さて、前回で既に主眼だった李承晩がどうなったかという件に関しては、1899年(明治32年)1月3日付けで中枢院議官を免官になりました、ってことで終了したわけですが、史料はまだ終わってませんので、最後までやっちゃっておきたいと思います。

それでは今日も、アジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関シ其後ノ成行等ニ付在韓加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049600)』の中から、1899年(明治32年)2月13日付『送第35号』の別紙を。

服制の改正

本年1月1日、官吏の服制改正に関する詔勅を発せられたり。
曰く、「朝臣服章の従前より変通屡になり、蓋し時に因り宜を制し、務めて簡便に従ふに由る。
而更張以後、多くは未だ揆るに表章を以てするに遑あらず。
尚ほ周備を欠くあり。
其れ掌禮院をして祭禮・賀礼・燕禮を除くの外、古今の制式を参酌し、亦各国通行の規に倣ひ、磨錬して以て入れよ」云々。
而皇帝陛下は、既に其向へ洋服新調の御兆ありたる由に聞く。
役人の服装は以前から何度か変わり、丁度良い時期になるべく簡単にしなければならないと思ってたんだけど、改革後も着手できなかったんだよね。
まだ服装の形式揃ってないからさ、掌禮院で祭祀や祝い事や宴会の礼式以外は、昔や今の服制を考えて、また各国で一般的に行われてる規定も模範にして作りなさい。かな?

で、高宗本人は既に洋服新調してるらしい、と。
つうか、金無い国が金無い時に、体面ばっかりに拘って金使うって・・ねぇ?(笑)

服上疏手続の規定

近来上疏の手続なきため、濫疏するもの日に多きを加へ煩■に堪へずとて、皇帝陛下は其規程を設くべき旨御下命ありたるより、議政府は之に関する調査を遂げ、去る4日議政府参政徐正淳より上奏し裁可を得たり。
其規程は左の如し。

一.勅任官は現任と前任とを論ぜず、碍げなく陳疏するを得。
一.現に奏任官を帯るものにして若し事を言はとする時、其長官に請ひ、長官の手を経て代奏し、或は具案を以て政府に請議するを要す。
一.曾て奏任官を経たるもの及士庶人にして事を言んとする時は、中枢院の議を経由せしむ。
一.勅任官以下の官員及士庶人にして、若し弾劾を欲するときは、必ず証拠の確鑿■るを須く然る■案を具し、高等裁判所に送呈し、其法を案じて懲罸するを要す。
上疏の手続きがちゃんと決まってないため、みだりに上疏する者が段々増えてきてごたごたしてきたので、高宗は規程作れと命令。
これを受けて議政府は調査し、4日に上奏して裁可を得た、と。

内容は、一度でも勅任によって任命された官吏は、何の問題も無く上疏可。
奏任で任命された現任官吏は、その長官経由で政府に請議。
前に奏任で任命されたことのある官吏と士人や庶人は、中枢院の議決経由。
この辺は、所謂請願なんかと似てるのかな?
んで、勅任官や現任奏任官以外が弾劾するときは、証拠等を添えて高等裁判所行きで裁判する、と。

この上疏というシステム、割と自慢気に話す韓国人が居たりするんですが、これ見てどう思うんでしょうねぇ?(笑)

露官入京

新任露国公使パウロウ氏(Pawlow)は、其■と同国■■艦マンジスル号に搭じ、前日来駐剳韓国公使李夏栄氏は其一行を率ひ去る7日帰京せり。

右及具報候。
敬具
1899年(明治32年)2月7日、新任ロシア公使パブロフ到着、と。

さて、今回の史料で、万民共同会の運動が具体的にどのように衰退していったのかが分かると共に、李承晩が1899年(明治32年)1月3日に中枢院の議官を免職になった事が分かりました。

で、逮捕されたのは何時で、本当の罪は何なんでしょう?
さっぱり分かりません。(笑)


「帝国の迷走」第二期、おしまい。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)  帝国の迷走(五十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一) 帝国の迷走(五十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)


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準備しておいたのに、すっかり忘れてた事がありまして。
張仁煥と田明雲の写真を見つけてたのに、すっかり使うの忘れてました。(笑)
ってことで、『スチーブンス暗殺事件(おまけ)』に追加しておきましたので、ご覧になりたい方はどうぞ。

さて。
今日は、万民共同会の運動の結果中枢院の議官となった李承晩が、どのようにして墜ちていくかを主眼にした、以前の連載への補足の3回目。

前回までの史料の中で、主に朴泳孝の任用問題に関して、中枢院・万民共同会とそれに対する高宗等の対応を見ることができました。
結局、この問題については万民共同会がこれ以上運動しないということで、決着がつくかに思われますが、という続き。
今回から、史料はアジア歴史資料センター『公文雑纂・明治三十二年・第六巻・枢密院・枢密院、宮内省・宮内省、外務省一・外務省一/朴泳孝召還ノ建議ニ関シ其後ノ成行等ニ付在韓加藤公使ヨリ報告ノ件(レファレンスコード:A04010049600)』に移ります。
それでは、1899年(明治32年)2月13日付『送第35号』より。

朴泳孝召還の建議に関し、其後の成行等別紙の通在韓加藤公使より報告有之候間、右寫茲に差進候也。
ってことで、前回「本問題は向後有無の間に立消へ可申姿に有之候」と述べていた加藤増雄公使ですが、その後の成り行き等の報告があったようです。

ってことで、早速『別紙』の方を見ていきましょう。

朴氏召還問題後の成行

朴泳孝召還の説端なく中枢院の議事に上り、其決議を政府に定収したると同時に、李錫烈なるもの亦召還上疏をなしたるに、陛下は李氏の上疏を斥け、且つ亡命者に関する詔勅を下して之れを制止せられたる一件は、客月12月27日附公信第88号を以て報告に及置たる処、其後陛下の逆鱗一方ならず、為之中枢院議官は総免職となるべしと取囃せし処、之に関し議政府と中枢院との間に数回の往復交渉を経、同院議長の進退伺ひとなり、竟に去27日議長代理として該議事を見たる李時宇以下、去る3日を以て処分せられ、李氏は1ヶ月の罸俸に処せられ、動議者崔廷徳并に議長代理として政府に通牒の手続をなしたる尹始炳両氏は免官となり、申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕5氏は免官に。
劉猛・洪正厚・鄭恒謨3氏は始めに不可を唱たるも、政府に通牒するを賛成したりしとて各罸俸に処せられ、為めに勢焔頓ど煙滅に帰したり。
朴泳孝召還の件が中枢院の議事となり、その決議を韓国政府に提出したのと同時に、李錫烈も朴泳孝の召還上疏したところ、高宗が李錫烈の上疏を退けて、かつ亡命者に関する詔勅を出して制止した話は、前回までの1898年(明治31年)12月27日付『発第88号』で見たわけですが、その後も高宗の怒りは収まらなかった、と。
んで、そのために中枢院の議官って総辞職になるんじゃね?噂されるようになるんですな。
そして、これに関して議政府と中枢院の間で数回交渉が行われ、中枢院議長の進退伺いとなった、と。

次のあたり、高宗実録なんかでは12月23日の記事になってまして、ちょっと調べたら官報での公布が1898年(明治31年)12月27日付けで、その中身は12月23日付になっております。
ってことで、まず1898年(明治31年)12月23日に、当時議長代理だった李時宇が1ヶ月の罰俸となり、動議者崔廷徳と政府に通牒した尹始炳が、中枢院議官を免官になります。

次は、1899年(明治32年)1月5日付けの官報で、1月3日に申海永・魚瑢善・卞河璡・李承晩・洪在箕の5名が免官。
最初は反対したけど、政府への通牒に賛成した劉猛・洪正厚・鄭恒謨が罰俸という処分になるわけですね。

ってことで、勿論李承晩の裁判経緯とか、何か別途史料があるのでしょうが、現在の処まで分かっているのは、この時点では李承晩も中枢院の議官を免官になったという事だけなんですよねぇ。( ´H`)y-~~

さて、実は李承晩、これしか出てこないんですが、一応続きも見ていきましょう。(笑)

民会解散に関する詔勅

民会跳梁殆んど国綱を紊乱する迄に至りたるを憂懼し、旧臘厳重なる詔勅を公同会に下し、以て其解散を飭令し、其解散後各自の安心を得せしめたれたる件は、客年12月27日附発第87号を以て具報に及置たる処、旧臘28日に於て再び前同様の詔勅を下し、民会をして更に帰向する処を説諭せしめられたり。
其勅語に曰く、

信は五徳の枢紐なり。
故を以て人信なければ則ち立たず。
国信なければ則ち治らず。
曩に朕既に心腹を開示し、民衆に暁諭す。
而猶其或は未だ解せざるあるを恐れ、又此に誕告す。
夫れ人民一二孤独の地にあっては分を守り、志を定めざるはなし。
其千百群をなすに及んでは、自然の浮気■生中に生ずるあり。
始は則ち敢てせざる所の言を発し、終は敢てせざる所の言を行ふは、前日の所謂民会なるもの亦然りとす。
其始や忠君愛国を以て宗旨となし、其終や言を発し事を行ふ、畏忌する所なし。
其散するに及んでや、捕縛是れ憂とし、隠避是事とし、殊に知らず雷霆の到る処衆寡の分つなきを。
苟も赦免を聚会の日に欲して、而言を解散の後に食む。
則ち国家民を待つの道ならんや。
継て今日より疑懼を洞釈し、迷ふて返るを知らず。
什伍を隊となし前習を踵くを思はば、是れ乃ち自ら罪戻を速くものなり。
王章は至厳なり。
再び容貸し難し。
其れ内部をして警務庁漢城府に申飭し、民人等の処に洞諭し、咸を知悉せしむ。
万民共同会がのさばり、韓国の規律を紊乱する迄に至った事を心配し、12月に厳重な詔勅を万民共同会に下し、解散を命令し、その解散後に各自を安心させるようにした件は、1898年(明治31年)12月27日付けの発第87号で報告したとおり、と。
まず、この辺の事情は9月3日のエントリーでもやりました。
万民共同会員の身上の安全に担保を与えた話の辺りですね。

ただ、1898年(明治31年)12月27日付『発第87号』が見つからない。
『駐韓日本公使館記録』には載ってるんだけどなぁ。
かなり面白い内容なんだけど、残念ながらアジ歴ではまだ公開されてないらしい。

で、以下が勅語。
信頼というのは、5つの徳の中でも重要な物であり、人に信頼が無ければ成功せず、国に信頼が無ければ国を治める事が出来ない。
この前、ウリが腹を割って民衆をたしなめたけど、まだ誤解してるかもしれないからもう一回言っとくね。

大体民ってのはさ、一人や二人で寂しく居る時なら、すべてルール守って志を定めなない者は居ないんだけどさ、数百とか数千の単位になると、自然に浮わついて思慮に欠けたりするんだよね。
最初は敢えて遣りもしない事を言ってみたり、最後には敢えて遣っちゃ駄目な事をやったり、この間の民会みたいに最初は忠君愛国とか言ってたけど、最後は言動で恐れ多いとか慎むとか無くなったっしょ?

解散するように言われると、捕まるか心配して隠れて逃げ回り、厳しい処罰があちこちで、多い少ないの区別無く行われるかどうか分からない。
一回赦免するって言ったんだから、解散した後に約束破るようなことしたら、どうして国が国民を待つ(解釈出来ず)道だろうか。

今日からは疑惑を解いて、それぞれ生業に戻って落ち着きなさい。
また同じような事したら、今度は許さんよ。( ´H`)y-~~

つうか、「国信なければ則ち治らず」とか、どの口が言ってんだ、と。
( ´H`)y-~~



今日はこれまで。
次で終わり。



帝国の迷走(一)  帝国の迷走(二十一) 帝国の迷走(四十一)
帝国の迷走(二)  帝国の迷走(二十二) 帝国の迷走(四十二)
帝国の迷走(三)  帝国の迷走(二十三) 帝国の迷走(四十三)
帝国の迷走(四)  帝国の迷走(二十四) 帝国の迷走(四十四)
帝国の迷走(五)  帝国の迷走(二十五) 帝国の迷走(四十五)
帝国の迷走(六)  帝国の迷走(二十六) 帝国の迷走(四十六)
帝国の迷走(七)  帝国の迷走(二十七) 帝国の迷走(四十七)
帝国の迷走(八)  帝国の迷走(二十八) 帝国の迷走(四十八)
帝国の迷走(九)  帝国の迷走(二十九) 帝国の迷走(四十九)
帝国の迷走(十)  帝国の迷走(三十)  帝国の迷走(五十)
帝国の迷走(十一) 帝国の迷走(三十一)
帝国の迷走(十二) 帝国の迷走(三十二)
帝国の迷走(十三) 帝国の迷走(三十三)
帝国の迷走(十四) 帝国の迷走(三十四)
帝国の迷走(十五) 帝国の迷走(三十五)
帝国の迷走(十六) 帝国の迷走(三十六)
帝国の迷走(十七) 帝国の迷走(三十七)
帝国の迷走(十八) 帝国の迷走(三十八)
帝国の迷走(十九) 帝国の迷走(三十九)
帝国の迷走(二十) 帝国の迷走(四十)


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んー、アジ歴が再開するまで10日以上あるのに、終わっちゃうなぁ・・・。
まぁ、考えても仕方ないんで、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』を取りあえず終わらせちゃいたいと思います。

目下の政況

民会、已に聲を収めて以来、当国の政況は意外に平穏にして、皇帝は少権謀少術数に余念なく、在朝在野の政治家も徒に蝸牛角上の小党争を以て其日を過すの有様なり。
而して、現内閣は寧ろ比較的に鞏固にして、且つ皇帝の信任を有するものの如し。
但し、民会の一派は、皇帝政府が民会の解散に際し声明したる条項の、一も実施せられざるを見て、機会に乗じて再発せんと企つるものなきにあらずと雖、万民共同会の首なるものは已に多くは時の非なるを見て敢て起たず、末流に至りては多少運動に飽き奔走に疲れたるの観なきにあらざれば、更に一の好題目を捉へ来るに非ずんば、今更蜂起するの気勢を有せざるものの如し。
現在の状況は意外に平穏。
高宗は小さい権謀術策に余念無く、政治家もつまらない小競り合いで日々を過ごす。
駄目だ、こりゃ。(笑)

ただ、現内閣は比較的強固で高宗の信任もある。
万民共同会の一派は、高宗が解散の際に約束した事を一つも守らないので、機会があれば再起しようとする者が無いわけではないが、主な者は時機ではないとして敢えて起たず、末端の者に至っては運動に飽きて、奔走に疲れた観が無いわけではなく、何か起きなければ再び蜂起する気力も無いだろう、と。
んー、やっぱり駄目だ、こりゃ。(笑)

つうか、この頃李承晩が投獄されてる筈なんですが、話題にものぼらねぇ。(笑)

顧って各国使臣の態度を観察するに、米国公使アレン氏は在韓10余年。
能く当国事情に通じ、又如何にして韓国上下の感情を害せずして自国の利益を獲取すべきやの秘術を知れるの人也。
所謂米国派なる青年政治家は、多く氏に頼りて自家の勢を張らんとし、アレン氏亦た之れを利用して己れの手足をなし、両々相待って氏の勢力及び皇帝の信任等、実に大なるものあり。
而して、前任シル公使が常に露公使と結託して我政策を阻害したるに拘はらず、氏は就任以来勉めて本官と交誼を敦ふし、互に友助を与へ居れり。
目下帰朝中。

仏公使、英公使、独領事に至りては、利害の干係自ら異るものあるによりて、政治上に於ける勢力の範囲は、日米露3国使臣の如くにあらず。
従って、之れを韓京政界の一勢力として論述するを要せざるも、但だ露公使バウロフ氏は着任日浅きに拘はらず、北京以来の名声、自ら人をして其の何事か仕出来すならんとの感想を起さしむるを得て、氏の挙動に就ては内外人斉しく注目を怠らず、其一挙一動は多少の波動を政界に与ふるを見る。
過去3ヶ月内に於て民会の声を収めたるに乗じ、厳尚宮が皇后に冊立せられんとの希望と、趙秉式、閔種黙の野心とは、所謂露国派の躍起運動を来し、従って露公使は其黒幕、寧ろ傀儡師たるやの感ありしと雖、氏は趙、閔の徒の不人望は殆んど極点に達し居れば、彼等を助けて彼等が受くべき悪名を分担■するを不利なりとし、遂に充分の尻押はなさずして止みたるが如し。
但だ、氏は曰く「朝鮮には外交は不用なり」と。
乃ち、勉めて宮中府中の好感情を求むるに汲々とし、多年来の懸案たりし捕鯨用借地一件に就て稍々強硬の態度を示したる以外には、何等顕著なる行動に出ざりしものの如し。
氏、目下賜暇帰朝中、上海露国総領事ドミトレウスキー氏臨時代理公使たり。
此人は、東洋にあること20余年。
頗る事情に精通すと雖、寧ろ学者的の人物にして其他に著明なる特調を発見せず。
要之今漢城政界の有様は、当国にしては近年稀なる静謐と云ふべし。
是れ盖し日本に在る亡命者と連絡を有せる民会の一派、及安駉壽部下等の一団と、露国の勢力を後楯とせる趙秉式、閔種黙等の一団とは常に両極端にあり、利害相反するを以て自然に政界の中心点を保てるのみ。
一旦其の一方に高圧力の加はるあるに至らば、政界の紛擾又た昨年の如きものあるべし。
是れ駐韓日露公使が、慎重の態度を持続するか否にありて決定せらるべき問題なり。

日韓両国の干係、上下官民の区別なく其国家の接近せる如く、個人も日に益々近接し来り。
従って、貿易も漸次増進し、各港市に於ける本邦人の総数2万に達せるのみならず、各種の目的を有して内地にあるもの皆な平穏に其業務に従事することを得べし。
顧みて本官就任当時の状況を回想し之れを比較するときは、彼の我に対し我の彼に対する状態の差異、実に著しきものありと存ず。

以上は、本官が在任3ヶ年間に取扱ひたる著大なる事務の概要なり。
不敏不詳、固より赫々の功を奏する能はざりしと雖、排日本感情の最熾なるときに来り感情融和の目的を達し、日韓親和の今日に於て去る其間漸次我地歩を進むると同時に、我に背馳せる勢力と利益の拡張を多く阻害して、幸に大過なきを得たるは、素より我陛下の御稜威の然らしむる所なりと雖、又た歴任の本省大臣に於て能く本官の意見を容れ、時に応じ事に臨みて必要なる訓令指揮を与へられたるに由らずんばあらず。
而して、直接には我公使館員、間接には各港の領事館が克く本官の意を体し、職務に精励して本官を補佐したるの功績は、本官が之れを報告するに於て極めて満足する所なり。
右、及具申候也。
区切る程の内容でも無いので、一気に最後まで引用してみました。

アメリカ公使のアレンは、もう在韓10年余りだ、と。
『アレン小伝』によれば、韓国に来たのは1884年(明治17年)9月に京城米国公使館付医師になったのが最初のようである。
その後、甲申事変で閔泳翊等の治療に当たったり、春生門事件で1月15日のエントリーのように水兵を率いて王宮方面から帰ってくる所を見られたりというエピソードの持ち主。
当然韓国の事情にも精通し、またどうすれば韓国上下の感情を悪くせずに自国の利益を獲得するかという秘術を知っている人だ、と。
俗に言う米国派の青年政治家は、多くはアレンに頼って自分の勢力を広げようとし、一方でアレンはこれを利用して自分の手足として使い、双方相まってアレンの勢力と高宗の信任等は非常に大きい。
で、アレンの前のシルはウェベルと結託して日本の政策を邪魔してきたが、アレンは就任以来加藤と交誼を深め、お互いに助力しあっている、と。

フランス公使、イギリス公使、ドイツ領事については、利害関係が異なる事から政治上の勢力は日米露の3カ国使臣とは違い、これを韓国政界の勢力として論述する程ではない。
ただ、ロシア公使パブロフは着任して日が浅いのに、北京駐在の頃からの名声で人々に何かしでかすだろうという感想を与え、その挙動は内外人が皆注目し、多少の波動を韓国政界に与えているようだ、と。
過去3ヶ月以内に万民共同会が活動していない状況に乗じて、厳尚宮の皇后に冊立してもらおうという希望と、趙秉式や閔種黙の野心が相まってロシア派の必死な運動が起き、ロシア公使パブロフがその黒幕というより傀儡師のように感じると。
ただ、趙秉式や閔種黙なんかは、その人望の無さはほとんど頂点に達してるので、彼等をわざわざ助けて自分にまで悪評が及ぶのを恐れて、最終的に充分な後押しができずに「躍起運動」は終了したようである。
この辺、「帝国の迷走」では扱わなかった範囲なんだけど、確かに盛り上がりというか「フーン。で?( ´H`)y-~~」くらいで終わるような有様だったので、カットしたわけで。

で、パブロフ曰く「朝鮮には外交は不用なり」と。
んー、当時の朝鮮に関しては極めて正しい手法。(笑)
結局朝鮮に於いては、外交的に問題を解決しようとする日本より、高宗や閔妃、厳尚宮なんかの歓心を買うだけのロシアの方が、有利に話を進める事が多かったわけで。
まぁ、高宗自体が気分屋なので、情実だけで外交するのも限界があるわけですがね。
ということで、パブロフは宮中府中の好感情を求めるのに汲々として、長年懸案事項だった捕鯨用の借地の話でやや強硬姿勢を示した以外は、全く顕著な行動に出なかった、と。

要するに、現在の韓国政界は韓国としては近年まれに見る静かさだ、と。
高宗は小さい権謀術策に余念無く、政治家もつまらない小競り合いで日々を過ごしてても、韓国としては静謐なんです。(笑)
これば、日本に居る亡命者と紐帯のある万民共同会の一派や安駉壽の部下等の一団と、ロシアを後ろ盾にする趙秉式や閔種黙等の一派が、いつも両極端に居るため政界の微妙なバランスが取れているに過ぎず、一度その一方に高圧力が加われば、政界の紛擾はまた1898年のようになるだろう、と。
これは、日本公使、ロシア公使が慎重な態度を保持し続けるかどうかに賭かってる、と。
つうか、それぞれ両極端の勢力がバランス保ってたら、ほとんど前には進みませんわな。

いずれにしても、日韓関係は上下官民の区別なく、個人も日々接近してきた、と。
貿易も漸次増進して、各港市に在住する日本人の総数2万に達するだけでなく、各種の目的で内地に居る者も、皆平穏に従事している。
加藤が就任した当時の状況から較べれば、雲泥の差だ、と。
露館播遷中の就任ですから、当たり前と言えば当たり前なんですけどね。(笑)

で、最後に各方面の協力について記して、加藤増雄の在韓公使時代の話は終了となるわけです。
政治的にも大混乱な状況であり、ロシアとの関係においても非常に困難な時期にあって、これだけの事を行ってきた加藤増雄。
もうちょっと知られても良い人物ではないかな、と思ったりする今日この頃です。


おしまい。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)
加藤増雄の在韓時代(十一)
加藤増雄の在韓時代(十二)
加藤増雄の在韓時代(十三)
加藤増雄の在韓時代(十四)


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加藤の回顧に関する今回の『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』も、既に連載14回目。
ってことで、今日もはりきって行きましょう。

引続き本官は、在朝の有力者及び民会の首領と度々交渉仲裁を尽したる末、結局政府に於ては民会の輿望に■ふべき人士を多少政府に採用し、且つ今後漫りに民会員に対して、危害を加へざるべしとの担保を与ふる迄の譲歩をなさしめ、民会に伺っては漫りに国情の紛擾を加へんよりは、徐々に退きて政府の果して弊政の改革を実行すべきやを監視せよと説き、同時に政府方の腕利き閔泳綺と民会の首領高永根、尹致昊等の間に胸襟を開きて融和せしめ、延きて民会の重立ちたるものをも説得し、密に政府に勧めて韓文新聞紙を買収せしめ、其筆法を一転して政府弁護に勉め、以て民論の気炎を殺ぎたり。
如斯昼夜斡施尽力の結果、遂に旧■12月25日、即帰任後10日にして民会は自ら鐘路の集会を解散し、政府は閔泳煥、朴定陽を収容して民意に副ふを勉むることとなり、漸く紛擾一段落を見るに至り■り。
爾来今日に至る迄幸に民会の再興を見ず、政府も割合に手強く秩序を維持し得るを以て、無事に経過し来れるを得たりと雖、民会派も菲政改革の実挙らざるを機として、稍もすれば再び起たんとするの気鋒を示すこと一再にして止まらざれば、不遠多少の紛擾を見るやも計られず。
この辺は、9月3日のエントリーのとおりですね。
政府側には万民共同会に信頼されている者を入閣させ、且つ今後は万民共同会の参加者に危害を加えない担保を与えさせる。
万民共同会側に対しては、紛擾事件をむやみに起こすよりは、一歩引いて政府がちゃんと弊政改革するかどうか監視しろ、と。
で、反目が著しい政府の閔泳綺と万民共同会の高永根や尹致昊を会見させて融和を図り、さらに万民共同会の重要人物を説得。
一方で政府にはハングル新聞を買収させて政府弁護させる事により、世論が先鋭化するのを防がせる、と。

こうした加藤の尽力で、ついに12月25日に万民共同会は鐘路での集会を解散。
政府は閔泳煥と朴定陽を入閣させて万民共同会の意に沿う事に勉め、ようやく紛擾は一段落、と。
それ以来今日まで万民共同会は再興しておらず、政府も手堅く秩序維持をしており、無事に経過してきているが、万民共同会も秕政改革の実効が挙がらない事を切っ掛けに、ややもすれば再起しようという動きがでるのも再三あるため、遠からず多少の紛擾を見るかも知れない、と。

だから、弊政改革しろ、と。(笑)

木浦海壁築造一件

本件は、元来木浦・鎮南浦租界章程に拠りて当国政府の義務に属する事業にして、其義務を果さしめたるに過ぎざれば、其自体に於て必ずしも重要なりと云ふ能はざれども、何分其規模の比較的に大なると、財政に困難せる当国政府に於て費用を支出せしむるとの為めに、最近難件の一となりたるなり。
初め木浦開港の実施さるるや、其位置の恰好なると港湾の適当なる為め、間もなく邦民多数の往住を見るに至り、朞年ならずして居留民の数千に達したる杯、殆ど他に比類なき長足の進歩をなしたり。
而して、彼等は先づ居留地区の買収に対し皆資本の大半を固定したるも、海壁にして成るなくんば此等の土地は概して埋立に着手する能はず、空く固定資本を抱きて拱手し居らざる可らざる有様なるを以て、同港駐在久水領事は、其居留地会頭たる資格を以て堅牢持久の海壁設計を提出し、主席公使たる本官より韓廷に向って工事着手を要求せんことを申請せり。
韓廷は、固より国費多湍の折柄、一開港場の海壁工事に10万円に近き金員を支出すべき意なきは勿論なれども、木浦の経営は即ち殆んど本邦人の経営にして、海壁の利益は本邦人民が殆んど全部を享受すべきものなるを以て、本官は主席の地位を利用して本件の進行を計企し、先づ各国使臣の同意を得て公然韓政府に照会し、且つ内部より種々の秘密手段を以て其結局に勉めたれども、何分開港の事務は凡て総税務司ブラオン氏の管掌にあるを以て、当局官吏を相手としては到底妥協の見込なきを認め、更に交渉の方向をブラオンに転じたるには昨年7月にして、海壁を築造せんことは、他の使臣の思惑も如何あらんと躊躇せしも、本官は種々の方面より之れを論説交渉し居る中、9月に至り本官は一事帰朝したるに拠り、不在中日置臨時代理公使は、漸次交渉の歩を進め、大体に於て同意を得、設計をも認めしむる迄に運びたり。
12月本官が帰任するに及んで、日置書記官を以て尚ほ交渉を継続せしめたる結果、遂に工費の全部9万5,000円を韓国政府より支出し、工事は一切木浦各国居留地会に一任することに妥協したる上、久水居留地会頭の上京を促し、結局本案の調印を見るに至りたり。
工事は、居留地会より更に日本人に請負はしむることとなるべければ、海壁其物の利益と共に、其工費は木浦に於ける本邦人を潤すべきに付、両途に於て木浦に於ける我邦の経営上、極めて有利の事たるべし。
本官は、本件に関しては特に日置書記官が能く本官を助けて、這般の好結果を収めたる功労を認めずんばあらず。
木浦鎮南浦租界章程って何?と思ったものの、アジ歴は当然お休み中。
しかし、世の中便利なもんで、他にも知る手だてはあるんですな。
ってことで、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに、1906年(明治37年)総督府編『韓国ニ関スル条約及法令』というのがあります。
その中で、「鎮南浦及木浦各国居留地規則」というのがあります。
漢文になっている条文の方のタイトルが「鎮南浦・木浦各国租界章程」であり、調印日が1897年(明治30年)10月16日調印ですので、おそらくはこれでしょう。

つうか、大韓帝国になった直後に史料中のような条約っておかしいと思ったら、「各国」なのね。
278画像目には、閔種黙、加藤増雄、アレン、スペール、プランシー、ジョルダン、クリーンと名前が見られます。
まぁ、取りあえず第1条の該当部分を抜き出してみましょう。

海壁及埠頭

海壁及埠頭は、該港の為め必要ある時に方り、必要なる場所に於て韓国政府之を建設し、且其の費用を以て之を維持修繕すべし。
右海壁及埠頭竝に貨物の陸揚及取扱の為め埠頭に属する開放地の部分は、税関事項に限り韓国政府の管轄に属し、一切の課税を免ず。
但点灯及警察事務は、居留地会之を行ふ。
附属の地図を見ても良く分からんのだけど、泥地部分を埋め立てる話なのかな?
まぁ、兎も角当該規則においては、ご覧の通り海壁の設置は韓国政府の義務なわけで、その義務を果たさせただけなので、それ自体は重要じゃない、と。
しかし、規模もでかいし韓国政府には金は無いしで、結構交渉が難しい件になったんですね。
いや、それ以前に「朝鮮国ニ於テ日本人民貿易ノ規則(日朝通商章程)」とか、「暫定合同条款」とか、「日韓協約」その他諸々、約束を守らせる方が困難だと思ったり。(笑)

木浦開港以来日本人の多くが住むようになり、貿易港として有力になる。
で、日本人は居留地の買収の手当も済んだのに、海壁が出来なければ埋立に着手できないため、手をこまねいている状態であり、木浦駐在の久水領事が木浦居留地会頭の資格で海壁設計図を提出した上、加藤に工事着手を韓国政府に要求してくれ、と。
まぁ、韓国政府には金も無いわけで、一つの港の海壁工事に10万円近い金を出す意志が在るはずもなく、また木浦はほとんど日本人の経営であり、海壁作っても日本人の利益にしかならない。
そこで加藤は、まず各国使臣の同意を得て、公然と韓国政府に照会すると同時に、内部には「秘密手段」で迫って実現を図ったものの、開港の事務は総税務司のブラウンが管掌しているため、当局官吏に言ってもしょうがないってことで、交渉相手をブラウンに絞る。

そんな中で、加藤は日本へ一時帰国する事になり、日置臨時代理公使がその交渉を進め、しかも大筋で合意に達するわけですな。
というわけで、加藤の帰国後も日置に交渉を継続させた結果、遂に9万5,000円の工費全額を韓国政府から支出させ、工事は木浦居留地会に一任させる事に成功。
この件の調印に至った、と。
んー、日置すげぇ。(笑)


今日はこれまで。
次回で終われる・・・かな?



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)
加藤増雄の在韓時代(十一)
加藤増雄の在韓時代(十二)
加藤増雄の在韓時代(十三)



巷間の独立協会に関する言説って、誰が作って誰が広めたんだろう?
疑問。

ってことで、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』から。

負褓商との衝突

独立協会の勢力日を追って熾なるや、皇帝及び政府は如何に之れを制御すべきやに極めて苦心したるものの如し。
之れに言論の自由を与へんが、非常の勢を以て菲政の攻撃を試み、民心自ら皇室政府に離背せんとす。
之れが運動を箝制し有力なる会員を鋤去せんが、一層反抗の気炎を高め、市民は一斉閉戸休業以て皇帝の反省を促すに至る。
政府大臣は、協会の鋭鋒に犠牲たらざらんことを勉むるの外に、何等の経論あらざるのみならず、皇帝亦た之れを如何ともする能はざるに至れり。
然れども、若しも皇帝にして誠意誠心能く民意の在る所を察し、奮然として国政刷新の実を挙ぐるの決心と勇気とをおこさば、是実に韓国の大慶事なりしなり。
不幸にもて極めて憶病にして、極めて猜疑深く、嫉妬、自負、軽薄、残虐、凡そ君主としては甚だ不合格なる韓帝は、在廷臣僚以外に趙秉式・閔種黙等の奸細の進言を納れ、協会の存在を以て君威に続すものとなし、如何にもして之れを押潰さんと決心して、遂に内命を伝へて無頼漢の集合たる全国の負褓商を招集するに至りたり。
是より先き、独立協会は已に解散し、更に膨張して万民公同会と化せしを以て、人民の同情を有する民会と、皇帝が内々使嗾せる負褓商との衝突は、民心をして一層皇帝に背かしむると同時、端なく民会を挑発して遂に暴力に対するに暴力を以するものとなられたり。
此際に於て露公使は、先天的非民主主義の見頭より寧ろ皇帝に同情を有し、日英米3国の公使は、各其立脚点より多少民会に同情を有したりしが如し。
独立協会の勢力拡大に連れて、高宗や政府はどう制御するか非常に苦心した、と。
言論の自由を与えれば、凄い勢いで秕政を攻撃して民心は皇室や政府から離れていく。
運動を押さえつけて有力会員を取り除けば、さらに反抗の気運が高まり、市民も扉を閉じて休業して高宗に反省を促す。
政府の大臣は攻撃されないように汲々としているだけで、高宗もまたどうすることも出来ない、と。

つうか、素直に秕政を改めろ。( ´H`)y-~~

当然加藤も、もし高宗が民意を察して誠心誠意国政を刷新しようという決心と勇気が起きれば、これは韓国にとって大慶事だと。
しかし。

「極めて憶病にして、極めて猜疑深く、嫉妬、自負、軽薄、残虐、凡そ君主としては甚だ不合格なる韓帝」・・・。
加藤語録最高。(笑)


ってことで、独立協会の存在に怯えて押しつぶそうと決意し、遂に褓負商の無頼漢を集める事になるんですね。
独立協会は已に解散命令を受けて解散しており、更に膨張して万民共同会に名前を変えており、人民の同情をバックにする万民共同会と高宗の使嗾による褓負商の衝突は、民意は更に高宗から離れていく。
その衝突は、遂に暴力に暴力で対抗するような有様になっていった、と。
この際、ロシア公使は皇帝側、日本・アメリカ・イギリスの3公使は民会側に多少の同情を有していたんですね。
つうか、加藤はこの場には居ないんで、恐らく日置の事なんでしょうけどね。

皇帝の内肯と賃銭との干係より、無意味に雲集せし無頼の負褓商と、其挑発によりて自ら「暴民」と化了せる所謂民会との間に、紛争又紛争を重ねたる結果、遂に収拾す可らざる状態となりたるに至り、皇帝は余儀なくせられて

敦礼門に親臨

し、各国使臣及政府大臣列席の上にて親しく両派の首領を諭し、以て一時の平和と秩序とを回復するを得たり。
然るに、越て2旬、万民公同会は皇帝の誓約一も実行せざれざるを見て、再び奮起して運動を開始し、褓負商亦た其筋の内訓に依りて潜かに屯集し始め、形勢再び切迫せり。
是れ実に

本官帰任

当時の状況なり。
高宗の内命と金銭の関係から、無意味に集まった無頼の褓負商。
その挑発によって、自然と「暴民」になった万民共同会。
已にどっちもどっちになってしまった両者の間で紛争に紛争を重ねた結果、収拾不可能な状態に。
まぁ、はっきり言って単にグダグダなだけなんですが。
ここで、日置曰く「大英断」の敦礼門親臨となるわけですね。
で、高宗主導の褓負商派と万民共同会の双方を諭すという、極めてマッチポンプ的な雰囲気の中、一時平和と秩序の回復を見た、と。

ところが、高宗は約束したことを一つも守らない。
で、再び万民共同会は運動を開始し、褓負商も秘かに集まり始めて、形勢は再び切迫していた、と。
これが、加藤が帰任した時の状況。
やはり、前回の独立協会が道を誤らなければ、腐敗しきった韓国政界の清涼剤として内外の人望を得るだろうという希望は、粉々に砕かれたのでありました。(笑)

実際を云へば、当時皇帝は最早策の出づる所を知らず、政府大臣等は民会の鋭鋒に怯ぢて政務を見ず、凡て無政府の有様なるのみならず、民会と雖、従来の行掛上の不得止騎乕の勢を示すものの、実は寒気の襲来と財政の困難の為めに、稍々持あぐ■の気味ありたる折柄なれば、皇帝・政府・民会挙げて本官帰朝を鶴首、以て問題の解決を見んとせしなり。
本官は極めて自重の態度を示し、仁川着の当時、密勅を奉じて本官へ面談の為め下仁し来れる兪箕煥にも面会せず、只だ時事に関する正確なる状態を研究せんと力めたり。
当時本官の見る所を持ってすれば、民会なるものは既に極端に走り暴民の列に投じたるものにして、其の中に頭角を顕はせる輩は已に雌伏し了りたれば、自余末流軽■の徒は因より取って代りて政府を組織すべき能力と抱負もなく、只だ漫りに民情を擾乱するに過ざれば、断然之れを抑制し、政府をして秩序を回復するの余地を得せしめざる可らず。
又た、負褓商が密旨を楯として跳梁を極め、一般人心に疑愼の念を与ふる如きは、勿論之れを制止せざる可らずと思考せしを以て、帰任の翌々日を以て皇帝に進謁し具さに政見を陳奏したる上、御諮問に応じ、(1)負褓商解散の事、(2)信任ある鞏固なる政府を組織すべき事、(3)弊政改革の事、(4)宮廷の刷新、(5)文明の政綱に則るべき事等を目下の急務として縷述数時間に渉りたる結果、皇帝は大に悟る所あり、一に本官の言に従ふべき決心を示されたり。
又た、此機会に於て皇帝が兼て本邦にある亡命韓人が隠然民会と気脉を通じ、之れを煽動せる由を気遣ひ居られたるに対し、帝国政府は断然右亡命者連を関東に退去せしめ、其行動を充分抑制し置きたることを言上し、帝国政府が民会に■■せるやの疑念を除くを得たり。
実際には、高宗はもう打つ手が無いし、政府大臣は万民共同会にビビッて政務を執らず、無政府状態。
一方で万民共同会もこれまでの行き掛かり上で、騎虎の勢いを示すものの、実は寒気の到来と財政困難のため、これまた打開策が無い状態。
ということで、皇帝も政府も万民共同会も、加藤に問題を解決してもらおうと首を長くして待つような状態に。
この辺、9月1日のエントリーで紹介済みなわけですが、改めて見ても、やっぱりどんな状況やねん、と。(笑)

ここで、加藤は慎重な態度を示し、密勅を持って待っていた兪箕煥にも面会せず、冷静に状況の把握と分析に努める。
結論として、現状の万民共同会は極端に走って暴徒化しており、見込みのある者は已に雌伏しているので、残余の者には取って代わって政府を組織する能力も抱負も無いと判断し、政府側に秩序を回復させる手段をとらせる方が良いだろうと考えるわけですな。
で、高宗に謁見して9月2日のエントリーのように5つ程を目下の急務として奏じるんですね。
で、高宗は大いに悟って、加藤の言に従うべき決心をする、と。
まぁ、いつも通り口だけ大将なんですが。(笑)

一方で、日本に亡命している韓国人が万民共同会と隠然気脈を通じ、煽動しているのではないかという高宗の心配に対し、日本は亡命者を関東に退去させ、その行動を抑止しているので安心してね、と。


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)
加藤増雄の在韓時代(十一)
加藤増雄の在韓時代(十二)



「着任当時の状況」、「京城覚書の調印」、「小村公使帰朝と臨時代理公使就任」、「原公使着任、京釜鉄道一件交渉開始」、「依仁親王殿下御来京は悪感情融解の端緒を啓けり」、「還御運動の結果慶運宮に移御」、「還御後の注意及本官辨理公使に昇任の件」、「露韓密約書の件」、「露国士官及び下士官160人聘用に関する件」、「露国士官下士13名来着」、「排露熱勃興及露国士官撤退の件」、「度支顧問アレキセイエフの来韓并にブラオンの地位」、「皇帝称号の件」、「朝鮮に対する感情融和」、「仁川港前灘埋立一件」、「外人に対する感情融和」、「京釜鉄道一件」と見てきましたが、そろそろ終わりが見え始めて来ました。

ってことで、今日はいよいよ独立協会に関する話。
『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きから。

独立協会の運動

独立協会なるものは、元来日清戦役の後帝国の威勢上下に加はるの時に当り、米国人の勧誘の下に米・露公使等の賛助を得て組織されたる団体にして、内実は日本の勢力を牽制する為めなりと迄伝へられたるものなり。
其会員は、朝野を通じて中々の多数にして、主義と党派を問はず、所謂譜紳と有為の少壮政治家とを網羅し居れども、老成家の部は寧ろ当初儀式的に入会したるに留り、実際時々の会合に出席し真の会員らしきものは、大抵比較的進歩したる思想を有する開化派の少壮有為の人士に外ならず。
此会は、創立以来多少の年処を経たれども、別段政治上の運動に熱中したることなく、寧ろ学術的集合に過ぎざるやの観ありたるに、昨年2月以来排露熱勃興したる折柄、露公使が脅嚇を以て韓廷に迫るに及んで、民論大に沸騰し、此際断然露国士官及財政顧問を罷免し、独立の実を完ふせざる可らずと論議したる当時より、自ら政治結社と化了し民論の中心となりたるを以て、従ふて漸次勢力を増進したるものの如し。
活発なる年少政治家が、其進歩したる思想を以て言論を逞ふし、上にしては元老閣臣の中に隠然之れを誘掖賛助するものあるを以て、其勢力は意外に根抵を有し来りたるを看取したる反対派、即ち露国派は、今にして之れを挫き去らざる可らずと其機会を俟てる時、恰も安駉壽等の計企に係る廃立の隠謀発覚したるを以て、此機に乗じて一網打盡の策を講じ、一方には大捕縛を決行し、一面には皇国協会なるものを使嗾し独立協会に拮抗せしめんと企てたれども、却って皇国協会は離散し、其有力者は独立協会に入りたる様の次第にて、却って独立協会の勢力を強め、其反抗に逢ひて趙秉式・閔種黙等は辞職するに至れり。
当初、独立協会という組織は、日清戦争後の日本の勢力を牽制するために、アメリカ人の勧誘のもとにアメリカ公使及びロシア公使等の賛助を得て組織された団体だといわれるような組織だったらしい。
実質的会員のメインは、開化派の若くて有能な人材。
で、独立協会は創立以来特段政治的な活動はせず、主に学術的な集合にすぎなかった、と。

しかし、1898年2月以降の排露熱が高まった際に、ロシア公使が聘用問題や顧問問題等で韓国政府に脅しをかけるような有様に至って、世論も沸騰し、ロシア士官や財政顧問を罷免して独立しようという議論が出てくる中で、自然と政治結社化していったんですね。
そして世論の中心となっていき、次第に勢力も増大していく、と。

若手政治家が進歩的な思想で言論を思うままにし、元老閣僚の中でも隠然とこれを援助し賛同する者も居り、この勢力の伸びを黙視できなくなったロシア派が、今のうちに叩いておこうと機会を伺っていたところ、7月24日のエントリー辺の安駉壽等による高宗譲位事件が起きる。
で、これを機に独立協会の勢力を一網打尽にしようと、7月28日のエントリーのような逮捕を決行し、一方では皇国協会を使嗾して独立協会に対抗させようとしたものの、失敗。
皇国協会は離散して、有力者は独立協会に参加するような有様となってかえって独立協会の勢力は強まり、その反抗運動によって趙秉式や閔種黙等が辞職に追い込まれた、と。
ある意味、趙秉式一派の自爆ですな。( ´H`)y-~~

つうか、、やっぱり独立協会や皇国協会の話って、巷間の話とかなり相違してますなぁ・・・。

9月に至りて金鴻陸進毒一件起るや、中枢院に於ては陵遅の刑を。
法部に於ては極刑を、各々復活せんとする計画あり。
独立協会は之れを以て文明の国■に副はざるものと見做し、反対の上疏をなすと同時に、毒薬事件に関し不忠の振舞ありとして宮内大臣以下数名の大臣、協弁を弾劾し、宮闕前に集合して示威運動を為すに至り■ては、市民の多数及び官立学校生徒等も業を抛って之れに応援したるを以て、皇帝は右大臣・協弁を免職するの止むを得ざるに至りたり。
之れを独立協会が、韓国政界に跳梁する大勢力となりたる時となす。
而して此勢を馴致したる所以を講究するに、是れ固より野心充満し功名心に富める少壮政客が、進歩したる思想を以て比較的正理を主張するに起因し、英米人等が陰然之れに同情を寄せて鼓吹したるに拠ると雖、結局多年菲政に飽ける民心を鼓舞して、一般に非王室的(アンチダイナスティック)思想を勃興せしめ、市民の後援を得たるの結果たらずんばならず。
独立協会は、如斯して起り、如斯して発達したり。
若し其歩径を誤るなくんば、幸に腐敗の極に達せる韓国政界に一片の清涼剤として、長へに内外の人望を維ぎ得たらんと、独立協会の勢力大に張らんとするに際し、本官は多少の好望を同会に抱き■、9月13日発程。
一時帰朝の途に就けり。
1898年9月に入って毒茶事件が起きる。
で、中枢院は陵遅刑の復活、法部では極刑復活を計画、か。
なんで突然陵遅刑の復活などの話になったのかさっぱり分からなかったんですが、確かに金鴻陸に対する刑罰を前提にしたものだったと考えれば、非常に納得いきますね。

んで、独立協会はそういう刑罰が文明国のすることじゃねーだろと反対上疏をすると同時に、毒茶事件で不忠の振る舞いがあったと宮内大臣以下を弾劾し、宮闕前で示威運動が行われ、結果的に大臣等が辞職に追い込まれる、と。
この辺、8月3日のエントリー辺りそのままですな。
これが、独立協会が韓国政界での大勢力になった始まり、と。

このような勢力を持つに至ったのは、元々、野心を持ち功名心旺盛な少壮の政客が、進歩的思想で比較的正論を主張し、イギリス人やアメリカ人は秘かにこれを応援した事もその原因の一つながら、やはり長年の秕政に飽きた民心を鼓舞して非王室的思想を起こさせ、市民の後援を得ることが出来たのが、最も大きな理由だろう、と。
加藤は、独立協会が道を誤らなければ、腐敗しきった韓国政界の清涼剤として内外の人望を得るだろうと期待して、9月13日に日本へと向かったんですね。

まぁ、結果は「アレ」だったわけですが。(笑)


今日も早めですが、この辺で。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)
加藤増雄の在韓時代(十一)



んー、『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、長い。
色んな史料の集まりではなく、一つの文書だから長いんだろうなぁ。
つうか、正直テキストに起こすの大変だ。(笑)

また愚痴っぽくなってきましたが、今日も1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きを見ていきます。

京釜鉄道一件

京釜・京仁鉄道敷設権を我に与ふべきこと、日朝暫定合同条款に規定せる所にして、我已得の権利に属するに拘はらず、韓廷は京仁線敷設権を米人に許可したるは、当時我が地位極めて不利なりし為め是非なき事と云ひ乍ら、極て遺憾の事に属す。
之れに関しては、前来の公使に於て当国政府に詰責する所あり已に形式的の謝罪状を取りたるも、京釜鉄道に至りては、原公使在任中其条款約定の請求を提出して種々交渉を重ねたるも、遂に要領を得ざりしを以て、時勢に鑑みて一時其談判を中止し、之れを懸案となし置きたり。
本官就任后、直ちに此談判に着手せんとせしも、如何せん我に対する朝鮮上下の感情及び諸外国の感情甚だ不可なりしを以て、強ひて如斯事件を交渉するは、其不成功の場合に於て却て困難地位に陥るの虞あるべきを察し、暫機会を待ちたる中に1年有余の歳月を経過したる処、露韓の干係一大変調を来し、露国は決然手を引くの場合に至り、従って韓国上下は我に緊切し来りたるのみならず諸外国も亦た好情を以て我に対するに至りたる折柄、日露新協商成立の事あり、我が勧告に於てなす所の経営に対して露国が差当り表面上の反対をなす能はざる時機に到来したれば、本官は徐々として本案の交渉を開始し、表面は当局者に向って本件は我已得権なること、条款細目の協定に至りては帝国は勧告の状態に深く察する所ありて、3ヶ年に渉りて寛弘大度の辛抱をなしたること、已に他の外国にも夫々コンセスションを許したる上は、我に対してのみ斯く遷延するは、帝国政府が決して容認する能はざる所なる旨を論じ、且つ此上遅疑するに於ては、断然工事に着手する旨を宣言すべしと迄切詰めて談判を試みつつ、裏面に於ては閔泳綺、李載純等を利用し、内密の方法を以て皇帝に対し或は威嚇、或は甘言を以て本案の決定を促しつつある折しも、昨年7、8月の交、駐韓公使に変動あるべき旨本邦新聞紙一斉に記載したるを以て、皇帝は本官の更迭を痛く軫念せらるるに由て承知したるに付、直ちに之れを利用し、本官の更迭は盖し京釜鉄道談判の容易に纏まらざるに原因するならん。
故に若し陛下にして断然本案の決定を許可せらるれば、帝国政府は皇帝の意に忤ふて本官を召還せらるることなかるべしと内奏せしめたり。
於是皇帝は、本官留任の御親電を発送せらるると同時に、京釜鉄道一件を妥協すべき旨を当局者に下命せられたり。
恰好し、当時伊藤侯爵清国漫遊の途次入京せらるべきの報に接したれば、本官は之れを韓廷に内報すると同時に、伊侯は日清戦役当時の首相にして、実に韓国独立の恩人なり。
其来遊に対しては、充分の歓待を尽すべき旨を勧告したるに、皇帝以下政府大臣も大に之れに動かされ、皇族に準ずるの待遇をなすことに内決したるを以て、本官は上下に向って伊侯を遇するに只だ形式的の重礼をなすは、必ずや伊侯の満足を買ふ能はざらん。
韓国君臣は、日韓親和の情を事実に表明するを要すと勧告し、暗に伊侯入京以前に京釜鉄道一件を落着せしめんと勉めたり。
其結果、伊侯入京前日(8月24日)に至り、韓政府は公文を以て是迄種々の事情より延引せしことを謝し、愈々協議を決定すべき旨を申越せり。
斯くて伊藤侯爵の滞在は、非常に我に好結果を与へつつある最中に当り、幸に我陛下より御答電到来したるを以て、韓帝は愈々本案の決定を促され、結局9月8日を以て本条約の調印を了するを得たり。
丁度良い切れ目が無かったので、一気に引用してみました。
京釜鉄道については、9月10日のエントリーの原敬公使時代の記載にもあったわけですが、暫定合同条款があるにも関わらず全く上手く行っておらず、結局一時中断されていたわけです。
で、加藤が公使に就任して直ぐにこの事に当たろうとする。
現に、5月31日のエントリー辺りでは安駉壽辺りとの会話には出てくるわけです。
しかしながら、その当時は勿論高宗がロシア公使館に引き籠もっており、且つこれまでもこの加藤の報告の中で見られたとおり日本に対する風当たりは強いわけで、原公使時代に引き続き暫く様子見してた、と。

就任から1年ほどが経って、これまた度々この報告で出てきたロシアと韓国の間の関係悪化により、ロシアは一切手を引くこととなり、朝鮮の民心や諸外国も徐々に日本寄りになっていく中で、西=ローゼン協定が結ばれ、ロシアは表面上日韓間の商工業の関係に反対できなくなったわけで、加藤は徐々に交渉を開始していくんですね。

表面上は、暫定合同条款による既得権がある事、3年も我慢している事、アメリカへの京仁鉄道の敷設権や、フランスへの京義鉄道の敷設権等は許可したのに、日本に対してだけ引き延ばしているのは、日本政府の決して容認しないところである事などを挙げ、これ以上遅らせるなら断然工事着手を宣言するぞと迄切り詰めて談判を試みる。
裏面では、閔泳綺や李載純等を利用して秘かに高宗に対して、ムチとアメ方式で迫る。

そんな中で、1898年7~8月頃に日本の新聞が駐韓公使が交替するという報道をするんですね。
すると、高宗が加藤の更迭話に心を痛めているとの事を知る。
で、これを直ちに利用。
「自分が更迭されるのは、京釜鉄道の談判がうまく進捗していない事が原因だと思います。もし陛下が京釜鉄道一件を許可されるならば、日本政府もその意に反して私を召還するような事は無いでしょう。」と内奏する。
そこで高宗は、加藤の公使留任の依頼電報を出すと同時に、当局者に京釜鉄道一件を妥協しなさいと命令。

さらに好都合な事に、伊藤博文が清国漫遊の途中でソウルに寄るという報告を受け、加藤は韓国政府に内報するのと同時に、伊藤博文が日清戦争当時の首相であり、韓国独立の恩人だとして充分に歓待するようにと勧告。
高宗や諸大臣もこの勧告に動かされ、皇族に準じた待遇をすることに決定。
・・・国賓待遇?(笑)

で、ただ形式的に鄭重な礼だけで迎えても、伊藤侯の満足を買うことは出来ないだろうから、日韓友好の情を実際に証明する必要があるんじゃない?と。
その結果、伊藤博文入京の前日8月24日、韓国政府は公文書でこれまで引き延ばした事への謝罪と、協議決定すべき旨を通知してきたんですね。
そして最終的に、1898年(明治31年)9月8日、京釜鉄道合同条約が調印されたわけです。

んー、加藤もなかなか悪人ですねぇ。(笑)


ちょっと早いですが、今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)
加藤増雄の在韓時代(十)



つうか、改めて見ると問題山積だったんだねぇ・・・。
ってことで、加藤の在韓公使時代の回顧的な報告も今回で10回目になりました。
今回も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続きを見ていきましょう。

外人に対する感情融和

28年10月8日の事変は、啻に当国人の感情を酷害したるのみならず、甚しく外人の感情を害し、我を目するに残忍酷薄を以てし、一般の政策に対し直接間接の反対を受けたること少からず。
殊に米国宣教師等の排日本的運動を然りとなす。
是を以て本官の対韓懐柔策の稍々緒に就きたると同時に、先づ一般外人の我に対する悪感情を滌除するを急務と認め、各国使臣以外に就て稍々地位ある外国人、殊に米国宣教師に向って交際を親密にし、有らゆる機会を以て其好感情を維がんと力めたるに、幸に顕著なる効果を収め、排日的論議を試むるものを見ざるに至れり。
時恰もスペール氏本邦より当国に来任したるに、同氏は非常に民主的言動を嫌忌し、外国宣教師等が其分を忘れて漫りに政治に容喙するを以て甚だ不都合なりとし、大にアンチアメリカン主義を公言したる為め、米国人などは痛く露公使に対して不快の念を起し、同時に露国とは自ら対手者たる我に向って、好情を寄するに至れり。
斯くて已往スペール公使とシル公使との時代に成立せし露米間の密鎖は全く謝絶して、爾来寧ろ米国の助勢を我に誘致したるは、固より本官の画策其功を奏したる次第なりと雖、時勢の変化とスペール氏の排米的言動も有力なる原因なりしことを認む。
閔妃殺害事件は韓国人だけではなく、甚だしく外国人の感情を害し、日本人を残忍酷薄と見なし、一般の政策についても直接間接の反対を受けたことも少なくなく、特にアメリカ人宣教師などは排日運動を当然と捉える。
返す返すも三浦梧楼と壮士連中の害は大きいですな。

このため、加藤は韓国への懐柔策の取りかかると同時に、まず一般外国人の日本に対する悪感情を取り除く事を急務とし、各国の使臣以外にやや地位のある外国人、特にアメリカ宣教師との交際を密にして、あらゆる機会を使って好感情を得ようと努力したところ、幸いに顕著な効果があり、排日的な論議をする者も見かけなくなった、と。
また、丁度スペールがロシア公使として赴任したものの、彼は民主的な言動を嫌って外国人宣教師が分をわきまえずに政治に容喙するのを甚だ不都合だとして、アンチアメリカンを公言。
そのために、アメリカ人はロシア公使に不快感を示し、必然的にロシアに対する日本の方に良い感情を寄せた、と。
いや、確かに宣教師、しかも外国人が政治に容喙するって最悪なのは最悪ですがね。
スペールももっとやり方考えろ、と。(笑)
まぁ、私の予測によれば、容喙を可能にしていたのは高宗なんでしょうけどね。

兎も角、ロシア公使スペールとアメリカ公使シルの間にあった繋がりも断ち切れ、それ以降アメリカが日本寄りになったのは、加藤の計画が上手く行った事と同時に、情勢変化とスペールの言動も大きな原因の一つだった、と。
こうして、外国人の日本に対する感情は好転したわけですね。

仁川港前灘埋立一件

本件は、仁川港の発達に伴ひ自然日本居留地の狭隘を感じ来りたるを以て、同居留地前面を埋立てて居留地の拡張せんとするものにして、其自体に於ては固より重大なる問題と云ふ能はざるも、種々の事情の纏綿せしが為め、10余年間に亘る希有の難件と成りたるなり。
埋立工事は、啻に本邦人民のみならず一般公共の利益にして、朝鮮政府に於ては当初より著しき故障なかりしが、外国人の反対甚しく、従って各国使臣中常に本案の進行を阻滞せしむるものありたるなり。
何故に外国使臣の反対を来せるか。
仁川に於ける本邦人民は、日本居留地に溢れて各国居留地に住居するもの多く、各国居留地の大部分は本邦人が外商の所有土地に家屋を建築して居住せるものを以て充され、外商等は其地代によりて年々数万円の収入を得つつある也。
故に、一朝埋立工事にして成就せんが、各国居留地に在る日本人は忽にして之に移住すべきを以て、勢ひ外商等の収入に非常の影響を来さざる可らず。
是を以て、最も多く利害を感ずる独乙領事は常に有力なる反対者たり。
又た、英国公使はハーリーパークス氏清韓駐在公使たりし頃、朝鮮政府と協定せし覚書中、将来日本居留民地及各国居留地の前灘を埋立つるときは、其埋立地は各国居留地たるべしとあるを以て、本案の埋立地を日本居留地の一部となすことは此覚書の明文に抵触すとの理由にて、是又反対の地位に立ち、其他の使臣も皆な多少の利害を有するを以て我に同意を表せず、朝鮮政府は是等外国使臣の手前を憚りて、我が提案に賛成せず。
如斯事情の下に、本件は提案以来殆ど10年に■んとする間交渉に交渉を重ねたるも、寸前尺退の有様にて、容易に解決に至らざりし也。
仁川の埋立問題については、きままに歴史資料集「日清戦争前夜の日本と朝鮮(16)」においても取り上げられており、そこでも記されているとおり『公文類聚・第十五編・明治二十四年・第十四巻・外事・国際・通商・雑載/仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス(レファレンスコード:A01200756600)』では「終結致し候」だった筈なんですが、10余年間の難件という事は、それだけでは終わらなかったようですね。

当然朝鮮政府は居留地借入約書第1条に基づく拡張であり、最初から問題とはしてない。
しかし、外国人の反対が激しく、各国の使臣の中で常に埋立問題の進行を邪魔する者がいる、と。
『仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス』と同一案件において、海岸の1道路を各国人も往来自由として提供するというような直接的な関係だけでなく、外国人居留地に間借りしている日本人が、拡張された埋め立て地に住むようになれば地代が入らないからという、もの凄い間接的な問題が新たに出てきたんでしょうね。(笑)

で、その筆頭はドイツ領事。
イギリス公使は、パークス覚書の新たな埋立地は各国の居留地とする条文に抵触するとして反対。
その他の使臣も多少の利害関係があるために同意せず、挙げ句の果てには朝鮮政府までが各国使臣の手前を憚って、日本の提案に同意しない。(笑)
ということで、埋立問題は少し進んで大幅に後退の有様で、簡単に解決しなかった、と。

本官思へらく、本案埋立の主要なる目的は、之を以て米殻斗量及船荷扱ひ場并に倉庫設置等に存するを以て、此目的に達し得べき限りは、多少の制限を設くるも差支なし。
且つパークス覚書の如きは、殆んど今に於て顕著なる効力を有せざるものなれば、英国公使に悪感情を与へざる以上は、甚だしき反対を受くることなかるべしと。
乃ち先づ故障の根本たる大地主独乙商人ウオルターに対し、石井領事をして極めて微妙なる手段を用ひ之れを馴致せしめ置き、而して後一昨年11月各国使臣会議を招集し、遂に我提案の議定書を可決せしむるを得たり。
而して、同時に独乙領事には米公■を以て、向後更に埋立拡張せざること及び、新埋立の地は普通の商店住宅の敷地に充てざることの2点を保証し置きたり。
尤も、当時英公使はパークス覚書もある事に付、本国政府の承認を条件として調印したれども、其後何等の故障をも申出ずして遂に全然本件の通過を見たり。
10年に■れる難件が、一席の使臣会議にて妥協に至りしこと、固より仁川に於ける石井領事の功労に由るもの少なからずと雖、抑又従来日本公使が実際に各国の使臣とは左程親密ならず、其運動も常に孤立の有様なりしに拘はらず、本官は大に進んで彼等と交誼的協同の態度を何事にも適用して、好感情を博したるの結果たりしことを信ず。
今回の埋立の主な目的は、当初から居住地の確保ではなく物資の置き場、倉庫等の敷地の狭隘解消にあったのであり、その目的を達するためには多少の制限を設けても差し支えないだろうと加藤は考え、且つパークス覚書なんて今現在大した効力も無いんだから、イギリス公使の御機嫌を損ねなきゃ激しい反対も受けんだろう、と。
そこで、現在最も障害となっている大地主のドイツ商人ウォルターに対して、仁川の石井領事に「極めて微妙なる手段を用ひ」馴致させる。
んー、極めて微妙なる手段って、非常に気になるわけですが。(笑)

で、ドイツ領事に対しては、今後更に拡張はしない事と埋立地は普通の商店や住宅の敷地に使わないという条件を保証。
イギリス公使は、パークス覚書もあるので本国政府の承認を条件として、ようやく日本の提案した議定書を可決、と。
ということで、ここでようやく仁川の埋立問題は解決を見たようなんですが、『仁川港我居留地海岸ノ前面埋立租界拡張ヲ終結ス』の事もあるわけで、本当に解決したのか不安。(笑)


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)
加藤増雄の在韓時代(九)



前回で、ようやく半分折り返し。
残り半分になってしまいました。
アジ歴再開までどうしよう・・・。(笑)

さて、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』から。
前回は、聘用問題と財政顧問問題に一段落ついた所までを見ました。
今回はその続き。

皇帝称号の件

当国国王が日常普通の事を処するに於ては、平人以上の智畧を有せらるるに拘はらず、儀式装飾等の事に至りては極めて浮華を好み、自ら揣らざるの極往々児戯に類する事を為して恐悦さるるを常とす。
皇帝称号、国号改定の如き即ち是也。
国王が、皇帝の称号を望まるる事固より一日にあらず。
遠く、明治17年の交より折に触れては其の希望を暗示さるるを以て、廷臣も往々之れで歓心を買ひ、若しくは感情を和ぐるの手段として利用せんと企てたること一再に止まらず。

然るに、30年に入りては春来其情望を熾にせられ、遂に各道より多数の上疏者を見るに至れり。
是れ、勿論上意を迎合する目的たるもの多しと雖、国王及び昵近より内密に諭旨して上疏を促したること亦た少からざるやに観察せらる。

進号上疏の頻々たるに至りては、国王は表面敢て当らずとて却下されたれども、廷臣相連りて請ふもの5次に至りて、遂に臣民の稟請止み難く、皇帝の位号に膺らるることとなれり。
然れども、皇帝は諸外国が之れを容認せざるべき事を恐れて、内々各国使臣に依頼さるる模様あれども、他の使臣は熟れも之れを真面目に賛成するものなく寧ろ諷止する有様なれば、本官も一時断念して徐々に国の発達を待たるべき旨を内奏したれども、国王の希望は遂に抑ふるに由なく、各国の認容すると否とを問はず断然皇帝の位号に膺るの決心をなし、遂に10月12日を以て即位式を挙ぐるに至りたり。
是に於て本官は惟らく、本来我国に於ては、各国の帝王を一斉に日本語を以て皇帝と称するの慣例なれば、単に朝鮮国王に対し、日本語を以て皇帝と云ふ称号を用ふることは毫も差支なく、而かも国王の歓心を買ふに於て、非常の利益あるべきを以て、断然各国に先って皇帝の称号を認むるを得策と思料し、本省へ稟議の末別に容認の通知を発せず、最近の機会に於て我より皇帝の位号を用ふることとなりたるに、日ならずして明成皇后の葬儀施行の事あり、本官に特派大使として参列被仰付たる其国書に初めて皇帝の位号を用ひられたれば、諸外国中第一着に皇帝の位号を用ひしこととて、皇帝は非常に満足せられたり。
爾後、各国も此例に做ひ追々皇帝の称号を用ふるに至りたれば、皇帝は之れに就きても深く我邦を徳とせらるるものの如し。
この辺は、「帝国への道」で取り上げた話がメインですね。

高宗は、日常的な普通の事への対処については、人並み以上の知略を持っているのに、儀式や装飾などの事については実質に関係無く兎に角上辺だけは飾る事を好み、常々何の価値も無い事をして非常に喜ぶ、と。
「虚飾」ですな。
で、皇帝号や国号の改定なんかは、まさにそれ、と。
一刀両断。(笑)

元々高宗が皇帝号を望んだのは昔からの事で、明治17年から折りに触れてその希望を暗示とあるわけですが、明治17年ということは、甲申政変絡みかな?
ちょっと興味深い。
で、家臣も歓心を買ったり感情融和の手段とするために、皇帝称号等の件を利用しようとする事が再三あった、と。

明治30年に入って皇帝称号等への願望は益々激しくなり、遂には各地から多数の上疏者が出るようになる。
まぁ、この辺は7月10日のエントリーで趙秉式、権在衡、兪箕煥等に内命を下して上疏運動をさせた話が出てましたな。
で、高宗はそれらの上疏に対して謙譲して却下し続けたんだけど、沈舜澤等の廷臣が5回も上奏したため、仕方なく皇帝の位号に就く事にしたというポーズが取られるわけです。

まぁ、これ自体が茶番くさいんですが、勿論その大本は諸外国が皇帝となることを容認しない事を恐れたからであり、これまで内々に各国の使臣にお願いしてみたけど、誰も真面目に賛成する者が無いどころか、寧ろ遠回しに止めとけと言われる始末。
おまけに、加藤まで「一時断念して、国が発達するまで待ったら?」という内奏。
しかし、高宗の願望は抑える事が出来なく、遂に「各国が容認しようがしまいが、皇帝名乗るもん!」と決心し、10月12日に即位式挙行。

この辺は、6月24日のエントリーで外務省と連絡とりあってるように、要するにやっちゃったもんは仕方ないわけで、「Emperor」なら兎も角日本語で「皇帝」って言う分には高宗も喜ぶだろうし良いんじゃね?という、かなり投げやりな理由で皇帝と呼ぶことに。(笑)
で、どうせ呼ぶなら他国に先立って呼んでやろうと言うことで、閔妃の国葬で加藤が特派大使として行く際に、その国書の中で皇帝の位号を使った所、高宗は非常に満足。
それ以降は、他の国もそれに習って皇帝の称号を用いるようになり、高宗はこの点でも日本の徳とした、と。

つうか、単純なヤツ・・・。

朝鮮に対する感情融和

傭聘問題は、端なく朝鮮の上下をして帝国に対する好感情を喚起したるのみならず、露仏に対して疑惧の念を醸さしめたれば、本官は此機会を利用し、如何にもして10月8日事変以来の悪感情を除去せしめんと計り、爰に懐柔の方針を以て大に感情の融和を勉めたり。

然れども、朝鮮人の通性として、臨むに威を以てせば之れを恐れて近かず、懐くるに恩を以てすれば馴れて侮るに至り、其間の呼吸大に用意を要するを以て、本官は能くべき限り凡ての機会を利用して、我に他意なきことを示して信頼の念を増さしめ、而かも同時に厳然たる態度を保持して、漫りに馴れしめざらんことを期したる結果、事態形勢自ら変化を来し、朝鮮上下の人心は、日を追ふて露を離れて我に来るに至れり。
聘用問題の解決は、朝鮮の官民の日本に対する好感情を喚起し、ロシアやフランスに対して疑い、不安視するようになった、と。
なんでこう両極端かね・・・。
兎も角加藤は、この機会を利用して閔妃殺害事件以来の悪感情を取り除こうとして、懐柔の方針をとり、大いに感情の融和を図った、と。

ここで加藤語録。
「朝鮮人の通性として、臨むに威を以てせば之れを恐れて近かず、懐くるに恩を以てすれば馴れて侮るに至り」。
アメリカと韓国に対する北朝鮮とか。(笑)
朝鮮人の共通の性質として、対するのに威力で臨めばこれを恐れて近づかないし、恩でなつけようとすれば馴れて侮られる、と。
従って加藤は、出来るだけ総ての機会を利用して、自分に他意が無いことを示して信頼を集め、同時に厳然たる態度を維持してむやみに馴れあわないようにした結果、朝鮮の人心は日に日にロシアを離れて日本に寄ってくるというように、状況が変化してきた、と。

加藤、本当にご苦労さんだよねぇ・・・。


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)
加藤増雄の在韓時代(八)



今回のように、色々な史料を参照しながら話を進めなくても良いってのは、テキスト起こす量が多くても、精神的に結構楽。
割と機械作業ですからねぇ。
まぁ、その分コメントには苦労するわけですが。(笑)

ってことで、今日も『各国内政関係雑纂/韓国ノ部 第二巻/12 着任当時ノ状況(レファレンスコード:B03050003900)』、1899年(明治32年)5月17日付『機密第36号』の続き。
高宗、韓国政府、元老、独立協会の意見がほぼ一致を見、士官及び顧問官の謝絶について加藤の文案丸写しで回答した所からですね。

右に接したる露公使は頗る事の意外なるに驚き、夜中通弁を宮中に遣はし該回答の撤回を促したるも、宮中に於ては已に政府の決議を経たる旨を口実とし之を峻拒したる為め、又た空しく持帰りたりと云ふ。
形勢如此なるを以て、露国は果して此の回答に接し如何なる措置に出づべきやと懸念不一方、殆んど露公使の最後の照会に接する迄は、韓帝は頗ぶる煩悶苦慮、寝食を安ぜず、毎々侍臣を本官の許に遣はし下問せらるる所あり。
本官は、力めて軫念を安ずる手段を執り、断じて此次露国は兵力に訴ふるが如き懸念無之旨を屡々上聞に達し置きたり。
果せる哉、同17日露公使より露国は韓国の希望通り、士官及顧問官の引揚に同意し、且つ自今事務を執らしめざる様必要の措置に及びたる旨回答せるを以て、皇帝始め政府人民も、始めて愁眉を開き、爾来城内一般に沈静に帰したり。

以上、露国の態度此に出でたるは、或は北清問題に多少関係を有し斯く速に撤退を肯ずるに至りたるものと推察せらるも、由来感情の極端に走りて往々無謀の暴挙を企てたる幾多の前例を有する韓人にして、今回に限り頗る沈着老成の態度を守り、歩調を誤らず、斯く円滑に此の難問題を収局したるは、其当時にあって本官の心窺に欣幸とする所たりし。
これを受けたロシア公使は驚き、夜中に通訳を宮中に派遣してその回答の撤回を促したが、宮中では「もう政府が決議しちゃってるから」という口実で撤回拒否。
こういう状況になった事から、当然ロシア側がどのような措置に出るかという懸念は一方ならず、高宗はいつものようにビビリまくりで、加藤のもとに何度も「大丈夫かな?大丈夫かな?」と使者派遣。(笑)
加藤は、「武力行使とか絶対無いから、大丈夫。」と安心させる事に務める。
案の定、3月17日にロシア公使からは、韓国側の希望通りに士官と顧問官の引き揚げに同意し、今後事務を行わせないような措置を講じたと回答。
ここで、高宗を始め政府人民も安心し、城内は鎮静に帰した、と。

で、加藤は、ロシアが今回のように事態を穏便に済ませたのは北清問題に多少関係しており、このような速やかな撤退を招致したのではないかと推察。
ここでの北清問題ってのは、1898年3月の大連や旅順の租借権と、南満州における鉄道敷設権を獲得する話かな?
で、加藤語録に又一つ。
「感情の極端に走りて往々無謀の暴挙を企てたる幾多の前例を有する韓人」。(笑)
マジで、誰か加藤語録まとめてくれないかなぁ・・・。
それが今回に限っては、非常に沈着老成な態度を守ってこのように円滑に難問題を解決したのは、喜ばしく幸せな事だ、と。
確かに、最終局面に於いて団結して方向性を守ったってのは、非常に珍しいですからねぇ・・・。

度支顧問アレキセイエフの来韓并にブラオンの地位

曩に閔泳煥特派大使として露国に赴きたる節、其委任事項の一として露国政府に就き交渉する所あり。
即ち、財政に熟達する同国官員一員を韓国に送り、須らく大韓諸般の度支事務を総弁し、兼て■関に関する諸般事務を■理せしめたしとの事を以てせしに、露国政府は此に依頼を容れ、該国財務官アレキセイエフ及び其書記官ガァフラルトを派遣するに至れり。
而して露公使は、以上閔泳煥との取極めに由って両人の来韓せし旨を公然韓政府に通知し、且つ両人を同伴して謁見を為し、速に契約書に調印を要求せり。
惟に露国は此の機に於て兵権は勿論、兼て財政権をも悉く其一手に収覧せんとの野心に出でたるものにして、若し之を遂行せしむるときは、我に於て一大不利益の地位に立たざるを得ず、殊に日露協商とは全く相枘■するを以て、所有する手段を盡して之れが防遏に従事せり。
而て一面は、政府大臣より民間の有力家を説き、又一面にはブラオンの地位を維持するの名に於て、英国総領事ジョルダンに説き、之と相結托して現在の位置維持に盡力せり。
其結果、一方には民間の輿論大に反対を唱へ、一方には総税務司ブラオンの地位を維持せんと欲して、手強く運動するあり。
聘用問題と同時期の、度支部顧問問題。
こちらはイギリスも絡むので、聘用問題に較べればかなり楽には見えるんですけどね。(笑)

聘用問題同様、元々閔泳煥がロシアに赴いた際に、度支事務の総弁と税関の諸般事務を管理する人材派遣を依頼し、これによってロシアはアレキセイエフらを派遣。
で、ロシア公使は閔泳煥との取り決めで彼等が来韓したことを通知すると共に、彼等を引き連れて謁見し、契約書に調印を要求。
士官聘用により兵権を、度支顧問任用で財政権までロシアの手に落ちれば、当然日本は苦境に立たされるわけで、あらん限りの方法で阻止を図った、と。

まずは、聘用問題同様に政府大臣や民間の有力者を説得し、一方ではイギリス総領事のジョルダンに働きかけて之と結託。
ブラオンの現在の地位を守る事に尽力した、と。
結果、一方では世論はアレキセイエフの顧問就任に大に反対を唱え、総税務司ブラオンの地位を維持しようと、強烈に運動。
つうか、韓国の民間世論も、アレキセイエフなら駄目でブラウンならオッケーってのが、良く分からんのですが。(笑)
マジで、単なる「排露熱」なんでしょうかねぇ・・・。

露公使は形勢如此なるを察し、到底時の外部大臣閔種黙の優柔不断なる、契約を断行する勇気なきを見て、偶々趙秉式の同公使の意を■へ契約調印を主張するあるを利用し、国王に迫まって閔に代えるに趙を以てするに至れり。
此に趙秉式外部大臣に任ぜらるるや、度支大臣朴定陽の協議に応ぜず、調印を拒みたるにも拘はらず、又た英総領事の抗議あるをも意に介せず、断然露公使との間に契約書調印を了せり。
是と同時にブラオン解傭の通知を英総領事に送れり。
形勢右の如くなるを以て、之に反対する朴度支は辞表を呈して去り、後任には即露党の一人たる鄭洛鎔任命せらるるや、ブラオンより一切の書類を引挙げ、其事務をアレキセイエフに移し、アレキセイエフ此に全く財務を総理する事に成れり。
以上趙秉式の専横なる処置は大に一般の非難する所となり、平素不人望なりしブラオンは、寧ろ却て一般の同情を惹くに至れり。
英国総領事は、以上の所為に対し大に不満を抱き英政府を代表し大に抗議を提出し、且つ艦隊を仁川に集合せしむる等示威運動を為したる結果、纔にブラオンの総税務司の地位丈は之を喰止むることを得たり。
斯てアレキセイエフは専ら度支財政の衝に当りたるも、日ならずして大臣鄭洛鎔との間に意見の相衝突するあり。
爾来何となく度支部内の折合円滑を欠き、事務の挙らざるの傾きありしが、翌年に及んでは種々の点より排露熱漸く勃興し、露国政府は手を引かざるを得ざる場合に押移り、即3月初旬に於て他の陸軍士官と共に、度支顧問も均しく撤退するに至れり。(詳細は、士官聘用問題の記事参看)
ロシア公使は、形勢がブラウン側に傾いているのを察し、時の外部大臣閔種黙は優柔不断であり、世論がこのようであれば到底契約を断行する勇気は無いだろうとし、たまたま趙秉式がロシア公使の意図の通りに契約調印を主張するのを利用し、高宗に迫って外部大臣を閔種黙から趙秉式に代えさせた、と。
それで代える高宗も高宗なんだけど、そもそも李完用から閔種黙に外部大臣を代えさせたのって・・・。(笑)
あの時は閔種黙が軟弱だから直ぐOKするだろうと考え、今回は軟弱だから世論にビビッて承知しない。
人選ミスですな。(笑)

この時、度支大臣の朴定陽はその協議に応じず調印も拒否しており、一方でイギリス総領事ジョルダンの抗議があるのも意に介さず、趙秉式が外部大臣となるやロシア公使との間で速攻契約書調印終了。(笑)
で、ブラオンの解雇通知をジョルダンに送る。
んー、何つーか・・・凄いなぁ・・・。

そういう状況になった事から朴定陽は辞表提出。
後任の度支大臣には親露派の鄭洛鎔が就任し、早速ブラウンから書類一切を引きあげてその事務をアレキセイエフに移し、ここにアレキセイエフが財務を総理することになったんですね。
この趙秉式の勝手なやり口は、当然みんなから非難囂々。
いつもは人気のないブラウンに同情が集まった、と。
つうか、ブラウン不人気だったんだ・・・。(笑)

ジョルダンも勿論不満であり、イギリス政府を代表して正式に抗議し、且つ艦隊を仁川に集合させるなどの示威行為によってやっと総税務司の地位だけは守った、と。
艦隊つかって示威行為って、イギリスの十八番だしね。

ということで、ブラウンは税関を、アレキセイエフが度支財政を担任する形になったんだけど、直ぐにアレキセイエフと新任度支大臣の鄭洛鎔が衝突。
それ以降なんとなく度支部内の折り合いが悪くなった、と。
更に、翌年の1898年にはこれまでも度々出てきたとおり排露熱が激しくなり、ロシアは手を引かざるを得なくなって、1898年3月に士官と共に顧問官も撤退。
またもや、人選ミスですな。(笑)
いや、まともな人材いるのか?という根本的な疑問も無いわけでは無いんですが。(笑)


今日はこれまで。



加藤増雄の在韓時代(一)
加藤増雄の在韓時代(二)
加藤増雄の在韓時代(三)
加藤増雄の在韓時代(四)
加藤増雄の在韓時代(五)
加藤増雄の在韓時代(六)
加藤増雄の在韓時代(七)