前回からお送りしている1945年(昭和20年)4月1日公布の「衆議院議員選挙法」改正の内容。
何か淡々と進んでますが、それほど変なところがないんですもの。(笑)
ってことで、今回も淡々とアジア歴史資料センター『御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律/御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律(レファレンスコード:A04017707700)』の続きを。

第157條
本法中県に関する規定は朝鮮に於ては道に、臺灣に於ては州に、県庁に関する規定は朝鮮に於ては道庁に、臺灣に於ては州庁に、郡に関する規定は朝鮮に於ては郡又は島に、澎湖庁に於ては庁に、支庁長に関する規定は朝鮮に於ては郡守又は島司に、臺灣に於ては澎湖庁長又は郡守に、支庁に関する規定は朝鮮に於ては郡庁又は島庁に、臺灣に於ては澎湖庁又は郡役所に之を適用す。

朝鮮に於ては、本法中市に関する規定は府に、市長に関する規定は府尹に、市役所に関する規定は府庁に之を適用す。

京城府に於ては、前項の規定に拘らず、本法中市に関する規定は区に、市長に関する規定は区長に、市役所に関する規定は区役所に之を適用す。
但し、第12條の規定の適用に付ては、其の日迄引続き6月以上其の市町村内に住居を有する者とあるは、其の日迄引続き6月以上其の府内に住居を有し、且其の日に於て其の区内に住居を有する者とす。

本法令中、町村に関する規定は朝鮮に於ては邑面に、臺灣に於ては街庄に、町村長に関する規定は朝鮮に於ては邑面長に、臺灣に於ては街庄長に、町村役場に関する規定は朝鮮に於ては邑面事務所に、臺灣に於ては街庄役場に之を適用す。

第144條の2の規定は朝鮮に、同條及第145條第1項の規定は臺灣に之を適用せず。
基本的に、内地の行政機関や行政区分を、朝鮮や台湾でのそれに置き換える規定ですね。
ま、特に問題はありません。

第158條
第10條の規定を除くの外、本法中官吏とあるは、朝鮮に於ては邑面長を、臺灣に於ては街庄長を含むものとす。
第10條は、「官吏及待遇官吏は、左に掲ぐる者を除くの外、在職中議員と相兼ぬることを得ず」として、「国務大臣・内閣書記官長・法制局長官・各省政務次官・各省参与官・内閣総理大臣秘書・各省秘書官」が議員と兼職出来ない事を定めた条項です。
ここで述べられた「官吏」以外は、この法令で官吏とあるのは朝鮮では「邑面長」を含み、台湾では「街庄長」も含む、と。
読替とほぼ同義ですね。

第159條
第16條第1項中、地方裁判所に関する規定は、朝鮮及臺灣に於ては地方法院合議部に、同條2項中大審院に関する規定は朝鮮に於ては高等法院に、臺灣に於ては高等法院上告部に、第84條第2項中検事に関する規定は朝鮮に於ては朝鮮総督府検事に、臺灣に於ては臺灣総督府法院検察官に之を適用す。

本法中、刑事訴訟法とあるは、朝鮮に於ては朝鮮刑事令に於て依ることを定めたる刑事訴訟法とす。
これも、内地の「地方裁判所」に対して、朝鮮及び台湾における当該司法機関の読替ですね。
これまた特に問題なし。

同表中北海道の部の次に左の如く加ふ。

(前略)

京畿道   3人
忠清北道 1人
忠清南道 1人
全羅北道 1人
全羅南道 2人
慶尚北道 2人
慶尚南道 2人
黄海道   2人
平安北道 2人
平安南道 2人
江原道   2人
咸鏡北道 2人
咸鏡北道 1人

(後略)
合計23人ですな。
ちなみに、日本で最も少なかった選挙区は、鳥取県の4人。

本法中第6條及第140條の2の改正規定、附則第3項の規定竝に樺太、朝鮮及臺灣に関する改正規定の施行の期日は、各規定に付勅令を以て之を定め、其の他の規定は公布の日より之を施行す。

本法施行に関し必要なる事項は、勅令を以て之を定む。

裁判所構成法戦時特例中、左の通改正す。
第6條に左の1項を加ふ。
第2項の規定は、衆議院議員選挙法第149條の2の規定の適用を妨げず。
第6條の改正規定とは、「「刑法」を「刑法(朝鮮刑事令及臺灣刑事令に於て依る場合を含む)」に改む」。
第140條の2の改正規定は、「第16條及第84條第2項の規定に依る訴訟竝に第12章に掲ぐる罪に関する訴訟に付、上告裁判所が大審院に非ざる場合に於て、法律の同一の点に付曾て大審院其の他の上告裁判所の為したる判決と相反する意見あるときは、決定を以て事件を大審院に移送することを要す。前項の決定ありたるときは、訴訟は上告を為したる時より大審院に繋属したるものと看做す」。
これと上記附則第3項、そして樺太と朝鮮と台湾に関する改正規定の施行期日は、各規定について勅令で定める、と。

ま、大体以上ですな。
制限選挙であること以外は、さして特記することも無い規定ですね。
勿論この法律、結局敗戦によって、1946年(昭和21年)8月21日法律第8号により、1945年(昭和20年)法律第34号(衆議院議員選挙法の一部を改正する法律)中まだ施行していない部分の廃止に関する法律として、一度も施行されることなくその運命を終えております。


おしまい。



衆議院議員選挙法中改正法律(一)


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以前、ENJOY Koreaで画像だけ挙げたスレッドがありまして。
忘れないウチにテキスト化しておこうか、と。

で、表題の件。
勿論、ただの衆議院議員選挙法の改正であれば当ブログで扱う必要も無いわけで。
半島絡みの改正という事になります。

アジア歴史資料センター『御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律/御署名原本・昭和二十年・法律第三四号・衆議院議員選挙法中改正法律(レファレンスコード:A04017707700)』の中から、直接関係する「第14章 朝鮮及台湾に於ける特例」を抜粋してテキスト化すると共に、簡単な解説を付して今日と明日に分けてお届けしようか、と。
尚、改正法律中、別条項が記載されている部分を解説で参照している部分は、大正14年法律第47号「衆議院議員選挙法改正」の条文に拠っておりますので、それ以降部分的に変わっている点があるかもしれませんが、ご容赦を。
それでは、1945年(昭和20年)4月1日公布の「衆議院議員選挙法」改正の内容を。

第十四章 朝鮮及臺灣に於ける特例

第151條
朝鮮及臺灣に於ては、第5條第1項の規定に拘らず、帝国臣民たる年齢25年以上の男子にして、選挙人名簿調製の期日迄引続き1年以上直接国税15円以上を納むる者は選挙権を有す。

法令に依り軽減又は免除せらるる直接国税は勅令の定むる所に依り、前項の規定に依る納税資格要件に関しては軽減又は免除せられざるものと看做す。

前2項の直接国税の種類及計算に関しては、勅令を以て之を定む。
第5條第1項の規定とは「帝国臣民たる男子にして、年齢25年以上の者は選挙権を有す」。
つまり、普通選挙(男子のみ)である部分が、朝鮮と台湾に於いては更に直接国税15円以上という制限が加えられ、制限選挙の形となっています。
日本が衆議院選挙を導入した当初と同じですな。

第152條
朝鮮及臺灣に於ては、選挙人其の住所を有する府邑面又は市街庄外に於て前條の直接国税を納むるときは、命令の定むる所に依り、9月20日迄に其の住所地の府尹、邑面長又は市街庄長に其の旨を届出づべし。
其の期日迄に届出を為さざるときは、其の納税は選挙人名簿に登録せらるべき要件に算入せず。

朝鮮及臺灣に於ては、第12條第4項の規定に拘らず、選挙人名簿には選挙人の氏名、住居、生年月日及納税額等を記載すべし。
第12條第4項は「選挙人名簿には選挙人の氏名、住居及生年月日等を記載すべし」。
第151條で国税の納税額による制限選挙の形を取りますので、それに合わせて選挙人名簿にも納税額が項目として規定されている事になります。

第153條
朝鮮及臺灣に於ては、第79條第1項、第6項及第7項の規定は、議員の定数1人の選挙区に付ては之を適用せず。

前項の選挙区に付ては、第79條第5條中其の闕員の数、同一選挙区に於て2人に達するを待ち、最後に第2項の規定に依る通知を受けたる日とあるは、第2項の規定に依る通知を受けたる日とす。
第79條第1項「議員に闕員を生ずるも、其の闕員の数同一選挙区に於て2人に達する迄は、補闕選挙は之を行はず」。
第79條第6項「補闕選挙の期日は、地方長官少くとも14日前に之を告示すべし」。
第79條第7項「第75條第2項乃至第4項の規定は補闕選挙に之を準用す」。
ということで、議員の補欠に関する規定なわけですが、当然定数1の選挙区では欠員が2人になる筈もなく。

代わりに定数1の選挙区では、第79條第5項の「其の闕員の数、同一選挙区に於て2人に達するを待ち、最後に第2項の規定に依る通知を受けたる日」を単に「第2項の規定に依る通知を受けたる日」にする、と。
これで、欠員が出次第、次点の繰り上がり当選や再選挙が行われるわけですね。

第154條
朝鮮及臺灣に於ては、選挙委員、選挙運動の為使用する労務者又は選挙運動の費用に付、第93條第1項、第93條の2第1項又は第102條第1項の規定に拘らず、勅令を以て特別の規定を設くることを得。

前項の規定に依り、選挙委員若は労務者の数又は選挙運動の費用の額を定めたる場合に於ては、本法の適用に付ては之を第93條第1項若は第93條の2第1項又は第102條第1項の規定に依る定数又は額と看做す。
第93條第1項「選挙委員及選挙事務員は、議員候補者1人に付通して50人を超ゆることを得ず」。
第93條の2第1項は何時の改正によるものか、ちょっとそこまで調べていない。
第102條第1項「選挙運動の費用は、議員候補者一人に付、左の各号の額を超ゆることを得ず」(以下各号略)
ということで、選挙運動に関しては勅令で別途規定を設けることが出来る、と。
まぁ、恐らく開始当初ですので、内地とは規模も違うでしょうしねぇ。

第155條
(臺灣のみの規定のため省略)


第156條
第76條中、内務大臣とあるは、朝鮮に於ては朝鮮総督を経て内務大臣、臺灣に於ては臺灣総督を経て内務大臣、第86條第1項及第2項竝に第143條中内務大臣及関係地方長官とあるは、朝鮮に於ては内務大臣、朝鮮総督及関係道知事、臺灣に於ては内務大臣、臺灣総督及関係州知事とす。

第79條第2項中、地方長官とあるは、朝鮮に於ては朝鮮総督を経て道知事、臺灣に於ては臺灣総督を経て州知事とす。
此の場合に於ては、朝鮮総督又は臺灣総督は、道知事又は州知事に対する内務大臣の通知を受けたる日より5日以内に道知事又は州知事に対し之を発すべし。
第76條の当選証書付与の報告を始めとして、当然ながら朝鮮総督又は台湾総督が間に入り、地方長官についてもそれぞれの行政機関の呼び名に読み替えるという規定ですね。


まぁ、法律なんかは特にあまり突っ込む部分も無いので、割と楽ができます。(笑)
今日はここまで。



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金佐鎮(三)

テーマ:

今日で今回の連載最後なわけですが、未だにjpn1_rok0氏のスレッド、【いい所なんだから、消すなんて野暮はよしなよ(w】における、「青山里で日本軍に甚大な被害を与えていたなら、日本軍は「逮捕」あるは「殺害」するチャンスなのに、何故「救済する」なのか」という論理を崩せていないどころか、これ、さらに補強してね?とも思われる史料が続いているわけですが、さて。

本題に入る前に、前回「600人いた仲間が50人にまで減ってるのは、屯田兵にする予定で6県に分散してるからという話かな。」と書いたわけですが、「金一派の現勢は此等を通じて僅に50名内外にすぎず」ってことは、勢力自体が600人から50人に減っちゃってるんですね。
で、屯田の方は計画に着手されてるだけで、残りの人数で屯田を実行してるわけでは無いですな、これ。
ってことで、前回の記述修正。
慌てて書いちゃ駄目ね。(笑)

では、前回の在間島総領事鈴木要太郎から外務大臣松井慶四郎への1924年(大正13年)3月15日『機密第83号』の続き。

【画像1】 【画像2】

三.屯田資金の運動

以上の計画により、今後前項各県には続々屯田的移住を奨励すべく、耕地購入其他に要する資金は一部募捐によるの外、鮮内外資産家を勧誘して投資庇援せしむるの方法を講じ、現に敦化県方面に於ける此等資金の運動は、左記3名により之を担任すべしと。

金碧秋 (本命金斗燮と同一人なるが如し)
劉治石 (前年上海国民代表会議に参列したる者なりと 柳振昊の変名にあらやの疑あり)
許泳鎮 (暴徒派許根の一族なりとの説あり)
資金繰りさえまだついてないようで。(笑)

【画像1】 【画像2】

四.金佐鎮の帰順に対する意向

親しく金佐鎮と面唔し、切に現在の大勢を説き帰順を勧告したる所、彼は之を一笑に附し、個人の利害得失の如きは素より念頭に置かず、運動の成否亦今にして論ずべきにあらざるも、既に男子意を決し、此大業に携はりたる以上之と終始するあるのみ。
再語るを止めよとて、厳然として制し、聴従の色なく、彼は飽迄将来に於て奏功の期あるを自信し居れり。
然ども、部下の大くは浮浪の雑輩にして、今や帰順して正業に就くの意■なきにあらざるも其資なく、且放縦思想の膏育に入れるを以て、已むなく之に与みするのみ。
故に此等は、相当の方策を以てせば、容易に招来するを得べき状態にあるは事実なりとす。
うーん。
金佐鎮本人とも会えちゃうのか・・・。

で、彼は現在の状勢を説かれ、帰順を勧告されても笑って「個人の利得は考えて居らず、運動の成否は今論じるべきではないが、既に男子が決意しこの大業に係わった以上は、最後までやる。もう言うな。」と述べるわけです。
まぁ、韓国人からしたら立派なせりふ。
日本人にしたら強がっちゃって、なわけですが。

金佐鎮はそのように述べるものの、部下は殆どやる気無し。
適切な手をうてば、簡単に反日運動止めちゃうような状態なのは事実だ、と。

日本も、帰順しないと聞いても慌てた様子は全くありませんねぇ。

【画像1】 【画像2】  【画像3】

五.其他の状況

(イ) 金佐鎮は現に支那服を着し、一般は白冶先生の号称を以て通じ、意気旺盛にして衷心大成を期し、毫も悲観の状なし。

(ロ) 一般は、粟飯に味噌等の素食に甘んじ、極めて窮乏の生計を為しつつあり。
 募捐金等は保管厳重にして之が浪費を許さず、散宿せる各幹部は、時々会議を為し居れり。
 支那官民は、金佐鎮一派の潜伏せるを知らずと。

(ハ) 李鴻来は、日本側警察機関に於て逮捕の手配を為し居れるを自覚し、本年1月初旬、和龍県南陽坪日本警察派遣所巡査林時玩を狙撃したる事実を放言し、今後に於ても独立運動の障害と為るべき特務密探等は、悉く殺害すべしと豪語し居れり。

(ニ) 金佐鎮一派は、目下額穆県に於ける赤旗団一派と相反目し、現に同団に加担せる安武等を暗殺すべき計画を為し居れるが如し。

(ホ) 間島各地方面に連絡機関を密設せるは事実にして、常時此等機関よりの通信絶へず、敦化・延吉の吐呑口なる哈爾巴岺咸興村居住李炳秀は其一人にして、同志の去来に便宜を供与し、其他通過支鮮人の情況査察並通信連絡の中継等を為し居れり。

(へ) 間島方面に進出する募捐隊員等は、哈爾巴岺以東間島境内に入る場合は、多くは包袋を肩にし、附近村閭間の交通旅行を装ひ、下脚部に達する長尾袋は之を袴の内部に隠し、以て遠来の旅行者にあらざるを装へり。
但し、夜間は袴の上より之を穿ち、行動の便に資す。
■衣は、表白裏黒を常用し、昼間は黒、夜間は白に表裏を転々して着用するを例とす。

(ト) 最近長白県射槍隊総辨姜承慶は、金佐鎮の招に応じ来到し、連絡に関する協議を為し居れり。

右及報告候

敬具

本信写送付先
北京公使 奉天 吉林 哈爾賓総領事
朝鮮総督 咸鏡北道知事 羅南憲兵隊長
朝鮮軍参謀長 第19師団参謀長 間島・琿春派遣将校
管内各分館主任 分署長
金佐鎮は、一般から白冶先生の号で知られ、意気旺盛。
でも、部下は粟飯に味噌等の粗食で、極めて窮乏の生計をなしつつある、と。
そりゃ600人から50人に勢力も減りますわな。

で、日帝とは面会しても、仲間割れはしっかり行ってるわけで・・・。
伝統ってのは、恐ろしいもんですなぁ。(笑)

さて、整理してみましょう。
(1) 3月13日のエントリーの『第88号』、今回の『機密第83号』、何れにおいても金佐鎮に帰順してほしいのは朝鮮人側、具体的には「海林鮮人長キンエイセン」と「在間島有力鮮人」である。
要するに、恐らくは無為徒食して迷惑だからという理由だと思われますが、朝鮮人側で金佐鎮に帰順を説き、これを受けて在ハルピン山内総領事は外務省に相談し、在間島鈴木総領事は金佐鎮に帰順の意思確認のため、特派に直接面会させたに過ぎない。

(2) (1)の結果として外務省は放置プレイ、金佐鎮は帰順なんてしないと壮語したので、間島でもそのまま査察報告したのみ。

(3) 外務省の放置プレイが効いたのか、『第88号』から『機密第83号』の1年間に、金佐鎮の仲間は600人から50人に減っている。

(3) 普段隠している拳銃は、金集めにまわる時に限って携帯している。

(4) 日本が査察に行っても直接会話するが、仲間割れは忘れない。

(5) 計画は色々あるが、ほとんど実行された気配が無い。

(6) 金佐鎮は壮語するものの、部下は極めて窮乏。

(7) 日本側が金佐鎮一派を「敵」として捉えているように見えない。

ってとこかな?
ほかにもあったら、コメント欄で指摘ヨロ。

さて、上記のとおり、悲惨な状況からさらに悲惨な状況になった事は分かりました。

・・・。
で、肝心のjpn1_rok0氏のスレッド、【いい所なんだから、消すなんて野暮はよしなよ(w】における「青山里で日本軍に甚大な被害を与えていたなら、日本軍は「逮捕」あるは「殺害」するチャンスなのに、何故「救済する」なのか」という論理に全く反論できていないどころか、補強しているようにも感じられる史料だったわけですが。

孤藍居士氏は、そんなにニコちゃん大王こと愼鏞廈氏を狩りたいんでしょうなぁ・・・。
まぁ、「617 :孤藍居士:2006/03/07(火) 12:45:22 ID:4igqJKjv 兎に角、あんたらもちょっとは気を付ける方がいいぞ。俺は反日ではないが、イルパでもない。知る限り隙が見えるなら、韓日問わず直ちに攻め始めるからな。」という孤藍居士氏なので、学匪たる愼鏞廈を攻め始めるのは、ある意味当然の所業ですがね。

では。


(了)



金佐鎮(一)
金佐鎮(二)


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金佐鎮(二)

テーマ:

本日も、前回に引き続き孤藍居士氏の提供してくれた史料をいぢってみたいと思います。
スレッドとしては、【金佐鎭の投降に対する 日帝文書 - 3 帰順勧告の結果(1)】が日本人用、【金佐鎭の投降に対する 日製文書 - 3 帰順勧告の結果(2)】が韓国人用となっているようですね。
それでは史料の中身を見ていきましょう。

【画像】

機密第83号

大正13年3月15日

在間島総領事 鈴木要太郎  外務大臣男爵松井慶四郎殿

金佐鎮一派の現況に関する件

往年京城に於いて金佐鎮と相識り、極めて昵近の間柄なる在間島有力鮮人の自発的希望に基き、帰順勧告等の目的を以て特派し、最近敦化縣沙河沿に密航し来れる同人を訪ひ、親しく一派の現況等を査察せしめたる所、帰来報告の概要左の如し。
さて、前回の史料から約1年後のこの史料。
在ハルピン山内総領事から、在間島鈴木総領事に替わっているのが、第一のポイント。

昔京城で知り合って昵懇の仲である「在間島有力鮮人」を、「海林鮮人長キンエイセン」として良いかは、かなり疑問。
というか、別人による別な話の方が恐らく正解。
海林って、所謂間島ではなく今で言う黒竜江省なわけで。
東寧・寧安・海林が、今の黒竜江省牡丹江市、密山が今の黒竜江省鶏西市。
だからこそ、前回の報告は在ハルピン総領事から出されているんですね。

ま、どっちにしても同胞側から帰順の話が出ており、それに基づいて間島の領事館で「どうなのよ?」と聞きに行ったわけですね。
在ハルピン山内総領事の報告の調査結果では無いんです。

つうか、「親しく」査察しちゃってますが・・・。(笑)

【画像1】 【画像2】

一.金佐鎮一派の根拠と現在の勢力

大韓独立軍団総司令官金佐鎮は、本年1月中寧安県方面より元軍政署副総裁玄天黙及現参謀李晦峯、同募捐隊長鄭乙山等と共に敦化県沙河沿に来到し、同地劉治石家に滞留し居れり。
同地は10数戸より成る鮮人部落なるが、部下■40名は現に三々五々之に分宿し、無為徒食し、解氷春耕の期を待ちつつあり。
尚接続せるに道梁子には、元軍政署参謀羅仲昭、同募捐隊長李鴻来、其他金浩錫、李承来等10余名同地に根拠し、10数戸の鮮人家屋に散宿し互に連絡を通じ居れり。
間島方面に進出する最近募捐隊の策源地は全く同地にして、羅仲昭其の総指揮を執り居れり。
以上の如く、金一派の現勢は此等を通じて僅に50名内外にすぎず、何れも汚穢なる支那服又は朝鮮服を着し、一見農民を装ひ居れり。
銃器は、露領方面より携行したる拳銃20挺の外、前年末額穆県商務会長を介して、吉林省より3,000円にて購入したるモーゼル自働式拳銃24挺のみにして、此等は平常巧に民家に隠匿し、募捐派遣等の場合に限り之を携行し居れり。
1924年(大正13年)の1月になって、寧安県方面(現黒竜江省)から敦化県(現吉林省延辺朝鮮族自治州)に来て無為徒食。
「汚穢なる支那服又は朝鮮服を着し」ってのは、彼等がここに至った経緯も鑑みて、ちょっと憐れを誘うなぁ・・・。(笑)
おまけに、600人いた部下は、50人にまで減っちゃってますし。

つか、拳銃は普段は民家に隠して、募捐派遣の場合に限って携行って・・・恐喝ですか?(笑)

【画像1】 【画像2】

二.金佐鎮一派の運動計画

過去の敗跡及現在各方面の情勢等に鑑み、独立運動は急遽之が達成を期せんとするは不可能なるを覚り、経済的素地を固め、或る程度の持久力を養ひ、然して後一斉行動を執るを策の得たるものなりとして、所謂屯田制度により着着実行に努め居れるが、現状に於て既に之が着手区域は、密山・東寧・寧安・額穆・敦化・安図の6県に亘り居れり。
現に羅仲昭は、此等屯田兵によりて2箇連隊の編成を了したる旨語り居れるが、実際は斯の如く各県に分散せるものにして、一地に集結して軍隊編成又教練等を為すものにあらず。
尚、此等屯田兵は、支那官憲の諒解を得て、崔■東の組織せるが如き屯田部落に自衛団を組織し、之によりて部隊的教育の練成を為すべき計画なりと。

以上の如くにして、彼等の家族は漸次之を招来し居れるが、解氷期を待ち多数移来すべき予定なりと。
2箇連隊の編成は終わったと壮語するものの、実際は一個所に集まって編成するでもなく、教練するわけでもなく、自衛団を組織して部隊的教育をするのはあくまで計画。
内実が全くありませんなぁ。(笑)


今日はこれまで。



金佐鎮(一)


金佐鎮(一)

テーマ:

本当は、今日は王宮前守備隊の移転について書こうと思っていたんだけど、3月1日のエントリーのコメント欄で、「更に私はイルパでもないので、笑韓(と書いて嫌韓と読む)の素材を余り渡す訳にもいけませんから。ww まあ、興味ある釣りネタなら、別に構わなく差し上げます。」と言っていた孤藍居士氏が、笑えるネタをくれたので、そっちをいぢってみようかな、と。(笑)
ありがたく、頂きます。(-人-)

発端となったのは、ENJOY Koreaのスレッド。

金佐鎭の投降に対する 日帝文書 - 1
金佐鎭の投降に対する 日帝文書 - 2
金佐鎭の投降に対する 日帝文書 - 3 帰順勧告の結果(1)
金佐鎭の投降に対する 日製文書 - 3 帰順勧告の結果(2)


以上、4つ。

元々、一番最初のスレッドにあるとおり、アジア歴史資料センターの『朝鮮人ニ対スル施政関係雑件/難民救済ノ部 第一巻/4.独立国首領金佐鎮等救済方ノ件 自大正十二年三月(レファレンスコード:B03041641200)』について、日本側が金佐鎮の情けなさを笑っていただけなんですが、どう勘違いしたか、日本側が「金佐鎮が投降した」と考えてると思っている模様。
何やら金佐鎮将軍学術会議で、「金佐鎮変節説」が一部の学者から提起されたとも聞いてるけど、それ、俺らの主張じゃないしねぇ。( ´H`)y-~~
まぁ取りあえず史料読め、と言いたくなります罠。

それでは、まず一部ではかなり有名な当該史料から見ていきましょうかね。
スレッド中で、polalis氏が「こういうのをテキスト化するときは、句読点は加えない方が良いと思うよ。」と言ってますが、シカトしていつも通り当ブログのスタイルで。(笑)

哈尓賓発本省着 大正12年3月18日前10時

内田外務大臣  山内総領事

第88号

鮮人独立団首領金佐鎮(大韓独立団総司令官)、金奎植(大韓革命(脱))、600名と共に昨年末来管内東寧・寧安・密山地方に遁入。
鮮人農家に分散寄食し、善後策を講じ居ることは屡次報告の通なる処、其後彼等は武器・資金に欠乏せると、海林鮮人長にして嘗て彼等間に重きをなし居たるキンエイセンの勧告を容れ、此際部下と共に急激なる行動を中止し寧安・密山縣地方にて農業を営み、自活の途を講ずるの他なきを知覚するに至りたるも、資金なきを以て、救済方キンエイセンを介し、本官に申出でたり。
就ては彼等を現状の侭に置くに於ては、鮮人良民を苦しむること甚だしく、益々人心を悪化せしむるに至るべく、彼等をして正業に就かしむるには、絶好の機会と認めらるるに付、此際何等措置を講じ置きたき処。
其辺に関する御内意承知致したく、至急何分の儀御回電を請ふ。

(長春経由3月17日前10.00)
つうか、アジ歴の目録も、「大韓独立『国』」って何よ?(笑)

1923年3月18日に外務省に着いた電報。

金佐鎮と金奎植は、600人と共に昨年末から東寧・寧安・密山地方に逃げ入り、朝鮮人農家に分かれて寄食し、善後策を講じたのは何度か報告してきたが、その後彼等は武器も資金も無くなったので、キンエイセンの勧告を受け入れ、反日行動を止めて農業をして自活するしかないと悟った。
しかし、結局お金が無いので、キンエイセンを仲介として救済を山内総領事に求めてくるわけです。
で、山内総領事は、このままにしておけば朝鮮人の良民を甚だしく苦しめ、人心悪化を招くから、正業につかせるには絶好のチャンスだから何か措置を講じたいと思うんだけど、どうよ?と。

これを見て、日本人は「嗚呼、物乞いが何か言ってるねぇ。(笑)」と笑っていたわけですな。
jpn1_rok0氏のスレッド、【いい所なんだから、消すなんて野暮はよしなよ(w】を見ても、青山里で日本軍に甚大な被害を与えていたなら、日本軍は「逮捕」あるは「殺害」するチャンスなのに、何故「救済する」なのか、という論理でスレッド書いてるわけです。
第一、この史料で金佐鎮に勧告したのって"キンエイセン"ですしね。
日本人は、この辺り読めてるわけで。(笑)

さらに。
次の文書もあるわけで。
3画像目を見てみましょう。

■長春発 大正12年3月23日后9.50
本省着 大正12年3月24日后0.15

内田外務大臣  在哈尓賓山内総領事

第101号

(鮮人独立団首領金佐鎮・金奎植より救済方申出)
往電第88号に関し、目下本件現場地方が農作期切迫の為め、鮮人一般に焦慮し居り。
此の際、何等かの措置を講ずるの必要あり。
関係鮮人に対し説明の都合もあるに付、何分の儀至急御回電あり度し。
外務省、割とシカト状態。(笑)
まぁ、このとおり山内総領事が焦ってるので、回電。

暗号発電大正12年3月27日午後3時15分 発電番号1967 長春経由

件名 不良鮮人懐柔救済  綴込名 施設

受信者人名 在哈爾賓山内総領事宛  発信人名 内田大臣

第37号

貴電88号に関し、不良鮮人を■■誘導して正業に就かしめ、彼等をして可成生活の安定を■せしむることは、当方の予て希望し居る処なるも、右は事実頗る困難なる事業にして、之が実行に関しては最も慎重なる考慮を要するものと思考せらるるの次第なるが、貴官に於て何等具体的成果を有し居らるる次第ならば、一の■■提出されたし。
まぁ、言ってることはわかるけど、お前、何か良いアイデアあるの?うん?と。(笑)

恐らく、600人もの人数分の耕作地を新たに用意するのは不可能。
かといって、新たに開墾地を用意するのも不可能。
タダ飯食わせるのはもっと不可。(笑)
ってことは、結果的に放置プレイ。

日帝、悪辣だねぇ。(笑)
つか、巻き添えになってる一般農民、カワイソス。(笑)

この外務省の放置プレイを知っているので、日本人は金佐鎮が降伏したなんて言わない。
故に、「嗚呼、物乞いが何か言ってるねぇ。(笑)」と笑ってたわけです。(笑)

で、次のスレッド、【金佐鎭の投降に対する 日帝文書 - 2】の史料も、ついでなんで起こしておきましょう。

【画像1】 【画像2】 【画像3】

大正12年5月

在外不逞鮮人の三大傾向

朝鮮総督府警務局


 (中略)

4.赤軍の沿海州占領に際し奮闘し、其後武装解除の運命に遭遇したる大韓独立軍首領金圭植・金佐鎮の輩は、東支沿線地方に潜在しあるも、多数部下の窮乏を見るに忍びず、農事経営を発意し、或鮮人を介して我官憲に之が資金下附方を要求せり。

 (後略)
恐らく、哈爾賓の山内総領事の報告を元にして、朝鮮総督府が作成した資料。
集報のようなものだと思われます。
当然、要求した後の事までは書いてない、と。

さて、次からが孤藍居士氏の主張したいネタだと思うのですが、彼はjpn1_rok0氏の主張を突き崩せるのでしょうか。
乞うご期待。(笑)


今日はこれまで。



テロリスト尹奉吉

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連載も飽きてきたかと思うので、ここで一休み。(笑)

日本劇団「尹奉吉義士」国内公演

日本人による尹奉吉(ユン・ボンギル)義士の上海虹口公園義挙を扱った演劇が国内で上演される。

1932年4月29日、日本の白川義則大将らを爆死させた事件を扱った演劇のタイトルは『尹奉吉、消えない花火』。
9日から3日間、文化日報ホールで公演が行われる。

韓国独立運動家を素材にした日本人による作品が韓国の舞台に上がるのは初めてだ。
演劇は昨年6月、日本の東京シアターXで公演され、180席程度の小劇場だが1週間公演はすべて売り切れだった。

演劇は3幕で構成される。1、2幕では爆弾投てき事件のてん末を描く。
3幕は尹奉吉事件に対するさまざまな見方を、ある在日韓国人家族を中心に描く。
事件をめぐる複雑な人間の心理を描き、美学的にも高い評価を受けた。

なぜ尹奉吉義士を素材にしたのだろうか。
作家と同時に演出家である平石耕一氏(50)は「日本の人々は尹奉吉をよく知らないとかテロリストだと思っていたりする。しかし私は尹奉吉の写真を見て『こんな悲しい目をした人がどうしてテロを起こすことができようか』と疑問を抱いた。彼は石川県金沢に暗葬されている。死体を隠密に埋めたのだ。日本人たちが何か過去を隠したがったと直感して資料を集めるようになった」と話す。

平石氏はまた「テロリスト尹奉吉から視線を移して、どうして尹奉吉が爆弾を投げなければならなかったのかという問いを投げたかった。また最近の日本社会の右傾化に対する憂慮も反映させた」と付け加えた。

平石氏は100編以上の戯曲を書いた中堅劇作家で、代表作は第2次世界大戦中、温かなヒューマニズムを発揮したリトアニア外交官の生を描いた『センポ・スギハァラ』という作品だ。
社会性の濃い作品を見せると評価されている。

国内公演に先立ち出演者と制作スタッフ30人は8日、孝昌(ヒョチャン)公園内、尹奉吉義士の墓所を参拝する。
19日、尹奉吉義士の命日に合わせ、日本の金沢でも公演される予定だ。
木村お兄さんのところで10月31日のエントリーで取り扱っていた、「日本人による尹奉吉を扱った演劇がソウルで公演」という記事の直前広告記事ということになるんでしょう。

まずは、尹奉吉について簡単に、kimuraお兄さんの処からパクってみる。

尹奉吉は、1932年の天長節に、虹口公園で行われた祝賀式典会場で爆弾テロを起こし、陸軍大将白川義則、上海日本人居留民団行政委員長河端貞次を爆殺した。
重光葵らも重傷を負った。
後年、ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印のときも重光葵(このとき外相)は後遺症で杖をついていたというのは有名な話である。
というわけで、尹奉吉は軍人のみならず民間人も手に掛けた、正真正銘のテロリスト。

で、記事中の「彼は石川県金沢に暗葬されている。死体を隠密に埋めたのだ。」について。
木村お兄さんが上記エントリーの後、11月1日にアジア歴史資料センターの『尹奉吉刑執行の件(レファレンスコード:C01002894900)』を取り上げて突っ込んでいる。
これもパクってみよう。

遺骸は、死刑執行後引続き之を浄め、納棺の上金沢市野田山陸軍墓地に隣接せる金沢市共同墓地の一隅に埋葬し、同10時30分全部終了せり。
んー。どこが『暗葬』なのか、kimuraお兄さんには分からないや。あははー。
と、ツッコミまでパクってみる。(笑)
で、この部分に関して、「作家と同時に演出家である」平石耕一氏のHPを見てみよう。

12月19日、金沢で銃殺されゴミ捨て場のような場所に極秘に埋められた25歳の朝鮮青年がいました。
どうやら平石耕一氏にとって、共同墓地は「ゴミ捨て場のような場所」らしい。

ええ。
株式会社酒文化研究所の山田聡昭氏が、東亜日報に発言を改竄された事件と違い、自らそれ以上の事を言ってのけているわけです。

さて、共同墓地をゴミ捨て場扱いする平石耕一氏は、次に「テロリスト尹奉吉から視線を移して、どうして尹奉吉が爆弾を投げなければならなかったのかという問いを投げたかった。」としています。
はい。
それでは、何故尹奉吉が爆弾を投げ込まなければならなかったか、見てみましょう。
再び、アジア歴史資料センターの『尹奉吉刑執行の件(レファレンスコード:C01002894900)』より、1932年(昭和7年)9月8日『憲高秘第1408号』。

(金九一派の最近の行動)

稍々信ずべき密偵報を綜合するに、左の如し。

一.金九一派は最近(8月20日頃)、在上海江西路角東北義勇軍後援会幹部朱慶欄(国民党委員会員)を介し、15,000ドルを受領し、東北義勇軍支援に活動すべきを約せりと云ふ。

二.金九は、該金受領後、李裕弼、厳恒燮、朴南坡(朴賛翊)、安敬根等と謀議の上、杭州又は嘉興附近の田舎に遁避潜伏し生計方法等を講ずる一面、上海と往復しあるものの如し。

三.爆弾事件後、金九一派竝李裕弼一派の受領金額は約28,000ドルと称せられ、内15,000円は遁避地官憲の買収に使用せられたるものの如く、又近く「バス」罷業団後援の為め、相当の金額提出の予定なるが如し。

(了)
どうして尹奉吉が爆弾を投げなければならなかったのか?
金の為ということで宜しいですか?

さて、纏めてみましょう。
尹奉吉は、金のために民間人をも巻き添えにして爆弾テロを行った、卑劣なテロリストであるにもかかわらず、日本は処刑後に、遺体を清掃した上納棺し共同墓地に埋葬しましたが、何か?



その男、李承晩

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米で独立活動した李承晩、米政府の冷淡な対応に失望

韓国の民族主義者たちはワシントン会儀に極めて高い関心を傾けた。李承晩は「韓国代表団」を構成し、ワシントン会儀に韓国問題を上程するため総力外交を繰り広げた。

しかしワシントン会議の主催国である米国は韓国代表団の存在そのものを認めなかった。さらに米国は日本と新たな協力体制を構築することで、いわゆるワシントン体制を発足させた。

これにより3・1独立運動以降、持続してきた韓国民の米国に対する期待は失望と挫折感に変わった。その結果、大韓民国臨時政府における李承晩の立場は弱体化し、欧米委員部は長期間の低迷に陥ってしまった。




大韓民国初代大統領の李承晩の、上海臨時政府時代についての記事である。

1919年、上海で大韓民国臨時政府が樹立した際、李承晩は大統領となった。
李承晩はほとんど軍事行動をとっておらず、海外列強に頼って独立を果たすつもりだったようだ。
記事にあるワシントン会議への総力外交とやらも、その一環であった。
しかし、ワシントン会議の開催される頃には、臨時政府は極貧状態だったのである。

アジア歴史資料センターの資料から見てみよう。

以下、『関東都督府政況報告並雑報』より

1921年11月12日付けによると、臨時政府は、上海佛租界新民里十四号の支那人家屋一棟を月70円で借りているが、財政困難により家賃を3ヶ月分滞納し、督促を受けそうな程であった。
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もちろん臨時政府も手をこまねいていたわけではない。
同上の資料10月21日付けより、公債を発行し、運動資金の調達を図っている。
ところが、途中で募金を横領する者が多発し、安昌浩という大物を派遣せざるを得なくなっている。
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同1922年1月13日付けでは、ロシア共産党から160~200万円を借金したとされる。
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同1月23日では、アメリカから借金を断られ、ロシアの労農政府から軍事及び政務顧問を招聘し、労農政府と連携する事を条件に、10余万元と銃器1,500挺を公布してもらう。
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そのような状況の中、ワシントン会議に李承晩、鄭翰景、徐載弼の3名が派遣された。

しかし、1921年10月13日によれば、ワシントン会議は、朝鮮独立問題など扱わないと諦めていた者も居たようである。
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朝鮮独立派の派閥争いの酷さが現れたエピソードも記載されている。

11月2日の記述によると、李東輝は、李東輝一派・武断派が、万一朝鮮が完全に独立した場合、露領方面で奮闘している武断派の末路は必ず悲境に陥る事を杞憂し、9月下旬に過激派より若干旅費の調達を受け、上海臨時政府員の面識が無い部下3名を渡米させるのである。
この旅費の調達方法については、『上海仮政府ヨリ太平洋會議ニ委員派遣の件』によれば、阿片の売買によろうとしたらしい。

ともかく、渡米した李承晩であったが、どうも会議開催前からマークされていたらしい。

1921年12月1日の記載では、11月10日夕刻、ワシントンのアメリカ官憲によって、ワシントン在留朝鮮人全てが検束されてしまっている。
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結局、記事のとおり、ワシントン会議における朝鮮独立問題の提起は、失敗に終わる。

1922年1月13日には、その失望の様が記述され、独立運動に悲観し、上海を去る者が増加したそうである。
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1925年、李承晩は大統領職を追われた。

その後、日本の敗戦後の1945年11月、韓国へ帰国し、初代大統領となった。
前述してきたように、李承晩は朝鮮の独立について何もしていないと言っても良い。
飾り文句でも、抗日英雄である金日成の足下にも及ばない。
後期の独立政府を支えた金九にも及ばない。
そういった部分において、強烈な劣等感があったのだろう。
自らの正統性を証明するかの如く、苛烈なまでの反共・反日に及ぶのである。
李承晩ラインと竹島、反日教育、親日派の弾圧計画。
現在の日韓関係の根本原因である。

李承晩はその後、1960年の所謂「四月革命」において、再び大統領職を追われ、ハワイへ亡命。

1965年7月19日、客死している。