誰かが代わりに持ってくるはずの「印章だけが押された白紙の信任状」すら受け取れず、高宗はロシアから送られた招待状も密使らに渡すことができなかった。
その後も力なき皇帝は、密使を自分が送ったということを是認も否認もできなかった。

ただ明らかな事実は、信任状に問題があることを知りつつも、急きょ出発しなければならないほど、3人の密使のハーグ行きが非常に差し迫った状況の中で行われたものだったということだ。
イ・ジュンが釜山港を出発したのは、信任状の日付からわずか3日後の4月23日だった。
2カ月後、ハーグHS駅に到着したとき、彼らの心中はどれほど暗鬱かつ切迫していたことだろうか。

「イ・ジュンら3人の密使は、皇帝から特使として委任されたと主張したが、ハーグでそれを証明する証拠を提示したという記録は残っていない」

ハーグにあるオランダ国立文書保管所のイリス・ハイデブリンク氏(57)=写真=は、10年余り前から韓国関連の外交文書を整理してきた担当者だ。

信任状に関する記録について、ハイデブリンク氏は「密使らが何も示さなかったため、われわれも信任状に関する文書を所蔵していない」と述べた。

またハイデブリンク氏は、当時密使らに関心を示した各国の記者の中には、彼らが本当に韓国皇帝の命を受けた代表なのか疑う人もいたと話した。
しかし、ハイデブリンク氏は、この3人が第2次日韓協約は強制されたものであると訴える書簡を各国代表に送ったことは、「国際社会に向けた最後の訴え」として大きな意義があると指摘した。

3人の密使は、各国代表に送った書簡で、「日本の奸巧がわが国と友邦国家との間で維持されてきた友好的外交関係を断絶させ、恒久的な極東の平和を脅かすことを、われらが独立国家としてどうして受け入れることができようか」と堂々たる叫びを上げた。

この抗議書について、ハイデブリンク氏は「当時、弱小国が作成した多くの抗議書を見てきたが、この抗議書のように明瞭かつ卓越した表現で、列強による侵略の不当性を訴えた文書はほかにない」と高く評価した。

まぁ、色々とツッコミ所も多いわけですが、最大のツッコミ所である「委任状のハンコが偽物」の部分、「まともな「信任状」もない旅立ち(中)」を使って2つのスレッドをENJOY Koreaに立てて、ツッコんでみました。

■二年目の回答
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1880884


■二年目の回答 関連スレ
http://www.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1880896


これに関して、更に分かりやすくまとめて、他にもツッコんでみようかな、というのが今回の話。


で、取りあえず記事のせいで長くなったので、今日はここまで。(笑)



強制退位?

テーマ:

今回紹介する史料が収載されているのは、アジア歴史資料センター『韓国二於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並二同国皇帝ノ譲位及日韓協約締結一件 第一巻/分割1(レファレンスコード:B06150550500)』。
以前、高宗の譲位に関して、全12回で「皇帝譲位」という連載を書きました。 → 【参考:連載最終回】
その際の使用史料は、「統監府史料」からの引用だったわけですが、ようやくアジア歴史資料センターでもアップされたわけです。

今回取り上げる『韓国二於テ第二回万国平和会議へ密使派遣並二同国皇帝ノ譲位及日韓協約締結一件 第一巻/分割1(レファレンスコード:B06150550500)』中、ハーグ等からの英文電報以外は殆ど掲載済みであったわけですが、一部取り上げていない史料を見つけました。
日本政府側の廟議の内容についてです。
統監である伊藤の元には、その検討結果は昨年の6月26日のエントリーで取り上げた1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』で伝えられ、さらに詳細については、現地に向かった当時外務大臣の林薫から伝達されたと思われます。

さて史料ですが、86画像目から88画像目がその1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』になっています。
一応、再掲します。

西園寺総理大臣より。

外務大臣宛第57号貴電の件に関しては、元老諸公及閣僚とも愼重熟議の末、左の方針を決定し、本日御裁可を受けたり。
即ち帝国政府は現下の機会を逸せず、韓国内政に関する全権を掌握せんことを希望す。
其の実行に就きては、実地の状況を参酌するの必要あるに依り、之を統監に一任すること。

若、前記の希望を完全に逹すること能はざる事情あるに於ては、少くとも内閣大臣以下重要官憲の任命は、統監の同意を以て之を行ひ、且統監の推薦に懸う本邦人を内閣大臣以下重要官憲に任命すべきこと。

前記の趣旨に基き、我が地位を確立するの方法は韓国皇帝の勅諚に依らず、両国政府間の協約を以てすること。

本件は、極めて重要なる問題なるが故に、外務大臣韓国に赴き親しく統監に説明すること。

本件に就きては、陛下より閣下に対し特に優渥なる御言葉あり。
委細外務大臣より御伝逹致すべく、同大臣は来る15日出発。
貴地へ直行の筈。
で、89画像目が外務省による書き起こし、90画像目がその校正原稿となっているようです。
勿論、明記はされていませんので、不確実ですが。

続いての91画像目及び92画像目が、これまた明記はされていないものの、廟議で話し合われた案だと思われます。

第一案
韓国皇帝をして其大権に属する内治政務の実行を、統監に委任せしむること。

第二案
韓国政府をして、内政に関する重要事項は、総て統監の同意を得て之を施行し、且施政改善に付統監の指導を受くべきことを約せしむること。

第三案
軍部大臣、度支部大臣は、日本人を以て之に任ずること。

韓皇をして皇太子に譲位せしむること。
将来の禍根を杜絶せしむるには、斯の手段に出るも止むを得ざるべし。
但し、本件の実行は韓国政府をして実行せしむるを得策と為すべし。

国王并に政府は、統監の副署なくして政務を実行し得ず。(統監は、副王若くは摂政の権を有すること)

各省の中、主要の部は日本政府の派遣したる官僚をして、大臣若くは次官の職務を実行せしむること。
悪辣な日帝の陰謀です。
で、次が今回紹介したかった史料ですね。
93画像目です。
ただ、94画像目が87画像目と同一、95~96画像目が91~92画像目と同一、97画像目が93画像目と同一であり、前者の方が見やすいので、下に掲げる画像は97画像目の物を使用します。

強制譲位? (クリックで拡大)

山縣 寺内 多数
一.韓皇日本皇帝に譲位 今日は否 今日は否
二.韓皇皇太子に譲位 今日は否 今日実行
三.関白設置(統監)
四.各省に大臣又は次官を入れる
五.顧問を廃す
六.統監府は幕僚に限り、他は韓政府に合併
七.実行は統監に一任す
八.外務省より高官派出、統監と打合(外相)
九.勅諚説
十.協約説
十一.協約に国王同意せざるときは、合併の決心
(即ち(一)を実行す)
さて、この決定事項に関しては、1907年(明治40年)7月12日付『来電第141号』のとおり、結局統監伊藤博文に全く一任され、昨年7月3日のエントリーでの1907年(明治40年)7月22日付『来電第164号』で、「韓国政府との協商は、如何なる程度に於てせらるべき統監の御腹案なりや。其の辺の事、至急承知致したし。」と協約内容の照会があります。
そして、昨年7月4日のエントリーの1907年(明治40年)7月24日付『往電第86号(極秘)』のとおり回答され、ほぼ伊藤の意向どおりに第三次日韓協約が締結されています。。
先ほどの、悪辣な日帝の陰謀は伊藤に一任され、最も穏和な線で協約が妥結された事になります。

一方で、昨年7月7日のエントリーで伊藤が述べていた、

尚、今日に於て韓国の合併云々の議論あり。
此の如きは、第一に非常の負担を日本に増加するものなること言を俟たず、廟議に於ても諸般の考量は、充分之を盡くし其意見を決定したるものにして、此議論の如き、今更論議の余地なしと考ふ。
勿論韓国に於て、我提議を拒絶したる場合には、無論強制的の処置を執ること言ふ迄もなきも、幸に承諾せしを以て、此等の処置も亦之を執るの必要を見るに及ばざりしなり。
乍然、政府部内に於ては今後異論なかりしとの所も、今後国民の側に於て、多少の擾乱を生ずることは予め期せざるべからずと考へ、之に対しては本国より軍隊を招き、充分鎭圧の手段を講ずる覚悟なり。
は、将に上記可否表の「十一.協約に国王同意せざるときは、合併の決心」を指していると考えれば、総ての辻褄が合います。

さて、この史料。
併合と日韓協約の内容は上記の通りなわけです。
で、今日の本題。
高宗の純宗への譲位に同意しているのは、寺内のみであり、山縣も多数も「否」としております。

寺内以外皆、譲位を否定していますが。

勿論、寺内とは寺内正毅であり、廟議であるとすれば山縣とは恐らく山縣有朋ではなく、山縣伊三郎でしょうね。
尤も、名前が寺内の上にあるってことは、有朋の可能性も無いわけでは無いですが。

これに対して、韓国統監の伊藤博文も昨年6月26日のエントリーで譲位を示唆する李完用の言に対し、「之に対し本官は、尚熟慮すべしと答へ置けり。」なわけで。
で、同じ電文で廟議と訓示を請い、その結果が寺内以外皆「否」なわけで。


良く言われる強制退位って、誰に強制されたの?( ´H`)y-~~



【 参考 】
皇帝譲位(一)
皇帝譲位(二)
皇帝譲位(三)
皇帝譲位(四)
皇帝譲位(五)
皇帝譲位(六)
皇帝譲位(七)
皇帝譲位(八)
皇帝譲位(九)
皇帝譲位(十)
皇帝譲位(十一)
皇帝譲位(十二)



さて、今回でハーグ密使事件関連史料も最終回。
事件とその後について、最後の史料をお送りしたい。
それでは早速、1907年(明治40年)7月4日『来電第125号』より。


都筑来電第30号左の通

往電第33号に関し、三名の韓人は、其後引続き当国外務大臣各国委員を歴訪したり。
然れども誰も取合ふものなし。

昨日、其の居処を突留めたるに付、早速人を派し内偵せしめたる所、右は前議政府参賛李相卨(咼の上にト)、前判事李俊、前公使館書記官李瑋鍾の三名にて、同人等の謂ふ所に依れば、李相卨(咼の上にト)は韓帝に謁見を遂げたる後、4月20日頃李儁 (俊) と共に韓国を出発し、浦塩に出て病気に罹りたる為、暫く同地に滞在し、其れより西比利亜鉄道に依り西行。
露境にて李瑋鍾と落合ひ、三人同道6月25日当地に着したるが如し。
尚、同人等は韓帝の全権委任状を有すと謂ひ居れり。
引続き内偵中なり。



誰も取り合うものなし。

ところで、6月17日のエントリーでの日を追った報告と、密使の言葉。
どちらが正しいんですかねぇ。(・∀・)ニヤニヤ

次に紹介するのが、上記『来電第125号』と同日約一時間後の『来電第127号』。


佐藤公使来電第34号

当地に於ける韓人三名の件に関し、蘭国外務大臣は数日前、同大臣に書面を送りて会見を求めたるも、同大臣は彼等に対し、本官(佐藤公使)の紹介に依るに非ざれば之を引接することを得ざる旨、回答すべしと語れり。



佐藤公使とは、恐らく在和蘭特命全権公使佐藤愛麿であろう。
ここでも相手にされてませんね。


ハーグでの一件の後、三人の密使とハルバートはどうしたのか、軽く触れておこう。
密使事件の最中の7月4日、ハルバートがパリで対日非難を行っている旨の報告が、『都筑大使来電第34号』により寄せられている。

この後、6月16日のエントリーの『来電第149号』のとおり、7月15日に李儁は病死。

1907年7月18日付『来電第151号』では、ハルバートと李瑋鐘等のその後の行動について記載されている。


「ハルバート」は、倫敦に赴くと称して出発せり。
李瑋鍾は、其の妻(露国人)病気重態の報に接し露都に赴ける由。
両人共、近日米国に渡航し、日本反抗運動を続くる予定なるが如し。



李瑋鍾自体を知らない方が多いと思われるので、当然さらに知っている方は少ないだろうが、李瑋鍾は、春生門事件及び露館播遷の首謀者であり、代表的な親露派の李範晋の息子である。
李範晋は駐露韓国公使であったが、その息子が公使館書記官ねぇ・・・。
現代の盧武鉉政権のコード人事など、足下にも及ばないな。(笑)

そして1907年7月22日付『来電第157号』。


都筑大使来電に依れば、過般露都に赴きたる韓人李瑋鐘は、(イムジンタイ)と称する韓人と共に海牙に帰来し、同地に滞在せる韓人と共に、総て三名7月19日海牙出発倫敦に向ひ、三日間滞在の上紐育に赴き、同地にて二週間滞在の予定なりと云ふ。


と言うことで、アメリカへ行き、反日活動を継続したのである。

その後李瑋鐘は、1908年(明治41年)11月25日付『高秘発第17号』に姿を現す。


 (前略)

一.海牙平和会議に現はれたる李瑋鐘は、父李範晋より暴動資金一万円を得て、本年3月頃浦塩港に来りしが、其中約金二千五百円を酒食の費に使用し、為めに声望を失墮し、月を越へて露都に去れり。

 (後略)



・・・。
暴動資金使い込み・・・。
どうりで若手の李瑋鐘が、この後全く名前が出てこないと思った。
まぁ、いつもの話だね。

えーっと、李相卨(咼の上にト)の方は、1909年(明治42年)8月26日付『憲機第1673号』。


 (前略)

七.排日党の李相卨(咼の上にト)(海牙密使の一人?)、鄭在寛は陰暦6月3日、米国より浦塩に帰来せりと。
其目的は秘して語らず、単に学校設立の目的を有し来りたる者なりと云へりと。
右両名は、是迄浦塩に帰来せんことを希望しつつありしも、旅費に窮し、其意を果さざる者なりしが、今回は米国在留の労働者より旅費の補助を受け、帰来したる者なりと云ふ。

 (後略)



旅費は米国在住の労働者から補助を受けましたが、学校を建てに浦塩に戻って来ました、と。(笑)
まあ、李相卨(咼の上にト)は1916年まで反日活動をするのだが、何とも哀愁漂うエピソードではある。


さて、今回を以て連載『ハーグ密使事件関連史料』を終了する。
次の連載は密使事件に続く事件であり、巷ではそれを契機に日本が高宗に迫って行ったとされる、『皇帝譲位』の予定である。
史料纏める為に何度かネタ話(笑)を挟んだ後にお届けしたい。

では、また。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)
ハーグ密使事件関連史料(五)
ハーグ密使事件関連史料(六)
ハーグ密使事件関連史料(七)



韓国大統領 到底理解できない

日本の教科書検定制度について、ノ・ムヒョン大統領は、「歴史教育は国が価値観を教えるものではないか。これは、どの国にも共通したものだ」と述べ、日本政府の対応に不満を示しました。
そのうえで、ノ・ムヒョン大統領は、国定教科書の韓国と状況が違うとする日本側の説明に対し、「日本政府は介入できない、著者の自由だというが、わが国の国民には到底理解できない」と批判しました。



いや、お前等とは理解しあえなくても良いから。
全く期待してないから。
勝手に思想教育でも言論統制でもやってて下さい。
教科書検定制度ですら批判していた謀新聞某政党は、これに対して激しく反発すべきだろう。
まぁ、扶桑社の教科書の一件を見ても、もう馬鹿を晒しており、今更恥を恥と思わないだろうがね。(笑)


隣国の阿呆な指導者の阿呆な発言に呆れつつ、ハーグ密使事件については、『日本外交史人物叢書 第14巻 都築馨六伝』でも見てみると面白いのかなぁと思い、手に入らない悲しさを嘆く今日この頃。(笑)
目賀田種太郎の時も、似たような愚痴を言っていたなぁ・・・。
ま、自分に出来る範囲で出来ることをしよう。
ということで、第七弾をお送りします。

 第二回万国平和会議


まずは、伊藤から林外務大臣に宛てられた、1907年(明治34年)7月3日付、『往電第55号』より。


貴電第109号に関し、海牙に於て運動中なる韓人三名の姓名は、何と云ふや。


『貴電第109号』とは、昨日紹介した史料である。
この『往電第55号』は、それに対する照会という事になるだろう。


彼等の背後には、米人「ハルバート」なるものありて指揮するものと信ず。
果して然るや否や。



伊藤が、「ハルバート」を疑わしく思っていたのは、「ハーグ密使事件関連史料(四)」で紹介した1907年5月19日付『往電第31号』から読み取れる。


又右の韓人は、韓国皇帝陛下の勅命に依り、平和会議委員たるの待遇を享けんとして盡力するや否やを確むる様、都筑大使へ電訓ありたし。
韓人の姓名は、都筑より「ネリドフ」に尋ぬるも可なるべく。
姓名判然したる上は、時宜に依り都筑に於て、右三人に面談して直接勅命に基くや否やを聞糺すも差支なかるべし。



「ネリドフ」は、ハーグに派遣されていたロシアの首席委員である。
そして、次の記述が問題とされるのである。


右の運動、果して勅命に基くものなれば、我が政府に於ても此の際、韓国に対して局面一変の行動を執るの好時機なりと信ず。
即ち、前記の陰謀確実なるに於ては、税権・兵権又は裁判権を吾れに収むるの好機会を与ふるものと認む。
之に関する愚見は、時局の発展に依りて提議すべし。

尚又貴電第118号所載、露国外務大臣より、「プランソン」に対する訓令は、果して之を発し居るや否や、其れとなく同人に聞糺す積なり。



曰く、韓国に対する局面を一変させる行動をとる、絶好のチャンス。
曰く、税権・兵権又は裁判権を、われに収めるチャンス。
何も考えていない人がこの文章だけを読めば、朝鮮の独立を奪う為に内政権を掌握するチャンスとしたと思ってしまうであろう。
しかしそれでは、「第二次日韓協約に違反して、チャンスを与えた馬鹿は誰よ?」と簡単に切り替えされてしまう。

さらに細かく言えば、税権については、従前の大韓帝国の方式では、私腹を肥やす者が多数居り、まして日本に多額の借款がある状況では、税制あるいは徴収方法の改革については急務である。
兵権については、軍隊解散として後日詳細を記すが、これは単純に人件費ばかりかかる旧式軍隊を解散し、当時の日本同様の徴兵制による軍隊の確立を目指す改革。
裁判権についてが、一番分かりやすい。
元々日本人については治外法権だからである。
当然これも従前の大韓帝国の出鱈目な、前近代的裁判或いは監獄制度の改革が目的と解するのが、最も妥当であろう。
という反論も容易に出来るのである。

そこで韓国などが、第二次日韓協約自体が無効であるという、馬鹿な話を妄想するのである。


一方、当ブログの読者諸氏には、5月1日のエントリーにおける、伊藤の「陛下が総ての政事に干渉せらるるの不可なる所以」という忠告を思い出してもらいたい。
この時の密使については見逃してやった。
総ての政事に干渉せず、政府当局者に任せて、彼等に其の責任を取らせる様に忠告もした。
密計陰謀も止めるように言った。
あれから丁度一年なのである。

たまに問題視される史料なので、力が入ってしまった。
次が、上記『往電第55号』に対する回答である、1907年7月3日付、『来電第123号』となる。

都筑大使来電第33号

往電第26号に関し、本官は「ネリドフ」氏と会見せり。
氏の談に依れば、曩に「イズウオルスキイ」外務大臣より氏に予告するに、韓人二名韓国皇帝の書翰を米国大統領に手交せんが為と称して、米国に旅行の途次、海牙に赴くの風聞あるを以てし、且是等韓人と何等の関係を有すべからざる旨を訓令せる由にて、隨て昨日、本人等が氏を訪問せるに際し、氏は面会を謝絶し、苟くも当平和会議委員として和蘭政府よりの照会あるものに非ざれば、何人をも委員として待遇することを得ざる旨を通じ置けりと言へり。
右韓人中の一名、昨日米国委員「ポウタアー」将軍に会見を求めたるに、同将軍も亦之を謝絶せり。
目下当地に滞在中なる「ウヰリアム・ステツド」氏は、本官に語るに、彼等韓人は、桑港問題の為日米両国の関係切迫せるものと信じ、十分に此の機会を利用するの意思なりと公言し居る旨を以てせり。
是れ蓋し、前述韓人が昨日「ポウター」将軍を訪問せる所以なるべし。
三名の中一名は、以前在露韓国公使館書記官たりしものと思はる。
其の他の二名は、何地より来れるや「ネリドフ」氏も之を知らずと謂ひ想ふに、彼等は露境を通過し来るものに非ざるべしと語れり。
「ハルバート」が韓人一行中かあるや否やは、未だ本官に於て確むることを得ず。



前段部は、以前の電文報告と変わらない。

ウイリアム・ステッドの語った桑港問題とは、恐らく1906年の第二次学童隔離事件と、それに伴う1907年3月のハワイ・メキシコ・カナダからの日本人の転航移民を禁止する大統領令の一件であろう。
これについては、1908年2月までの日米紳士協約によって一応の解決を見る。
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/shinshi.html


この対立を、大韓帝国が利用できると思っているところが既に愚かなのだが、それは今更言及しても仕方あるまい。
というか、言及するまでもない、か?(笑)


今日はここまで。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)
ハーグ密使事件関連史料(五)
ハーグ密使事件関連史料(六)



首相、新たな追悼施設の検討表明・日韓首脳会談

「『双方』の歴史教科書を研究対象に加える」ねぇ。
始まる前から(・∀・)ニヤニヤしちゃいますね。
問題は、韓国側の教科書に冷徹に突っ込める学者がいるかどうか。
真面目に突っ込めば、相当悲惨な歴史教科書になっちゃうし。(笑)


さて、今回はいよいよハーグ密使事件発覚の巻。
その前に、林董外務大臣から伊藤博文宛の、1907年(明治40年)7月2日付『来電第118号』より。


本野公使より左の通電報あり。
其の中(貴電第106号)とあるは、貴電第31号を同公使一個の含までに転電せるものなり。

在露公使来電第182号

6月27日、外務大臣と会談中、同大臣より会々韓国の事に談話を及ぼしたるに付、本官は其れとなく貴電第106号に示されたる事実の大体を語りたる処、「イズオルスキイ」氏は、近頃韓人の方より種々陰謀的の相談を持懸ける者あるも、是等には一切決して相手となるべからざる旨、「プランソン」に厳命を下し置きたる次第なれば、此の旨了解あらんことを請ふと述べたり。



恐らくこれが、梯子を外された瞬間である。
いや、別の機会に決定されたのかも知れないが、それを知るにはロシア側の史料が必要となろう。
「イズオルスキイ」は、当時のロシア外務大臣。
『第31号』は、昨日紹介した、1907年5月19日付『往電第31号』であろう。

そしていよいよハーグ密使が発覚する。
1907年7月2日付『来電第119号』。
上記史料同様、都築馨六大使の電文を林経由で伊藤に転電されたものである。


6月29日都筑大使来電第43号

昨日又は一昨日来、韓人三名当地に滞在し、当会議委員たる待遇を享けんとして盡力中なる由、聞込たり。
本官の得たる内報に依れば、右韓人は今朝、露国首席委員「ネリドフ」氏を訪問せるに、氏は本人等を接見せず、唯々之に対へ、元来各国を当会議に招請せるものは和蘭政府なるが故に、氏は苟も和蘭政府に於て会議委員として照会せざる者に対しては、其の何人たるを問はず、委員として待遇することを得ずとの旨を告げたりと謂ふ。
尚、右韓人は韓国に於ける日本の施政に対し、印刷に付しある抗議書を各国の首席委員(但し多分英国委員を除き)に送付せりとの報あり。
本官は、可成速に事実を確むべし。



ロシアの責任転嫁キタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━!!!!!!!!!!(笑)

例の案内を出したというのは、誤報だったのかなぁ・・・。(笑)
さらに同日、都築電文の転電が送られた。
1907年7月2日付、『来電122号』である。


都筑来電第32号

「ウヰリアム、ステツド」が、当地にて発行の「クウリエイ・ド・ラ・コンフエランス」は、本日の紙上にて、韓国前副総理大臣外2名が、27日附にて平和会議委員に送付せりと称する書面を掲載せり。
該書面には先づ、右韓人を平和会議委員として韓国皇帝より派遣されたる者なることを記し、続て日本が韓国皇帝の意に反し、兵力を用ひ且韓国の法規慣例を蹂躙し、韓国の外交権を奪取せること。其の結果、同人等が韓皇帝派遣の委員たるに拘はらず、平和会議に参与する能はざるを遺憾とすること。本書面には、日本の非行の概略を記したる文書を添附せること。各国委員にして、尚詳細の事項を知らんことを欲し、又は韓皇帝の附与せられたる全権を確かめんと欲せらるれば、其需に応ずべきこと等を述べ、同人等をして平和会議に参与し、日本の行為を暴露するを得せしむる為め、助力を与へんことを求めたり。
右三名は、前副総理「Yi Sang Sul」、前高等法院予審判事「Yi Tjoune」及前在露公使館書記官「Yi Oui Tjyong」なりと云ふ。
又、該書面に添附せる趣の文書は、未だ之を入手するを得ず。



(平和会議開催を伝える「Courrier de la Conference」。勿論密使は居ない。)


んー、やってる事が今も昔も変わらんな。
韓国の法規慣例は、今も昔も恣意的運用が為されているし。(笑)
要は、所謂「文明国」では無いことを、全世界に知らしめてしまった事に他ならないのである。
そして、こうして外交的問題化し、新聞等を通して一般にも公開されてしまった事によって、伊藤も4月30日のエントリーのように見逃してやる事すら出来なくなってしまったのである。


今日はこれまで。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)
ハーグ密使事件関連史料(五)



今回の史料は、本筋から少しだけ離れる。
前回扱った、『機密統発第30号』と『機密第6号』の間に為された二つの報告である。
それでは早速。

1907年(明治40年)5月9日付『機密統発第51号 外国人「ハルバート」帰国に関する件』より。

米国人「ハルバート」は、日露戦役中韓国政府の中学校雇教師を辞し、韓国皇帝の親書を携帯し、米国に赴きて韓国の独立運動を試み、其後再び当地に帰来し、当人の主裁に係る「コレアレヴェー」紙上に於て韓民を煽動するの言論を逞ふし、其の廃刊の後は「ベセル」の新聞事業に関係し、或は韓国に関する書を著はし、或は諸種の記事論説を外字新聞に投寄し、終始我対韓政策を阻礙するの挙に出でたるものにして、同人は過般韓国より永久引揚げの覚悟にて其の家財を公売に附し、去る八日、韓人夫妻両名を従者に件ひ一家を提げ京城を出発せしが、其の前程は、一先づ神戸に到り、暫時同地に滞在し、更に敦賀を経て浦潮斯徳に渡り、西比利亜鉄道にて露国に到り、米国に帰還する趣に有之候。
而して同人は、単に当地を引払ふに過ぎざる旨揚言し居るも、帰途海牙に於ける万国平和会議を利用し、日韓の関係を阻礙し、往年米国に於て試みたるが如く、海牙に於て何等韓国の為めに為す処ありむとするの風説あり。
元来右「ハルバート」なるものは、当初無一物にて渡韓し、京城に居住すること二十余年。
其間教師と為り、又は新聞事業に関係し、地所の売買其他種々の手段に依り、遂に十数万円の資産を作りたるものにして、日露戦役後韓国の否運に陥りたるや、其同国人「コールブラン」及「ボストウヰツク」等の企業不利の状あることを憤慨し、宮廷及右両人等の内意を承け、力を我国の批難に盡したるものなれば、彼の欧洲に在ると米国に帰還するとに論なく、依然我国に不利なる言行を敢てするは必然なるべしと被存候。
右御参考まで申進候。

敬具

追而同人が海牙に赴くとのことは、真の風説に過ぐず候得共、或は韓廷の密使と称し、各国委員を歴訪する等のこと有之哉も難計と有之故、本文の趣、為念都築大使へ通報方可然御取計相成候様、致度此段添て申進候。



ホーマー・B・ハルバート(Homer Bezaleel Hulbert)。
現代韓国においては、大韓帝国の国権回復運動に積極協力した人物とされ、現在もソウル新村の外国人墓地公園に墓碑があるらしい。
日本においては、彼の著書『朝鮮亡滅』が良く知られている。

無一物で渡韓し、二十数年で十数万の資産かぁ。
大韓帝国の年間国家予算の約200分の1、国債報償運動で大韓毎日申報に集まった義捐金の約2~3倍だな。
うーむ。

「コールブラン」及「ボストウヰツク」等の企業とは、時期的に見て以前のエントリーで取り上げた京城電気会社ではなく、鉱山関係の企業の事であろう。
当時の日本としては、やはり利権絡みでの活動であると見ていたようである。

皇城基督教青年会設立の立役者であり、恐らく密使の一人である李儁とは面識があったであろう。
設立に当たっては宣教師アンダーウッド(Underwood)との対立が見られ、そういった意味では宗教上の主導権争いもあったのかもしれない。
そういった捉え方をすれば、『朝鮮亡滅』に見られるような記述も理解できるだろう。

次に、伊藤博文から林外務大臣に送られた、1907年5月19日付『往電第31号』を見てみよう。



韓帝の外国に向て運動せらるる陰謀は、昨年以来常に絶へざる所にして、専ら露仏に信頼し、独立を回復せんとの企画なり。
両国総領事は、帝室より交渉ある毎に之を本国政府に電報し、本国政府の訓令に依り、之を排し、或は之を容るるものたる証跡顯然たるに、李容翊を介し交渉したる時にも仏国は之を排し、露領事は之を容れたるの事蹟あり。
此節、平和会議の起るに至りて、米人「ハルバルト」に巨額の金員を附与し、派出することに相成りたるに就きても露仏領事に依頼し、本国政府の幹旋を求めたり。
仏国領事は、其愚策たるを告げて之を排せり。
是れ、其の本国の訓示に基くものなり。
露国は之を容れたるに疑なし。
故に「ハルバルト」は、専ら露国に依り目的を逹せんと謀り、凡ての資料を蒐集し、之を齎し、既に敦賀・浦塩を経て、西比利亜鉄道にて欧洲に向へり。
皇帝の金策、其他の計画明なるは仏国総領事の本官に密告する所にして、亦他の外国筋よりも同一の密報に接せり。
現仏領事は、「プランソン」と交誼親密ならざるを以て、協議せしものにはあらず。
然れども、仏政府は確かに同情を表せざれども、露政府は甚だ怪しと認むる旨をも附言せり。
如此情態なるにより、此際、露仏とも未だ協商の纏らざる頗る遺憾なり。
特に仏国の方丈にても、平和会議前結了せば頗る好都合ならん。
殊に仏国との協商は単純なれば、仏国外相最後の提案を容るるも、却て得策ならんと思考す。
此事は頗る機密に属すれども、内閣及元老中にても承知せられんことを希望す。



ちなみに、「プランソン」は在韓露国領事である。
この時点で既に、特に圧力を掛けるまでもなくフランスがチクってますが。
おまけに愚策であると忠告まで受けている、と。
にも係わらずロシアを信じて、この後梯子を外されてしまうわけで。
何とも哀れな事件の様相を呈してきましたな・・・。


今日はこれまで。


ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)
ハーグ密使事件関連史料(四)



前回 は、密使事件の3ヶ月前に起きた李儁の事件に関する史料を見た。
その続きからいこう。

1907年(明治40年)5月9日付『機密統発第30号』。

在浦潮野村貿易事務官より、韓国人李儁及羅有錫等渡航の件に関し、別紙写の通り通報有之候條此段及通牒候也。
この別紙として添付されているのは、1907年4月29日付『機諸第4号』である。

元韓国官吏其他民間の所謂志士と称する徒輩等にして、祖国現状に憤慨し、如何かして我対韓政策に妨害を試みんと、北韓及当地方面に散在し互に気脈を通じつつある者多数なるを以て、平素彼等の出入行動に対し注意を怠らざりし処、今般元評議院検事李儁に議官羅有錫の両名、京城より当地に渡航し来り居ることを発見致候。

彼等は目下当地に滞在し、両三日以前には、当地韓人の経営に係る小学校を参観し、生徒を集めて一場の演説を試み、祖国衰亡の現状を説き、以て他日必らず隣邦の羈絆を脱し独立を全ふする様努めざる可らざる旨、激励したりとのことに有之候。
尚ほ、同校教員等も頻りに彼等を歓待したる由にて、目下韓国人間に多少の勢力を有するものの如く思考せらるるを以て、今後彼等の行動に対しては、多少の注意を要する次第と被存候條、目下尚ほ内偵中に有之候。
"元"ということは、やはり罷免されたようで。
まぁ、当たり前だが。
それにしてもわざわざウラジオストックまで行って、「小学校」で反日教育ねぇ・・・。


次の史料が、再び在浦塩貿易事務官の野村基信による報告、1907年(明治40年)5月24日付『機密第6号』である。
ここにおいて、李儁と李相卨(咼の上にト)が同一史料上に現れる。

元評議院検事李儁、議官羅有錫、間島管理司李範允等が、当地にありて頻りに在留韓人間に排日的思想を鼓吹しつつあることに関しては、客月29日付機第4号及び本月18日機諸5号を以て及報告候処、今般同人等協議の末、元学部協弁李相卨(咼の上にト)なる者の北間島に在りて学校を私設し、子弟を教育しつつありしを当地に呼寄せ、更に謀議を凝らしたる結果、韓国の将来に関し、直接露国政府に向ひ嘆願する為め、委員簡派の議を決定し、前記李儁・李相卨(咼の上にト)及当地の富家車錫甫の子某の三名は、愈々去るに21日を以て当地出発、露都に向ひたる由に有之候。
其嘆願の要旨なるものを聞くに、近時韓国に対する日本国の圧迫甚そく、殊に露国沿海州方面に於ける韓国人は、挙げて日本貿易事務官の権内に属せしめられんとするの勢あり。
左れば、韓国人の保護取締開始に関し、今後日本貿易事務官より露国政府に対し何等照会有之たる場合には、必らず拒絶せられ度しと云ふにありと云ふ。

尚、派遣委員は万国平和会議開催を機とし、海牙に赴き、韓国の独立の為め、列国全権委員間に運動する所あらんとする由に有之候。
此重の運動たる素より児戯に類し、其愚や及ぶべからずと雖、又以て当地方面に於ける排日派の消息の、一端を示すに足るものと被存候に付、御参考に及報告候。

敬具
文中、29日付『機第4号』は前述の李儁及羅有錫等渡航の件、18日『機諸5号』は元間島管理司李範允に関する件である。
李範允については2月27日のエントリー6月5日のエントリー でも取り上げてきた。
一度整理して紹介せねばならない人物ではあるが、今回は話を先に進める。

元評議院検事李儁、議官羅有錫、間島管理司李範允等が協議の末、北間島で学校を開いていた元学部協弁李相卨(咼の上にト)を呼び寄せた、とある。
その後、李儁、李相卨(咼の上にト)、車錫甫の子供がロシアへ向かう。
また、この時に海牙(ハーグ又はヘイグ)万国平和会議に関する報告が為されている。

ここで私が疑問に思っているのは、ハーグ密使の所持していた委任状の日付である。



大韓光武11年4月20日。
1907年4月20日である。
この時点で、李儁は兎も角として、北間島にいた李相卨(咼の上にト)、ロシア領内におり未だ名前の出てこない李瑋鐘が、委任状に名前を記載されている事になる。
条約書類発見と玉璽偽造事件 を見てきた私などは、当然思ったりするわけである。

これ、本物の委任状ですか?


今日はこれまで。



ハーグ密使事件関連史料(一)
ハーグ密使事件関連史料(二)
ハーグ密使事件関連史料(三)